■第19回益田サロン「人間の知能がジフテリア菌の毒素に似ているか」報告
今回は、「知能は毒素か?」というのは刺激的な問いかけのサロンでした。
益田サロンではよく話題になりますが、ジフテリア菌は宿主である人体を破壊することはありません。ところがジフテリア菌のなかに寄生しているファージが持つ毒素が人体を破壊してジフテリア菌に栄養を提供する結果、ジフテリアが発症。結果的にファージとっての宿主であるジフテリアの環境である人体を壊してしまうわけです。
益田さんがよくいうように、「環境あっての生物」ですから、生物は環境を壊すようなことはしないのですが、結果的にジフテリア菌の環境は自らが寄生させている毒素を保有するファージによって壊されるように見えます。
でも果たしてそうなのか。
そもそもジフテリア菌はなぜ負担になる毒素を寄生させるのか。「毒素」もまたジフテリア菌にとって積極的な意味があるのではないか。毒素がひき起こすことはジフテリア菌にとっても積極的な意味があるのではないか。いろんな疑問が生まれてきます。
益田さんはそうしたことを明示的にはあまり語らず、参加者に考えさせるのです。そこが益田さんの魅力です。
さらに益田さんは、人間社会に目を向けて、この関係を「脳と知能」に置き換えて考えたらどうなるかと問いかけます。ジフテリア菌の毒素が人体を壊すように、人間の知能もいま、宿主である人間の環境を壊してきているのではないか、というのです。
この問いかけの意味は深くて広いので、そう簡単には答は見出せませんが、今回のサロンはその入り口でいろいろと話し合ったような気がします。
話し合いの内容はなかなかうまく紹介できませんので、いつものように私が感じたことを少し紹介させてもらいます。
益田サロンでの私の関心は2つあります。「自己と非自己」と「生物と環境」です。
益田サロンは「環境あっての生物」というところから始まっています。私たちは環境を捉え違いしているのではないかということを、これまで益田さんはいろいろと示唆してきてくれています。
私は益田さんが時々描く、生物と環境の同心円モデルが好きなのですが、生物を取り巻く円を環境と捉えるととてもわかりやすいのです。
ファージの環境はジフテリア菌であり、ジフテリア菌の環境は人体というわけです。このように、「生物と環境」の関係は幾重にも広がっていくので、幾重にも重なる同心円モデルになるのです。
そして生物は自らを包みこんで守ってくれている環境には決して「悪さ」はしないのです。でも時々、包みこんでくれている環境の外にある環境(例えば毒素にとっての人体)には「悪さ」をしてしまう。つまり「遠い環境」と「近い環境」との関係はちがうのです。でも大きな視野で考えると、遠かろうと近かろうと「環境」ですから、それも「悪さ」ではないのかもしれません。今回のサロンでの示唆の一つはここにあったような気がします。
「環境あっての生物」はまた、「生物あっての環境」と言えるかもしれません。生物は環境と没交渉ではありませんから、必ず環境に影響を与えていますし、環境もまた自らが含んでいる生物を前提にして自らを創り出しています。
言い換えれば、「環境が生物を創り出す」とともに、「生物が環境を創り出している」。それは昨今の地球環境問題を考えればわかります。
これに関しては、益田さんは、大学教授引退後、それまで自らの環境だった研究室がなくなったため、新しい環境を探して創り出してきたような話をしましたが、これもとても示唆に富む話です。コウモリに安住していたコロナウィルスが環境を失いさ迷い出てきたとか、人体の中で静かに存在していた帯状疱疹ウイルスが宿主の人体が危うくなりだすと活動し出すとか、こんな話にもつながっていく気もします。
今回、「本来の環境」という言葉も出てきました。この言葉はこれまでも出てきてはいますが、この「本来の環境」と「非本来の環境」を考える準備もだいぶできてきたように思います。生物にとって「本来の」とはどういうことか。
今回、もう一つ気づいたのは「外なる環境」と「内なる環境」ということです。これは同心円モデルを考えればすぐわかりますが、生物は外と内に環境をもっています。しかも面白いのは、人体とジフテリア菌と毒素でわかるように、外なる環境と内なる環境は見事につながっているのです。これも「環境」を考える上で重要な視点だと思います。
地球環境問題を考える時にも、もっと「内なる環境」を考える必要があると思います。
安定のための環境と発展(変化)のための環境という捉え方も面白いかもしれません。安定にこだわっていても環境は変化していきますし、寿命のある生物はどこかで限界がきます。その限界を克服して、新たな安定を求めるためには、環境の捉え方を変えないといけません。身体が衰えだした時の帯状疱疹ウイルスの動きから学ぶことは多いように思います。
もしかしたら、ジフテリア菌の毒素も、それをやっているのかもしれません。自らの宿主は死んでしまっても、それを契機に新たな宿主の世界を広げてくれるからです。
自己と非自己も環境とかかわっています。非自己も環境だからです。しかしジフテリア菌で言えば、自らの宿主である人体を滅ぼしてしまい自らは滅んでも、それによって仲間のジフテリア菌は大きな栄養を得ることができ、さらに新しい宿主との接点をつくってくれるとしたら、決して無駄死にではありません。自分を犠牲にすることで、自らの仲間(自分たち)を増やしていくという視点から「自己」を考えると、「自己」の概念もまた変わってきます。これも安定した時の自己と発展深化する時の自己の捉え方の違いと言えるかもしれません。
たくさん書いてしまいましたが、環境と生物、さらに自己の捉え方に関してたくさんの示唆を与えてくれたサロンでした。
益田さんの話をいささか膨れさせ過ぎたかもしれません。しかも益田さんの意図から外れてしまっている可能性も大きいです。なにしろ私は、益田サロンの劣等生ですから。
次回は破傷風菌を切り口に、改めて「自己とは何か」を問題提起してくれることになりました。今回の話とつながっていくように思います。
いつもながら勝手な報告ですみません。
報告したいことが次から次へと出て来てしまい、長くなってしまいました。
その割にサロンでの話の肝腎な内容が抜けていて、益田さんに叱られそうです。
| 固定リンク
「サロン報告」カテゴリの記事
- ■湯島サロン「沖縄/南西諸島で急速に進むミサイル基地化」報告(2024.09.15)
- ■湯島サロン「秋の食養生」報告(2024.09.14)
- ■湯島サロン「サンティアゴ巡礼に行きました」報告(2024.09.06)
- ■湯島サロン「『社会心理学講義』を読み解く②」報告(2024.09.03)
- ■近藤サロン②「ドーキンスの道具箱から人間社会の背後にある駆動原理を考える」報告(2024.08.29)
コメント