■節子への挽歌5425:病院生活日記20:生と死の交錯
この日記では、軽い話ばかり書いていますが、しかし同時に病院にいると死を身近に感ずることもあります。
私の隣のAさんも、私が入室したころはかなり滅入った状況で、夜、小さな声で自宅の伴侶と電話していましたが、まあ聞いていて、涙が出そうになりました。
たぶんAさんは今回は死とはあまり関係ないでしょうが、入院が続き、先が見えてこないとそういう気分になるのかもしれません。
昨日Bさんに起こった事件では、無知な私は死を感じました。それほど自体は緊迫していました。
点滴もちょっとした操作ミスで、あるいは意図的な操作で、死につながっています。
今日も看護師が、勝手にいじって点滴が一挙に流れたら大変なことになる、とまた言われました。
ともかく病院では、みずからのいのちを病院に預けているのです。
この意味を医療関係者がどれほどわかっているかはわかりませんが、もしまともに受けていたら、その重みに耐えられる医師や看護師はそう多くはないでしょう。
ですから多分ほとんどの医師は、頭だけの理解ですませなければならない。
生や死を感じさせるものは、医師や看護師だけではありません。
病院の中には、死に直面している人もいるでしょう。いつ病棟の誰かが死んでしまうかわからない。病院とはそういう場所ですから。
私も、今回はたぶん死なずに帰宅できるでしょうが、確実ではありません。
病院ではいつも死に隣り合っているのです。
その気になれば、死神が院内を歩き回っている雰囲気は感じられます。ただみんな見ようとしないだけです。
しかし、その反面、病院には明るい生の面もあります。
いまも室外から聞こえてきますが、看護師や介護関係の人やスタッフたちの明るい声は生への希望を生んでいます。彼女たちはみんなとても明るいのです。
ここで「彼女たち」と女性だけに絞って表現しましたが、女性の声には生につながる明るい声のエネルギーを感じます。
私は昔からフェミニストやフェミニズムに違和感があります。
そういう主張をする人の言動に、ある意味での差別意識を感ずるからです。
女性には女性の、男性には男性の、あるいはいずれでもない人にはその人の、良さがある。お互いにその良さを評価し合いながら、支え合う生き方が私の生き方です。
なにやら小難しくなりましたが、病院で生活していると、やはり生や死を考える機会はあるのです。患者のみなさんから聞く話は、まさに死につながった話も多いですから。
昨日もそんな話をデイルームで聴きました。
自分の死に方についても、やはり考えることが時々あります。
一応、私は死に方は決めてはいるのですが、必ずしもそうならない恐れもあります。
今回はあまりに不覚でした。
退院したらやることがまたどっさりと出てきました。
死に方は、決めるだけではなく、そうできるように準備していることが大切なことが今回よくわかりました。
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