■節子への挽歌5436:病院日記31:ナースもスタッフも名前を知りたい
点滴はなくなったものの朝食はまだ五分粥。
まだ退院かどうかの連絡はなし。遅いのが気になります。
しかも終わったと思っていた抗生剤の点滴がなぜかまた始まりました。
持ってきた書籍は2冊とも読了したので、暇なので日記を書くことに。
3センチの厚さの「時間が終わるまでも」もざっと読み終えました。
朝食のおかゆは食べられませんでした。
実は10数年前に人生初の8日間の入院をしたことがあります。その時に、娘に頼んでアイパッドを持ってきてもらい、その時からフェイスブックを始めた気がします。
その入院の目的は親知らず歯の抜歯でした。日帰りかと思っていたら、8日間の入院。この時も確か毎日フェイスブックで報告していましたが、歯の手術のため食事は入院中、ずっとお粥ばかり。しかもお粥だけで他には何もない(記憶が間違っているかもしれません)。
以来、お粥が食べられなくなっていたのですが、今回のお腹の不調の時に一度だけ食べてみました。その時は何とか大丈夫で、今回も何回かは食べられましたが、今朝はもう限界です。お粥を見るだけで食欲が萎えます。
まあお隣りのまだ三分粥にも行っていないÅさんのことを思えば、そんなことは言っていられないのですが。
病院はたくさんの人たち(仕事)の組み合わせで動いています。ですからその連携がうまくできているかが肝心です。もちろんそこには医師も入りますが、そういう点でもいろいろと気づかされることがあります。また誰がマネージャーなのかで、運営は全く違ったものになる。
近代医療の場合は、医師オリエンテッドな体制になっていますが、これも以前、書いたことがありますが、看護オリエンテッドな体制になっていけば、状況はかなり変わります。それはいいかえれば、患者(人)中心の医療ということですが、近代西欧は基本的に人よりも知識を重視します。そこにさまざまな問題があるように思います。
時間があるので、ナースやスタッフと患者の関係につても一つだけ書いておきます。
この病院のナースはみんな患者思いで、いい人たちです。しかし、最初はなんとなく違和感がある、その違和感が何だろうとずっと考えていたのですが、名前を言わないことではないかと気づいたのです。つまり、みんな「ナース」で当て、個人ではない。
ナースにしろスタッフにしろ、患者の名前は当然知っていて、私も名前で呼ばれます。
でも私はナースもスタッフも名前を教えてもらえない。名札が見えやすければいいのですが、名札をしていないナースもいる。何とか名前を見つけて私は名前で呼ぶようにしてきましたが、ふつうは名前なしのナースと付き合うことになる。これってやはりおかしいでしょう。
ナースは初対面の時にやはりまず自己紹介から始めるのが、人の常識ではないかと思います。
瑣末なことのようですが、ここに問題の本質があるような気がします。
医師がやってきました。さてさて。
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