■節子への挽歌5427:病院生活日記22:高齢者はなかなか救急車は呼べません
私の病室の隣はデイルームと言って、まあいわゆる休憩室です。
そこで時に別室の患者に会うことがあります。
いろんなお話が聞けます。
先日、そこでパソコン動画を見ていたら、車いすの女性が息を切らして入ってきて、自動販売機の前に止まりました。車いすだとボタンに届かないので、お手伝いしましょうかと声をかけ、好みのリンゴジュースのボタンを押させてもらいました。
80代でしょうか、いまリハビリをしてきたと汗をかいていました。
少しお話ししました。
入院の経緯を聞くと世代を感じます。
昔からの市内の方ですが、独り暮らし。近くに娘さんが住んでいますが、忙しくてなかなか来られない。息子さんは遠くにいるそうです。
話しぶりからは、まだケアマネのお世話にはなっていないようですが、時々、体調を崩してしまうこともあったようです。でも他人に迷惑をかけてはいけないといつもなんとか一人で乗り越えてきたそうです。
表情から見て、いつも明るく前向きなお人柄とお見受けしました。
時期を聴き忘れましたが、ちょっと体調が悪くなり、動くのが辛くなりました。
しかし、救急車を呼ぶのも、娘に迷惑をかけるのも避けたいと、独りで乗り越えようとしてきた。調子の悪さをこらえてなんとか一人で頑張っていたのですが、ある日、テーブルのところで急に倒れてしまいました。気がついても起き上がれない。電話も手元にない。どうしようもないのです。結局、そのまま倒れているうちに、状況は悪化。
娘さんが発見した時には、かなり危うい状況だったそうです。
そして救急車で入院、なんとか命を取り留めましたが、いまは車椅子でリハビリ中。娘からは、だからすぐに連絡するようにと叱られたそうです。でも娘に連絡すれば、救急車を呼ぶかもしれない。救急車はこれまでも呼んだことがあるので、近所の人にも恥ずかしい。だって救急車は、よほどの大事でなければ呼ぶわけにはいかないでしょう、とその方は思っているのです。倒れて「よほどの大事」になったわけですが、その時にはもう呼べなくなってしまった。
とまあ、こんな経緯です。
隣近所を気遣いするような環境であれば、隣近所づきあいがあるのではないかと思う人もいるでしょうが、そこは微妙なところです。
以前なら気楽に隣家に上がり込むとか朝晩声をかけ合う関係だったでしょうが、独り住まいが多くなったり、若い世代との同居が増えたりすると、その関係性も変わってくることもある。何しろ今は「気使いの時代」なのです。それにこの方の場合、雰囲気からどうも旧家の大きな家にお住いのような感じもする。わが家のように大声で騒げば隣家が来てくれるような家とは違うかもしれません。
私たち世代は、どうしても近隣にさえ迷惑をかけないようにしようと思っています。
実はそれこそが大きな間違いで、結果的に大きな迷惑をかけてしまうことになるわけです。
私自身は、独り住まいをする能力はありませんが、施設に入る意思もない。
いまは娘に支えられていますが、もし娘に拒否されたら、生きるすべがない。
しかし、女性は生活力があるから独りでも生活できる上に、他者に迷惑をかけたくないという思いは強い。こういう事例は少なくないでしょう。
こういう事例をなくしていく方法は、そう難しくないはずです。
私が行政の高齢者福祉担当だったら、すぐにもとりかかります。
でも残念ながら、私自身が今や対象になってしまった。
困ったものです。
いくつかの話を書こうと思ったら、一つでこんなにも長くなってしまいました。
今日はここまで。
なにやら難しい相談がメールでまた届きました。
これまた困ったものです。
| 固定リンク
「妻への挽歌21」カテゴリの記事
- ■節子への挽歌5815:「変わりなく元気です」(2023.12.09)
- ■節子への挽歌5814:出会いの大切さ(2023.12.08)
- ■節子への挽歌5813:若者たちの新しいプロジェクト(2023.12.07)
- ■節子への挽歌5812:前立腺がんの検査結果がでました(2023.12.06)
- ■節子への挽歌5811:今日、治療方針を決めます(2023.12.06)
コメント