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2022/09/23

■節子への挽歌5392:生きていない自分に気づきました

節子

昨日、生きやすさをテーマにしたサロンを開催しました。
湯島のサロンではよく、最近の社会は生きづらいという話題が出るのですが、実際にそのテーマでサロンをしてみたら、自分は生きやすいと思っている人がむしろ多いことがわかりました。
考えてみると当然のことで、湯島のサロンに来るような人は、それだけの余裕があるのです。
生きにくい人は、こうしたサロンには来ないでしょう。

サロンでみんなの話を聞きながら、自分のことを考えてみました。
そこで、いまの私には「生きにくい」とか「生きやすい」とかということはあんまり関係ないなと気づきました。
さらに言えば、いまの私は本当に生きているのだろうかということに行き当たったのです。
その結論は、しかも、生きていないのではないかということです。

たしかに節子がいなくなってから、生きる意味を失ったようで、感情が消えてしまったことに気づきました。
何を見てもワクワクしない。
一見、好奇心を持っていろいろと楽しんでいるようですが、冷静に考えるとむかしとは、つまり節子がいた頃とは全く違う。
感動がないのです。
あるいはそこに行ってみようという気持ちが起きない。
そういうことを考えているうちに、もしかしたら私は生きていないのではないかと気づいたのです。

そう考えるといろんなことが納得できる。
理不尽のことも許容できるようになったし、やらなければいけないことも放置したままのこともある。
どこかでもうどうでもいいという気持ちがあるのかもしれません。

自分ではもう立ち直れたと考えていましたが、どうもそうではないようです。
その成果、また挽歌が書けなくなっていました。

思い出しながらまた少しずつ書いていこうと思います。

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