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2022/09/28

■湯島サロン「最期まで身も心も縛られない暮らしを考える」報告

「医療や福祉における拘束”について考える」をテーマにしたサロンで、話題提供者の平岩さんから問いかけられた問題を中心に話し合おうというサロンは、7人が参加しました。

3つの問いかけとは次の通りです。

  • 人生の最後まであきらめたくないこと、大事にしてほしいことは? 実現の方策は?
  • リスクや意思決定過程において、本人と家族では立ち位置が異なるのか、同じなのか。
  • 医療やケアへの期待と可能性、限界とは?

最初に改めてその問いかけへの平岩さんの思いを話してもらい、話し合いに入りました。

①に関しては、やはりみんな「思い通りに生きたい」ということに尽きるようです。自らをコントロールできなくなったら、身体的な拘束もやむを得ないという意見もありますが、おそらくそれは自らはそうならないという確信に基づいた発言のように思います。逆に言えば、自分が身体拘束されるとは誰も思っていない。いずれにしろ基本的にはみんな他者による身体拘束を避けたいと思っていることでしょう。

どうしたら、最後まで思い通りに生きられるのかは日頃の生き方に深くかかわっているように思います。その意味で、これは②につながってきます。
人は一人では生きていません。必ず他者とのかかわりのなかで生きていますが、他者とかかわるということは、お互いに「拘束し合う」というこです。
そこに、この問題を解く大きなヒントがあるような気がします。
自らは他者による拘束を避けたいと思いながら、もしかしたら私たちは気づかないまま他者を拘束していることがあるかもしれません。
また、身体拘束されるような状況は、本人だけではなく、家族にも大きな心理的負担などをかけることもあります。施設利用に際してもこれは重要な判断基準になっています。
つまり「身体拘束」は当人だけの問題ではないのです。

③に関しては、医療とケアが分断されていることに問題があるのではないかという話がありました。医療とケアは提供者側から見れば別のことかもしれませんが、受益者側から見れば、区別できる話でもなく、また区別すべきことでもありません。
ここにも私たちの生き方につながるような大きなヒントがあるような気もします。

話し合いは多岐にわたりましたが、そのなかで平岩さんは、いま厚生労働省が普及に取り組んでいる「人生会議」の話を少ししてくれました。
これは、もしもの時のために、自分の価値観や自分が望む医療やケアについて、前もって家族や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有しておこうという取り組みです。
私にはこれもやはり、日々の生き方の問題のように思います。「会議」という仕組みの話ではなく、人との付き合い方(生き方)の問題のような気がします。

施設においては「身体拘束」しやすい状況に向かっているという話もありました。
医療・福祉施設における「身体拘束」は、看護者や介護者などにとってもかなり抵抗を感ずる行為でしょうが、その抵抗感を緩和させるように、機器材がどんどん「人出」をかけずに済むようになってきているようです。
それでもやはり「正当化」が必要で、よく使われる理由は「人出不足」や「リスク管理」ですが、これに関しても納得する人が増えているようです。
しかし、そういうことでいいのだろうかと平岩さんは言います。

実際に、拘束手段をとらずに対応しているナースや現場を体験してきている平岩さんには、むしろ人出不足やリスク回避のためにも、身体拘束は逆効果だと見えているのかもしれません。
そもそも身体拘束が日本ほど安易に広く使われている国はそんなにないと言います。世界の潮流に日本は逆行しているようです。
なぜそうなっているのか。そこには、いまの日本の社会のあり方や私たちの生き方が投影されているのではないか。そんな話し合いがいろいろとありました。
問題は、施設における「身体拘束」に留まらないのかもしれません。

そこで最後に、私からいま政府が目指している「超スマート社会」の話をさせてもらいました。政府による科学技術基本計画のビジョン「Society5.0」では、「必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供し、社会の様々なニ-ズにきめ細かに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会」が目指されています。

一読すれば、生きやすい社会のように感じますが、この社会のポイントはシステムとしての最適化が追及されるということです。
つまりそこでは人間もシステムの最適化に向けて最適化されるということです。
何も考えずに社会に合わせて生きればいいという話です。
しかし、そもそも「必要かどうか」は誰が決めるのか。
コロナが流行り出した頃盛んに言われた「不要不急」という言葉を思い出します。
そこに究極の「心身拘束」を感じてしまうのは私だけでしょうか。

医療や福祉の現場で「身体拘束」が増えているということと「超スマート社会」への動きは、どこかでつながっているように思います。
そして、そうした動きに、私たちも生き方を合わしだしている。
案内に書きましたが、「身も心も縛られているような社会」に向かっているのではないか。そういうことを、医療や福祉現場での「身体拘束」は警告してくれているのではないか。
「身体拘束」問題が問いかけていることは、まさに私の生き方に深くつながっている。
改めてそんなことを思わされたサロンでした。

ここで紹介したことは、話し合いの中でのほんの一部の話です。
話し合いから学ぶことは多かったのですが、残念ながら「当事者の尊厳が大切にされる共生社会」への希望は見えてきませんでした。
諦めるわけにはいきませんが。

Kousoku2022090

 

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