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2022年12月

2022/12/31

■節子への挽歌5500:静かな大晦日

節子

2022年もそろそろ終わりそうです。
今年もユカががんばってくれているので、私は何もせうにのんびりと年越しを迎えています。

節子がいなくなったので、お正月料理もお正月の花も、すっかり地味になりました。
今にして思えば、節子がいた頃のお正月は、まさに「ハレ」でしたが、いまは来客もなく、地味なものです。
孫家族もお正月は峰行に実家に行きますので、お昼をみんなで一緒にするくらいですので、料理を食べている時間もあまりありません。

わが家ではかつてはお正月は毛ガニがメインでしたが、最近はあまりに高くなったので、もう手が出なくなりました。
昨年は毛ガニに変わってタラバガニだったような気もしますが、今年はカニではなくて、めずらしくステーキになりました。
山形肉と岩手肉をユカが用意してくれました。
後は紅白なますとお煮しめと簡単なおせちです。
今年は栗きんとんに代わって、ユカがリンゴきんとんを手づくりしてくれました。

今までは大みそかにはホームページを新年版に変える準備など、いろいろと大変でしたが、最近はホームページの更新もさぼっているので、何もやることはありません。
年末年始のテレビにはほとんど関心がないので、明日の料理の試食も含めて、年越しそばを食べて早々と寝る予定です。
明日は晴れそうなので初日の出も見られるでしょう。

今年はいろいろとありましたが、まあよい一年でした。
しかし年々、私も彼岸に近づいているのを実感できるようになってきています。
歳を重ねる意味がだんだん分かってきたような気もします。

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■節子への挽歌5499:今年最後のお墓参り

節子

家族みんなでお墓に掃除を兼ねて挨拶に行きました。
わが家がお世話になっているのは真言宗豊山派の久寺家にある宝蔵院です。
一昨年、突然思い立って相馬霊場巡りをした時の最終目標地でもありましたが、1日で挫折。リベンジには至っていませんが、来年は再挑戦しようと思います。

本堂にもお参りしましたが、今夜の除夜の鐘の用意ができていました。
昨年はコロナで中止でしたが、今年は復活のようです。
むかしは近くに住んでいたので、家族みんなでつきに来たこともありますが、最近は遠いので来たことがありません。
そのうち、ここに転居する予定ですが、どうも予定よりも先になりそうです。
もう少し待っていてください。

心を込めて平和の世界を祈願しましたので、来年はみんなにとって良い年になるでしょう。私にとっては、どういう年になるかわかりませんが。

墓地もにぎわっていました。
うれしいことです。

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2022/12/30

■節子への挽歌5498:一足早いお年賀

節子

昨日は湯島で今年最後のサロンでした。
いろんな人たちが来てくれましたが、予想外に一足早いお年賀を持ってきてくれた人が2人います。
いずれも女性ですが、その理由は、サロンで話をする機会をもらったことへの感謝の思いだそうです。
これはとてもうれしい話です。

何がうれしいかというと、普通はサロンで話をしてもらったのですから、むしろ御礼をすべきは私の方です。にもかかわらず、ふたりとも逆に私に感謝している。
これこそ私が目指している人と人の関係なのです。
そういう私の思いをきちんと受け止めて理解してもらえたことがとてもうれしいのです。

サロンはとても不思議な場です。
たとえば、隔月で続けてくれている升田さんと益田さんは話をする立場なのに必ず会費を払ってくれています。
会費と言っても自主的にワンコインをボックスに入れていく方式ですので、払っても払わなくてもいいのですが、たぶん毎回入れているはずです。
これも世間の常識の反対です。
どこかで講演すれば謝礼をもらえるはずなのに、自分で毎回資料までコピーしてきたうえに会費も払う。とてもうれしい話です。

参加者全員が払うわけではありません。忘れる人もいますし、中には掃うのを好まない人もいます。でもそれもまたそれでいい。そこがサロンの面白さです。いろんな人の人柄が見えてくる。

今年は何回のサロンをやったでしょうか。
いちばんたくさん参加しただろう鈴木さんは、今年は63回参加したと言っていました。

来年もこんな感じでサロンをつづける予定です。

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■節子への挽歌5497:畑からの贈り物

節子

お正月のおなます用に、畑に育っているはずの大根を収穫してきました。
ユカに合格点をもらえるかどうかいささか心配でしたが、なんとか太く育っていました。
しかし土の掘り起こしが不足していたのでしょうか、長さがあまりありません。

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これではだめかなと思いましたが、なんとかユカから合格点をもらえましたので、お正月のなますは畑からの贈り物を使わせてもらえることになりました。
年の最後に贈り物をくれた畑に感謝しなければいけません。
ちなみに最近はユカもなますが大好きになって、お正月には欠かせないものになっているのです。

久しぶりに畑に行ってきましたが、まあ悲惨な状況で、手の施しようもありません。
花のタネは数か所に播いておいたので、春になると芽吹くかもしれませんが、それ以上に野草が元気なのでいささか心配です。
それに見逃していた桑の木が大きく育ってしまい、のこぎりを使わないと対処できません。

来年はここは使えるかどうかわかりませんが、今年はいろいろとお世話になりました。
まあ形の上では世話をしたのは私の方ではありますが、私の感覚では世話になったのは私の方なのです。

自然と付き合うと物事の判断基準が大きく反転することがあります。
長年、土(自然)としっかりと共生してきたことに、日本人の価値観は大きく恩恵を受けていると思いますが、そうした文化も今急速に失われているような気がして、とても残念です。
多くの人が自然ときちんと付き合っていたら、目先の私欲に負けた生き方はいまほどには広がらず、暴力的な社会も生まれてこなかったような気がします。

新渡戸稲造の武士道神話などというバカげた創作も生まれなかったでしょう。
日本の真髄は武士道などにではなく、百姓精神にこそある、と私は思っています。

 

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■2022年最後のオープンサロンの報告

今年最後のオープンサロンは、いつもより長い3時間を予定していましたが、結局、いつもと同じく1時間も延びてしまいました。

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体調を崩している沖さんがお元気そうな顔で参加してくれたのはうれしかったですが、治療のためということで中座されました。沖さんの生き方も見事なので一度サロンをやってほしい気がします。

サロンによく来る人が、しばらく顔を見せないととても気になります。サロンのつながりは、いわゆる「ゆるいつながり」を目指していますので、気になりながらもあまり詮索をしないのが私のルールですが、気になっている人が元気そうに顔を見せてくれると正直とてもうれしいのです。

コロナでサンチャゴ巡礼ができなくなった鈴木さんは、今年は63回もサロンに参加したそうです。そんなにサロンをやったのかと我ながら驚きます。たくさんのサロンが開催できたのもみなさんのおかげです。ありがとうございました。

オープンサロンは、テーマサロンと違って、参加者が勝手に話しますので、話題はさまざまです。時にはグループに分かれての話し合いになることもありますが、今回も一時、収拾がつかないような状況に陥りましたが、それもまたお^-分サロンならではです。
なにしろ特にルールはないので、成り行き任せです。

途中で中座した沖さんが、自分の住んでいるまちを「美しいまち」にしたいという話をしたのですが、そこから「美学」とか「美しいとは何か」とか、という話が、広がりました。途中から参加して、沖さんの話を聞いていない人も、美学論争に参加し、話はまちづくりとは無縁なところまで広がりました。まあそういうところもオープンサロンの面白さです。同じテーマでも、視点を変えれば全く違った議論ができる。

なかには、テーマがあると敷居が高いがテーマ無しだと気楽で参加っしやすいという原川さんのようなオープンサロン常連もいます。このスタイルは来年も大切にしたいと思っています。

みなさんに支えられて今年もサロンをつづけられました。
来年も引き続きサロンを継続していきますので、よろしくお願いします。

来年最初のオープンサロンは17日の午後1~4時です。
湯島天神や神田明神のおまいりの途中にでもサロンに顔を出してくれるとうれしいです。

来年もまたサロンでお会いしできますように。

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2022/12/29

■湯島サロン「『日本政治の解体新書』を出版して」のご案内

久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田文彦さんのサロンを開催します。

武田さんは、リンカーンクラブを拠点に、民主主義政治の理念に近づく政治へと、日本の政治を変えるべく、長年、取り組んできました。
この2年ほどは、本の執筆に取り組んでいましたが、昨今の日本政治の実状を見るにつけ、やはり自分の思いを実現するためには改めて活動に取り組むことが必要だと思うようになってきました。

そうした思いを込めて執筆した『日本政治の解体新書』も12月末に出版されましたので、これを契機に、思いに共感してくれる人と一緒に、日本の政治を変えていく活動に再びまた取り組もうということになりました。
https://books.rakuten.co.jp/rb/17389219/

武田さんが考えている民主主義政治は、主権者である国民一人ひとりが、自分の考えを政治につなげていく仕組みを増やしていくことです。
たとえば、重要な問題に関しては国民投票制度を取り入れ、政治家を選ぶ選挙も投票ができるだけ反映できるような仕組みに変えていくとともに、みんなが投票に行きたくなるような仕組みにしていくことなどを課題にしています。
また武田さんは、政治が生活から遠いものであってはならず、政治に関わることで自らも楽しくなっていくことが大事だと考えています。

さらにその根底にあるのは、主権者である国民が、自律的に自己統治できる主権国家をめざそうということです。いささか壮大な話ですが、武田さんは、まずは一歩を踏み出したいと真剣に考えています。

今回はまずはそうした武田さんの壮大な構想をお話しいただき、それに関して、忌憚のない話し合いができればと思います。
武田さんはいささか思い入れが強すぎて、時に具体的な政策課題になると自説にこだわりすぎる傾向がありますが、武田さんが一番目指しているのは、個別の政策課題ではなく、思いは、国民が真に主権者であるという民主主義政治の実体をできるだけ作つくっていこうということです。
そういう意味では、個別政策に関しては、異論をお持ちの方も歓迎です。自説を持っている人たちが、自説に基づいて自由闊達に議論することこそ大事だというのが武田さんの民主主義政治ですから。
ともかく今のような、「似非民主主義」政治の実体から抜けだしたい。それが武田さんの強い思いです。

関心のある方はぜひご参加ください。
そして武田さんの活動仲間になっていただければうれしいです。

なお、武田さんの新著「日本政治の解体新書」(税込み5500円)を当日、希望者には税込み4000円で提供してくれるそうですので、ご希望の方はご連絡ください。

〇日時:2023年1月22日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「『日本政治の解体新書』を出版して」
〇話題提起者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■節子への挽歌5496:東尋坊からのお餅

節子

昨日、東尋坊の茂さんから恒例のお餅が届きました。
今年は33人を救い出したそうです。

そういう人たちと一緒に、みんなで毎年年末にお餅をついて、活動を応援している人に配っているのです。
今年は忙しかったようで、例年よりも遅くなったようですが、餅つきに各地から応援に来てくれたそうです。
節子と最後に行った東尋坊での茂さんのおろし餅はとてもおいしかったですが、あまりにたくさん出してくれたので、食べ残してしまいました。
それがいまも気になっています。

しかしそれが縁で、いまもまだ茂さんとの縁が続いています。
うれしいことです。
私には、茂さんや川越さんが、節子と重なって思い出されるのです。

茂さんたちが忙しくなる背景には、やはり社会の荒廃があるような気がします。
今年はあまり良い年ではなかったような気がします。
問題が増えているにも関わらず、そうしたことが見えなくなってきている。そんな気がしてなりません。

今年のお餅もとてもおいしかったです。
来年は茂さんたちに会えるといいのですが。

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2022/12/28

■節子への挽歌5495:朝のメール

節子

この季節は午前5時はまだ真っ暗です。
日の出まで2時間近くあります。

起きてやることと言えば、先ずパソコンを開き、メールやFBへの新たな投稿などの確認です。
どんなメールが届いているかで、1日が決まることもあります。
今日は、届いたメールと届かなかったメールがありました。

届いたメールは、しばらく音信が途絶えていた、節子も知っている柴崎さんです。
アドレスがわからなくなってしまい、弟さんにアドレスを聞いて、昨日送っておいた返信です。すぐ返信が届いたので安心しました。

彼はかなり厭世観を強めていて、社会に呼びかけても何も変わらないと最近は社会への情報発信、つまり社会との付き合いをやめてしまっているようです。
こういう形で多くの才能や知恵は無駄になってしまっていくのでしょう。

届かなかったメールは、節子の知らない若者です。
2週間前から連絡が取れなくなってしまいました。
最後のメールは前向きだったのでほっとしていたのですが、急転直下、またダウンしたのかもしれません。彼は天候に大きく影響されるようで、急に寒くなったので気にはなっていたのですが、いささか心配です。
乗り越えてくれるといいのですが。

まあこんな感じで、メールを見て、心配事が増えることの方が圧倒的に多いのです。
世間と付き合うのをやめたくなることも少なくありません。
節子がいた時には、すべてのことをシェアしてもらっていたので、心配事背も前向きに捉えられたのですが、最近は気弱になっています。

FBの方は、それとは違って、元気が出ることが多いです。
と言ってもたわいのないあ話ばかりではあります。
たとえば、思ってもみなかった人が私の書き込みに「いいね」を押してくれている。
きちんと読んだかどうかはわかりませんが、その人とのつながりが確認されたということは、ちょっと元気になれるのです。

世間と付き合うのは疲れますが、世間と付き合っていないと元気にはなれない。
節子がもしいたら、世間との付き合いをやめることもできたかもしれませんが、いまはそうもいきません。

まだ外は真っ暗です。
もいい一日だといいのですが。

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2022/12/27

■節子への挽歌5494:お天道様と同じように生きたい

節子

最近、私はできるだけお天道様と同じように生きるように心がけています。
ですから、できるだけ日の出と共に起き、日の入りとともに活動をやめています。
午後7時にはスマホは止めてしまい、電話にも出ません。

早い時には8時過ぎには就寝します。
実際にはベッドで本を読んでいることもあるので、寝るのは9時過ぎのことが多いですが。

朝は5時には起きていますが、この時期はまだ外は真っ暗です。
6時頃になると東の空の朝焼けがきれいに始まります。
少しずつ明るくなってくる空に見とれてしまうこともあります。
いつも「枕草子」の書き出しの文章が自然と思いだされます。
太陽が上ってくると一挙に周りがあったかくなる気がします。その瞬間が特に好きです。

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節子が元気だったころには、一緒に日の出わおみるのは年明けの元日だけだったでしょうか。あの頃、もっとお天道様と同じ生き方を心がければよかったと今にして思います。

しかし、日々の暮らしはお天道様に準じられても、人生はそうはいきません。
太陽と違って、明日、必ずしも起きられるかどうかはわかりません。
最近ようやくそのことをしっかりと自覚できるようになってきました。
頭でわかることと身体が知ることとは、どうも違うようです。

昨日から大掃除をすこしずつ始めていますが、ここにきてようやく、物を処分することができるようになってきました。
それは実にさびしく悲しいことなのですが。

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2022/12/26

■節子への挽歌5493:にこのピアノ発表会に行きました

節子

昨日は孫のにこのピアノの発表会でした。
私もユカと一緒に聴きに行きました。
と言ってもピアノ教室の生徒さんたちの合同発表会ですので、にこの演奏は2分もかかりません。それでもドレスを着て、舞台で一人であいさつし、演奏するという初めての一人舞台です。
しっかりと演奏ができました。

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ところで、開演前に会場に行ったら、にこは友だちと一緒でした。
私がそこに行ったら、にこは友だちに、私のことを紹介して、さらに「変なじいさん」だよと補足しました。困ったものです。
ちょうど、午前中、にこに私の呼び名も「おさむさん」から「おさむ」に変えないかと提案したのですが、その時ににこは「おさむじいさん」を提案してきました。最近、にこはどうも「じいさん」という言葉が気に行っているようです。困ったものです。
改めて交渉しなければいけません。
私としては、「さん」をやめたいのですが。

ピアノの発表はうまくいきました。
写真を撮ったのですが、光の関係で、白い妖精が演奏しているみたいです。

さすがににこもジュンも疲れたようなので、夕食はみんなで先日行きそびれた回転寿司に行くことになりました。
挽歌をさぼっていたので書いていませんが、先日、にこと回転寿司に行くことにしたのですが、混んでいたのでやめてしまったことがって、それ以来なんとなく借りの気分なのです。幸いに、今回はくら寿司の予約が取れたのです。

にこはご機嫌で、大好きな大学いもを私に分けてくれました。
もし節子がいたら、回転ずしでの雰囲気もまったくちがうでしょう。
いつもそう思います。

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■節子への挽歌5492:生活はまだ戻っていない

また挽歌をさぼってしまいました。

どうも習慣に戻せなくなりました。

もう挽歌を書くのをやめる時期なのでしょうか。
まあ、そうかもしれません。
節子は私の中ではしっかりと生き続けていますから。
あえて文章で呼びかけることもないし、私の生活を報告することもないのかもしれません。

しかし、挽歌は書いていないのですが、なぜかこの頃、感傷的になってしまうことが増えてきました。
涙が出るとは言いませんが、そんな気分になることが増えているのです。

昨日、孫のピアノの発表会がありました。
ピアノ教室に通っている発表会ですが、終了後、先生たち6人が演奏をしてくれました。
にこは、家の近くの井上さんに習っているそうですが、その井上さんは声楽の出身だそうで、素晴らしい声でした。
それを聞きながら、そういえば節子がいなくなってからコンサートにも行かなくなったし、生活から音楽が消えてしまったと思い出しました。

あれ以来、私の生活は一変しましたが、戻っていないことがたくさんある。
改めてそれに気づいたのです。

やはり挽歌を書き続けようと、思いました。
まったく脈絡はないのですが。

明日からまたきちんと書くようにしようと思います。

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■湯島サロン「市会議員選挙に立候補して考えたこと」のご案内

政治というと多くの人は国政をイメージしますが、生活者の立場から言えば、自分たちが住む地域の政治こそがその基本ではないかと思います。しかし多くの人は、あまり自分たちが暮らしている市町村の政治には関心が持てないようです。

しかし、国の政治も、その基本を支えているのは地域政治ではないかと思います。地域が見えていなければ、国民の生活の実情や国民の思いなど、知るすべもないはずです。
そうした「日々の生活」から離れてしまった「政治」は、自分とは縁遠いものだと思う人も少なくないでしょうが、しかし、その「政治」が私たちの日々の生活を大きく決めていることは、最近、いろいろな問題を通して明らかになってきています。

「選挙」をテーマにしたサロンを来年は時々開催することにしました。
第1回目に問題提起してくれるのは、先月、千葉県の松戸市で行われた市議会議員選挙に立候補した石井嘉隆さんです。

石井さんはこれまで特に「政治」との接点はなく、今回もまったくの「市民の一人」として立候補しました。ですから、選挙は何もかも、初めての体験。
残念ながら今回は落選しましたが、石井さんはいろんなことを学んだようで、次の目標に向けて、さらに一歩進めようとしています。
同時に、市議会議員にはなれませんでしたが、自分の住んでいる地域の中でできることもいろいろと見つかったようです。

選挙体験を通して、石井さんが考えた「政治観」や現在の選挙制度の問題点、なぜ投票率が低いのか、さらには選挙活動を通して感じたさまざまなことなどを話してもらい、みんなで「生活者にとっての政治」や「住民主役のまちづくり」などを考えていければと思います。

地方議会の議員のみなさんにも、また地方議会議員への立候補を検討している人にも、ぜひ参加してもらえればと思います。

〇日時:2023年1月29日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「市会議員選挙に立候補して考えたこと」
〇話題提起者:石井嘉隆さん(松戸トランスフォーム代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2022/12/25

■湯島サロン「2022年を振り返るサロン」報告

サロンから浮かび上がった2022年のキーワードは「暴力」「占い」「マンガ」。

年末の「今年を振り返るサロン」は今年も参加者が10人を越えるにぎやかさでした。
いつものように、フリーランス・グラフィックデザイナーの林裕也さんが、自分のフィルターを通して1年間の出来事をレビューしてくれました。

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今年は林さん自身、2人目のお子さんが昨年生まれたこともあって育児に忙しく、また今年からマンガ家活動にも取り組みだしたこともあって、いつものようにしっかりと準備する時間がなかったそうです。そのせいか、林家の話があまり出なかったのが残念です。もっとも林さん自身の関心事は、選ばれたトピックで伝わってきましたが。
しかし年間を通して、さまざまなトピックを思いださせてくれましたし、なかには参加者全員が知らなかったこともありました。

昨年は、私の記憶と林さんの話はかなり重なっていた気がしますが、今年はかなり違う感じがしました。記憶に残る事象は、人によってやはり違うのです。同じ1年でも、みんなそれぞれに違う世界を生きていることがわかります。同時に、しかし、どこかでつながっていることにも気づかされます。
そこが、このサロンの面白さかもしれません。

気になったのは、林さんが、日本もだんだん暴力で解決しようという動きが広がっているような気がするとつぶやいたことです。
たしかにそう思います。
そしてその延長として、年の最後に防衛費倍増や原発依存回帰へという政府の方針転換が発表されたのも、そういう動きと無縁ではないような気がします。国民の反対の動きも実際にはあまり起きていません。社会そのものが変質してきているのかもしれません。そういうことは、日々の生活に追われている限り見えてきません。

もう一つ印象的だったのは、なぜか「占い」に関わっている参加者が多かったことです。
これも単なる偶然とは思えません。時代の大きな流れにつながっているような気がします。

最後は、林さんが今年出合ったアニメの紹介がありましたが、まあ例年と同じく、限られた時間では到底話し終わらないほどの話題の多さで、話し合いも途中から、個別の話し合いがそれぞれに始まるほどの賑わいでした。
アニメの紹介のところは、私は全くついていけませんでしたが。
ただ、ネットとつながったマンガというメディアが、新たなコミュニケーション手段として大きな役割を果たしだしていることを感じました。

興味深かったのは、その最近のマンガが、社会の暴力化につながっているではないかという指摘に対する参加者の反応がわかれたことです。
もっともみんなに回覧された林さんの作品は、暴力とは縁のない、いかにも林さんらしいほのぼのマンガでした。

今回、初めて湯島のサロンに参加してくださった人もいましたが、あまりのゆるやかさとお互いの自己主張が許容される場に馴染んでくださって、そこに魅力を感じてくださったようで、もしかしたら常連になりそうです。

最近は、忙しさの中で、なかなか生活や事件を振り返る機会がありませんが、振り返ることの大切さに気付かせてもらうのもこのサロンの意味です。
過去を振り返ることは自らの生き方を考えることでもあり、これからの生き方を考える契機にもなります。いつも、このサロンで林さんの話を聞きながら、何かとても大事なことを見過ごしながら生きている自分に気づくのですが、なかなか生き方は変わりません。

林さんは来年もこの振り返りサロンをやってくれるそうです。

 

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2022/12/24

■万葉集サロン24「山上憶良の「貧窮問答歌」」報告

万葉集サロンでは、前回から山上憶良を読み始めていますが、これまで読んできた飛鳥・白鳳時代の歌とは趣が大きく違います。その違いがどうして起こったのか、その背景には、人々の生き方や意識、あるいは社会のあり方や人間関係の変化があるのでしょう。さらに、日本という国が生まれだした事情もありそうです。
万葉集が面白いのは、そうした歴史を読み解くヒントがたくさん含まれているからです。

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今回は有名な「貧窮問答歌」です。貧窮を「ひんきゅう」と読むか「びんぐ(う)」と読むか、升田さんは呉音読みの「びんぐ」を選びました。そもそも万葉集は、文字で読むよりも声を出して詠み聞きするのが基本だと升田さんは前に話してくれましたが、「ひんきゅうもんどう」と「びんぐもんどう」と声に出してみると全く印象は違います。文字から読むだけでは万葉集の世界は見えてこないのかもしれません。

さらに、「貧窮」を1語ととるか、2語ととるかで、「問答」の意味が変わってきますが、升田さんは2語ととり、「貧者」と「窮者」のやりとりと捉えて、読み解いてくれました。「貧窮」の意味をどう捉えるかにも少し言及され、それにも関連して、「貧士」を詠った宋の陶淵明にも触れてくれました。
まあこういうことだけでも、当時の人々の生き方や社会のありよう、あるいは当時における「貧窮」の意味が少し見えてくる気がします。

そうした予備知識を踏まえて、升田さんは「貧窮問答歌」をていねいに読んでくれました。

まず前半は「貧者」からの問いですが、そこには「我を措きて人は在らじと誇ろえど」とあるように、生きる支えとしての自分の誇りが示されているのに対して、後者の「窮者」の答には「人皆か吾のみや然る」と窮しているのは自分だけではないと思わないと生きていけないという意識(目線)の違いが現れています。生きる上で大切な2つの要素が見事に対置(あるいは並置)されています。

形式的に言えば、ひとつの歌の中に詠み手が2人いるわけです。さらに2人の詠み手を取り上げてうたっているのですから、第3の読み手も想定できます。
神に向けて詠んでいた歌、あるいは自分だけで思いを吐露していた歌、さらにはみんなで誦詠していた歌謡とはまったく違った歌(世界)の登場のような気がします。
「問答」の意味も違ってきたのです。横目線や斜め目線が生まれてきた。

つづく短歌(反歌)では「世間(世の中)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」とうたわれていて、そこに憶良の究極の人生観が詠われています。「飛びたちかねつ 鳥にしあらねば」、と。それは、生への執着。辛いけど生きるというのはそういうことだという人生観です。憶良の歌を読んでいく時には、この言葉を思い出すのがいいかもしれません。憶良は鳥にはなれなかったのです。

貧窮問答歌の最後に「山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る」とあります。
この歌は、ただ嘆いているだけではなく、誰かに向けての訴えなのです。
こんなに民が飢えと寒さに苦しんでいるのに、その実態をわかっているのか、という怒りを私は感じますが、それを訴えるに足る人がいない嘆きかもしれません。
憶良はただ貧窮を見ていただけではないのです。

とまあ、極めて簡単に(いささか不正確に)言えばそんな話を、升田さんは貧窮問答歌を解きほぐしながら解説してくれました。
升田さんの話は多岐にわたったので、その一部しか紹介できないのが残念です。

たとえば最後の短歌に「やさし」とありますが、これはいま私たちが使っている「優しい」という意味ではなく、人々の見る目が気になって身もやせ細る思いがするという意味で、「恥(やさ)し」「恥ずかしい」ということだという話もありました。
言葉の意味は時代によって変わってきますが、そうしたことからも社会の変化や時代時代の人々の生き方も見えてくるように思います。

ちなみに、憶良が貧窮問答歌をうたった時期は、社会が大きく変わろうとしていた時代です。数年前には、憶良とも交流があったであろう長屋王が政治争いの中で自殺し、藤原氏の時代へと大きく動き出し、また国家体制を整える必要から平城京の造営のため、各地の農民は駆り出され、その上、日照り続きや寒気の襲来などの天候不順もあって、住んでいたところから逃げ出す農民(「山沢に亡命する民」)も多く、不穏な状況にあったのです。そうしたなかで行基による民衆への仏教の伝播も始まっていました。
筑前の国守として赴任した憶良には、都での宮廷人たちとは違った風景が見えていたはずです。しかもそこに大伴旅人がいた。考えるとどんどん想像は膨らみます。

貧窮問答歌を読んだ後、参加者からさまざまな「憶良像」が出てきました。
前回のサロンで、憶良の生い立ちや経歴などはお聞きしていましたが、前回読んだ歌から伝わってくる憶良の人柄とはまた違った一面が見えてきたように思います。
参加者が語る憶良像はさまざまで、とても興味深いものでした。

升田さんは、憶良は自分の奥にある自分と常に問答していたと言います。人間をどう捉えるか、生きるとは何か。前回も話題に出たように、憶良は仏教にも儒教にも通じていた人ですが、そうしたものの教理に従うだけではなく、自らの問いとして自らの答を求めていた。そして、単なる記号としての文字ではなく、自分の思想としての言葉を生み出し、使っていた、と升田さんは言います。
自分との自問自答をつづけ絶えず葛藤しながら、そこから得たものは、たとえば仏教的な「無常観」ではなく、生活者としての「無常感」だったのではないか、と。

前回、憶良は長い序をつけて、そこに理を書いて、歌の方はそこから離れた人間としての自らの思い(情)をうたう、という話がありました。
みずからの思いを言葉にするには、自分との対話が必要です。そして、自分と対話することで、憶良は自分の中にもう一人の自分を見る。さらに、他人も見えてくるようになる。「わ」をとりまく「た」も多様化する。
今回は、そうした「わ」と「な」と「た」の話はあまり出ませんでしたが、「わ」の奥の「わ」との対峙、「な」と対峙することでみえてくる「わ」、「た」の多様化から可視化されてくる「な」と「わ」、というようなことが間接的に示唆されていたように思います。
さらにそこから、家族や国という存在も見えてくることも升田さんは示唆していたような気もします。いささか読みすぎかもしれませんが、さらに憶良を読んでいくことで、そういうことも見えてくる気がします。

また升田さんは、言霊と同時に、文字の力もあると言います。憶良は「言葉」だけではなく、「文字」の力も知っていて、言葉の霊力と文字に書いて見せた時の力との狭間の中にいたのではないかと升田さんは言います。
憶良は渡来人として漢語にも通じていたはずですが、日本列島で使われていた言葉が、文字との出会いの中で、大きく変わっていった経緯が憶良の歌に読み取れるのかもしれません。

長くなってしまいましたが、なにしろ毎回、升田さんの話は広範囲に広がるので、消化するのが追いつきません。これでも話のほんの一部だけなのです。しかも私流にかなり歪曲しているかもしれません。文責はすべて私にあります。すみません。

この報告を流そうと思った直前に、升田さんから次のようなメールが届きました。

 (古代人は)生活の手立てもなかったから貧しくてかわいそうだと憶良は言っていない。
みんなで緩やかに共生することによって、貧窮を上回る幸せを生きている人間。その人間への眼差しは深くて優しい。「貧窮問答歌」の本質は、こんな風に言えるのではないかと思います。憶良は、人間の弱さと強さを見続けた。憶良にとっては、政治も宗教も上回るものが歌(文学)だったのだと思う。

とてもよくわかります。
万葉の歌を私たちはどうしても現代の感覚で読んでしまいがちですが、注意しなければいけません。

私が報告すると何やら難しくなってしまいがちですが、万葉集サロンは気楽なサロンですので、ぜひ気楽にご参加ください。

ちなみに次回は2月12日(日曜日)です。
2023年から万葉集サロンは偶数月の第2日曜開催が基本になりました。

 

 

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2022/12/22

■戦争をやめさせたいのであれば、戦争をつづける人に加担すべきではない

夕刊が届きました。

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一面に大きく、バイデンとゼレンスキーの会談の写真です。
この写真を見た人は何を感ずるでしょうか。

私は大きな絶望感を持ちました。
そんなに2人とも戦争をつづけたいのか。
第三国からの軍事支援が続くかぎり戦争は終わらないでしょう。

アメリカ議会での鳴りやまない拍手には、日本の国会での拍手を思い出しました。
どうしてみんなそんなに戦争が好きなのでしょうか。

戦争をやめさせたいのであれば、戦争をつづける人に加担すべきではないでしょう。
「戦わさせられている人たち」への支援策を見つけなければいけません。
その人たちは、ウクライナにもロシアにもいます。

その一歩として、まずは自分たちも戦えるようになろうなどと呼びかける政府を支援すべきではありません。

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2022/12/21

■湯島サロン「〈深呼吸歩き〉、一緒にやってみませんか?」報告

部屋を飛び出して、〈深呼吸歩き〉で歩いてみようというサロンでしたが、あいにく雨が降りそうな寒い日になってしまいました。それでも10人の方が参加されました。

永田さんはまず自らの体験から話し出しました。

一時は歩くのもやっとの状態が、呼吸を意識しながら歩くことで劇的に回復したこと、最近、偶然にまちなかで測定してもらった血管年齢は実年齢の半分近い30歳だったこと、いまは生活の中に〈深呼吸歩き〉が組み込まれていること、しっかりと呼吸できている時は生活のパフォーマンスがとてもいいこと、などを話してくれました。

さらに、呼吸のメカニズム(呼吸筋の仕組み)や歩行が呼吸・姿勢・体幹・筋トレなどにつながっていること、など、〈深呼吸歩き〉の効用に関してもていねいに説明してくれました。
深い海中で作業をする海女さんの話や意識と身体を総合的に捉える「気血」、さらには「難波歩き」の話も出ました。

10年以上にわたって取り組んできている〈深呼吸歩き〉の実践から、永田さんにはみんなに伝えたいことがたくさんあることが伝わってきました。
永田さんは、みんなが〈深呼吸歩き〉に取り組めば、日本の医療費も激減するだろうと確信していて、ぜひとも〈深呼吸歩き〉を拡げたいと思っているのです。来年からそういう活動にも取り組む計画だそうです。

問題は〈深呼吸歩き〉の実践です。
永田さんは、〈深呼吸歩き〉をトレーニングにするのではなく、その快さに気づいて、日常生活に組み込むことを勧めています。
ではどうやって歩けばいいのか。永田さんは誰にも共通な、マニュアル的なものがあるわけではないと言います。みんなそれぞれ自分のリズムやその時々の心身の状況などがあるので、それに合わせたそれぞれの、さらにはその時々の、深呼吸歩きを見つけていくことが大切だと言うのです。

そのうえで、永田さんは、いくつかの留意すべきポイントを、実際に歩行して見せながら説明してくれました。
文章ではなかなか説明が難しいのですが、永田さんは近いうちにそれを動画でアップしてくれるそうです。公開されたらご案内させてもらいます。

ポイントは吐く息と吸う息の関係や息の仕方(たとえば吸ってから吐くまでに一時とめて吸い込んだ息を腹に落とす)、さらには歩くリズムなどですが、こうしたことに関する考え方やはずせないポイントを永田さんは説明してくれました。
また最初からあまりがんばらずに、快い感じで続けていると、深呼も深くなっていくと言います。私も20日ほど心がけていますが、たしかに呼吸は自然と深くなってきています。それに歩くことが楽しくなってくるのも不思議です。

当日は話し合いの後、実際に歩きながら永田さんにアドバイスしてもらう予定でしたが、話や質疑が少し長引いたため、外が暗くなりだしてしまい、寒かったこともあり、今回は実際のウォーキングはやめることにしました。
年明けに、今度は上野公園にでも集まって、まずは歩いてみて、その実践体験を持って、話し合うことになりました。日程が決まったらまたご案内します。

基本は、呼吸を意識しながら、できるだけ外気をたくさん吸い込みながら、深層筋(インナーマッスル)に働きかけながら、歩くということです。
ぜひ皆さんも試みていただき、次回の歩行会にご参加ください。
来年は永田さんにお願いして、またサロンや歩行会を企画したいと思います。

私の場合は、これで今年の冬は風邪をひかずにすみそうです。

 

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■外交が見えない

昨日の朝日新聞に、元外交審議官の田中均さんのインタビュー記事が載っていました。
田中さんは、私とは考えは違いますが、いつも穏やかな口調とは裏腹に、極めて本質をついた示唆に富む指摘が多く、私にも信頼できる数少ない専門家のおひとりです。今回のインタビューでの発言も、とても共感できるものでした。

インタビュー記事のタイトルの「外交が見えない」というのは、私の最近の感覚にぴったりでした。
もちろん私に日本政府の外交が見えないのは当然ですが、田中さんの指摘しているのは、総理大臣も政治家も、外務官僚も自衛隊トップも、「外交」が見えていないことのようです。それも全く共感するところですが、しかし、もしそうであれば、最近急に議論されだしている防衛費の倍増方針は、恐ろしい話です。昭和初期よりももっと恐ろしい。

そう思っていたら、昨日のBS-TBSの報道19|30に、田中さんも出演し、日本の安保政策の大転換が取り上げられていることを知りました。昨夜はめずらしく用事があったので、録画しておき、今朝見せてもらいました。

出席者は、田中均さん(元外務審議官)、中西寛さん(京都大学大学院教授)、小谷賢さん(日本大学教授)、それにコメンテーターとして堤伸輔さん。
とても示唆に富む話し合いで、多くの人に見てほしい内容でした。
特に政治家には見てほしいですが、残念ながら望むべくもないでしょう。
しかし、出席者はみんな、政治家に変わってほしいと望んでいます。そして、そろそろ明治時代に構築されたシステムから抜け出ないといけないというのも共通認識だったように思います。

印象的だったのは、田中さんや小谷さんが、日本の外務省官僚は政治家への対応や資料づくりに追われて、肝心の外交の仕事をする暇がないという指摘でした。
こういう傾向は何も外務省だけには限りません。

人類学者のデヴィッド・グレーバーが明らかにしてくれたように、組織社会では、「ブルシット・ジョブ」が横行するのです。私も、1980年代以来、それを感じていて、「みんな忙しすぎて仕事をする暇がない」と言っていましたが、その意味は冗談などではなく、素直にそう感じていました。それもあって、いま湯島のサロンでは、「働くとは何だろう」をテーマにしたサロンをつづけています。

日本では、インテリジェンスを重視していないこと、それともつながりますが、専門家を育てないことも指摘されていますが、これも私が会社に入社したころから議論されながら、一向に変わっていない事態のように思います。

田中さんが、最近の安保関係者の多くは、「マッチョ」だと指摘していましたが、もしかしたらここに事態の本質が顕れているのかもしれません。

私にはとても示唆に富む番組でしたが、政治家へのメッセージは、引き続き取り組んでいくとメインキャスターの松原さんが公言しましたので、これからに期待したいと思います。

ちなみに、この番組のホームページに、動画がアップされるはずですので、お時間が許せばご覧ください。
https://bs.tbs.co.jp/houdou1930/

ちなみに、この番組の冒頭で、日銀の黒田総裁の記者会見に関して、コメンテーターの堤伸輔さんが「怒り」を感じさせるような思いを吐露していました。コメンテーターは、こうあってほしいものです。

 

 

 

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2022/12/20

■湯島サロン「NPOで(ボランタリーに)〈働く〉ということ」のご案内

「働く」を考えるサロンのパート4は、NPOやボランティアで「働く」ことをテーマに選びました。前回のサロンで気がついたのですが、どうも「働く」という言葉は、お金に結びついて捉えられがちなので、その「常識」を問い直したいと思います。

対価をもらえない、たとえば専業主婦の家事仕事は、シャドウワークという言葉で、「働く」ことの外部に押しやられてしまっていた時代もありましたが、コロナ禍のおかげで、「エッセンシャルワーク」という言葉によって、「働く」ことの意味が問い直されているように思います。しかし、世間の「常識」はそう簡単には変わらないようです。

今回、話題提供をお願いしたのは、全国マイケアプラン・ネットワークの島村さんとよりあい*ええげえしの須田さんです。
おふたりとは長いお付き合いですが、その「働き」ぶりは目を見張るものがあり、私の「働き観」にも大きな影響を与えてくれた人たちです。
そう言うとふたりとも、自分は働いているのかなあ、とか、ぼちぼちみんなで楽しんでいるだけ、という言葉が返ってきますが、そうしたところにこそ、「働く」のエッセンスがあるような気がします。

おふたりの活動をお聞きしながら、みんなで改めて、「働くとは何だろうか」を話し合えればと思っています。どういう話の展開になるか、私にも見えていないのですが、きっと元気が出てくるサロンになると思います。

ぜひ多くの人、とりわけ、自分は働いてなどいないと思っている人や、逆に、自分こそ働いていると思っている人に参加していただきたいと思っています。

〇日時:2023年1月15日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「NPOで(ボランタリーに)〈働く〉ということ」
〇話題提供者:島村八重子さん(全国マイケアプラン・ネットワーク代表)
                    須田正子さん(よりあい*ええげえし事務局長)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/12/19

■箸技ゲームの普及に加担することにしました

西川口にある国際箸会館に行きました。

国際箸学会が箸技ゲームをこれから世界に広げていきたいというので、その思いに共感して、ささやかながら応援することにしたのです。
なにやら思いは伝わるようで、箸会館で話し合いをしているまさにその時、京都のNPO認知症予防ネットの原さんから箸技ゲームの注文の電話があり、それで私がここにいることを知った高林實結樹さん(みんなの認知症予防ゲームを日本中に広げた人です)から電話がありました。高林さんと電話で話すのは久しぶりですが、まったく以前と変わらないお元気な声でした。

ところが、そこで高林さんが箸ピーゲームをやっている時の呼吸が、自分がかつて学んでいた呼吸法と同じだという話をしてくれました。
「呼吸法」。今日も駅から箸会館まで、深呼吸歩きをしてきたのですが、「呼吸」と聞いたら聞き流すわけにはいきません。
年が明けたら京都に行ってもいいかなと思いました。
また新しい物語が生まれるかもしれません。

ついでに、国際箸学会会長の小宮山栄さんの会社のコミーにも立ち寄らせてもらいました。
小宮山さんは、今年、社長を退き、いまは次の世代にバトンタッチしています。
コミーはミラーの会社ですが、これまで開発した面白いミラーが展示されている部屋があります。私はそこを見るのが好きなのですが、そこに「自分と握手できるミラー」があります。久しぶりに、そこで自分と握手してきました。写真でそれがわかるでしょうか。

Dsc_0064000

コミーには面白い展示がたくさんありますが、どこまで公開していいかわからないので写真を載せるのは差し控えます。

訪問した時に、社員みんなで箸技ゲームを行う時間と重なりましたので、私も久しぶりに小宮山さんと一緒にやってみました。今日は、箸ぴーゲームと箸の上にピーナツを乗せる直立不動ゲームでした。右手でのゲームは時々やっていましたが、左手は久しぶりでしたので、予想以上に苦戦しました。直立不動ゲームはたった2つだけ。

社員はみんな社内ネットで画面をシェアしながらゲームを楽しんでいるのです。
そういう風景を見ていると、社内コミュニケーション支援や気分転換とか、あるいはもっと創造的な面でも、企業でもいろんな使い方がありそうです。

国際箸学会に出向したスタッフが中心になって、いま箸技ゲーム(ゲームを遊ぶとともにゲームを創案するゲームもあります)を拡げるべく活動しています。
湯島でも毎月、箸技サロンもやっています。

ぜひ一度、試しに遊びにお越しください。
病みつきになるかもしれません。あるいは、いつもとは違うところが刺激されて、人生が変わりだすかもしれません。残念ながら、保証はできませんが。

 

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■湯島サロン「安楽死・尊厳死について考える」のご案内

「死」を切り口にして「善く生きる」を考えるサロンの2回目は「安楽死・尊厳死」をテーマに選びました。
今回、問題提起をお願いしたのは、室田一樹さんです。

実は室田さんには、「信仰」をテーマにしたサロンの3回目をお願いしようと思っていたのですが、メールのやりとりをしているうちに、室田さんが「安楽死・尊厳死」を、自分の問題として考えていらっしゃることを知りました。
いうまでもありませんが、「信仰」はまさに「善く生きる」ことにつながっています。それは当然、「死」をどう捉えるかにつながっていく。

室田さんは神社の宮司も務める神職でもあり、また子どもたちの「善い生」を支援する岩屋こども園アカンパニの理事長でもあります。私も一度、室田さんのこども園に寄せていただいたことがありますが、室田さんの思いが詰まった子ども園で、そこでの活動の一端(エピソード記述)も以前一度、湯島のサロンで話してもらったことがあります。

室田さんにはいろいろと話していただきたいテーマがあるのですが、ご多用の上に、京都にお住まいなので、気楽にサロンも頼めません。今回は、無理をお願いしてサロンに来てもらうことにしましたが、なにを選ぼうか迷ったのですが、あえて「安楽死・尊厳死」を選ばせてもらいました。
重いテーマですが、今回も自らの生き方につなげる形で、それぞれの「善い生き方」を考える示唆を得られればと思っています。

単に「制度としての安楽死」「医療としての尊厳死」に限定せずに、「善く生きる」視点から、「安楽な死」や「尊厳な死」を考えていければと思います。
できれば、そこから「自死」や「孤独死」の問題へとつなげていきたいです。

あまり新年向けのテーマとは言えませんが、「善い生き方」を考えていくためのサロンとお受け止めいただければ、まさに新年にふさわしいテーマだとも考えられます。
気楽にご参加いただけるとうれしいです。

〇日時:2022年1月28日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「安楽死・尊厳死について考える」
〇話題提供者:室田一樹さん(保育・子育て総合研究機構代表)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/12/18

■第5回生活事業研究会の紹介

湯島ではサロンの他にもいろいろな集まりをやっていますが、その一つが生活事業研究会です。時々報告させてもらっていますが、先週、第2期生活事業研究会の5回目でした。テーマは「お金と事業」。

この研究会は「事業」という言葉が使われているので、収益を目的とした研究会と思われかねませんが、収益を目的とした事業は対象にしていません。ですから、お金についても、ビジネススクールとは捉え方が違います。しかし、現在のような金銭に呪縛されたマネタリ—エコノミーのなかでは、お金を無視するわけにもいきません。
それに、最近のお金はおかしな存在になっていますが、そもそもお金は私たちの生活を豊かにするための機能もありました。
今回は、そんなことを少し問題提起させてもらいました

生活事業の定義は「自分たちの、自分たちによる、自分たちのための事業」としていますが、目的は収益ではなく、自分の生き方の問い直しです。それは同時に、社会のあり方を考えることでもあります。
参加者が当初考えているような「事業」とは違うことも多く、中には自分が考えていることが果たして「事業」と言えるのだろうかと思っている人もいますが、私にはそうしたことこそが、生活事業だろうと思うことは少なくありません。
むしろ、昨今のビジネススクールで学ぶ、「お金が主役の、お金による、お金のための事業」は、そろそろ卒業すべきではないかとさえ思っています。そういう仕事は、だんだんAIがやってくれるようになるでしょう。

いずれにしろ、事業とかお金とか、生産性とか豊かさとか、右肩上がりとか、改めて考え直していければと思っています。
まあ、そんなことをこの研究会で話題にしていますので、参加者は思考が混乱して、第1期に参加したのに、2期目も参加している人が2人もいます。

ところで、たまたま研究会の2日後に開催したサロン「起業家として働くを考える」で、話し合った「働く観」は、生活事業研究会での「働く観」とつながるものでした。
マネタリエコノミーの社会でも、生活事業の発想で活動している人は少なくないことに改めて気づきました。動いているといつも必ず希望に出合えます。

第2期の研究会の最終回では参加者各自が考えている「生活事業」の構想と計画を発表してもらうのですが、参加者から公開で行いたいという声がありました。
そこで、2月の発表会は、公開で開催することになりました。またもし参加希望者がいたら、第3期もやろうかと思いだしています。

もし関心のある方がいたら、ご連絡ください。

 

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■汚れ役はいつも「端役」に任される

陰謀論がまた最近にぎやかですが、そういう時期には、その奥で真の陰謀が動いている時代だと、私は思っています。
私が体験した限りですが、1970年代も90年代も、そうだった気がするからです。
当時も、陰謀論はにぎやかでした。
日本の政治は、私にはとんでもないと思われる方向へとまた大きく一歩進みだしそうです。

もう一つ私の体験で感ずるのは、政治が国民(生活者)にとって悪い方向に動き出すときに、表面でその旗振りをする人は、いつも「端役」を演じている人のように思います。
たとえば、小泉さんであり、野田さんであり、阿部さんであり、岸田さんです。
いずれも自らの信念で動いているとは私には到底思えない人たちです。
黒幕は決して表には出てこない。
「端役」たちに、役割を巧みに振って、事実が見えないようにするようです。
最近の防衛政策に関する姦しいほどの賛否両論は、まさに茶番のように感じます。しかもその後ろでは原発政策まで組み込まれています。

流れに抗って、国民(生活者)にとって善い方向に動こうとした人もいないわけではありません。私が思うには、鳩山友紀夫さんがそうでしたが、見事にたくさんの「端役」たちに裏切られてしまいました。

以上は、私の最近の妄想ですが、いずれにしろ原発や軍備の理念が「反転」するのは、非暴力主義者の私にはとても残念です。
日本のウクライナ化が進まなければいいのですが。

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2022/12/17

■湯島サロン「起業家として〈働く〉を考える」報告

「働く」をテーマにする3回目のサロンは、さまざまな立場から「働くこと」を体験してきている橋本典之さんに体験からの「働く」観を話してもらいました。

このシリーズのサロンは、私にはとても多くの示唆を与えてくれるのですが、どうも「働く」という言葉が、お金を稼ぐ行為と受け止める方が多いようで、いつも参加者が少ないのがとても残念です。

私は、「稼ぐ」と「働く」はまったく別のものだと考えていて、働くことや仕事や事業という言葉が、あまりにも金銭につながっている風潮を見直したいと思っています。そうした「働く」観の見直しこそが、お金に縛られた社会(生き方)を変えていく起点ではないかとさえ思っています。

今回の橋本さんの体験からのお話には、そうした私が考える「働く」の本質が語られていたように思います。ついでにいえば、「起業家」というのも、お金を稼ぐ意味での「起業」に限られませんが、橋本さんの「起業」動機も「起業家意識」も金銭ベースの経済の話ではありませんでした。

橋本さんはまず、自己紹介に重ねて大学時代に経営学の教授(北矢行男さんです)から学んだ「会社は入るものではなく創るものだ」という言葉を紹介してくれました。
これは会社に雇用されずに起業しろという意味ではありません。会社に入社しても、会社から「働かされる」のではなく、会社の場で、自らが主体となって仕事を創り、会社を活かしていけというような意味だと言います。

その言葉が橋本さんに大きな影響を与えたようですが、橋本さんは大学卒業後、高齢者グループホームで介護職員として働きながらNPOのスタッフとしても活動。その後、理学療法士の資格を得て、病院に勤務。そして仲間と一緒に、こどもも高齢者も、みんなそれぞれが、自分がなりたい暮らし(活動)を自らデザインできるようにという理念のもとに、株式会社アクト・デザインを起業しました。

3人で始めたその会社は、いまでは50人近い規模になり、組織を維持していくという経営者の視点でも、「働く」ということを日々考える毎日になっているそうです。
http://www.act-design.org/about.html

こうした会社の理念やビジョンも、橋本さんの「生き方」につながっていて、そうしたこともとても示唆に富むものでしたが、今回のテーマである「働く」に関しては、個人としての立場と組織を経営する立場から、その難しさと嬉しさを話してくれました。いろんな問題を、肯定的に受け入れている橋本さんの生き方にも教えられることはたくさんありました。

橋本さんは、実際の仕事の例として、終末期の患者に対するリハビリ対応の話をしてくれました。企業としてはもうリハビリ対象にならないような場合も、時に橋本さんは個人的に対応しているようです。経営者でもある橋本さんは、組織の立場で働きながら、個人としても働いている。20年前に彼と知り合ったときと同じ姿勢にうれしさを感じました。

話し合いもいつもながら示唆に富むものでしたが、今回は橋本さんも長年関わっている全国マイケアプランネットワークの島村さんや「お金は価値じゃない」が持論の竹形さんも参加していたので、いつも以上に話は広がりました。
みなさんにその内容をうまくお伝えできないのが残念です。いつかおふたりにも「働く」サロンをお願いしたいと思います。

橋本さんは、「働く」とは「社会との接点づくり」だと捉えているようです。そして、その接点における自分の「働き」は社会にとっての小さな歯車かもしれないが、そういう小さな歯車がうまくつながりあって、大きな歯車を動かしていけばいいと考えているようです。
個人の「働き」(生き方)が、社会のあり方を創り出していくと言ってもいいでしょう。働くことは「お金稼ぎ」には決してとどまらないのです。

橋本さんはまた、起業してからは行動することの持つ力に驚かされているといいます。
どんなに小さくても、社会との接点で歯車が動き出すと、それが大きな歯車につながっていくということかもしれません。

今回のサロンには、大きな問題意識を持っているにも関わらず、なかなか動き出せずにいる人も参加していました。動き出すことはそう簡単ではありませんが、動き出せば、いろんな力が「働きだす」のかもしれません。そんなことにもまた、「働くとは何だろうか」を考えるヒントがあるような気がします。

みなさんにお伝えしたいことがたくさんあったサロンですが、うまく報告できないのが残念です。
次回は、さらに視点を「生き方」の方に振って、「NPO(ボランティア)として働く」ことをテーマにしたいと思っています。

「働く」を考えるサロンは、ビジネスの世界だけを話題にしているのではありません。個人の生き方や社会のあり方を、問い直そうというのがテーマです。ぜひ様々な立場の人に参加してもらいたいと思っています。社会のなかで「働いていない人」などいるはずがありませんから。

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2022/12/16

■年末・年始のオープンサロンのご案内

今年もたくさんのサロンを開催させてもらいました。
ご支援に感謝します。

例年、年末年始にオープンサロンを開催していますが、今年最後の年末サロンは、1229日の午後1~4時を予定しています。いつものように出入り自由です。
新年のサロンは、7日(土曜日)を予定しています。これも午後1~4時の、出入り自由のサロンです。
いつもよりも始まりは1時間早いですが、終わりは4時に終わります。

近くの湯島天神も、29日も7日も、そんなに混んではいないと思いますので、お詣りついでに湯島のサロンにも気が向いたら顔を出して、新年の抱負など聞かせてください。

私は一応、来年も1年間、サロンを続けることにしていますので、最後の顔を見に行こうという人(最近、時々そういう人がいます)は、わざわざそのためにのみ参加する必要はありません。念のため。

〇日時:2022年12月29日(木曜日)午後1時~4時
    2023年1月7日(土曜日)午後1時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2022/12/15

■第19回益田サロン「破傷風菌における自己とは何か」のご案内

前回は、ジフテリア菌を切り口に「人間の知能とは何か」を考えましたが、今回は破傷風菌を切り口に、改めて「自己とは何か」、そしてできれば「コミュニティとは何か」の問題を考えたいと思います。

破傷風菌は自らの内にある毒素が宿主である人間や動物を殺し、その死骸から大量の栄養を得ることによって、破傷風菌が大増殖し、存続していくことを可能にします。しかし、毒素を外部に出して破傷風を発症させるために、自らの内にある毒素を外部に出し、自ら崩壊しなければいけません。

宿主が死亡して大量の栄養を提供してくれる時に、毒素を発した破傷風菌はもうその恩恵は享受できないのです。恩恵を享受できるのは、毒素を出さなかったほかの破傷風菌なのです。
この場合、「自己」というのをどう考えればいいでしょうか。

自己を滅ぼして仲間の存続に寄与する破傷風菌と自らの存続を支えてくれるために存続をやめてしまう破傷風菌との関係をどう考えればいいのか。
自己を存続させるという時の「自己」とはいったい何なのか。
それは当然、「自己の生き方」にもつながっていきます。
文学的な表現を使えば、生き続けるためには時に小さな自己を犠牲にしなければいけないのです。

病原体の世界から、私たち人間の生き方を考える。
これが益田さんの大きな関心事だと思いますが、今回は破傷風菌から、私たちの生き方への示唆やヒントをもらおうという話です。

こう書くと何やら難しそうな話に聞こえそうですが、「自己」をどう捉えるかは、誰もが日常的に考えていることではないかと思います。たとえば、「居場所」とか「コミュニティ」の話は、まさに「自己」をどう捉えるかにつながっているでしょう。
そんな話を、益田さんの細菌学の知見を一つの視点にしながら、気楽に話し合えたらと思います。

ぜひさまざまな人の参加を期待しています。

〇日時:2023年1月13(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「破傷風菌における自己とは何か」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/12/13

■見たいものだけしか見ない生き方から抜け出さないと善い生き方にはたどり着けない

今朝のテレビを見ていたら、NHKの世論調査で、政府の原子力政策の転換方針に関して、「賛成」が45%、「反対」が37%だったという結果が紹介されていました。

そもそも最近の「世論調査」というのは、基本的にはプロパガンダ以外の何物でもないと思いますが、それでもなにがしらか事実を反映しているでしょう。
こういう報道を見ると、3.11の後の世論の盛り上がりはいったい何だったのだろうかと哀しくなります。

最近、旬報社から「私は第五福竜丸 数奇な航海」という本が出版されました。
先日、紹介させてもらった、原書房の「原爆投下、米国人医師は何を見たか」と併せて、紹介させてもらいます。
できれば、この年末年始のお休みにでも、読んでもらえるとうれしいです。

私のFBでも原爆と原発は違うというコメントをよくいただきますが、つながっていることは間違いありません。
「つながり」を見たくないという人には見えてこないでしょうが、ぜひとも素直な目で、つながりを見てほしいと思います。
選択肢がたくさんあることもぜひ見てほしい。

見せたい風景しか見せない社会、見たいものだけしか見ない生き方、そこから抜け出さないと、善い生き方にはたどり着けないように思います。

 

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2022/12/11

■湯島サロン「DSの陰謀が見えてきた!?」のご案内

湯島ではなぜか人気サロンになってきた中嶋さんと北川さんによる「陰謀論サロン」ですが、当初は聞きなれなかった「DS(ディープステート)」という言葉も最近ではマスコミにさえふつうに登場するようになりました。

しかもこの数年の間の、コロナ騒ぎやウクライナ騒ぎ、あるいは米国の大統領選挙などを通して、その真偽に関わるようなたくさんの情報が流れ出しています。

そこには荒唐無稽な「陰謀論」に混ざって、納得できる真実もまた垣間見えてきているようにも思えます。いうまでもありませんが、面白おかしく語られる「陰謀論」はともかく、「陰謀」が存在することは否定できない事実です。「陰謀」から目をそらさせようとしている「陰謀論」に騙されてはいけません。情報過剰時代においては、さまざまな情報の中から、何を読み取るかはとても大切なことです。

そこで今回は、新型コロナ感染症やそれにまつわるワクチン騒動、さらにはウクライナ戦争を取り巻く虚々実々の駆け引き、あるいは一見全人類的な問題のようにしつらえられている気候変動問題、さらには大仰に語られがちな「グレードリセット」論など、わかりやすい例を材料に、中嶋さんと北川さんの感じている「DSの陰謀」をお聞きしながら、真の「陰謀」とその主体をそれぞれが考えるサロンにしたいと思います。

最近、疑惑を感じだした人が増えている「ワクチンの謎」も話題になるはずですので、まだまだ続くであろう「コロナ禍」にどう対処すればいいかのヒントも得られるかもしれません。

今回は時間をたっぷりとるために、サロンの開始時間をいつもより30分早めますのでご注意ください。午後1時半からのスタートです。

「陰謀論」や「DS」に一家言ある人もぜひ発言しに来てください。
頭が混乱している私のような人も歓迎です。
年明け早々ですので、いずれにしろ楽しいサロンにしたいので、広い視野と柔軟な姿勢でご参加いただければうれしいです。

〇日時:2023年1月8日(日曜日)午後1時半~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「DSの陰謀が見えてきた!?」
〇話題提供者:中嶋一統さん+北川泰三さん
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

 

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2022/12/10

■社会とのつながりこそ「善く生きる」秘訣

小学校のミニ同窓会でした。

先週、急にミニ同窓会をやろうということになったのですが、9人が集まりました。
もうみんな高齢なので、それぞれにいろいろとあります。
それに毎年メンバーも減っていきます。

昨年の同じ日は、仲間の一人の葬儀でした。
今回は仲間の一人の伴侶が急逝しました。
今日は、そうした仲間を慰め合うのも急に集まった理由のようです。
理由の一つに、私の快気祝いも入っていたのには驚きましたが。
まあこの歳になれば、いくらでも理由はつけられます。

同窓会と言っても、よくあるホテルや高級店での会食ではありません。
湯島の近くの麺覇王で、薬膳ラーメンを食べて、あとは湯島のいつもの場所で、それぞれ持ち寄ったお菓子を食べるだけの地味な同窓会です。
麺覇王の薬膳ラーメンは量が多いので、半分にしてもらって、でもみんなスープも最後まで飲んだので、今年は誰も風邪をひかないでしょう。

今回は急な誘いだったのに、那須塩原から参加してくれた人もいます。
私とは半世紀ぶりの再会でした。

以前は隔月に気楽な集まりをやっていましたが、また復活し、毎年4回、湯島で会うことにしました。
来たくなったら来るという感じのゆるやかな同窓会。
今回来られなかった同級生も含めて少しずつ輪を広げていこうということになりました。

みんな元気ですが、元気の秘訣はそれぞれみんな社会との接点を持って、いろんなことをやっていることのようです。
今日は参加できなかった仲間の一人は、転居した熱海で、琵琶の弾き語りの会を今日はやっていて来られませんでした。

社会とのつながり。
これがやはり「善く生きる」ことの秘訣のようです。
時に、「老害」にもなりかねないので注意しないといけませんが。

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2022/12/09

■節子への挽歌5491:今年最後の畑作業

節子

久しぶりに畑に行きました。
1か月以上ぶりです。
もう少し早く行こうと思えば行けたのですが、近くは通ったことがあるもののあまりの野草の茂みで畑に入る勇気が出ませんでした。
畑にしているところは、道から少し高くなっているので、道からは様子がわからないのです。

今日は最後の畑行きと思って、支度をしていったのですが、入り口のあまりの野草のすごさに入れません。あたり一面、これまで見たこともない植生に変化していました。
拡がっていたのは、名前もわからない小さな黄色の花が咲く草でした。
大きいのは1メートル近くにまで伸びていて、茎も太いので手では抜けません。
それがかなり密集しているのですが、畑にたどり着くまでに20分ほどかなりハードな作業で、刈り取りました。
久しぶりに汗をかきました。

視界が開けたら、その向こうに、ゆずとミカンがなっているのが見えました。
ミカンは節子が植えたものです。
しかしその中間にあるはずの畑はほぼ全滅。
わずかに大根が、間引きもしていないためあまり大きくなれずに、それでも頑張っていました。期待していた白菜と人参は全滅。

花壇も、大きなバラが一輪咲き残っていましたが、ほぼすべてがもう枯れかかっていました。まとまった花壇の部分には野草は入り込んでは来ていませんでしたが、周辺には野草が押し寄せてきていました。
野菜も花も、やはり手をかけないと野草には勝てません。

いちばん大きなミカンをとってきて、帰宅後すぐに節子に供えました。
大根も間引きしましたが、もったいないので収穫してきました。
食べられるといいのですが。

今年の畑もどき作業はこれでおしまいです。
土や草と良い交流ができましたが、収穫はほとんどありませんでした。
来年はここが使えるかどうかわかりませんが、もし使えたら収穫をめざそうかと思います。
土はかなりよくなってきたはずですから。

久しぶりにいい汗をかきました。
今日は散歩はお休みしました。

 

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■「宗教2世」?

言葉が現実を創り出していくと言われるように、言葉はとても大切です。

マスコミや権力者、あるいは権威筋が使う言葉に、私は時々大きな違和感を持つことがあります。
たとえば、いまマスコミで使われている「宗教2世」にはどうしてもなじめません。
そもそも旧統一教会が「宗教団体」ということ自体にも違和感がありますが、その信者の元で育てられ自らも信者体験をした人たちを「宗教2世」というのでしょうか。

家族の役割のひとつが、子育てだとしたら、子どもは必ず親の影響を受けます。
生物的に育てるだけではなく、考えや生き方も、親から大きな影響を受けることは避けがたいでしょう。
湯島のサロンでも時々話題になりますが、親の影響を受けて生きにくくなってしまった人は少なくありません。もちろんその逆もあるのですが、私自身の反省も含めて、親は自らの生き方は自分だけでの問題ではないことをもっと意識するべきでしょう。

「宗教」をどう捉えるかにもよりますが、宗教はそもそも個人単位というよりも人のつながりの中で生まれてくるようにも思います。
そう考えると「宗教2世」という表現にはどうしても違和感があります。
問題は、「宗教」にあるのでしょうか。
私にはむしろ、そうした問題を起こす親たちが宗教をもたなかったことにこそ問題があるような気がします。また誤解されそうな表現ですが。

というわけで、私は「宗教2世」という言葉に大きな差別意識を感じます。というよりも、否定的なイメージを持ってしまうのです。これが新しい差別感を生み出さなければいいのですが。
「宗教2世」という言葉を使う人に問いたいのは、「宗教」って何ですか、ということです。

それにしても、問題が起こるといとも簡単にカテゴライズして、命名してしまう風潮には恐ろしさを感じます。言葉を生み出すのは、慎重でなければいけません。
先日発表された流行語大賞などというバカげた、というか俗悪で危険な風潮にもいつも極めて不快感を持ってしまいます。
言葉遊びには大切な意味がありますが、言葉を無責任におもちゃにしてはいけません。

 

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2022/12/08

■節子への挽歌5490:訃報の季節(2022年12月8日)

節子

倉敷の友澤さんから訃報の通知です。
友澤さんの娘さんが亡くなったとのこと。
この時期は訃報が届くのであまり好きな季節ではありません。

友澤さんは節子の友人ですが、節子の見舞いにも葬儀にもご夫妻で来てくださいました。
私はあまりお付き合いはないのですが、節子はいろいろとお世話になっていたはずです。
友澤さんは、しばらく前に伴侶をなくされていますが、今度はまさかの娘さんです。
伴侶の死は、お互いにどこかで覚悟はしているでしょうが、娘や息子の死は、親は想定していないはずです。
気丈な友澤さんでも、悲しさはいかばかりでしょうか。
どういうお手紙を差し上げたらいいか、思いも浮かびません。

娘さんは60歳だったそうです。
そう聞けば、節子よりも2歳若いだけです。
改めて節子の無念さを思わずにはいられません。

節子の仲の良い友達との交流は、私自身にはほとんど受け継がれていませんが、何人かは引き続きお付き合いいただいています。その人たちも、それぞれにみんな変化しています。おかしな話ですが、私の記憶の世界では、節子はいまも62歳ですが、もし節子がみんなと同じように歳をとってきていたら、どんな節子になっているでしょうか。なかなか想像はできません。
その意味では、若くして先立つこともいいこともありそうです。
いつまでも若いまま生き続けるからです。

それはともかく、もう訃報は届いてほしくありません。
知らなければ、みんな生き続けてくれるはずですから。

私の死も、誰にも知られないようにしてもいいかもしれません。
時々そんな思いが浮かぶようになりました。

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■節子への挽歌5489:今日も可的な青空の下で散歩

節子

今日もいい天気なので、午後、深呼吸式歩きの散歩に出かけました。
出かける前に、今朝、さぼってしまったラジオ体操で身体を整えました。

実はコロナの関係で、ユカからは外出自粛を命じられていますが、自粛と言われるとますます出たくなるのが人の常です。
さすがに今日は湯島には行かなかったのですが、できるだけ人に合わないコースでの散歩はいいだろうと、孤独の散歩コースを選びました。

途中、国道356号を東に向かって少し歩いたのですが、その短い距離の中で、これまで気づいていなかったものに出合いました。
「明治天皇御飲料井戸」です。
説明書によると、明治17126日に、明治天皇がここで水を飲んだ井戸だそうです。
前からあったのでしょうが、気づきませんでした。
こういう見落としはたくさんあるのでしょうね。

つづいて今度は昨日も歩いた人通りのほとんどない久寺家新道を手賀沼に向かって歩きました。今日もほとんど人通りはありません。
ところが、その坂の下の、公園坂通りとの交差点になにやら人が集まっていました。
きっと公園坂通りを生活道路にする計画の関係者だと思って、横を通り過ぎようとしたら、おひとりが私の方に近づいてきました。マスクをしていてすぐには気づかなかったのですが、青木さん(我孫子市の副市長)でした。私の格好は、人に出合わない前提での浮浪者風の格好だったので、いささか気後れしましたが、よくぞ気づいてくれたものです。

最近はなかなかお会いする機会もありませんが、青木さんとは長いお付き合いです。
10年以上前にお約束したこともいまも忘れていません。我孫子に若い世代のグループを育てていくことです。まあ失敗の連続ですが。
それで、日曜に開催したまちづくり編集会議の話を少しだけしましたが、あまり邪魔をしてはいけないので、また改めて市役所に報告に行くことにしました。
今日、出会ったのも、何かのメッセージなのでしょう。

近所の散歩は退屈だろうと思っていましたが、こんな感じでいつも何か出合いや発見があります。
さて明日はどんな発見があるでしょうか。
しかし、今日はとても平和の気が満ちていて、快い日です。

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■ボタンを掛け違うと事態はますますややこしくなります

「不十分だが一歩前進」というコメントをつけながら、立憲民主党が与党の被害者救済新法案に合意し、法案が成立することになりました。

立憲民主党のなかにも、異を唱える議員はいるようですが、異を唱えるなら行動を起こしてほしいものです。政治よりも政局だというのでは、今の執行部は自民党とそう変わりません。
大きな失望を感じます。最初のボタンを掛け違うと事態は往々にして悪い方向に向かいがちだからです。

「不十分だが一歩前進」。だまされてはいけません。大切なのは「十分かどうか」ではなく、「一歩進みだす方向」なのです。
どんな法案も「十分」であるはずはありません。みんな不十分なのです。しかし、その法律を支える理念がしっかりしていれば、不十分でもいい方向に動き出す一歩になります。だから法の精神は大切なのです。それは、「十分かどうか」などという「程度」の話ではないのです。それが私が大学で学んだ「リーガルマインド」です。

テレビのコメンテーターも、不十分だが一歩前進だという人が多いですが、どっちに向かっての一歩前進なのだと問いたいです。
もっと言えば、被害者を第三者として救いたいのか(そんなことはできるはずもないと思いますが)、被害者の声に真摯に向かい合って彼らの思いを支援したいのか。
それは私には全く違ったことです。

被害者のためと思っての行動が、被害者の邪魔をしていることをこれまで何回か体験してきているからです。
つい今も同じような事例に直面しています。
支援と救済とかは、言葉で言うのは簡単ですが、それほど簡単な話ではありません。

またまた立憲民主党には失望です。
立憲民主党もまた岸田さん程度の聴く耳だった気がします。
形を整えれば、問題は見えにくくなるだけです。これでは旧統一教会と自民党・公明党の思うつぼでしょう。立憲民主党もまた、それに加担してしまった。

テレビのコメンテーターも、不十分だが一歩前進だという人が多いですが、どっちに向かっての一歩前進なのだと問いたいです。
今朝の朝日新聞によれば、信者2世の団体もこうした動きに条件をつけながらも歓迎しているようです。それも意外だったのですが、まあ私の考えが間違っているのかもしれません。

しかし、最初のボタンをどうかけるかは、問題の設定を大きく方向づけますので、もっと慎重であるべきで、当面の問題解決のためには新法案とは別の対応があるだろうと思えてなりません。

なんだかすっきりしない話です。

 

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2022/12/07

■「善徳女王」に金庾信(キム・ユシン)が登場

先週から韓国ドラマ「善徳女王」の再放映を観ています。
https://www.bsfuji.tv/seondeok/

善徳女王は、新羅初の女王で、日本で乙巳の変が起こった頃の新羅の女王です。
当時は、まだ日本という概念はなかったと思いますが、朝鮮半島と日本列島の人たちの交流はいまよりよほど活発で、たぶん当時の支配層は、日本海を超えて往来していたようです。

天智天皇や天武天皇に関しても、朝鮮半島の支配層との関係がいろいろと議論を呼んでいます。これまで日本の古代史関係の本で善徳女王の名前を目にしたことがなかったのですが、最近は時々、目にするようになりました。それで、以前から話題になっていたこのドラマを観ようと思い、再放送されるというので毎回録画しているのです。

ところが観て意外だったのですが、ローマ人まで登場し、話の展開がとても広いのです。こんなところにも韓国人(大陸半島人)の視野の広さと日本人(島国人)の狭さに気づかされます。しかし、あまりの子供向けの内容に、途中で観るのをやめようかどうしようか迷っていたのですが、今日の回に若き金庾信(キム・ユシン)が登場しました。新羅の将軍で、日本にも少なからず関わっている人です。大和朝廷の天皇ともつながりがあるはずの人です。

そうなるとがぜん興味が湧いてきて、子供向き仕立てですが、観ることにしました。
しかし、人間関係を把握するのが実に難しい。
たぶん韓国の人たち、特に新羅地域に当たっている地域の人たちは、登場人物にもなじみがあるのでしょう。

これを機に、改めて韓国史を学び直そうと思います。なにしろ隣国ですから、歴史くらいは知っておきたいと思います。
古代の日本列島を知るにも、万葉集を読み解くにも、それが必要だろうと思います。

 

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■節子への挽歌5488:健康法は持続しています

節子

退院後の3つの新しい健康法について書きましたが、その後、書き込みがないのでもうやめてしまったのだろうと思われている節があります。
そんなことはありません。今日も、深呼吸歩きで散歩に行ってきました。

今日はいつもとは違って久寺家新道をのぼり、駅に出て、昔からあるレストラン「コビアンの前を通り、戻ってきました。40分コースですが、途中、長電話がかかってきて、20分近く伸びてしまいました。電話しながらの歩行は私の趣味ではないので、もちろん立ち止まっての電話でした。

久寺家新道は今年開通した大通りで、節子は見たこともない通りです。まだ自動車の通行量も少なく、歩いても快適です。まあこんな道路も我孫子にはあるのです。
「コビアン」は昔からのお店で、ともかく安いのです。昔は行くたびにこのお店は赤字なのではないかと思い、行くのを遠慮したくなるほど安かったのです。
我孫子駅近くに、1号店と2号店があります。
なぜか節子と一緒に行った記憶はありません。もしかしたら、家族で1号店に一度だけ行ったことがあるかもしれません。

深呼吸式歩きのほかですが、アーユルヴェーダ処方は時々服用しています。ただ、食欲増進剤は3日前で不要になりました。味覚が戻ってきたのです。
味覚の戻りは峰行のパスタのおかげです。
いささか違和感のあった内臓も最近は心や意識との一体感を回復しました。

問題は月曜断食ですが、これは推薦者の井上さんからもやんわりと注意を受けましたが、体調がきちんとしてからでないと逆効果になりかねません。
それで年内は、月曜断食は中止し、年明け後から改めて取り組むことにしました。
みんなから心配されましたが、年内中止を聞いて安心した人がすくなくありません。

しかし、いろいろとやったおかげで、もうほぼ2か月前の状況に戻った気がします。
つまり適度に老化し、あんまり健康とは言えない状況になったということですが。
深呼吸式歩きで血管年齢は若返るかもしれませんが、やはり年齢相応に身心がボロボロになっていくのもいいものです。
老いる楽しみも味わいたいものです。

もっとも、自分が老いていくのを気づくのは、そう楽しいことではないのですが、体験したことのない、不思議な経験であることは間違いありません。
それに節子のいる世界に近づいているのですから、うれしい話でもあるのです。

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■我孫子・柏まちづくり編集会議主催「やりたいこと呼びかけフォーラム」報告

報告が遅くなりましたが、124日に、我孫子・柏まちづくり編集会議主催の「やりたいこと呼びかけフォーラム」を開催しました。

今回は、参加者が少なかったのが残念ですが、その代わりにとてもゆったりした、あったかな交流ができる場になったような気がします。試験シーズンでしたが、高校生もひとり参加してくれました。

事務局の林さんから、フォーラムの趣旨と「まちづくり編集会議」のこれまでの経緯が簡単に紹介された後、特別講演として、我孫子市にある中央学院大学の中川ゼミのみなさんが、毎年自分たちで取材して作成している「abiko magazine」の活動を発表してくれました。

abiko magazine」は、すでに2号まで発行されていますが、中川先生の発案で、学生たちが中心になって、毎年、作成している「学生たちによる我孫子市のガイドブック」です。内容は多岐にわたっていますが、企画から取材、制作、すべて学生たちの手によってなされています。大学内はもちろんですが、市内でも駅前のアビシルベなどに置かれています。
学生たちの多くは我孫子市外から通学していると思いますが、4年間通う我孫子のことを、住民とはまた違った目で紹介してくれていて、若い世代がどういうところに関心を持っているのかも知ることができます。とても貴重な試みで、もっと多くの人に読んでもらい、できればそこから世代を超えた、あるいは我孫子市を超えた交流が始まればと思います。中川先生もそれを展望されているようです。

お話の後、参加者との話し合いが行われましたが、お互いにいろいろと刺激を受ける内容だったと思います。詳しく紹介できないのが残念です。
まちづくり編集会議としては、これまで大学との接点がなかったので、これを契機に、なにかコラボできることがあればとみんな期待しています。
ご多用の中、参加してくださった中川教授はじめ学生のみなさんに感謝です。ぜひこれを契機にまちづくり編集会議にも参加していただければと思っています。

つづいて、呼びかけのセッションでは、「将門プロジェクト」と「手賀かるたプロジェクト」が提案されました。
「将門プロジェクト」は、戸田さんが呼びかける予定で資料もばっちりと作成してくださっていたのですが、直前にコロナ陽性が判明してしまい参加できなくなってしまいました。それで代わりに、これまでも将門関連の活動にも参加している村上さんが、戸田さんに代わって、将門居城在我孫子説の紹介や戸田さんの思いを紹介してくれました。ちなみに今回初参加されたみなさんは、我孫子市に平将門の居城があったという話を知らなかった人もいましたが、みんな、この話を「地域資源」として「まちづくり」に活かしていこうということには賛成で、話も盛り上がりました。ちなみに中川ゼミの学生の一人が将門も縁のある東京の神田明神の近くにお住まいだとのことで、将門の話にも関心を持ってくれました。何かが始まるかもしれません。

ただ今回は肝心の戸田さんが参加されていなかったので、改めて戸田さんに呼びかけてもらって、プロジェクトづくりの話し合いをしようということになりました。

「手賀かるたプロジェクト」は、櫻井さんの呼びかけでしたが、そもそものきっかけとなった手賀沼での「台船灯篭祭り」プロジェクトの話も出て、むしろ「手賀かるた」よりも将門プロジェクトともつなげながら、「台船灯篭祭り」を基軸にしたらどうかという意見も多く、これも年があけたら櫻井さんの呼びかけで、関心のある人たちで集まることになりました。
「手賀かるた」そのものへの関心も多く、いろんな意見も出ましたので、これはまたこれで動き出すかもしれません。

他にも今回初参加の佃さんからはヘチマたわしが山のように余っているのでそれの有効活用策はないだろうかという問いかけがありました。地域で何かしたいとか、みんなに呼びかけたいというテーマを持っている人は少なくないでしょうから、最近開催していなかった「はじまり場サロン」を来年から再開しようということになりました。

最後に林さんから、以前から提案されていたペーパーマガジンの編集部員募集の呼びかけがありました。もう取材も終わり、その気になればすぐ完成するでしょうが、一人での仕事にしないために林さんは仲間を呼びかけています。関心のある人はぜひ参加してください。林さんに連絡していただければと思います。

そんなわけで、来年から少なくとも3つのプロジェクトが動き出しそうです。改めてまたそれぞれから呼びかけがあるかもしれませんが、関心のある人は事務局あてに連絡いただければ、プロジェクトリーダーの戸田さん、櫻井さん、林さんにつなげてくれると思います。

今回参加できなかった方で関心のある方、あるいはこんな呼びかけをしたいと思っている方、ぜひ仲間になってください。我孫子在住にはこだわっていません。

信じがたいほどゆったりした会なので、気楽にどうぞ。自分の住んでいる地域で何かをやりたいという思いと汗をかく気のある方は、大歓迎です。汗をかきたくない方も、もちろん歓迎です。参加すると汗をかきたくなるかもしれませんし。

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2022/12/06

■節子への挽歌5487:最高に幸せな気分の日でした

節子

今日は湯島でのオープンサロンでした。
参加者は少なかったのですが、とても刺激的なサロンでした。

まず始まってすぐに、東大の3年生の川端さんが飛び込んできました。
授業の合間にサロンに顔を出してくれたそうですが、なにやら興奮気味です。
その理由は、直前の授業は数名の講師によるパネルディスカッションだったようですが、そこで質問したら、それがどうやらいろいろと物議をかもしたようなのです。

テーマは「トランスジェンダー」。
その話の内容もともかく、理もT-形式の授業で、川端さんはどうもカメラの前で反させられる羽目になったようで、それもちょっとまさにその授業のハラスメント性を彼は感じたようです。
トランスジェンダーに関しては当事者を自称する人たちの反応は私も何回か経験しているので、彼の戸惑いや違和感も何となく理解できます。

ところで講師陣たちの顔ぶれと彼らが書いた本を見せてもらったら、なんとサロンにもよく来るヘウレーカの大野さんが作った本なのです。
あまりの偶然に因縁を感じました。

まあその話を切り口に、最近の大学の授業などについて少し聞いたのですが、最近の大学の授業は、実にライブで面白そうです。私の時代とは全く違っているようです。

もう一つは、これもオープンサロンの常連の竹形さんは提起した、「お金ではない価値の為に生きるためにお金が必要というジレンマからどうやって逃れるか」という話題です。こういう議論をできる相手は、湯島のサロンに来る人達でも決して多くはないのですが、竹形さんはまさに自らも実践しているので、説得力があるのです。

その竹形さんが、サロンの後に、自らのフェイスブックにこんな記事を唐くしていたのです。
あまりにもうれしいので、全文引用です。

場所を選ばずに「お金は価値じゃないよね」みたいな話を真顔ですると「何いってんのバカじゃないの」と言われてしまうので「価値」について突っ込んだ議論ができる佐藤さんの場は本当にありがたいです。お金の為ではない仕事について勉強する「生活事業研究会」は勝手に僕が継ぐつもりになっているのでまだまだ時間はかかると思いますがご指導よろしくお願いします(笑)

まあこのふたりのおかげで、今日は最高に幸せな気分です。

 

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2022/12/05

■節子への挽歌5486:鶏肉とリンゴのクリームパスタ

節子

今日はユカが体調を崩したので、峰行が家族用に作ったパスタのお相伴に会いました。
にこのリクエストに合わせて、鶏肉とリンゴのクリームパスタだったのですが、実においしくて、おかげでおかしかった味覚が元に戻った気がします。
お店で食べるパスタよりもずっと私好みで、これなら毎日でも食べられると思いました。峰行が目指している家庭イタリア料理の意味が少しわかった気がします。

峰行は、アルバイトの人がコロナ陽性だったことから自らもコロナ感染してしまい、10間、お店を休んでいました。
収入的には激減というかいつもの3分の1に減少するので大変ですが、幸いにコロナ感染症はほとんど症状はなかったようで、いい養生になったでしょう。
しかしコロナということもあり、1階と2階の交流はできるだけ隔離し合っていたのですが、最後の日にイタリアンをごちそうしてくれたわけです。

峰行から元気をもらった気がします。
節子がいたら、峰行のパスタファンになって、エヴィーバ通いになっていたでしょう。
そう思うととても残念です。

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■プルトニウム注射とワクチン注射

私は、今回のコロナウィルス感染症のワクチンに関しては、中立派です。

ただ、今回のコロナ騒ぎにどうも違和感があるので、マスコミ情報にはほとんど信頼を置いていません。もちろん感染症は実際に存在しているので、感染して発症しないように、私なりには十分に注意しています。
ただし、ワクチンには大きな違和感があるので接種は受けていません。

ところが今日、友人から、ワクチンに関するマイナス情報が届き、その拡散要請がありました。いつもであれば、自分だけで消化し、拡散はしないのですが、最近読んだ、「原爆投下、米国人医師は何を見たか」に出ていた「プルトニウム注射」の話を思い出したら、なんだかワクチン注射への疑惑もまんざらあり得ない話ではないなと思い、今日はちょっと拡散に加担する気になってしまいました。
関心のある人は見てください。ない人は無視してください。

今朝、送られてきたのは次の2つです。

〔全国有志医師の会からの共同声明〕
新型コロナウイルス感染症対策の抜本的変更、及び新型コロナワクチン接種事業の即時中止の要求。
https://vmed.jp/

〔大阪市立大学医学部名誉教授の井上正康さんの、ワクチン後遺症により亡くなった原因を確認するキットの開発の話とワクチン後遺症への対応策の紹介〕
https://twitter.com/w2skwn3/status/1599179263974191104?s=46&t=9DTLTXijCpGzKbcDRj7tNQ

もしお時間があれば、ぜひネットで「プルトニウム注射」事件についてもちょっと調べてみてください。

 

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■第23回万葉集サロン「山上憶良の「貧窮問答歌」」のご案内

今年最後の万葉集サロンは、山上憶良の「貧窮問答歌」を読むことになりました。

前回、「生」に苦悩する憶良の人間像に少し触れましたが、そうした「人間憶良」が、当時の生活者たちをどう感じていたかを、「貧窮問答歌」を通して、みんなで感じたいと思います。
これまで読んできた歌とはだいぶ趣を異にしますが、万葉集の中でも特異の存在とされている表現者としての憶良への理解が深まればと思います。。

万葉集を読んだこともない方も、読み込まれている方も、それぞれにいつも気づきのあるのが升田万葉集サロンです。
年末のせわしない時期ですが、今年最後の万葉集サロン。
みなさんの気楽なご参加をお待ちしています。

〇テーマ:「山上憶良の「貧窮問答歌」」
〇日時:2022年12月18日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2022/12/04

■湯島サロン「〈深呼吸歩き〉、一緒にやってみませんか?」のご案内

今回はただ話し合うだけではなく、部屋を飛び出してのワークもあるサロンです。
テーマは「〈深呼吸歩き〉、一緒にやってみませんか?」。つまり後半は、部屋から出て、みんなで一緒にウォーキングするサロンです。

〈深呼吸歩き〉って聞いたことがあるでしょうか。
あまりないと思います。それもそのはず、これは今回、サロンをやってくださる永田茂さんの造語なのです。

永田さんは、以前、デスクワークが多い生活だったことがあり、その時に、足腰が弱って体力がボロボロになってしまった時期があったそうです。
その状態から抜け出すために、自らが考案したのが深呼吸と歩くことをつなげた〈深呼吸歩き〉。それによって、ダメダメだった身体が激変・V字回復したそうです。
そして以来、10年、その〈深呼吸歩き〉を続けてきた結果、実年齢57歳にもかかわらず、いまでは血管年齢、実測30(!!)だそうです。

「歩き」と「深呼吸」の組み合わせだけなので、誰にでもすぐ取り組めて、アンチエイジングやカラダのリフレッシュ効果も抜群なので、取り組む人が増えていけば、日本の医療費も大幅削減できるのではないかと永田さんは言います。
ともかく、〈深呼吸歩き〉によって、みんなで生涯現役をめざしませんか、と永田さんは呼びかけています。

私もつい最近、永田さんの指導を受けて、〈深呼吸歩き〉を始めました。
まだ初めたばかりですが、調子はいいです。

そんなわけで、年の瀬もつまった12月ですが、1回目の〈深呼吸歩き〉ウォーキングサロンを開催することにしました。
サロンではまず前半は、湯島で永田さんの話を聞きながらの質疑応答の後、実際にみんなで〈深呼吸歩き〉で上野公園を歩こうという計画です。

寒い時期のウォーキングですが、〈深呼吸歩き〉で元気になって、新年を迎えたいと思います。
年明け後にも、できれば2回目を企画したいと思っています。

1時間ほどのウォーキングを予定していますので、歩きやすい服装でご参加ください。
参加される場合は、必ず事前にご連絡ください。

〇日時:2022年12月17日(土曜日)午後2時~4時頃
    3時頃から上野公園を中心に実際にみんなで歩こうと思います。
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「〈深呼吸歩き〉、一緒にやってみませんか?」
〇話題提供者:永田茂さん(独自の生命論の研究家・元アニメ作曲家)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5485:まちづくり編集会議の「やりたいこと呼びかけ大会」

節子

今日は我孫子・柏まちづくり編集会議の「やりたいこと呼びかけ大会」の日でした。
今回は、私の入院以来の体調不良で、まったく何もできませんでしたが、当日は出てくるようにと言われていたので、参加させてもらいました。
退院後の体調ももうひと津のこともあって、みんなとても気遣ってくれます。
自宅まで迎えに来てくれました。
申し訳ない話です。

今回は中央学院大学の中川ゼミの先生と学生にも特別参加してもらい、冒頭で話をしてもらいました。
元気であれば、事前に打ち合わせに行って、当日の運営にも関わってもらおうと思っていましたが、これも体調不良でいけませんでした。

しかし今回、何もできなかったことでいいこともたくさんありました。
みんなそれぞれに気づきがあったようです。

改めて自分の年齢の意味が分かってきました。
みんなとても気を使ってくれているのです。
そして年長者の顔を立ててもくれるのです。
これもボランタリーな仲間であればこその話でしょう。

4時間近い集まりでしたが、終始、和やかな雰囲気でホッとする集まりでした。

 

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■岸田首相の裏切りと日本仏教界への期待

岸田政権は、原発政策を反転させようとしています。
広島に基盤を置いている人とはとても思えません。

それにしても、3.11の福島原発事故のことはもう多くの人は忘れてしまったようです。
最近は、堂々と次世代原発が話題になるほどですし、福島事故後の原発運転基準ももう完全に忘れられてしまっているようです。
このことは、当然ながら核兵器政策にもつながっています。

思い出すのは、3.11直後の2011121日、全日本仏教会が宣言した「原子力発電によらない生き方を求めて」です。
もう忘れられてしまった感がありますが、社会への関心を持っているのかと不信感を強めていた日本の仏教界が宗派を超えて宣言したことに大きな期待を持ちました。

その宣言文は、もう忘れてしまった人も多いのではないかと思いますので、冒頭部分と最後の部分を少し引用させてもらいます。
ちなみに全文は全日本仏教会のホームページをご覧ください。
http://www.jbf.ne.jp/info/detail?id=14294

宣言は次のように始まります。

東京電力福島第1原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々は、やり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。
広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

そして宣言文の最後もぜひ思い出したいです。

私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。

宣言は必ずしも脱原発をうたっていませんが、『「いのち」を脅かす原子力発電』という認識に宣言の真意が読み取れるような気がします。

昨今の風潮に対して、ふたたび全日本仏教会が動いてくれることを期待するとともに、私たちももっと、「いのち」に対する大切さを思い起こしたいものです。

私にとっては些末な問題であるコロナにこれほど騒ぐくせに、なぜ日本人は「いのち」をこんなにも軽く扱うのか、不思議でなりません。

 

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2022/12/03

■5484:世界が小さくなりました

節子

久しぶりにインドネシアのチョンさんからメールが来ました。
1年ぶりでしょうか。
元気そうです。
コロナもあって、彼もしばらく日本には来ていませんが、元気そうです。
来年は日本に来たいと書いてありました。

久しぶりと言えば、昨日は東尋坊の茂さんからもメールが来ました。
一昨日、茂さんの最新の著書が届いたので、それをフェイスブックに紹介した反響を受けてのメールでしたが、茂さんもますますお元気のようです。
時評編で紹介しましたが、今度の本はなんと「内閣総理大臣あて」と本の副題にあります。茂さんの気持ちがよくわかります。

ところで今年もまた関東を離れることはありませんでした。
時間的にも空間的にも、世界がどんどん狭くなっている気がします。
困ったものです。

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2022/12/02

■節子への挽歌5483:とうとうコロナに巻き込まれだしました

節子

昨日からもう12月ですが、12月に入った途端に急に寒くなってしまい、もう真冬の寒さです。
昨年からこたつをやめたので、どうも落ち着きません。
なにしろ私はこたつが大好きでしたから。

寒さもあって、今日はどこにも出ずに在宅ですませました。
寒いと動く気になりません。

それだけではありません。
この頃は発熱するとコロナが疑われますので、放置できません。
先週もジュン家族がコロナ陽性者との濃厚接触の関係で、外出不能になりました。幸いに検査結果では陰性でしたが、峰行がレストランをやっているので念のためにお店も休業で、大変でした。

一応、最近はそういうこともあるので、1階と2階とは生活を隔離しています。
私の意思に反しますが、室内でもマスクがされています。困ったものですが。

ところが今度はユカが発熱しました。と言ってもほんの数時間で熱はおさまったのですが、それでそれぞれが自己隔離生活になってしまいました。
明日、ユカはPCR検査だそうですが、これもまた私の意思には合いません。
なんで一瞬の発熱に右往左往するのか、よくわからない。

それもよほどの高熱ならともかく、385分程度が1時間ほどであれば、私の感覚では誤差範囲なのですが。
私と違い、娘たちは几帳面なのです。
これはたぶん節子の血筋でしょう。

まあしかし、そんなわけで、しばらく私も動きがとれません。
幸いにジュン家族がもう解放されたようなので、買い物など引き受けてくれるそうで、餓死自体にはいたらないでしょう。

それにしておかしな社会になってしまったものです。

 

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■どなたかぜひ岸田総理にお伝えいただきたいです

福井県の東尋坊で20年近くにわたって「命の防波堤」になろうと日々見回り活動を続けているグループがあります。NPO法人「心に響く文集・編集局」です。

これまで800人近い人たちに直接声をかけ、それぞれが未来に向けて歩けるように支援してきていますが、その活動によって救われた人はその数百倍、数千倍いるはずです。

そのNPOを立ち上げた茂幸雄さんにお会いした時、「心に響く文集・編集局」という名称に違和感があったのですが、長いお付き合いのうちに、その命名に込めた深い意図がだんだんわかってきました。
テレビなどでは「自殺防止活動」に取り組んでいると茂さんは紹介されることが多いのですが、茂さんが目指しているのは、まさに「心の響き合う文集」を通して、誰もが未来に向けて歩いていけるような社会を実現することなのです。

その茂さんが、また新しい「文集」を出版しました。
「命の防波堤 東尋坊から」ですが、表紙に「親愛なる内閣総理大臣さま」とあります。

いつもながら、茂さんの思いのこもった文章を中心に編集されていますが、最終章の「親愛なる内閣総理大臣さま」には、7つの提案がとても具体的に書かれています。
茂さんらしく、総理大臣に向けて、「東尋坊の「命の防波堤」の一員として命を救ってきている私たちの願いを時間がありましたらお目通し頂けたら幸いであり、回答を求めるものではありませんのでこんな思いで活動している国民も居ることをお知りおき頂けたらと思うところであります」と書いています。
ぜひとも、岸田さんには読んでいただきたく、また茂さんにも会っていただきたいと思いますが、残念ながら私にはその伝手がありません。どなたか岸田さんに茂さんをお引き合わせ頂けないでしょうか。

読んでいただきたいのは岸田さんだけではありません。
茂さんは、東尋坊の岩場で遭遇した自殺企図者たちとの話などから、自殺の背後にある社会問題として、次の7点を指摘しています。

  • 自殺防止活動とは‟人命救助”活動である。
  • 自殺の背後には‟人権侵害”が山積している。
  • 自殺者は、社会的・構造的な組織犯罪の被害者である。
  • 行政機関は、管轄外に住む国民を‟よそ者”扱いにし冷遇している。
  • うつ病などの精神障害者を薬漬けにし、自殺しても‟事故”扱いである。
  • 自殺のハイリスク地における‟安全配慮義務“が忘却されており商業主義に走っている。
  • 新興宗教団体の教義を第三者機関が検証し、科学的に証明ができない部分は騙しの詐欺であり、将来の崇りを告げて相手を脅し金品を提供させる行為は恐喝である。この「詐欺・喝罪」の犯罪行為を行っている宗教団体を公表し排除する。

茂さんは、こうした社会問題にみんなが取り組むことこそが大切だと考えています。そのためにも、全国各地の人たちに本書を読んでもらい、それぞれの地域での「ゲートキーバー」になってほしいと望んでいます。
私もぜひ多くの人に読んでいただきたいと思っています。

下記の東尋坊のNPO法人「心に響く文集・編集局」で実費頒布(1300円)していますので、もし関心を持っていただけたらぜひご購読ください。
http://toujinbou4194.com/

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2022/12/01

■12月のオープンサロンのご案内

今年最後のオープンサロンを126日に開催します。

いつものようにテーマなしの出入り自由のサロンです。

ただできれば、先日の死刑制度のサロンの報告への感想などお聴きできればうれしいです。

〇日時:2022年12月6日(火曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■湯島サロン「死刑制度について考える」報告

「死」を切り口に、「よく生きる」を考えていくサロンの1回目は「死刑制度」をテーマにしました。事前の反応がよかったので、たくさんの参加者があるものと期待したのですが、残念ながら当日の参加者は6人にとどまりました。やはり話し合うにはいささか重く、また縁遠いテーマなのかもしれません。

最初にまず死刑制度に賛成か反対か表明してもらったところ、賛成2に対して反対は4(私も含めれば5)でした。

死刑制度を肯定する理由はいろいろあるでしょうが、一番大きいのは被害者遺族の立場に立ってのことのようです。賛成者は、もし自分にとって大切な人が殺されたら相手を殺したいと思うでしょう、とみんなに問いかけましたが、私も含めてほとんどの人が否定しませんでした。たしかにそういう気分になるかもしれません。少なくとも私はそうです。

しかし、直後はそう思うかもしれませんが、冷静になったら考えは変わるかもしれません。もし仮にそう思って加害者を殺害したら、その罪の意識をも背負うことになり、二重に苦しくなるだろうという参加者もいました。
また、「謝ってほしかった」「なぜあんなことをしたか理由を知りたかった」という被害者遺族も少なくない、という指摘もありました。実際に、すべての被害者遺族が死刑を望んでいるわけでもありません。

ただ今回のサロンに参加した死刑制度支持者のおひとりは、被害者遺族とも直接に交流のある方でしたから、その主張には説得力がありました。

被害者遺族が直接手を下すのはまさに私刑(リンチ)です。それを認めたら社会の秩序は維持できなくなる。そこで当人に代わって、しっかりした裁判の手続きを経たうえで、第三者(制度)によって加害者の命を奪うのが死刑制度のわけですが、それでも実際に死刑を執行する人がいるわけです。その人の気持ちはどうでしょうか。
元刑務官の思いを紹介した新聞記事を読んでもらいました。死刑を執行する刑務官の立場を思うと、私はやはりどこかで間違っている気がします。
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古来の黄金律のひとつに、「自分がされたくないことを人にしてはいけない」というのがありますが、自分ではとても執行できない作業を誰かにやらせるという意味では、この黄金律に反します。

死刑制度は殺人事件に対する抑止力を持つかどうかも話題になりましたが、一方では死刑になりたくて無差別殺人を起こすような事例が出て来ているように、むしろ殺人事件を誘発する面もあることも指摘されました。

世界の潮流に反して、なぜ日本では「死刑制度」が続いているのだろうかに関しては、日本文化が影響しているのかもしれないという話も少し出ました。これは「人権」をどう捉えるかという問題にもかかわっていきます。

死刑制度は、ある条件を満たせば、国家は人を殺すことができるという制度です。
「殺されていい人などどこにもいない」とテレビドラマ「相棒」の右京さんはよく言いますが、彼は死刑制度反対論者なのでしょうか。私はそのセリフを聞くたびに、複雑な気分になります。話が横にそれてしまいました。すみません。

人の命を奪ってはならない、ということは、平和な社会を実現するための基本則のように思いますが、人の命を奪った人の命は奪って良いというのは、私にはどうも理解しがたいものがあります。
そうした「小さなほつれ」や「例外」から、ルールは壊れていくからです。
もし「人の命を奪ってはいけない」ということが絶対禁止になれば、人を殺すことを伴う戦争もなくなるでしょう。逆に、例外的に人の命を奪うことが正当化された社会では、殺人事件もなくならないでしょう。
そういう意味でも、人の命を奪うことは絶対悪とすべきではないか。

冤罪の関係から死刑制度反対を言う人もいます。たしかにこの数年でさえ、冤罪による死刑判決の事例は決して少なくありません。しかし、冤罪を理由に死刑制度を反対するのは、問題を少しずらしているような気もします。

他にもいろんな話題は出ましたが、2時間を超える話し合いの結果、死刑制度への賛成・反対の考えは、話し合い前と誰も変わりませんでした。
2時間程度の話し合いで変わるような問題ではないのは当然です。

死刑制度への賛否に関わらず共通した意見もありました。
それは被害者遺族への理解や支援が弱いということです。
このことが最も大切なことのような気がします。

日本ではむしろ、加害者の人権問題が話題になることが多く、被害者遺族への支援や理解が遅れていたように思います。いや今でも被害者遺族への支援や世間の理解は加害者に関するよりも遅れているように思います。正確に言えば、どう付き合っていいかがわからないのかもしれません。その気持ちを埋めるためにも死刑制度支持へと向かっているとさえ思いたくなる気もします。
しかし、加害者を死刑にすれば、被害者遺族は救われるわけではありません。それはまったく別の問題ではないかと思います。

つまり問題の立て方が間違っているのかもしれません。
被害者遺族をどう支えていくか。それこそが重要な問題ではないか。
私が今回のサロンで一番気づかされたことは、このことでした。

サロンの後、参加者がこんなメールを送ってきました。

「死刑制度」を考えるということは、そこに限定される問題にとどまらないのだということを教えられたような気がします。
今朝の朝日新聞の「天声人語」。若い人たちが「どうしたら平和が守れるのか」と考え始めていること。昨日のサロンのテーマともどこかで繋がって行きますね。
「死刑制度」の問題はこんなにも大きくて、「生死」の根幹をえぐりだす問題だととらえることが出来ました。今までは分かりませんでした。

死刑制度に関しては、まだまだ話し合いたい気がしています。
できればまた機会を創りたいと思います。

 

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