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2022年11月

2022/11/30

■節子への挽歌5482:やはり体調に違和感があります

節子

今日は久しぶりに西川口のコミーに行きました。
その途中でまたちょっとおかしなことが起こりました。

西川口で降りて出札口に向かったのですが、なんだか立ち眩みというかおかしくなったのです。
事前に気配を感じて、通路の横で壁につかまるような感じで立ち止まりながら、マスクを外して深呼吸しました。そのおかげで何とか失神は免れましたが、こうした事態が時々起こるようになったです。
貧血気味なのでしょうか。

食欲は相変わらず元に戻りません。
特に朝のパンが食べられなくなりました。
何を食べてもおいしくありません。

そうしたことのせいか、何となく元気が出ません。
お医者さんに行く気にもなれない。
また最近は天気も悪いので散歩に出かける気も起きません。
人生はなかなかうまくいきません。

まあしかし少しずつはよくなっているようです。
もう少し様子を見ることにしようと思います。

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2022/11/28

■節子への挽歌5481:月曜断食はちょっと延期

節子

今日は断食の予定日です。
しかしやめることにしました。
病後まだ完全ではなく、お腹の調子もよくないので、断食をやるのは逆効果ではないかと思ったのです。

前回の断食は、翌朝少し失敗しましたが、全体的にはとてもよかった気がします。
なんだか内臓が閉まった気がしたのです。
しかしその後、気温が急に低下し、風邪をひかないようにしないといけないと思っているのですが、体調不良の中で断食を実行するのは、いささかリクスがありそうです。
それでまあ延期に決めたわけです。

そもそも最近は食欲がないので、量的にはあまり食事をしていないのです。
食欲が戻り、普通に食事ができるようになってから月曜断食は再開することにしました。

それにしても退院後、嗜好が大きく変わりました。
というか、何を食べてもおいしくないのです。
味が変わらないのは梅干しと海苔。

困ったものです。

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2022/11/27

節子への挽歌■5480:人のいのちは誰のものか(2022年8月27日)

節子
今日は「死刑制度」をテーマにしたサロンでした。私にはとても関心の高いサロンだったので、参加者も多いだろうなと思っていました。事実、フェイスブックの告知には反応が多く、思ってもいなっかった古い友人も含めて申込者は少なくなかったのです。

しかしふたを開けてみたら、申し込んでいた人で参加したのは、1人だけ。
あとは直前に申し込んだ4人と申込なしの参加者1人でした。
それ自体、とても残念でしたが、後日分かったのは、気温の急変で風を引いた人がいたようです。たしかに私も少し風かなと思う予兆がありました。

最初に申し込んで実際に参加したのは北原さんです。
この人も不思議なキャリアを持っている人ですが、最初の接点は認知症、次は自殺問題でした。一見、そんな雰囲気を感じさせない女性ですが、いまもずっと孤独死の問題に取り組んでいるようです。
こういう時には、つい背景を聞きたくなってしまうのですが、みんなの前ではそれもできません。

今回のサロンはまず最初に「死刑制度」賛成か反対かを問いました。
彼女は賛成です。賛成はもう一人いましたが、その人は制度は残すが執行はしない問い考えでした。
北原さんが反対の理由は、被害者遺族の思いを考えてのことのようです。

しかし、被害者遺族の思いは実際に触れないと分からないのではないかと問いかけましたが、どうも彼女は被害者遺族とも交流があるようです。
話しているうちに、20年以上前の世田谷家族殺人事件の遺族とも会っているようです。
私もその事件の被害者とは付き合いがあり、事件の直前にも会いました。
事件後は警察が事情聴取に何回かきました。
年末になるといつも思い出す事件です。

しかし遺族は本当に加害者の死を望んでいるだろうか。
事件直後は、加害者を自分の手で殺したくなるかもしれません。
しかし少し冷静になれば、たぶん加害者のようなことをしたいとは思わなくなるのではないか。そんな気が最近は強くしています。

節子の死は、実にたくさんのことを私に教えてくれました。
病死と殺人とは違いますが、人が命を失うことにおいてはすべてが同じような気もします。
考え出すと際限がありません。

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2022/11/26

■節子への挽歌5479:ハーブ飲料とマヌカハニーのプレゼント

突然の入隊以後、どうも体調が戻りません。
食欲は出てきませんし、気力もあまり戻りません。
困ったものです。

いろいろな人がいろいろなアドバイスをくれますが、先週、オープンサロンにこの頃よく顔を出す竹形さんが、サロン終了後に、体にいいものを持ってきたのでよかったら、とハーブ飲料とマヌカハニーをプレゼントしてくれました。
思ってもいないプレゼントはうれしいものです。

いただいた翌日から服用していますが、それでも元気が出てこないのは、やはり1週間の入院とその後の不養生で私の身体はかなり壊れてしまっているのでしょう。
こういう時期に、長歩きだとか断食などするのは、健康法にならないと、友人たちからも言われていますが、そうかもしれません。
まずは体調を平常化させるのが先決なのでしょう。

しかし、複数の薬や特別の健康飲料を毎日飲むのはやはりわたしには向いていません。第一、そこまでして生き続ける必要がるのか。
薬を飲むたびに、この頃、そういう思いが浮かんできます。
困ったものです。

 

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2022/11/25

■節子への挽歌5478:我孫子の活動

我孫子での活動に最近、あまり時間を割いていませんが、124日に「まちづくり編集会議」で発表大会を開催する予定です。
いまは林さんを中心に数名の人が実行委員会的に取り組んでいますが私から見ると本当に大丈夫なのか心配です。なにしろ今日になっても外部への告知が出ていないのですから。
ずっと気になっているのですが、今回は私の体調をおもんばかってくれて、私には当日参加してくれればいいというのです。

それでも発表プロジェクトに関連して相談に乗ってほしいと連絡があり、今日、核になる4人で話し合いをしました。」
今回は中央学院大学の学生にも役割を持ってもらっています。
話し合いの後、大学に相談に行くということでしたが、私は不参加にしました。いけばまた余計なことが気になるからです。

地域の活動はどんどん世代送りしていかねばいけません。
しかし世代送りはそう簡単でもありません。

いずれにしろうまくいくといいのですが。

 

 

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■各地で新しい政治の動きが出てきていますが

先週行われた松戸市の市議会議員選挙に友人の石井さんが立候補しました。
これまでは全く違う世界にいましたが、あまりにもひどい状況に思いを強め、立候補したのです。もちろんこれまでも無関心だったわけではありません。関心を持っていればこその立候補でした。

残念ながら落選しました。
昨日、選挙で体験したことなどを話に来てくれました。
落選したので落胆しているかと思いきや、逆にますます前向きになっていました。
いろいろと手ごたえがあり、先が見えてきたと言うのです。

議員でなくてもできることはあることに気づいたようです。
その手始めに、明日と漁って明後日、松戸市で「松戸市議会選挙立候補者による報告会」を開くそうです。石井さんだけの報告会ではありません。今回立候補した全員に呼びかけ、賛同してもらえた人に自由に登壇してもらい、参加者と話し合うのだそうです。
すでに3人の方からは賛同を得ているそうです。
詳しくは添付のチラシを読んでください。

これはとても興味ある試みです。
選挙は終わってしまうともう忘れられがちですが、立候補した人たちは当選したにしろ落選したにしろ、大きな気づきを得ているはずです。そのことを市民とシェアすることの意味は大きいです。

石井さんはこれに続くさまざまなプロジェクトを構想しています。
魅力的なプログラムがいろいろとあります。
議員になるだけが政治に関わる方法ではありません。
新しい風が起こることを期待しています。

松戸市の話ですが、松戸市民でなくても歓迎だそうです。
私は参加したかったのですが、あいにく、明日も明後日も先約があり行けません。
ぜひ興味のある方には参加していただき話を聞かせてもらいたいです。

石井さんの引き続きの活動に、何かできることはないか考えています。
このままだと生活コミュニティがどんどん壊されていくような気がしてなりません。

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2022/11/24

■節子への挽歌5477:市議選で落選した石井さんが報告に来ました

節子

友人の石井さんが松戸市の市議会議員に立候補しましたが、残念ながら落選の結果になりました。
石井さんを紹介してきたのは、中田京さんです。
長らく松戸市市議会の議員でしたが、先年急逝しました。
その直前に湯島でサロンをやってくれて、石井さんをよろしくと伝言したのです。
何か因縁を感じてしまいます。

石井さんはこれまでの選挙とは全く違うスタイルを考えていますが、私にさえもあまりに楽観主義でいささか心配していたのですが。残念な結果になってしまいました。
しかし次を目指すそうです。

4年後に私はどうなっているかわかりませんが、彼かが今日報告してくれた方向は共感できるものです。
これから地道に地域活動を拡げていくそうです。
もう少し前であれば、私自身が現地に行って応援したのでしょうが、最近はどうもその元気はありません。

でもまあ石井さんのような人が地域を変えていくのでしょう。
念ながら我孫子には今のところそういう人は出てきていないように思います。

 

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■湯島サロン「起業家として〈働く〉を考える」のご案内

「企業で働く」「在宅ワーク」に続く、「働く」を考えるサロンパート3です。

今回は、起業家として「働く」を体験し、いまは働く自分の問題と経営者としての社員の働きを日々体験している橋本典之さんに話題提供をお願いしました。

橋本さんとは彼が大学生時代からのお付き合いです。
一時期、私が取り組んでいたプロジェクトにも関わってもらったこともありますが、橋本さんは卒業後、理学療法士として、病院に就職したのですが、間もなく仲間と一緒に起業し、いまもその会社で働いています。

その会社(株式会社アクト・デザイン)はいまは50人ほどの規模になり、いろいろな価値観を持つ社員たちとの交流の中で、雇用すること、経営すること、働くことの葛藤に日々頭を抱えているそうです。
http://www.act-design.org/about.html
また橋本さんは、多忙ななかを学生の頃から関わっていたNPO(全国マイケアプラン・ネットワーク)の運営委員としても活動しています。

そうした幅広い活動を通して、橋本さんが「働くこと」についてこれまで体験的に考えてきたことなどを話してもらいながら、これまでとはちょっと違った視点で「働く」を考えていけたらと思います。

橋本さんが起業に参画したのは、医療福祉に関する自らのビジョンの実現にも関連しています。橋本さんにとっての「働く」ことの意味は、「生きる」ことに深くつながっています。これまでは「働き方」が主な話題でしたが、今回は「働く意味」も話し合いの対象にしたいと思います。

これから起業を考えている人もいると思いますが、橋本さんの体験から学ぶことも多いと思います。ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。

〇日時:2022年12月11日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「起業家として〈働く〉を考える」
〇話題提供者:橋本典之さん(株式会社アクト・デザイン)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/11/23

■「原爆投下、米国人医師は何を見たか」(原書房)をお勧めします

先日、朝日新聞で、アメリカのウィリアムズ大のジェームズ・L・ノーランjr.教授のインタビュー「核の正当化にあらがう」を読みました。

ノーラン教授の祖父は、原爆開発のためのマンハッタン計画や広島・長崎への原爆投下に医師として関わったそうです。その祖父の残した資料に出合い、そこから改めて、マンハッタン計画から原爆投下、さらにはマーシャル諸島での原爆実験などを調査し、祖父の資料を公開しました。日本でお今年の7月に翻訳出版されているのを知りました。

原著は「ATOMIC DOCTORS」、翻訳は「原爆投下、米国人医師は何を見たか」(原書房)です。翻訳の副題は「マンハッタン計画から広島・長崎まで、隠蔽された真実」とありますが、マーシャル諸島での原爆実験(いわゆる第5福竜丸事件もそこで起こりました)に関する隠蔽事実なども含まれています。

ノーラン教授もインタビューで応えていますが、もし医師たちが報告していた原爆の起こした放射線被害が世の中に公開されていたら、歴史は変わっていただろうと思います。しかし、本書で明らかにされているように、米軍はその事実を隠蔽し、実用可能な兵器として展開してきているわけです。
教授は、壊滅的な被害をもたらす兵器を肯定する考え方の源流には、広島・長崎における放射線の影響を隠蔽した米軍の活動があるとも語っています。

本書の「放射線とその言説の管理」と「ビキニとエニウェトク」はとても興味深いです。たぶんそこで書かれている米軍の体質はいまもなお変っていないでしょう。
そしてもっと恐ろしいのは、多くの日本人さえもが、核兵器のもたらす被害を過小評価していることです。さらに、私は核兵器と原発は同質のものと捉えていますが、いまだに「核の平和利用」などという言説を多くの日本人が信じていることも不安です。

ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思い、紹介させてもらいます。
とても人間味あふれる読み物になっていますが、そこからのメッセージはいろいろなことを考えさせられます。

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■節子への挽歌5476:食欲が戻らない

節子

昨日、断食していた時にはいろいろと食べたい物があったのですが、断食明けの今日はやはりあまり食欲がありません。というか食べたいと思えるものがないのです。
昨日はお刺身が食べたかったのですが、今日はあまり食指が動きません。
それで、ユカが買い物に行くのに便乗して、私もスーパーに行きました。
実際にいろいろと見たら何か食べたいものに出会うだろうと思ったのです

ところがやはり見つからないのです。
空腹なのに食欲がわかないあというのはどういうことでしょうか。
結局、昨日浮かんだ刺身を購入してきましたが、なぜかあまり食欲が出てこない。
困ったものです。

唯一、食べたいと思ったのがお漬物ですが、今日行ったカスミの漬物はこれまでいろいろと試していますが、どうもピンとこないのです。
というか、お店で買った漬物はどうも私の口にあわないのです。
3年ほど前に私の同級生が湯島に自分でつけた漬物を持ってきてくれたことがあります。
それが実においしく、それに似たものをいろいろと探しましたが、すべてだめでした
今日はいろいろと探して。新しいべったら漬けを見つけました。
美味しいといいのですが。

 

ユカに頼んで、お昼にご飯を炊いてもらい、お漬物とお刺身で食べてみようと思います。食欲が戻ってくるといいのですが。

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■節子への挽歌5475:断食は翌朝が大切なことがわかりました(2022年11月23日)

節子

昨日は24時間断食を無事行い、24時間経過の午後8時すぎにヨーグルトを食べて、9時に寝ました。
今朝は5時に起床。問題はそこから起こりました。

起きて気がついたのですが、空腹からかうまく手足に力が入りません。
起き上がって着替えようとしたら、少し身体がふらっとするのです。
空腹感というよりも飢餓感が強く、身体の動きもとても鈍い。
寝ている時にこそ、身体は栄養を使っているのが体感的にわかりました。

ともかく何かを身体に入れたいという思いで、食卓にたどりつき(まさにそんな感じでした)、まずはいつものようにコップ一杯の水を飲んだ後、目についたリンゴとロールパンを食べました。まさに餓鬼状態です。
珈琲は飲みたい気がせずに、インスタントのコーンスープを作り、ともかく身体をもとに戻すことにしました。
断食している時はうまくいったのですが、今朝の状況は予想外です。
結構つらかったのです。
私の場合、きちんと準備するのではなく、思いつきで動くので、最後で失敗することが多いのです。そんなことになったら、井上さんに合わせる顔がない。

何とか少し食べ物を身体に送り込んだのですが、相変わらず身体は動いてくれない。
そこでいつものように深呼吸しながら身体と精神を整えることにし、10分ほど、椅子に座って深呼吸をつづけました。
15分ほどたって、ようやく身心が動き出し、普通の空腹感に戻ってきました。
昨夜のようにまたヨーグルトを食べて、なんとか手にも力が戻ってきました。
それでいまパソコンに向かいだしたわけです。

いささか断食明けをあまく見ていました。またまた反省。
むかしは反省や後悔とは無縁でしたが、最近は反省と後悔が多くなっています。
孔子の教えとは真反対です。困ったものです。

来週からはもう少し断食明けのことを考えなければいけません。

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■第19回益田サロン「人間の知能がジフテリア菌の毒素に似ているか」報告

今回は、「知能は毒素か?」というのは刺激的な問いかけのサロンでした。

益田サロンではよく話題になりますが、ジフテリア菌は宿主である人体を破壊することはありません。ところがジフテリア菌のなかに寄生しているファージが持つ毒素が人体を破壊してジフテリア菌に栄養を提供する結果、ジフテリアが発症。結果的にファージとっての宿主であるジフテリアの環境である人体を壊してしまうわけです。

益田さんがよくいうように、「環境あっての生物」ですから、生物は環境を壊すようなことはしないのですが、結果的にジフテリア菌の環境は自らが寄生させている毒素を保有するファージによって壊されるように見えます。
でも果たしてそうなのか。

そもそもジフテリア菌はなぜ負担になる毒素を寄生させるのか。「毒素」もまたジフテリア菌にとって積極的な意味があるのではないか。毒素がひき起こすことはジフテリア菌にとっても積極的な意味があるのではないか。いろんな疑問が生まれてきます。
益田さんはそうしたことを明示的にはあまり語らず、参加者に考えさせるのです。そこが益田さんの魅力です。

さらに益田さんは、人間社会に目を向けて、この関係を「脳と知能」に置き換えて考えたらどうなるかと問いかけます。ジフテリア菌の毒素が人体を壊すように、人間の知能もいま、宿主である人間の環境を壊してきているのではないか、というのです。
この問いかけの意味は深くて広いので、そう簡単には答は見出せませんが、今回のサロンはその入り口でいろいろと話し合ったような気がします。

話し合いの内容はなかなかうまく紹介できませんので、いつものように私が感じたことを少し紹介させてもらいます。
益田サロンでの私の関心は2つあります。「自己と非自己」と「生物と環境」です。

益田サロンは「環境あっての生物」というところから始まっています。私たちは環境を捉え違いしているのではないかということを、これまで益田さんはいろいろと示唆してきてくれています。
私は益田さんが時々描く、生物と環境の同心円モデルが好きなのですが、生物を取り巻く円を環境と捉えるととてもわかりやすいのです。
ファージの環境はジフテリア菌であり、ジフテリア菌の環境は人体というわけです。このように、「生物と環境」の関係は幾重にも広がっていくので、幾重にも重なる同心円モデルになるのです。

そして生物は自らを包みこんで守ってくれている環境には決して「悪さ」はしないのです。でも時々、包みこんでくれている環境の外にある環境(例えば毒素にとっての人体)には「悪さ」をしてしまう。つまり「遠い環境」と「近い環境」との関係はちがうのです。でも大きな視野で考えると、遠かろうと近かろうと「環境」ですから、それも「悪さ」ではないのかもしれません。今回のサロンでの示唆の一つはここにあったような気がします。

「環境あっての生物」はまた、「生物あっての環境」と言えるかもしれません。生物は環境と没交渉ではありませんから、必ず環境に影響を与えていますし、環境もまた自らが含んでいる生物を前提にして自らを創り出しています。
言い換えれば、「環境が生物を創り出す」とともに、「生物が環境を創り出している」。それは昨今の地球環境問題を考えればわかります。

これに関しては、益田さんは、大学教授引退後、それまで自らの環境だった研究室がなくなったため、新しい環境を探して創り出してきたような話をしましたが、これもとても示唆に富む話です。コウモリに安住していたコロナウィルスが環境を失いさ迷い出てきたとか、人体の中で静かに存在していた帯状疱疹ウイルスが宿主の人体が危うくなりだすと活動し出すとか、こんな話にもつながっていく気もします。

今回、「本来の環境」という言葉も出てきました。この言葉はこれまでも出てきてはいますが、この「本来の環境」と「非本来の環境」を考える準備もだいぶできてきたように思います。生物にとって「本来の」とはどういうことか。

今回、もう一つ気づいたのは「外なる環境」と「内なる環境」ということです。これは同心円モデルを考えればすぐわかりますが、生物は外と内に環境をもっています。しかも面白いのは、人体とジフテリア菌と毒素でわかるように、外なる環境と内なる環境は見事につながっているのです。これも「環境」を考える上で重要な視点だと思います。
地球環境問題を考える時にも、もっと「内なる環境」を考える必要があると思います。

安定のための環境と発展(変化)のための環境という捉え方も面白いかもしれません。安定にこだわっていても環境は変化していきますし、寿命のある生物はどこかで限界がきます。その限界を克服して、新たな安定を求めるためには、環境の捉え方を変えないといけません。身体が衰えだした時の帯状疱疹ウイルスの動きから学ぶことは多いように思います。
もしかしたら、ジフテリア菌の毒素も、それをやっているのかもしれません。自らの宿主は死んでしまっても、それを契機に新たな宿主の世界を広げてくれるからです。

自己と非自己も環境とかかわっています。非自己も環境だからです。しかしジフテリア菌で言えば、自らの宿主である人体を滅ぼしてしまい自らは滅んでも、それによって仲間のジフテリア菌は大きな栄養を得ることができ、さらに新しい宿主との接点をつくってくれるとしたら、決して無駄死にではありません。自分を犠牲にすることで、自らの仲間(自分たち)を増やしていくという視点から「自己」を考えると、「自己」の概念もまた変わってきます。これも安定した時の自己と発展深化する時の自己の捉え方の違いと言えるかもしれません。

たくさん書いてしまいましたが、環境と生物、さらに自己の捉え方に関してたくさんの示唆を与えてくれたサロンでした。
益田さんの話をいささか膨れさせ過ぎたかもしれません。しかも益田さんの意図から外れてしまっている可能性も大きいです。なにしろ私は、益田サロンの劣等生ですから。

次回は破傷風菌を切り口に、改めて「自己とは何か」を問題提起してくれることになりました。今回の話とつながっていくように思います。

いつもながら勝手な報告ですみません。
報告したいことが次から次へと出て来てしまい、長くなってしまいました。
その割にサロンでの話の肝腎な内容が抜けていて、益田さんに叱られそうです。

 

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2022/11/22

■節子への挽歌5474:断食始めてから19時間

節子

断食を始めてから19時間経過しました。
かなりの空腹ですが、朝からコップで水を4杯飲んだだけです。

食べないからといって動かないと意味がありません。
いつものようにいま歩いてきましたが、空腹で行き倒れると悪いので今日は人がよく歩いている公園坂通りをのぼり、いつもの道を戻ってきました。

公園坂通りは今年から「生活通り」にしようと自動車の通行をできるだけ抑えています。ほぼ並行して走りやすい新道が開通したのです。
まだ生活道路としての整備は行われていませんが、道沿いのお店はほぼ閉店していました。
5年後にはきっといい道になるでしょう。

帰りにいつも前を通っている興陽寺に久しぶりに入らせてもらいました。
最近、山門ができて、最初の頃は閉まっていたので不思議に思っていましたが、最近はあいています。
数年前に一人で急に相馬霊場巡りをしようと思った時の出発点がここでした。あの日はサンダルずれができてしまい、29キロ弱でダウンしてしまいました。
曹洞宗のお寺ですが立派な本堂があり、その前に無門関の「拈華微笑」の像があるのです。久しぶりにゆっくりと見せてもらいました。

まあそんな寄り道があったため、歩きは25分くらいの3000歩でした。
しかし汗もかき、疲れもほどほどで、空腹感も忘れました。
もっとも家に着いたとたんに空腹感が襲ってきました。
もうしばらく我慢しなければいけません。

断食日をいつから起算するかで変わってきます。
初日ですので、断食明けを今日の午後8時にしようかと思いますが、あと6時間ほどです。

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■節子への挽歌5473:月曜断食を始めます

入院を契機に新たに始めた健康法の3つ目は、月曜断食です。
これはいまケニアにいる井上さんが実践しているもので、入院中に食事を止めていた時に教えてもらったのです。

私の周りでも、16時間ファスティングをやっている人はいますし、断食の効用は以前から聞いていました。
もう20年以上前になりますが、高野山で3週間断食をした友人がいて、その断食明けの時に私もその宿坊に行ったのですが、断食明けに合った彼は実に印象的でした。

まず見た感じが「透明」だったのです。
翌朝、暗いうちに起きて護摩焚きをしてくれたあと、奥の院までの2キロを案内してくれたのですが、その時は歩くというよりも空を飛ぶ感じで、役行者はこうやって歩いたのだろうなと思わされた記憶があります。

しかし断食はそう簡単なものではないでしょう。きちんとした指導の下でないと危険です。まあできれば死ぬときには断食をしようと思っていますが、まあうまくいくかどうかまだ自信はありません。

しかし週一回の断食であれば、できるかもしれません。
そこで退院して体調が戻ったらやってみようと思っていたのです。
そろそろ大丈夫だと思うので、始めようと思います。

本当は月曜断食なのですが、昨日はかなりいろんな用事が入っていたので、大事をとって、今日から始めることにしました。
ですから、月曜断食のスタートは明日からにしました。
スタートは火曜日ですが、来週からは(継続できるとしてですが)月曜断食です。
食事も間食もなし、ともかく口に入れるのは水のみです。

さてさてどうなりますか。

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2022/11/21

■節子への挽歌5472:メダカの悲劇(2022年11月21日)

善意が悲劇を起こすことがあります。

昨日、湯島に行きました。
植物と共生するという過酷な条件で生き抜いているメダカが気になっていました。
一昨日は3匹とも元気だったのですが(一昨日3匹目も元気だったことが確認できました)、水がかなり汚れていたのです。
着いてすぐにメダカの住んでいる容器を見て、あぜんとしました。
一つの容器は空になっていて、植物と共生している方も水の量が3分の2ほどに減っています。
どうなっているのでしょうか。植物の容器のほうをよく見ましたが、メダカは見当たりません。一昨日は元気だったのに。

実は昨日、湯島である人たちが集まりをやっていました。
その参加者からメダカに餌をやってもいいかとメールが入りました。
その時は元気だったと安堵し、しかしメダカへの餌はやらないでほしいと答えました。餌のやりすぎでダメになることも少なくないからです。

そういうことがあったので、メダカはみんな元気だと思い込んでいたのです。
ところが子メダカたちは全滅してしまっていたのです。
餌をやっていいかと言ってきたメダカは、別の水槽にいる大メダカでした。

昨日、湯島で集まりをやった人の一人に確認したら、水が汚れていたので替えたのだそうです。まさかそこに子メダカがいるとは思っていなかったのだそうです。まあ注意しないと気づかないほど小さく、それにうまく植物の根などに隠れているのです。
しかし別のところに大事においていたもう一つの容器までなぜ水をあけたのか、安定したいい水だったので、水そのもの大事だったのですが。

こうしてこの3週間の苦労は水泡に帰してしまいました。
植物とメダカの共生はいまの私の課題なのです。

植物はコリウスです。これとは相性がいいようですが、2週間前にサロンに参加した人がデルフィニュウムを一輪持ってきてくれたのでそれを一緒にしました。翌週、またもう一輪持ってきてくれて、メダカとの共生を知って、これは毒性があるのですが、と言ってくれました。ますます共生に関心を持ちました。
もしかしたら、デルフィニュウムが増えたので、昨日、メダカは死んでいたのかもしれません。しかし、そうだとしてもきちんと葬ってやれなかったのは悲しいです。

善意は悲劇を起こすのです。
湯島は「コモンズ空間」としていますので、私以外の人が使うこともあります。きちんとメダカが棲んでいると明記しておかなかった私の責任ですが、かなり落ち込みました。

しかし、メダカに関していえば、実は同じ昨日、坪倉さんが新たなメダカを8匹、湯島に届けてくれました。これがみんな実に元気がいい。
今度はしっかりと守らなければいけません。
植物との共生はもうやめようかどうか迷っています。

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2022/11/20

■節子への挽歌5471:ヴェーダ処方の食後の飲み物

節子

入院をきっかけに始めた健康法の2つ目は、ヴェーダ処方の食後の飲み物で消化を良くする方法です。
これは今春からサロンに参加するようになった柿嶋さんが採用しているもので、とても効果があるそうです。
処方は簡単で、クミン、コリアンダー、ジンジャーの粉のスパイスを混ぜて、熱い白湯で服用するだけですので、私にも処方できます。

あんまりおいしいものではないので、毎日飲んでいるわけではありませんが、時に胃腸がちょっと気になったり、気分が乗ったりしたときには、その時々の状況に合わせて、それぞれのパウダーの量を変えながら、飲んでいます。
正直に言えば、飲むのは週1~3回ですが、ともかく簡単なのでいいです。

柿嶋さんからは、食欲がない時は、生姜を刻んで、ハチミツ(熱処理してないもの)とレモン汁と混ぜたものを食するといいとも教えてもらっていますが、熱処理していない蜂蜜はわが家では手が出ないので、いまのところまだ試してはいません。
ちなみに、これは医療費を払えない社会階層のためにインドで発達した健康法だそうですが、消化を高める3種混合パウダー湯は王様のためのものだそうです。

皮肉なもので、いまの日本では、むしろ後者の方が安価に手にはいるわけです。
節子の病気の時に、アーユルヴェーダの脈診の名医に見てもらった時の結果が現実とは真反対だったので、わたしはどうもアーユルヴェーダには信頼が持てないのですが、まあこれは簡単なので、当面は私の健康法メニューに入れていれることにしました。

これとは関係ないですが、以前から時々愛用しているマンゴラッシーやレモンラッシーもこの流れに含ませています。

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■「かんたん」とはどういうことですか

使っていたスマホの具合がよくありません。

まあ基本的にスマホは使っていないに等しいので、不都合はないのですが、娘に言われて先日、買い替えました。
その仕組みにいささか疑問を感じましたが、それはそれとして、スマホに関して「かんたんモード」がいいですかと訊かれました。
それで「かんたんってどういう意味ですか?」と質問しました。
一緒に付き添ってくれていた娘も、あきれたようで、あとで、「お父さんも偏屈になってきたね」と言われてしまいました。

しかし、「かんたん」と言われても何のことかわかりません。
画面の文字が大きくなるとか機能がシンプルになるとか、そんなことと簡単とは関係ないと思うのです。
「かんたん」とは、余計な判断をしなくとも私の思いが実現していくことだと思うのですが、私の思いとは私固有の思いですから、私にとっての「かんたん」と他者にとっての「かんたん」は全く違うはずです。

 もう30年以上前ですが、ある論考で、21世紀の技術思想の一つとして、「デディケーテッド・テクノロジ」という言葉を作ってみました。その時に同じく使った「ナノテクノロジー」はいま普通用語になっていますが、「デディケーテッド・テクノロジ」はまったく使われることはありませんでした。
「デディケーテッド・テクノロジ」に込めた思いは、「かんたん」です。つまり、使い手に取って使いやすいような個人使用の技術、使い手視点の技術という意味です。

作り手が勝手に、これはあなたにとって「かんたん」ですよというのは、傲慢な押し付けでしかありません。そういう発想が、人間を技術に合わせる社会を育ててきてしまっています。技術に合わせて生きることを潔しと思わない私には、とても不快なことなのです。
だからむっとして質問したのですが、娘はそれを知って「偏屈」だと注意したのです。

もっともその時のお店の若者は、そんな私の意図などは気にせずに、非常に素直に受け止めてくれました。最近の若者たちは、実に素直に技術社会を生きているのです。
その姿勢がとてもよかったので、とても気にいって、その後はすべて彼に任せました。
しかし、その結果ですが、新しいスマホには使いにくさがいろいろあります。どうやったら問題が解決するか、お店に訊きに行ったのですが(購入時の人は不在でした)、原因がわからず、電話で問い合わせるように言われて電話しましたが、問題は解決しません。
あの若者がいるときにまた聞きに行かなければいけません。
困ったものです。

 機能が増えればだれにとっても操作が簡単になる方向(ユニバーサルデザイン)で考えるべきですが、いまの技術者や商品開発者にはそういう発想はなく、あまりにプロダクトアウトなのにあきれます。経営の基本はまったくわかっていないと思いますが、「顧客を創る」というドラッカー経営の基本には合っているでしょう。日本企業が落ちこぼれていく理由がわかるような気がします。

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2022/11/19

■節子への挽歌5470:久しぶりの上野公園

節子

深呼吸歩き散歩の3日目は上野公園でした。
湯島に行くので、上野で降りて、そこから歩いていくことにしました。

好天だったこともあり上野公園にはかなりの人が出ていました。
大道芸もいろんなところで行われていました。
そのため、歩くことに集中できず、あんまり深呼吸を意識せずに、50分、歩きました。

途中、久しぶりに上野大仏に寄ったり、水天宮に寄ったりしながら、湯島に向かいました。
湯島天神は恒例の菊祭りでした。
猿回しの大道芸はまだ準備中でしたが。

歩く感じや歩く環境で、呼吸法が変わることに気づきました。
今日はあまり意識していませんでしたが、昨日とはリズムが違っていました。
というか呼吸が不規則で、吸うのが基軸になったり吐くのが基軸になったり、バラバラでした。そのせいか、歩く距離は少なかったのですが、何か疲れてしまいました。
結局歩いたのは3500歩程度。汗はかきませんでした。

久しぶりの上野公園はコロナ騒ぎの時とは違い、元に戻っていて安心しました。
節子が好きだった骨董市は今日は出ていませんでした。

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■節子への挽歌5469:味覚の変化

節子

今日もいい天気になりそうです。
いい日の出でした。

体調はほぼ戻ったのですが、3つほどが戻りません。
一つは朝の珈琲がおいしくないのです。
それで紅茶にしていましたが、これもおいしくない。
今日はコーンスープにしてみました。

2つ目は味噌汁がおいしくない。
味噌が変わったわけではないのですが、具を何にしても、どうも以前とは違うのです。

そして3つ目は、そういうこととも関係しているのですが、なんとなく胃腸がこれまでとは違うのです。説明しようがないのですが、ともかくどこかしらじらしい。

食事をしなかった1週間でかなりのデドックスが行われたはずだという人がいましたが、そのせいでしょうか。
ともかく食嗜好が何か変化してきているような気もします。
さてどうなっていくのでしょうか。

 

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2022/11/18

■節子への挽歌5468:にことふたりのフードコート

前に約束していた孫のにこの本を買いに2人で近くのイトーヨーカ堂に行きました。
娘たちは近くに用があったので、車で送ってもらい、娘たちの用事が終わるまでの小一時間をにこと2人で過ごすことになったわけです、

本はすでに決まっていたのですぐに見つかりました。
ところがその近くでにこは、欲しくてもなかなか見つからなかった本を見つけました。
なんとその本は、水木しげるさんの「妖怪図鑑」です。
表紙そのものもおどろおどろしいどくろの絵です。
ほしそうなのでそれも購入することにしました。
人形などはそう簡単には買いませんが。本だけはいつでもどこでも好きなだけ買う約束をしているのです。
と言っても、にこは遠慮がちにそう頼んでくるわけではありません。なにしろ私が貧乏だと思っているからです。まあそれは事実ではありますが。

2冊を買ったのですが、本を買うのだから買い物袋くらい持ってこなくちゃとにこに叱られました。

娘たちが来る時間にはまだ間がありました。
おもちゃでも見ようかと思っていたのですが、その途中で、何か食べようかと問いかけました。にこは私とふたりだけの時にはこれまで食べることはありません。卵アレルギーがあって、大変な目に合っているので、母親からきつく言われているのです。
私はにこには信頼されていないので、食べ物は断るだろうなと思っていました。
ところがたまたま通り道に「大学いも」が並んでいたのを見つけて、立ち寄りました。
食べる?と聞いたら、予想に反して、食べるというのです。
先日、どこかで食べた大学いもがとてもおいしかったのでしょう。

さてそれを買って、近くのフードコートで食べることにしました。
ところがまず食べる前には手を洗わなければいけないということになったのですが、そこに石鹼がないのです。次は、大学いもを食べる用具がないというのです。手ではだめなのです。困ったものです。なかなかうるさい。
なんとか楊枝を見つけてきました。
一応、食べていいかをママに相談しようかとスマホで連絡をしようとしたら、だめだというのです。きっとだめだというというのです。

期待して食べたらどうもあんまりおいしくないようで、2つでやめてしまいました。
私も食べてみましたが、いまひとつの大学いもでした。
子どもは実に正直です。

のどが渇いたのか、水筒を持ってくればよかったと言い出しました。
そう言えばいつも水筒持参なのですが、今日は急に来ることになったので手ぶらでした。
ではどこかで飲めるものを探そうということになり、幸い、フードコートのお店にタビオカミルクを見つけました。
しかし見本を見て、あんなにたくさんは飲めないと言い出しました。

まあサンダル履きの高齢者と6歳の子どものこうしたやりとりは周りにはどう見えたでしょうか。フードコートのど真ん中に座ったので周りから目立ったことでしょう。いささか危うい組み合わせに見えたかもしれません。
でもまあ、にことふたりで外食をするのは初めてです。

そんなこんなでいろいろとやっていたら、娘たちがやってきました。
まあそれで無事、にことの2人カフェは終わりました。
ちょっとだけ信頼関係は育ったでしょうか。

帰りの車で妖怪の話からミイラの話になりました。
にこにほんとの人間のミイラを見たことがるかと聞いたら、少し考えてから、見たことがあるというのです。というよりも、いつも見ているというのです。
もしかしたら、と思い、それっておさむさんのことかと訊いたら、そうだというのです。
困ったものです。
孫には私は、もう死んだ人に見えているようです。

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■節子への挽歌5467:20年ぶりのハケの道

節子

今日はハケの道をわが家の下から武者小路実篤の別荘跡下まで歩きました。
4500歩、往復45分でした。

今日はこの道を歩くイベントがあるようで、途中、案内図を持ったたくさんの人に会いました。しかしみんなマスクをしていて、話しかけにくいです。なかにはマスクをしていない人もいますが、私と通り過ぎるときに口にハンカチを当てたり、案内図で口をさえぎったりするのが、とても私には不快でした。
最初は小さな声で、こんにちわと言っていましたが、途中からやめてしまいました。

周辺を見ながらゆっくり歩いている人がいたので声をかけました。その人の案内図を見せてもらいましたが、全コース8キロ強のコースでした。その人はいろいろと見ながら4時間かけて歩くと言っていました。

昨日は、ハケの道の反対側を少し歩きましたが、今日歩いた道を歩くのは20年ぶり近いです。その前はよく節子と散歩した道です。20年ぶりですが、残念ながらむしろ荒れていました。水神様もありますが、汚れていました。しかしのどかな風景を見ながら歩くのは気持ちがいいです。

今日はあまり深呼吸歩きを意識しないで歩こうと思っていましたが、気がついたら「3回息を吐く歩き方」になっていました。2回ではなく3回になっていたのが意外でした。
往路は20分、帰路もほぼ同じ時間でしたが、後半は汗ばんできました。途中、会った人と雑談したり水神様に挨拶したりしたので、45分かかったのです。

最初に取り組んだ健康法は、順調です。
ちなみに言うまでもありませんが、昨日も今日もいつものサンダルです。
まあ私にはこのサンダルは草鞋のように足にぴったりなのです。

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■『働きがいのある会社とは何か 「働きがい理論」の発見』をお勧めします

久しぶりに企業経営に関わる本を読みました。
ロバート・レベリングの『働きがいのある会社とは何か 「働きがい理論」の発見』(晃洋書房)です。アメリカで出版されたのはかなり前ですが、ようやく日本でも翻訳出版されたのです。

ロバート・レベリングといえば、「働きがいのある会社」という視点からGPTWGreat Place to Work)モデルという「働きがい理論」に基づく企業評価を始めた人です。
企業評価のプログラムはいろいろとありますが、GPTWモデルの特徴は、働く人の視点に立っていることです。これは他の評価スキーム(ほとんどが経営者の視点での評価)と思想を異にしています。そしてそれを裏付けている経営思想も企業観もこれまでのものとは全く違うのです。

この調査を日本に紹介したのは、当時日本能率協会にいた斎藤智文さん(淑徳大学教授)ですが、斎藤さんは「働きがいのある会社‐日本におけるベスト25」など、それに基づく何冊かの本を執筆しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#080831
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#100509

私は10年ほど前までは、話題になった経営書にはほとんど目を通し、DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューも毎月読んでいました。企業のあり方が社会の方向性を決めていくと考えていたからです。
しかし、21世紀に入って、企業経営論があまりに目先の利益主義・効率主義に覆われてしまい、私の経営論とは真逆なものになってしまいました。ささやかながら、そうした流れに抗っていましたが、最近は力尽きてしまっていました。

そんな時に、斎藤さんたちがまた、この本を翻訳出版し送ってきてくれました。久しぶりに読ませてもらいました。改めて従業員視点に立った「働きがい理論」を読んで、久しく興味を失っていた企業経営への関心が戻ってきました。

GPTWモデルの経営思想は、一言で言えば、従来の経営思想と違い、人の視点に立って経営を考えていることです。
GPTWモデルの基礎になっているのは、実際に企業で働いている現場の人へのインタビューです。そこで働いている人が、生き生きとしてくれば、結果として企業も生き生きして業績も上がっていくというのが、GPTWモデルの経営思想です。

従来の経営書のほとんどは組織の視点で経営を考えています。
たとえば、ドラッカーの経営思想は、企業の主要な目的を「顧客を創造すること」とし、そして企業を効果的に経営する能力のあるプロフェッショナルなマネージャーを創り出すことに視点が置かれていました。いささか極端に言えば、従業員は「人材」という経営資源(要素)の一つでしかないのです。さらに言えば、外の人たちは「消費者(顧客)」として、これもまた経営の手段に位置づけられてしまっています。

本書では、「経営思想が邪魔をする理由」という第Ⅲ部で、テイラーやメイヨー、ドラッカー、トム・ピーターズの経営思想に触れていますが、それらには経営者と従業員の関係に触れているものがまったくなく、むしろ経営理論が働きがいのある会社を創るための弊害になっていると断言しています。斎藤さんもこの点に触れて、日本ではこういう書き方のできるジャーナリストも経営学者も一人もいませんね、とメールで書いてきましたが、同感です。この40年、日本の企業の多くもまた、そうしたドラッカー経営学によって、人間不在の組織になってきているように思います。

本書の目指す企業は、人のための「いい職場」の実現です。
レベリングは、「いい職場を良きものにすることを一言でいえば、そこでは働く人たちが人間のように扱われていると感じているということである」と書いています。また、「いい職場は、会社のために働く人々は会社そのものであり、そのニーズは必ずしも組織の他の目標に従属するべきではないと宣言している」とも書いています。
そこでの従業員は、決して経営の要素(人材)ではなく、表情を持った人間なのです。

組織と人とどちらを基点にするか。そこにこそ思想の違いがあります。
組織にとって人を資源(手段)と考えるのか、人にとって組織を仕組み(手段)と考えるのか。そこでは組織とは何なのかという思想的な違いがあります。
組織を使って人が豊かになるのか、人を使って組織を大きくするのか。人のための組織なのか、組織のための人なのか。どちらが目的でどちらが手段なのか。
経営者のための会社なのか、働く人たちみんなにとっての会社なのか、と言ってもいいかもしれません。

斎藤さんは、改めて本書を企業経営者や働く人たちに読んでほしいと言っています。
私も、アメリカ流の経営学による経営者視点の経営論がどういう企業を生み出してきたかを考えるとき、いまこそ改めてもう一度、働く人に基点をおいた経営を考えることが大切ではないかと思います。
そもそもそうした「働く人に基点をおいた経営思想」こそ日本的経営の強みであり、それが1970年代の日本企業の発展をもたらしたのではないかと私は思っています。

というわけで、私も本書を経営者や経営幹部のみなさんはもちろん、働く多くの人たちに読んでいただきたく、紹介させてもらいました。起業の参考にもなると思います。
活字は小さく、また2段組みで、ちょっととっつきにくいですが、内容はとてもわかりやすく、気楽に読めるはずです。

できれば年明け後に、斎藤さんにお願いして、本書をテーマにしたサロンも企画したいと思っています。

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2022/11/17

■大谷選手や大坂なおみ選手には反省してほしいです

暗号資産の大手交換所FTXトレーディングの経営破綻で損害を受けた投資家たちが、FTXの広告に登場していた大谷選手や大坂なおみ選手に対して、損害賠償を提訴したとテレビで報道していました。

大谷選手や大坂なおみ選手に限りませんが、そうした有名人が私企業にしろ政府にしろ、その事業の内容をしっかりと理解せずに「広告塔」として加担する風潮に私は大きな違和感をもっています。

そのことは、統一教会の広告塔になっていた政治家にもつながっていることですが、何かを支援する時には、しっかりと内容を確認したうえで行動してほしいです。

社会的に有名になれば、それなりの「責任」が発生します。
有名であることは、それなりの社会的価値を生み出しますが、その価値は当の個人が勝手に利用できる性格のものではありません。有名人が、何を好み何を応援するかは、社会に大きな影響を持っているからです。
ですから、仮に何かの商品やサービス事業の広告宣伝に登場する場合は、それなりの責任を覚悟すべきだと思います。
「有名」を利用するほうも悪いですが、利用される方はもっと悪いように思います。

スポーツ選手がユニフォームに企業名を入れているのを見るたびに、私は悲しくなりますが、それ以上にやはり、安直に自らを広告手段にせざるを得ないスポーツ選手の現状に恐ろしさを感じます。
私がスポーツ嫌いな理由の一つです。

 

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■節子への挽歌5466:「深呼吸散き」散歩を始めました

節子

入院騒ぎでいろんな人に迷惑をかけたので、これからは自分の健康に少し気を使うことにしました。というのも、いろんな方から、それぞれが体験している「健康法」を教えてもらったので、すべて挑戦することにしたのです。問題は、続くかどうかですが。

まずは、「深呼吸歩き」散歩を今日から始めました。
実践者の永田さんが、昨日、わざわざ湯島まで来て、じっくりと伝授してくださったのです。
「深呼吸歩き」は永田さんがご自分のためにさまざまな体験を踏まえて生み出したものですが、実際に劇的な効果を発揮し、いまでは血管年齢も大幅に若返っているそうです。
キーワードは「楽・快」で、気軽に取り組める健康法です。
「散歩」につなげることは必須ではありませんが、「歩く」ことの少ない私としては、散歩につなげることにしました。

今日は40分ほど歩きましたが、ポイントは「息を吐く」ところを少し意識して、外部との酸素循環を深く大きくしていくことですが、それをあまり意識せずに、自然とそうなっていくようにしていきながら、歩くことを楽しむのです。
正確には、いつか永田さんによるサロンとみんなで歩く会を開催したいと思っていますので、方法について中途半端にお伝えするのはやめておきます。
永田さんはまた、いわゆる「難波歩き」も実践している人です。これは私にはいささかハードルが高いです。

40分、永田さんの話を思い出しながら、今日は歩いてきましたが、永田さんが話してくれたように、20分過ぎくらいから快い汗が出て来て、気分も爽快になってきました。
明日からも続けられそうです。

帰り際に、1か月以上も行っていない畑を見てきました。
花が満開ですが、野菜の気配は道からは全く感じられません。
畑作業もどきは来週以降になりそうです。

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2022/11/16

■節子への挽歌5465:人が生きるとはいったい何なのか

節子

私の入院を気にしてくださっている人は少なくないのですが、今日は、私にもっと長生きしてほしいと言って、深呼吸歩きという歩き方を勧めに来てくれた人がいます。
1時間以上にわたって、歩き方はもちろんですが、いろいろと彼の体験知を教えてくれました。とても共感できる話であり、私も明日から実行しようと思います。
これで少なくとも3年は元気を維持できるでしょう。

他にもいろいろと刺激的な話をお聴きしたのですが、その後、一緒に食事をしました。
ところが私が注文した食事に揚げ物が一品ついていました。
私は大丈夫だと思っていたのですが、どうも彼はそれが気になっていたらしく、途中でやっぱりこれは揚げた衣をとってもらいましょうと調理場まで持って行って交渉してくれました。結局、それは出来ないと言われてしまったようですが、私も食べるのをやめました。
私はあんまり気にしないのですが、どうも周辺は私以上に私のことを気にしてくれているのです。感謝しなければいけません。

午後やってきた人たちもどうも私以上に私のことを心配してくれているようです。
これほどみんなに心配してもらえるとは幸せなことです。

改めて人が生きるとはいったい何なのか、そんなことをこの頃、よく考えます。

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2022/11/15

■節子への挽歌5464:80歳を過ぎると契約能力が低下します

節子

スマホの調子がよくないので、切り換えることにしました。
と言っても、私はあまりスマホを使っていませんので不都合は感じていないのですが、どうも電話などの調子がよくないのです。
それでしかたなく、ユカに一緒に行ってもらって、機種変更と併せて契約会社も変えることにしました。そのほうが費用が安くなるのだそうです。

その切り替えになんと2時間もかかってしまいました。
まったく無駄な話ですが、電子機器で生活は一見便利になっているようですが、どうもいろんなことがブラックボックス化していて、手続きも煩わしくなってきています。
今日も手続き完了後、何枚もの確認資料をもらいましたが、どうせ読んでもわからないので無駄なな話です。日本ではペーパーレス化はなかなか実現しません。
親切な若者が対応してくれましたが、彼にとってこの仕事は楽しいだろうかとつい思ってしまいます。

担当の人はいろんなオプションを説明してくれましたが、私の場合、今回はすべてのオプションを契約しませんでした。
というのも、以前は保険に入っていましたが、いざちょっと壊れて修理に行ったらこれは保険外だなどと言われ対応してもらえませんでした。それでその時点で保険はやめましたが、その後、特に不都合はありません。保険に対する不信感は大きいです。

もう一つ驚いたのは、年齢が80歳以上の場合は、家族などが保証しないと契約が成立しないのだそうです。
今回はユカが言ってくれたので、問題はなかったのですが、いまや80歳を過ぎると契約能力さえ失ってしまうようです。

さらに驚いたのは、データを新しい機種に移行するのも有料になったそうですし、よくわからないのですが、自転車保険もオプションについていました。
なんだかよくわからないのですが、まあ今回は余計なものは一切やめました。
私はパソコンがベースなのでスマホはほとんど使っていませんので、まあ不自由はないと思いますが、スマホ依存の高齢者は受け入れないわけにはいかないでしょう。

そう言えば、先日の入院時の時にも、医療とは関係のない生活支援用具のレンタルセット制度は私には「暴利」としか思えないものでした。しかし高齢者は、みんな加入します。看護師やスタッフも、不満を持っているような感じでした。そんな費用を負担するのであれば、むしろスタッフの人たちへのチップとして渡したい気分でした。

オレオレ詐欺が問題になっていますが、高齢者対象のビジネスのほとんどは、オレオレ詐欺とあんまり変わらないような気もします。
昨日もテレビで成年後見人制度の問題を取り上げていましたが、こうした行政制度も私にはオレオレ詐欺と同じ匂いをかんじまう。介護保険もそうです。
もちろん介護保険にしろ成年後見人制度にしろ、それに助けられている人は少なくありません。

しかしそうした問題は、「民営化」や「契約市場」にゆだねるのではなく、公的な仕組みとして設計されなければいけません。日本では「民営化」と「社会化」が混同されていますが、「民営化」とは所詮は市場化でしかありません。

あれあれ、なんだか挽歌らしからぬ内容になってきてしまいました。
反省。

いずれにしろ、今日はスマホの交換でバタバタしてしまいました。
娘がいるからいいものの、もし私だけだったら、大変だったでしょう。
便利な時代になったのか、その反対なのか、最近はどうもよくわかりません。
困ったものです。

ちなみに昨日のラーメン食は何ともありませんでした。
もう何を食べても大丈夫そうです。
ただ薬を飲んでいますが。

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■湯島サロン「在宅ワークとワーケーション」報告

「働く」を考えるサロンの2回目は、「在宅ワーク」をテーマに、在宅ワークの仲介会社で働いている山本紀与さんに問題提起していただきました。

山本さんは最初に、「在宅ワーク」とコロナ禍以来話題の「リモートワーク」とは違うと説明してくれました。今回話題にする「在宅ワーク」は、従来の雇用労働の枠組みではこぼれ落ちがちな、働く意欲や働く能力を活かすための、新たな働き方の選択肢の一つとして、そこに積極的な価値があるというのです。
それは、タイトルにもある「ワーケーション」という言葉が示唆しているような、「働く時間と遊んだり学んだりする時間を自分で管理できる働き方」の提案でもあるのです。

そうした働き方は、単に働き手にとってだけではなく、人材不足に悩んでいる企業にとっても、有益な雇用の選択肢の一つになり、経済全体、社会全体にもウィンウィンの関係を生み出していく。「在宅ワーク」が、働き手にとっても事業主体にとっても、新たな選択肢を持ち込むことによって、世界を広げてくれるというわけです。

山本さんがいま所属している会社(株式会社キャリア・マム)は、20年以上前に、結婚や出産によって社会で活躍することをあきらめがちな女性たちに、働く場を創り出していくという思いで設立されたそうですが、以来、さまざまな働き方を支援することによって、今では11万人ほどの会員によって、多様な働き方が生み出されているようです。
https://corp.c-mam.co.jp/company/

そこでの仕組みをいろいろと説明してくださった後、山本さんは、参加者に「在宅ワークの問題点などあれば聞かせてほしい」と問いかけました。山本さん自身、従来型の企業勤務の経験もあり、「在宅ワーク」の限界や問題点も感じているのでしょう。

実際に、キャリア・マムでは、そうした在宅ワークの限界を克服するためのさまざまな仕組み(たとえば人のつながりを生み出す会員交流会や創発的な開発業務など)にも取り組んでいるようです。

しかも興味深かったのは、そうした仕組みが、会員の声によって生み出されてきているようなのです。同時に、単に個々人が「在宅ワーク」で仕事をするだけでなく、そうした個人ワークの成果品質を高めていくための仕組みができていることです。個人の「在宅ワーク」が基本ですが、それを活かすしっかりした「組織化」も行われているのです。もちろん個人を尊重した組織化ですが。

参加者からの指摘もいろいろと示唆に富むものでしたが、私自身は、議論の多くが、これまでの「雇用労働」「賃金労働」「競争労働」の文化に呪縛されすぎているように感じました。逆に言えば、「在宅ワーク」を基軸にして捉え直すと、これまでとは違った風景(組織論や経営論)が見えてくるような気がしました。そこに私は「目から鱗」を感じました。

キャリア・カムでは、『「自分らしく働く」は「自分自身を生きること」。多様な働き方を創り出し、働く楽しさを広げます』ということを目指していますが、働き手が主導権を取り戻すことこそが、「働き方改革」の要であると考えている私にはとても共感できるスローガンです。

「在宅ワーク」が、個人の働き方にとっても、また企業経営のあり方にとっても、新しい選択肢を増やすことになる。そして同時にそれは、個々人の生き方の変化にもつながり、社会を変えていく。そんな展望を感じました。

以下は、私の感想です。

私は近代産業革命以来の経済や社会のあり方に違和感を持ち続けてきています。
その基本にあるのは金銭労働であり、人間にとって楽しいはずの「働くこと」が、金銭を得るための退屈な「作業労働」に貶められてしまっているからです。
生活の場と働く場が切り離され、工場(あるいは事務所)に9時から5時まで集められて、生活から切り離された「仕事」をするのが、そこでの働き方の基本モデルです。

近年盛んに言われた日本での「働き方改革」も、その発想の枠の中での取り組みでしかありません。
そこでは、「働くこと」が生きるための目的になっていて、苦肉の策として、ワークライフバランスというおかしな言葉が出てきましたが、所詮は、働くために生きる「生き方」が基本になっていました。

ところが、「在宅ワーク」の発想には、この近代労働モデルを変えていく力があることに気づきました。
定められた勤務時間に一か所に集められて、生活を忘れて働くのではなく、自分の生活の拠点をホームベースにして、働く時間も生活を基軸に自分で割り振りできる働き方が可能になってきたということです。働くために生きるのではなく、生きるために働くことの意味を改めて考え直すことが大切かもしれません。

私は、「シャドウワーク」とか「アンペイドワーク」という言葉にも違和感を持っています。そうした発想は、金銭経済を基本に考えているからです。
最近、湯島のサロンでも「お茶くみ仕事」が話題になりましたが、「お茶くみ仕事」に価値を置くのか、金銭を生み出す仕事に価値を置くのかに、仕事観の本質が象徴されているように思います。そしてそれは、その人の生き方に現れてきています。「働き方」と「生き方」は切り離せないのです。

働き方の基軸を変えたら、生き方や社会のあり方の変化につながっていくように思います。同時にそれは金銭経済の縛りからの自由にもつながっていく。改めてそういうことを実感させてもらったサロンでした。
このテーマのサロンはさらに続けていきたいと思っています。

なお、キャリ・マムでは、「在宅ワーカー」に関連したzoomオンライン・セミナー(参加無料)も行っています。
期近なものとして、次の2つのご案内をいただきました。
ご関心があればぜひご参加ください。

12月2日「在宅ワーカー活用セミナー」
https://zaitaku-cmam.jp/enterprise/utilization/day_20221202/

12月13日「働き方改革セミナー」
https://www.saitama-hkaikaku.jp/workstyle/1213/

Zaitauwork000

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2022/11/14

■節子への挽歌5463:今日はラーメンに挑戦

節子

今日は予定通り退院後初めてのラーメンに挑戦しました。

以前から、いわゆる「町中華」と言われるところでの昔ながらの中華そばを食べたいと思いながら、まだ見つかっていないのですが、入院前に我孫子の友人から紹介してもらっていた「味好飯店」に行くことにしました。
たまたま娘の連れ合いも今日は休みだったので、みんなにも付き合ってもらいました。
クルマで20分くらいの湖北台にあるお店です。
ずっと地域の人気店なのだそうです。

娘は、まだラーメンはやめた方がいいというのですが、少しくらいリスクがないと私の趣味には合いません。
でもあんまり食べすぎないようにと言われていましたし、自分でもそうしようと思っていました。

幸いにすいていました。
私はいうまでもなく基本のしょうゆラーメンです。
娘たちは、広東麺、えびラーメン、チャーハン、餃子などを頼みました。
せっかくなので、みんなから少しずつ分けてもらい、私はすべてを少しずつ食べてしまいました。その上、自分の分はほぼすべて食べたので、いつもよりも量的には食べすぎてしまった感じです。
というわけで、今日はラーメンと量的な挑戦になってしまいました。

残念ながら私が求めている「むかしながらの中華そば」ではありませんでした。味はかなり現代風に上品になっているうえに、塩分がやや強く、どことなくやはり違うのです。
しかし、娘たちと話していて、そもそも「昔ながらのラーメン」の味というのはどんな味だったのかと考えてみると、説明はできないことに気づきました。でも今日のしょうゆラーメンはやはり違います。そもそも具も違う。器も違う。

ただし、昔の味ではなかったものの、まあそれなりに味にはうるさい私にとっても、まあまあでした。
ちなみにこれまでも何人かの人に紹介されていくつかのお店にいってみましたが、合格点のお店は見つかっていません。
たぶん私よりも味にうるさい娘たちには、私の言う「昔ながらのラーメン」はおいしいとは思わないでしょう。

ところで今日は、いささか食べすぎてしまいました。
さて今夜また、何事もないといいのですが。
この苦難を乗り越えると、私の回復も確固たるものになるでしょう。

さて明日は、そろそろ油を使った炒め物か揚げ物に挑戦です。
まあ娘が対応してくれればの話ですが。

今日はいささか食べすぎて、もう当分はラーメンや中華そばは食べたくないです。
どうして今日は、ラーメンに挑戦しようなどと思ったのでしょうか。

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2022/11/13

■節子への挽歌5462:食生活もほぼクリア

節子

雨も降っていないのに、突然2階の窓に水がかかってきました。
と同時に、孫のにこが2階に駆け上がってきました。
ユカさん、水をかけたけど届いた、と叫びながら。

最近、孫と私の関係はいささか微妙で、私が無視されることが多いのです。
私に用事がある時でも、「ユカさーん」と娘の部屋に行くのです。
困ったものです。
だからと言って、完全に無視されているわけではなく、私の言うことは聞いていないようで聞いていて、突然、返事をすることもあるのです。

もう一度、やるから見ていてというので、ベランダで顔を出しました。
どうせ届いてもよけられるだろうと考えて、いいよと言ったら、勢いよく水がとんできました。で結局、びっしょりになってしまいました。
にこは大喜びです。困ったものです。

にこが欲しい本があると聞いたので、本を買いに行こうかと誘ったら、連れて行ってやってもいいけど、今日は忙しいからだめだと断られてしまいました。来週ならいけるかもしれないということです。孫のほうが主導権を持っているのです。
まあ、たしかに孫にとっての時間と私にとっての時間価値で言えば、孫のほうが断然高いでしょうね。
そういうことをもっと自覚しなければいけません。

とまあ、こんな無駄な時間を過ごしながら、今日は食への挑戦を重ねました。
珈琲も大丈夫、お刺身も大丈夫、好物の柿も大丈夫、ご飯も大丈夫、ちょっとしたお菓子の間食も大丈夫。
しかし薬はまだ飲んでいます。

ちなみに体重は入院前に比べて10キロ近く減少していました。
退院直後は確か5キロ減だったような気がしますが、まだ減少していたようです。
これは維持してもいいかなと思っています。

 

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■節子への挽歌5461:久しぶりの珈琲

節子

たぶん身体は復調したようです。
自分でも心身の一体感が実感でき、また内臓も順調に動き出しているのを感じます。
少しずつですが、以前のような空腹感も感じられるようになってきました。

湯島の往復でも貧血気味で倒れそうになることもなくなりました。
昨日も先日と同じように、駅で乗り換えるときに長いエレベータを歩いて登り、電車に乗りましたが、大丈夫でした。
ただなんとなくまだお腹の不快感は時々ありますが、これはたぶんに「意識的」なものでしょう。あの時の苦しさの思いからまだ完全には解放されていないようです。

今朝は3週間ぶりに珈琲をマグカップにたっぷり一杯のみました。
まあ牛乳をちょっと余分目に入れたので、あんまり珈琲とはいえませんが。
今日は前回失敗した「刺身」に挑戦し、明日はできれば、これまた封印していた「ラーメン」に挑戦したいと思っています。昔風のラーメンですので、まあ大丈夫でしょう。
2回も失敗しているので、これ以上は失敗したくはありません。慎重を期しているわけです。

私の友人の中でもとびぬけて理性的で決してぶれることのない平田さんがこんなコメントを書き込んでくれました。

心不全の度重なる入院でも、退院してから日常生活に適応するまでが、やはり大変ですね。ゆっくり養生してください。
平田さんが言うと、心底心に響きます。
素直に「養生」したくなるから不思議です。

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■11月オープンサロンのご案内

11月のオープンサロンを次の通り開催します。
いつものように、テーマのない、出入り自由なサロンです。

なにかみんなと話し合いたいテーマがあれば、自由に話題提供してください。
話したいことがある方もない方も、どなたも歓迎の気楽なサロンです。
事前の申し込みも不要です。
気が向いたら気楽にどうぞ。

〇日時:2022年11月21日(月曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス(名前を変えましたがいつものところ)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円

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■仕事と生活のどちらに基軸をおくのか

昨日、湯島で「在宅ワーク」を切り口にした「働き方を考えるサロン」の2回目を開催しました。1回目は「企業で働くこと」を切り口にしたのですが、この時にも大きな示唆をもらったのですが、今回は、私には「目から鱗」の気づきがありました。
問題提起してくださった山本紀与さん(株式会社キャリア・マム)に感謝です。

サロンの報告は改めて行いますが、その気づきについて少しだけ書き残しておこうと思います。と言ってもたぶん文字にしたら、なにが「気づき」なのかと思われるでしょうが。

私は近代産業革命以来の経済や社会のあり方に違和感を持ち続けてきています。
その基本にあるのは、金銭労働だからです。人間にとって楽しいはずの「働くこと」が、金銭を得るための退屈な「作業労働」に貶められてしまったからです。
生活の場と働く場が切り離され、工場(あるいは事務所)に9時から5時まで集められて、生活から切り離された「仕事」をするのが、そこでの働き方の基本モデルです。
盛んに言われていた日本での「働き方改革」も、その発想の枠の中での取り組みでした。
そこでは、「働くこと」が生きるための目的になっていて、苦肉の策として、ワークライフバランスというおかしな言葉が出てきましたが、所詮は、働くために生きる「生き方」が基本になっていました。

ところが、昨日のサロンで「在宅ワーク」の話をしていて、在宅ワークの発想には、この近代労働モデルを変えていく力があることに気づきました。
つまり、定められた勤務時間に一か所に集められて、生活を忘れて働くのではなく、自分の生活の拠点をホームベースにして、働く時間も生活を基軸に自分で割り振りできる働き方が可能になってきたと言うことです。

私は、「シャドウワーク」とか「アンペイドワーク」という言葉にも違和感を持っています。そうした発想は、金銭経済の思想を基本に考えているからです。
まえに、「お茶くみ仕事」にこそ価値があるということを書きましたが、ほとんどの人はそれに反対していました。私にとっては、そう言う人こそ、金銭至上主義の流れに加担しているように思えているのですが、なかなかそのことは通じ合えません。

働き方を考えていくと、生き方や社会のあり方につながっていきます。
このテーマのサロンは、来年もさらに続けていきたいと思っています。

中途半端な書き込みですみません。
ただ私は、働くことが楽しい社会になってほしいのです。
学ぶことが楽しい社会にも。

 

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2022/11/12

■友人の石井よしたかさんが松戸市の市議会議員に立候補するようです

一時、「地域主義」や「地方の時代」が盛んに叫ばれた時期があります。
私もその流れに共感し、これで日本の政治も経済も変わっていくかもしれないと期待したものです。私ができることにもささやかながら取り組みました。
しかし残念ながらその流れはいつの間にか反転してしまいました
その流れが、また始まりだしたような気がしています。

来週から千葉県の松戸市で市議会議員選挙が始まります。
私の友人の石井よしたかさんも、今回挑戦するようです。
石井さんはこれまでも地道な地域活動をやってきています。
http://yoshitakaishii.com/

石井さんを紹介してくださったのは、私の古い友人の中田京さんです。
中田さんは、基礎自治体議会に女性議員を増やす活動などをしていて、私もその応援団でした。
残念ながら中田さんは松戸市の市議会議員在職中に急逝されました。
その10日ほど前に、中田さんは地域政治をテーマにした湯島のサロンに参加してくださり、今期で議員はやめるが、あとは石井さんに期待したいのでよろしくと頼まれました。まるで彼女の遺言のようで、ずっと気になっていました。

石井さんとの付き合いももうかなり長くなりました。
自分たちが住んでいるまちに軸足を置いて、生活のための政治を地域から始めようとしている石井さんを応援していきたいと思っています。
松戸市にお住まいの方、もしご関心があれば、ぜひ石井さんに会ってやってください。
石井さんは初めての選挙なので、まだご存じない方も多いと思いますが、私は彼の生き方や考え方に共感しています。
私が住んでいるところではないので、投票権は私にはありませんが、石井さんの考え方や生き方に共感し、応援しています。

日本はやはり地域から、生活者から、生まれ変わらないといけないという思いがますます強くなってきています。
政治も経済も、私たち「生活者」の手に取り戻さないと、ますます生きづらい社会になりそうで不安です。

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■節子への挽歌5460:「精密さ」と「緩やかさ」

節子

ようやく自分が戻ってきたような気がします。
まだ完全ではないのですが、いままでなにか一体感がなかった身心がまとまった感じがするのです。
食生活の注意はまだ必要でしょうが、もう基本的には大丈夫でしょう。

この数日はいろいろと考えることが多かったですが、改めて身体の精密さと緩やかさとへの実感が高まりました。
そして「精密さ」と「緩やかさ」はセットのものなのだということにも気づきました。
これは身体もそうですが、精神や思考も同じように思います。
もっと早く気づいていれば、生き方もかなり変わっていたかもしれません。
しかし、知るべきことは知るべき時に知るものだと最近は考えるようになっているので、この時期に私がそれに気づいたのも、それなりの意味があるのでしょう。

いずれにしろ気分的にはかなりすっきりしました。
ちなみに節子の闘病時のこともいろいろと考えました。
その時の私の対応にはたくさんの反省と後悔がありますが、しかしにもかかわらず、たぶん節子は幸せだったようにも思います。
そう思わないと自分が苦しくなるからかもしれませんが、それだけではないと思います。
この3週間は、私にはとても意義ある3週間だったようです。

今日は湯島サロン再開の日です。
一昨日の帰路のようなことはもう起こらないでしょう。

安心してください。

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2022/11/11

■節子への挽歌5459:アーユルベーダのアドバイス

なにか食欲がわくようにと思い、ユカと一緒にスーパーに行ったのですが、何を見ても食欲がわきません。困ったものです。
で結局、FBで友人が教えてくれた、アーユルベーダの食欲増進メニューや食後の消化促進メニューのための食材を購入してきました。
友人はこう教えてきてくれたのです。

ヨガは、医療費を払えない社会階層のためにインドで発達した健康法ですが、アーユルベーダはインドの各地方の王様たちのために発達した医療です。食欲がない時は、生姜を刻んで、ハチミツ(熱処理してないもの)とレモン汁と混ぜたものを食する。食後の消化のためには、クミンパウダー、コリアンダー、ジンジャー(何れも粉のスパイス)を混ぜて、熱い白湯と共に服用します。これらは、私にはとても効きました。
佐藤さんは、「王様」ですから、どうぞお試しください。

私が「王様」というのはどういう意味でしょうか。
まああまり詮索せずに、ともかくまずは試してみるのが大事です。

残念ながら熱処理していない蜂蜜が手に入らなかったので、前者はだめでしたが、夕食後、後者を作ってみました。
ところがこれが強烈なにおいで飲むのが一苦労です。
まあ一言で言えば、近くの時々行くネパールカレーの「ハリオン」の料理のにおいなのです。そのにおいに刺激されて、もしかしたらカレーなら食べられるかもしれないと思ったのですが、その飲み物を飲んでいるうちになんだかカレーにぎっつりしてきてしまい、逆に食欲は消えてしまいました。
困ったものです。

でもまあ消化促進には効果があるのかもしれません。
信ずれば裏切られることはないでしょう。

ちなみに今日は、午後もちょっと出かけたのですが、体調はかなり正常化してきています。ただ今日もまだ時々立ち眩み状況になります。ユカは貧血気味なのだというので、鉄分とマルチビタミンのサプリメントを飲むことにしました。
まあいろいろと失策があったので、ユカの指示には従わなければいけない状況です。

いまのところ回復は順調です。

 

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■湯島サロン「死刑制度について考える」のご案内

湯島のサロンでは久しぶりですが、「死」を切り口に3回のサロンを開くことにしました。
3つの切り口は「死刑」「安楽死」「自死」ですが、テーマは「死」ではなく「よく生きる」です。いずれにしろ重いテーマですが、重くならずに前向きに話し合えればと思います。

1回目は「死刑制度」を選びました。

かつて、あるテレビ番組で「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者からの問いかけにみんなうまく応えられなかったことが話題になったことがありますが、まずはそこから入りたいと思います。ただ、正面からそこに入ると噛み合いにくいように思いますので、比較的話し合いやすい「死刑制度」を切り口にしました。

死刑制度に関しては、世界的には廃止の方向に動いていますが、日本ではまだ廃止されていないばかりか、執行も行われています。しかもあまり議論は行われていないようにも思います。最近ではとんでもない発言が法相から出されてもいます。
死刑制度には、反対する人も支持する人もいるでしょうが、それぞれの理由を出し合いながら、そこから「人の生と死」の問題を考える出発点を確認し合えればと思っています。

重いテーマですが、単なる制度論としてではなく、自らの「善い生き方」、さらには「安楽死」や「自死」の問題にもつながるような形で話し合えればと思っています。
ぜひ多くの人の参加をお待ちしています。

なお、2回目以降の「安楽死」「自死」に関して、問題提起してくださる方がいたら、ご連絡ください。
まだ問題提起者は見つかっていません。
よろしくお願いします。

〇日時:2022年11月27日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「死刑制度について考える」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5458:奥様の分も長生きしてください

節子

今日は久しぶりになんとなく安心した気分で目覚めました。
昨日はさすがに疲れましたが、いろいろと動いたせいか、私の内臓がまた動き出していることを時間できるようになったのです。

もちろんこれまでも動いているわけですが、どうも一昨日くらいまでは、身体と意識が距離を持ち始めたような、しかも内臓自体がそれぞれバラ騾馬らになってしまっているような気が、なんとなくしていたのです。
しかし、昨夜当たりからそれらがまた一体になったようで、気分的に安心したというわけです。
こういう話をユカにしましたが、まったく理解できないと言っています。まあ、私自身もあんまり理解できない気分ではありますが。

朝、パソコンを見たら、たくさんの人からまたメールやアドバイスが届いていました。
昨日の研究会に来てくれた人は、私が入院前よりも元気そうだったとみんなに報告してくれていました。
そのほか、食欲を回復するための食事療法などいろんなアドバイスもありました。
感謝しなければいけません。
こういう人たちのおかげで、節子がいなくなった後も、なんとか私は生を維持できているのです。

節子も知っている神戸の福田さんが、奥様の分も長生きしてくださいと書いてきてくれていました。
こういう言葉が、私には一番弱いのです。
まあこれからはもう少し健康に気をつけようかと思ったりしています。

今日もいい天気です。
今日は休養日にしているので予定はないのですが、近くのスーパーがシニアデイで私が行くと5%引きなので、ユカに頼んで出かけてみようと思います。
なにか食欲のわくものが見つかるかもしれません。

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■節子への挽歌5457:救急車を呼びましょうか?

節子
昨日の報告です。

昨日の湯島での生活事業研究会は無事終了しました。
参加者は5人と少なかったのですが、とても充実した話し合いができました。
参加者も、私が思ったよりも元気なので安心したと喜んでくれました。

そこまではよかったのですが、帰りにちょっとした事件がありました。
昨日はまだ食事に不安感があったため、昼食もヨーグルト一つですませましたし、コーヒーも自重しました。それもよくなかったのかもしれません。

元気に湯島を出て電車に乗りましたが、急ぐ必要もなかったのですが、乗った電車が我孫子行きではなかったので、北千住で乗り換えようと思ってしまったのです。
ところが乗り換え時間が少なくて、北千住の長いエレベータを周りの人に連れられて、駆け上がることになりました。何とか停車中の常磐線に乗り換えられたのですが、平日なので混んでいいました。車内でホッとした途端に、なんだか立ち眩み状況になり、目の間がぼんやりしてきてしまいました。このままだと倒れかねないと思い、マスクを外し深呼吸を繰り返し、なんとか乗り越えましたが、かなりつらい時間でした。しかし何とか次第に収まり事なきを得ました。

我孫子駅に着き、ホームで少し休めばよかったのですが、娘に迎えに来てもらっているので、大丈夫だと思い、出札口に向かいました。
ところがそこでまた立ち眩み。思わずしゃがみ込んでしまいました。
なぜか気づいた若い駅員が出てきて、救急車を呼びましょうか、と声をかけてくれました。それほど悪い状況だったのでしょう。

30秒ほど静かにしていたら視界が晴れてきました。
大丈夫ですと言って、出札しましたが、いささか危ういことが2回もあったわけです。
娘は、我孫子について安心して気が抜けたのではないかと言います。なんで乗り換えたりしたのかとまた叱られました。どうも病後の自覚がない、と。
空腹のために貧血気味だったのかもしれません。
でもまあ何とか自宅にたどり着き、30分ほど休んでいたら元気になりました。

というのが昨日の報告です。
でもその後、元気になり、夕食も初めておかゆをやめて普通のご飯に挑戦しました。
いささか危険かなと思いましたが(いささかの危険がないと人生は楽しくありません)、お腹も不調にならずに、今朝になりました。

幸いに、お腹が動き出した気配を感じられるようになりました。
もう大丈夫でしょう。まあこの言葉もすでに何回か使いましたが、今度こそ。

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■国家が人間をどう捉えているかを象徴するのが「死刑制度」

葉梨法相の「(法務大臣は)死刑のはんこを押す、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職」発言が問題になっています。
この発言の意味が岸田さんはじめ閣僚には全くわかっていないようなのが恐ろしいです。

法治国家の法は国民を統治していくための基準です。
国家(政府)が人間をどう捉えているかが象徴されているのが「死刑制度」です。いわゆる先進法治国家で死刑制度を法に取り込んでいる国はわずかしかありませんが、日本は制度のみならず執行も行われている稀有の国です。

要するに、日本の法体系は、個々の人間の生命よりも国家の秩序を優先しているわけです。こういう思想の元では、戦争において兵士の生命は国家制度よりも優先されます。
しかも、こうした思想は、政府だけではなく、日本国民の多くが共有している思想かもしれません。

葉梨法相の発言を咎めない岸田首相は論外として、そんな人が参加している政府の閣僚に留まることを恥じる閣僚がだれも出てこないことに恐ろしさを感じます。
発言にはその人の思想が象徴されます。ですから、発言を咎めるのは単なる「言葉狩り」ではないのです。葉梨さんは即刻議員をやめるべきだと私は思います。こういう人が国民を戦争に向かわせるのですから。

私の突然の入院で遅れていましたが、死刑制度に関するサロンを今月下旬に行う予定です。ぜひ多くの人に参加していただき、死刑制度について話し合ってみたいと思っています。葉梨さんにも参加してほしいものです。

 

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2022/11/10

■節子への挽歌5456:3週間ぶりの湯島

節子

昨夜は何事もなく、無事目覚めました。
今日は3週間ぶりの湯島です。
朝の食事も飲み物中心で大事を取りました。

予定よりも早く家を出て湯島に無事つきました。
先月から、あの58段の急階段が改装のため工事中でしたが、まだ壊したままでした。
代わりに最近はその横にサミットに行くエレベータができているので階段を通らずとも上に行けます。これは今日のような時には大変助かります。

長いこと行かなかったので、部屋の様子が心配でしたが、水に入れていたコリウスは元気でした。
計画ではそこでメダカを飼おうとしているのですが、そのメダカは残念ながら2匹だけが元気でした。数年前からのシニアメダカは、2匹とも元気でした。

ベランダの植物もあまり変わりはなく、3週間前とはそう違っていないようです。
ホッとしました。

今日は生活事業研究会です。
久しぶりに1時間は話す予定ですが、大丈夫でしょうか。
昼食も何か起こるといけないので、ヨーグルトだけにしました。

さてさてどうなりますか。

 

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■退院後の自宅養生で考えたこと

入院中に考えたことをFBにアップしたら、それを読んだ娘から、退院後の自宅療養で考えたことも書けと言われました。娘には大変な負担をかけているからです。たしかに、私自身も退院後が大変でしたし、娘はさらに大変なのです。
もちろん娘は皮肉を込めて言っているので、書くことは望んでいないでしょうが、素直な私は書くことにしました。

何が大変かと言えば、やはり食事です。
一応、退院時に栄養士にいわれた通りのことには注意していましたが、ちょっとした油断で大変な状況になってしまうのです。特に内臓系の病気の場合、退院後の食事は大変です。食事指導を実際に個人に当てはめるのはそんなに簡単なことではありません。個人の好みもありますが、食はそれこそ個人によって全く違うのです。ただ脂っぽいものをやめるとか甘いものや刺戟性のものは避けるというような話ではないのです。

それに多くの場合、食生活は3度の食事だけとは限りません。
また私の場合のように、1週間も点滴投与で絶食していた場合、慎重に戻していかないといけないでしょう。退院したから入院前と同じような食生活に戻れるわけではありません。

あまりに自分の恥をさらすのもと思い書いていませんが、実のところ、2回も失敗があり、いささか食事不安症になっているのです。
そのうち、一回目はかなりひどい状況で、悪夢のような一夜を過ごしました。事情を知っている友人からは再入院を勧められましたが、入院嫌いな私は自力で頑張りました。それで娘は大変だったわけです。私も実に苦しい数時間でしたが。病気は当人よりも周辺の人が精神的には大変なのです。

生活リズムもなかなか取り戻せません。
病院ではやることもないので、院内の散歩やラジオ体操もやっていましたが、自宅では時間をつぶすことはいくらでもあり、生活リズムをとるのは難しいのです。
それに自宅だとどうしてもわがままになります。特に私のように、「家族は迷惑をかけ合うのが当然」という思いを持っている場合、ナースでもスタッフでもない娘は大変です。「来世でお返しするから」と言ったら、「もう来世は関わりたくない」と言われてしまいました。さもありなんと思います。

そうは言うものの、家族関係はお互いの行動に根強く埋め込まれています。介護疲れや介護トラブルの事情が少し実感できるような気もします。当事者は本当に大変なのです。
これは知識や理屈の話ではないのです。

娘から指摘されて私が気づいたのは、私の生活がいかにいい加減だったかということです。そういう意味では、生活を見直すいい機会になりました。

最大の教訓は、やはり同居している人がいることの心強さです。
最近独り暮らしの友人知人が増えていますが、やはり人は誰かと一緒に住むのがいいような気がします。たしかに独り暮らしが一番気楽でしょうが、病気になった時に一番支えになるのは、一緒に住んでいる人のような気がします。
施設や家族とは違う意味での、仲間と一緒に暮らす「家」の仕組みが創り出せないものか。それこそが私が目指す「ケア・コミュニティ」の基本だなと改めて思っています。
家族ほど近すぎず、施設ほど遠くない関係が維持できる「仲間たちの住居」が構想できないものでしょうか。

 

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2022/11/09

■節子への挽歌5455:来世はもう関わりたくない

退院後、2回も食事のせいでお腹がおかしくなったために、いささか食事に関してノイローゼ気味です。
たしかに1回目は、ちょっと無理がありましたが、それでも一応は退院時の指導からは大きくは外れてはないはずです。
2回目は、さらに慎重になっていたので、まさかのまさかです。

しかし実際には、内臓が死んでしまったのではないかというような不安さえ生じた状況でしたし、何よりも苦しかったのです。
もう3度目は避けたいと思うのは当然でしょう。

そんなわけで昨日から今日にかけて、あんまり食べられずにいます。
今朝はロールパンをコーンスープに浸しながら、よく噛んで食べました。
ヨーグルトと野菜ジュースは飲みましたが、あとは恐る恐るの果物です。
おかげでいまのところお腹の調子は異状なしですが、これでは力が出てこない。
それで昼食はまたおかゆと昨夜作ってもらったナスの煮びたしなどをよく噛んで食べました。しかしどうも胃と腸がつながっている感じがしないのです。

それで散歩に出かけました。
ついでにパソコンのマウスを買おうと少し離れたケーズ電器まで往復することにしました。帰路はハケの道を帰ってきました。それぞれ約2000歩ですが、なんとか疲れずに歩けました。歩くのは大丈夫のようです。

そう言えば、水分をあまりとっていないのに気づきました。
毎朝飲んでいたマグカップにたっぷりの珈琲はやめましたし、意識して摂取していた水分も最近やめてしまっていました。それもよくないのかもしれません。
いずれにしろどうも飲食には不安になっています。

そろそろ夕食ですが、なにを食べたらいいのか。
こんな不安は初めての体験です。
今夜は何事もないといいのですが。

病後の食生活は大変です。
娘にはもはや頭が上がりません。
来世にはお返しするからと言ったら、来世はもう関わりたくないと拒否されました。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌5454:アクセス数が増えています

節子

先ほど、挽歌をアップした時に何げなく、最近のアクセス状況を見てみました。
そうしたらなんとこの数日、アクセス数が500前後になっていました。
どうしたことでしょう。

このブログはおかしなブログです。

最初は「時評」を中心にしていて、それなりにアクセス数も多かったのですが、その後、「挽歌」が加わりました。これも最初はアクセスが多く、まったく知らない人がわが家までやってくることも何回かありました。
しかし、そのうち、次第にアクセス数は減り、最近は100前後で推移していたはずです。
それが一挙に500。それも1日だけではなく数日続いています。
何が起こっているのでしょうか。
入院中に書いた記事のせいでしょうか。

このブログについての説明も以前は、冒頭に書いていました。
ビオスの私とゾーエの私とを交錯させて行きたいというような内容でしたが、プロバイダーの仕組みの変更でいつの間にか消去されていました。
ですから最初にこのブログにたどり着いた人は戸惑うでしょう。

でも少なくとも「挽歌編」は私には大きな意味がありました。
消え入りそうな生の力を、挽歌を書き続けることで持続できましたし、挽歌のおおかげで一時(いっとき)だったかもしれませんが、友を得ました。
いまではただの日記になってしまっていますが、それでも私の支えの一つです。

いまのアクセスがいつまで続くのかわかりませんが、アクセスが多いとやはり元気になります。
何よりも、節子のことを知ってくれる人が言つづける可能性が大きくなりますから。
もう少し読んでもらえるような内容にしていこうと思います。

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■節子への挽歌5453:3回目のすっきりした目覚めでしたが

退院後、3回目のすっきりした目覚めでした。

といっても完全にというわけではありませんが、自然と目覚め、自然と少し眠気を感じながら、起き上がれました。
昨夜はいささか心配して就寝しましたが、なに後もなくひとまず安心です。

空腹感もあります。
ただまだ少し気になるのは、お腹が静かすぎるのです。
静かなのはいつもなら「いいこと」のはずですが、先日の悪夢以来、どうも内臓が生き生きしていないような気がしているのです。
うまく説明できないのですが、どうも自分にして自分でない感じなのです。
そしていつまた、反乱が起こるのではないかと、食事がどうも怖くなってしまっているのです。

今日もいい天気で、これまた退院後、3回目の日の出を見ました。
昨日の皆既月食はあまり感動しませんでしたが、日の出はいつ見ても感動します。
今日は、十分に食事に気をつけて、リハビリに努め、明日は久しぶりに湯島に行くつもりです。

さてさて何事もなければいいのですが。
最近ちょっと弱気です。

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■入院して改めて感じた医療のあり方

先月、8日間入院しました。

改めていろいろなことを感じましたが、20年ほど前に考えていた「医療制度のパラダイムシフトの素人見解」を思い出しました。探してみたら、その一部が見つかりました。
http://cws.c.ooco.jp/iryou-1.htm#am

入院中に書いた「病院生活日記」を読んだ医学者の友人が、5チャンネルで放映される「トラベルナース」というのは結構好番組だと思います、とメールをくれました。

昨日、過去にさかのぼってみて観ました。米国のナース・プラクティショナー(一定レベルの診断や治療などを行うことができるナース)の資格を得た若者が日本に戻ってきて病院で活動する話です。
https://www.tv-asahi.co.jp/the_travelnurse/

そこに出てくる不思議なナースが口癖のようにこう云うのです。

医師は病気を見て病気を治す。
ナースは人を見て人を治す。

全く同感です。

入院中の8日間、医師は私に一度も診察には来ませんでした。
途中、MRI検査や3回の血液検査をしましたが、医師はそのデータを見て、ナースに指示を下すのでしょう。入院中に2回、ベッドのところに来てくれましたが(一度は退院の報告)、別に診察するわけではありません。まさに、人よりも病気を見ている。
これは今回の経験ではありませんが、診察していても患者のほうを見ずに、最初から最後までパソコンの画面だけを見ている医師もいました。私の妻はそれにとても失望していました。

入院中に、ナースやスタッフとのコミュニケーションが不十分なのも何回か経験しました。意見が違っていることもありそうです。お互いに忙しいので仕方がないのかもしれませんが、患者にとっては気になることです。

患者を見ない医師と患者の状況を詳しく見ているナースと、患者にとってどちらが頼りになるか。いやこういう病院体制でいいのだろうかと思ってしまいます。
おそらく医師の仕事の多くは間もなくAIに置き換わられてしまうでしょう。でもナースの仕事は残るでしょう。と考えれば、どの仕事が病院や医療の核になるかは明らかなはずです。

こんなことを書くと、今回、私が入院していた病院を非難しているように思われるかもしれませんが、そうではありません。病院はいずれもがんばっているのです。でも大きな方向性に、私は違和感を持っているのです。

ところで、「トラベルナース」ですが、日本でも制度導入への検討が始まっているようです。日本看護協会からも提案がなされています。
https://www.nurse.or.jp/nursing/np_system/index.html

医療のあり方が、根本から見直される時代に向かっているのがとてもうれしいです。

 

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2022/11/08

■節子への挽歌5452:ナースは人を見て人を治す

節子

入院中に書いた病院生活日記には、友人たちからいろんなコメントをもらいましたが、いまの医師中心の病院体制に異論を少し書いたら、医学者の友人から、こんなメールが来ました。

どの業界でも似たり寄ったりでしょうが、本当に自分の専門である体のことをよく知っている医師というのは少ないです。患者にとって良い医者というのはどういうものかもなかなか難しいですが、まずは専門家としての判断力が問題でしょうね。因みに本日9時から5チャンネルで放映されるトラベラーナースというのは結構好番組と思います。

まさか、この友人がこのドラマを観ているとは思っていなかったのですが、気になって過去にさかのぼってみて観ました。
たしかに私の病院医療体制の考えに見事に沿っています。

そこに出てくる不思議なナースが口癖のようにこう云うのです。

医師は病気を見て病気を治す
ナースは人を見て人を治す

全く同感です。

入院中の8日間、医師は私に一度も診察には来ませんでした。
途中、MRI検査とCT検査と3回の血液検査をしましたが、医師は診察室でそのデータを見て、ナースに指示を下すだけです。
こういう体制にはやはり共感はできません。

こういう話もありました。
同室のÅさんは3回目の入院でしたが、私が入院した時にはすでに7日間経っていました。ところがその後も5日ほど、絶食が続いていました。
ナースやスタッフが、もうÅさんはおかゆでもいいのにねと話しているのを聴きました。そしてÅさんにも、先生(医師)にも話しておくからねと言っていました。でもなかなかおかゆにはならなかったのです。
どちらが正しいかは私にはわかりませんが、そうした話しぶりから、ナースと医師の間にはコミュニケーションギャップがあるような感じを受けました。

しかし、患者を見もしない医師と患者の状況を詳しく見ているナースと、どちらが頼りになるか。いやこういう病院体制はいいのだろうかと思ってしまいます。
おそらく医師の仕事の多くは間もなくAIに置き換わられてしまうでしょう。でもナースの仕事は残るでしょう。
と考えれば、どの仕事が病院や医療の核になるかは明らかなはずです。

20年ほど前に考えていた「医療制度のパラダイムシフトの素人見解」を思い出しました。探してみたら、その一部が見つかりました。http://cws.c.ooco.jp/iryou-1.htm#am

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■節子への挽歌5451:お腹がすっきりしません

節子

あいかわらず体調は良くなく、お腹が張っている感じです。
ともかく内臓があまり動いていない感じです。

でも寝てばっかりではよくないと思い、午後は動き出しました。
手賀沼にも散歩がてら出かけましたが、歩く分にはそう大変ではない。
しかし、お腹がどうもすっきりしないのです。
何も食べないわけにはいかないので、ヨーグルトと梨と野菜ジュースを何とか口から流し込みました。
でもそれが順調に体内に流れて行っている状況がどうも実感できないのです。

これだとまた夜に苦しくなりかねない。
さてさてどうするか、名案が浮かびません。

食事療法がこんなに大変なことなのか全く考えもしていませんでした。
内臓の症状はまだ何か問題があるのかもしれません。
でもまあ改めて病院に行く元気はいまのところありません。

食欲は全くないのですが、おかしな話ですが、空腹感はあるのです。
このとても違和感のある状況は、いつまで続くのでしょうか。

 

まだまだ悪夢は続きそうです。

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■市民的不服従から市民的行動へ

岸田政権への支持率がさらに低下、ついに30%台になり、不支持率のほうが大きく上回る状況になっています。

「森の生活」で有名なヘンリー・デビッド・ソローは、29歳の時に「人頭税」の支払いを拒んで逮捕=投獄されました。友人が保釈金を出してくれて保釈された後、彼は雑誌に「市民政府への抵抗(Resistance to Civil Government)」を投稿します。後に「ソローの市民的不服従(Civil Disobedience)」として話題になった論文です。当初の「抵抗」から「不服従」へと表現が変わっています。

この市民的不服従の考えは、その後、ガンディーやルーサー・キングの非暴力抵抗論、ロールズの正義論、アーレントやハーバーマスによって深まり、さらにアナキストにも影響を与え、いまではデジタルデータやエネルギーの統治の問題へと広がってきています。そうした「市民的不服従」の考えや実践の歴史を整理してくれているウィリアム・E・ショイアマンの「市民的不服従」読みました。いささか読みにくい本ですが、世界の潮流に日本が例外的に遅れていることに気づかせてくれました。

ぜひ多くの若者たちに読んでほしいなと思い、あえて紹介させてもらいました。

ショイアマンは、抵抗と言え不服従と言っても「法の尊重」が大切だと言います。
問題は、「法の尊重」とは何かです。
市民的不服従の行動では、時に「法律」を犯すことはありますが、その法律がたとえば「憲法」に違反したものであればどうでしょうか。残念ながら日本にはそういう法律は少なくありません。法律を多田守だkでは、法の尊重にはなりません。
また、市民政府への抵抗と言いますが、その政府が「市民」を代表していないようなものだったらどうでしょう。国民の過半数が反対している政策や法律に異議申し立てをすることは、違法なのでしょうか。

私は大学で「法の精神」について学びました。
大切なのは条文ではなく精神なのです。

ちなみに、私は「市民的不服従」という表現が好きではありません。
その言葉は、統治者を基準にして発想しているからです。
単に「市民的行動」と言えばいいように思います。

そういう市民的行動をつぶすような政府は市民政府とは言えないでしょうし、法の精神にも反しているような気がします。最初から不服従や抵抗などと規定することはありません。市民的行為が広がっていくことで、法や制度が見直されていくのが市民政府でしょう。

過半数の人が支持していない政府に身を任すいまの状況をどうしたらいいのか、ぜひ、本書をじっくりと読んで考えてほしいと思います。

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■節子への挽歌5450:また学んでしまいました

節子

また学んでしまいました。
つまり「失敗」してしまったのです。
あまりの不注意にあまり書けませんが、まあ節子には正直に書いておきましょう。

昨日は順調で、もう明日からはおかゆを卒業しても大丈夫だと思っていました。
しかし夕食を終えた後、またお腹がおかしくなってきました。
そこからまた悪夢の夜が始まりました。
痛みはさほどないのですが、前のように内臓が止まっている感じなのです。
深呼吸などを繰り返し、お腹に刺激を与えようとしたのですが、前回のような「沈黙のお腹」なのです。

結局、真夜中にまたあげてしまいました。
それで楽にはなったのですが、この数時間の苦しさは何とも言えません。
あげた後は、寝てしまいました。
明け方、目を覚ます、体温を計ったら38.1度。食欲は皆無。
なんだか前回と同じです。

幸いに熱はすぐに平熱に戻りましたが、お腹は相変わらずすっきりしない。
せっかく、正常化に向かって昨日は確信を得たのですが、また振出しに戻った感じです。
まさにシジフォスの苦難。

お昼頃、起床。
今日はいい天気なので、ちょっと無理をして散歩に行こうと思います。

こんなことはフェイスブックには書けません。

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2022/11/07

■節子への挽歌5449:失敗しないと人は学ばない

節子

病後のリハビリ活動中です。
といっても、体力回復と食事生活注意だけですが。
私は基本的に住んでいるところでの散歩が苦手なのですが、今日はリハビリを兼ねての散歩でした。念のため、ユカに同伴してもらいました。

途中で、心配して自宅に見舞いに来た兄に出会い、お茶屋さんの竹山で抹茶をご馳走になりました。20日ぶりに和菓子も食べてみました。久しぶりの抹茶はおいしかったですが、コーヒーはもうしばらく自重しろと娘から厳命されています。

兄は先日、瑞宝単光章の叙勲を受けているので、その勲章も見せてもらいました。両親がいたらどんなに喜んだことでしょう。しかし私にはほとんど関心もなく、いささか申し訳ない気分です。

帰り際に畑に寄ったら、峰行が草を刈り取ってくれていました。
今日は、エヴィーバが休みなのですが、せっかくの休日なのに、たぶん放っておけなかったのでしょう。一時期、きれいになっていたのに、もうひどい状況になっていましたから。ついでに気になっていた樹も抜いてくれていました。
これで少し安心。
百日草は乱舞していますが、きれいだとは思えない状況です。コスモスは意外と少なく、やはり花も放置していたらうまくはいきません。
自然と付き合うのはやはり心を込めないといけません。

だいぶ歩きましたが、もう大丈夫のようです。
そろそろおかゆもやめたいと思いますが、まだ自信がありません。
いま私が気に行っているテレビドラマ「DOC」でも、院長が「失敗しないと人は学ばない」と語っていましたが、私の場合は特にそうです。

それにしても私の人生の後半は、失敗が多すぎます。
前半、あまりに失敗が少なかったからでしょうか。いや、実は前半の失敗のなさの認識は、ただただ私が失敗に気づかなかっただけかもしれません。

「失敗」と「成功」は、もしかしたら同じことなのかもしれません。
問題は事実をどう捉えるかなのでしょう。

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2022/11/06

■節子への挽歌5448:日常化に向けて動き出しました

節子
生活のリズムを回復しだしました。
朝のラジオ体操も復活。ただこれがかなり大変で、たかがラジオ体操なのに疲れてしまいます。体力の低下はかなり激しい。

食事は朝食はパンに戻しましたが、コーヒーはまだ見合わせています。
午前中は、しかし、一昨日読みだした「市民的不服従」の取り込まれてしまいました。
いまの私にはやはり難解ですが、そこに書かれているメッセージが何となく心に響くのです。
最近、ようやくというべきか、私の感覚に合う主張に合うことが多くなってきました。
しかし残念ながらいささか遅すぎましたが。

午後は散歩に出かけました。と言っても近くのローソンに往復しただけですが。
それだけでもしかしかなり疲れを感じます。
入院中に病気になる人が多いことがよくわかります。
いまの病院はまさに病気を創り出す場所なのかもしれません。

食事はやはり気になります。
食後、ちょっとでもお腹に違和感があるともしかしたらと心配になります。
いささか過敏になってしまっているのがわかりますが、あの苦しさを体験した後では仕方がありません。

まあ少しずつ生活のリズムも取り戻しつつあります。
いろいろと考えることも多いのですが。

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2022/11/05

■節子への挽歌5447:病院での検査結果はほぼ問題なし

節子

今日、病院に行ってきました。
脳神経外科の定期検査に入院のため行けなかったので、薬もなくなったので、行ったのです。膵炎で入院した主治医は、その時に外科にもよればいいと言っていたので、その指示に従いました。

まずは脳神経外科で診察。今回は特に検査はしませんでしたが、私が入院した時の血液検査結果は同じ病院のおおかげでシェアされていて、そのデータを見て、もう正常になっているようだと解説してくれました。
なんだか主治医よりも丁寧な説明でした。

その後、外科に寄りました。。入院時の主治医ではない人が今日の担当医でしたが、主治医に相談した結果、代わりに見ておくようにと頼まれたそうです。正直、少しホッとしました。
退院後の私の失策は説明、その話を聴いて、念のために血液検査をすることになりました。もしそれがなければただ薬を出しただけだったような気がして、なんだか拍子抜けしてしまいました。
原因も改めて確認しましたが、胆石による膵炎か脂肪性の膵炎か明確にはわからないそうです。なんだか相変わらず狐につつまれた感じでした。

改めての血液検査結果は、ほぼ正常で問題なし。ただ大事をとってもう1週間くらいはおかゆのほうがいいと言われました。
ただMRI検査の結果、ちらっと見せてくれましたが、胆嚢に胆石があるのは確認されていました。私も初めて画像を見せてもらいました。それにしてもこの病院の外科は送信?礙化とは大違いで、インフォームドコンセントなど意に介していないようです。
まあそれもわからないではありませんが、いかにも誠意を感じられません。

今回は胆嚢の摘出の話は全く出ませんでした。
代わりに、外科医からは、胃が弱っているようで、脳神経外科医が出している胃の消化薬を時に倍飲んだらどうかとアドバイスしてくれました。

それと貧血気味なので胃カメラを飲んだ方がいいとも言われましたが、ともかくしばらく膵炎の薬を飲むようにと、3か月分(次回、脳神経外科に定期検査に行くが3か月後なのです)もくれました。

まあいずれにしろそんなことで、とりあえず症状はほぼ解消したようです。
しかし、本当に入院する必要はあったのか、いろいろと疑問が出て来てしまいました。
困ったものです。

しかし、今回は私には初めての体験で、学ぶことが多かったです。
本が一冊かけそうです。

食事は少しずつ平常に戻して行こうと思います。
ただ甘いものは極力避けていくつもりです。

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2022/11/04

■節子への挽歌5446:退院は実は病気との戦いのはじまり

節子

体力は戻りませんが、体調はほぼ回復してきました。
今回の体験で、病気治療は、退院時から始まることを思い知らされました。

入院時には、もうナース任せで、自分では何もしていない。つまり治療という意識もない。
ですから、退院は実は病気との戦いのはじまりだったのです。
こう考えると、「退院おめでとう」という言葉は、あまり適切な言葉ではありません。

私も、退院と言われた時はうれしいと思ってしまいましたが、とんでもない誤解でした。
これから友人が退院した時に、「おめでとう」とは言えないような気がします。
せめて「これからが大変だからがんばって」という言葉をつけなければいけません。
いずれにしろ、気を許さないようにしないといけません。

今日は少し歩いてみようと手賀沼沿いのハケの道を少しだけ歩いてみました。
歩くのは大丈夫ですが、周辺への気の配り方や感覚がかなり低下していて、後ろから追い抜いていく自転車のドキッとすることもありました。

午後は久しぶりにちょっとハードな本に取り組みました。
最近翻訳出版されたウィリアム・ショイアマンの「市民的不服従」です。

最初はなかなか頭がついていけずに、途中でやめようとさえ思ったのですが、途中から面白くなってきました。
頭はだいぶ戻ってきたようです。

もっとも、これ以上にハードな論考が入院中に送られてきていて、それはまだ消化できずにいます。
科学と意識を統合的に把握する新しい論考です。
退院後も2回ほど挑戦しましたが、途中で挫折。
体力の低下ほどではないようですが、脳力もまだかなり低下しているようです。

でも今日は、平穏な一日でした。
病気との付き合い方もだいぶ習得できてきました。

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2022/11/03

■節子への挽歌5445:墓参りに行きました

節子

だいぶ体調が戻ってきました。
お腹の痛みや違和感もほぼなくなりました。
ちなみに食事はおかゆに戻しました。
あれほど生理的に受け付けられなかったおかゆを、梅干しやシラスなどを入れて、時間をかけて食べるようになって、拒否感はなくなりました。

今日からベッドを離れて、生活を少しずつ戻すことにしました。
でもまだあまり外出する気分はありません。
幸いに今日は、節子の月命日なので、ユカに頼んでお墓に連れて行ってもらうことにしました。病気の報告と、他にも兄が叙勲されたことの報告がありましたので。
父母は真面目な人でしたから、兄の叙勲は喜ぶでしょう。

お墓で般若心経をあげだしたら、出てこないのです。
これには驚きました。
いつもの省略版で済ませ、本堂にも報告に行きました。
ちなみに今回は、畑に咲いていた百日草などの花をユカに取ってきてもらい、それを供えました。

お墓で少し歩いただけですが、それでも疲れを感じます。
やはり体力はかなり低下しているようです。

食事も注意しながら少しずつ増やしています。
甘いものはやめた方がいいと言われているのが私にはいささかつらいです。
でも少なくとももう1週間は、厳禁です。
あの苦しさはもう味わいたくはありませんので。

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2022/11/02

■節子への挽歌5444:沈黙のお腹から音が聞こえてくる

昨日も一日、寝ていましたが、今朝、お通じがありました。
気分的に楽になりました。

入院中は病気のことなど全く意識していなかったのですが、お寿司でお腹がまたおかしくなっていら、急に精神的に弱気になってしまっていました。
ですからお通じが3日ほどなく、お腹も沈黙してしまった状況は、私にはとても不安でした。
時々、深呼吸を繰り返して、お腹の私を元気づけていましたが、どうにも反応がない。

実は、私の状況を心配してくれている友人が、「体の不調があるときには特に「流れ」は役に立つ概念ですね」と言ってきました。
彼は医学関係の大学教授でしたが、私のことを心配して、いろいろと元気づけるメールを送ってきてくれるのです。
このメールは、実は私がこの2日間ずっと感じていた「身体の流れが止まっているような不安」を感じ取ったメッセージのような気がしましたが、このメールを読む直前にお通じがあったのです。
私が安心したのは、通じがあったことで、体内の流れは通じていると思ったのです。ということは、それぞれの内臓もシステムとして動いてくれている。

友人はこうも書いてきていました。

体はよくできているのですが、精密な機械のようなものですから普段からの手入れが大切です。

まあ、これは身体への気遣いのない私へのお叱りでもあるのですが、この言葉も私の心にはかなり響きました。本当にそう思えたのです。

しかしお通じがこんなに気分を安定させるものだと驚きました。
それでひとまず安心だと判断できたのです。

実は排便のある少し前からお腹の音が聞こえるようになりました。
沈黙のお腹から音が聞こえてくる。これはとてもうれしいものです。

こうしたちょっとしたことから、いろんなことを気づかせてもらいました。
思考も、環境問題や例の世界に至るまで、かなり飛んでいた気がします。

少し先行きが見えてきました。
もう大丈夫でしょう。

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2022/11/01

■節子への挽歌5443:再入院に値する事態

節子

悪夢の夜の後、苦しさはなくなりましたが、ほぼずっとベッドで寝ています。
起きる元気がなくなってしまいました。
しかし、久しぶりによく眠れました。

私の状況を心配して、それぞれ別の意味で病気にも詳しい2人の友人から電話とメールは何回か入りました。
ついつい私のバカげた失策を開示してしまいました。

一人は、それは再入院に値する事態だと言い、もうひとりは、膵臓も肝臓もやられる恐れがあるので手遅れになる前にともかく病院に行けとアドバイスしてくれました。
そう何回か言われると、なんだかそうかなあという気もしてくるのですが、まあ死の危険を冒しても再入院は避けたいという気分のほうが強く、このまま様子を見ることにしました。
昨日からずっとベッドで寝ていますが、意外と眠れるものです。

お腹の苦しさはほぼなくなりましたが、時々、痛みが走ったり、動くとイタッと声が出るような状況はまだ続いています。
一番の不安は、お通じがないことです。
内臓がまだあまり動いているような気がしないのです。
音もしない。まるで死んでしまった身体のようですが、まあ時々痛みを感ずるのは生きている証拠でしょう。

しかし、ずっと寝ながら考えているといろんなことを考えます。
節子もこうだったのでしょうか。
まあ今回の病気が始まってから浮かんできた問いの一つは、誰が一体お腹の痛みを感じているのだろうか、ということです。
今日も時々、この問いを考えていましたが、答えは見つかりません。
少なくともこの文章を書いている私ではないような気がしていますが。

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