■万葉集サロン24「山上憶良の「貧窮問答歌」」報告
万葉集サロンでは、前回から山上憶良を読み始めていますが、これまで読んできた飛鳥・白鳳時代の歌とは趣が大きく違います。その違いがどうして起こったのか、その背景には、人々の生き方や意識、あるいは社会のあり方や人間関係の変化があるのでしょう。さらに、日本という国が生まれだした事情もありそうです。
万葉集が面白いのは、そうした歴史を読み解くヒントがたくさん含まれているからです。
今回は有名な「貧窮問答歌」です。貧窮を「ひんきゅう」と読むか「びんぐ(う)」と読むか、升田さんは呉音読みの「びんぐ」を選びました。そもそも万葉集は、文字で読むよりも声を出して詠み聞きするのが基本だと升田さんは前に話してくれましたが、「ひんきゅうもんどう」と「びんぐもんどう」と声に出してみると全く印象は違います。文字から読むだけでは万葉集の世界は見えてこないのかもしれません。
さらに、「貧窮」を1語ととるか、2語ととるかで、「問答」の意味が変わってきますが、升田さんは2語ととり、「貧者」と「窮者」のやりとりと捉えて、読み解いてくれました。「貧窮」の意味をどう捉えるかにも少し言及され、それにも関連して、「貧士」を詠った宋の陶淵明にも触れてくれました。
まあこういうことだけでも、当時の人々の生き方や社会のありよう、あるいは当時における「貧窮」の意味が少し見えてくる気がします。
そうした予備知識を踏まえて、升田さんは「貧窮問答歌」をていねいに読んでくれました。
まず前半は「貧者」からの問いですが、そこには「我を措きて人は在らじと誇ろえど」とあるように、生きる支えとしての自分の誇りが示されているのに対して、後者の「窮者」の答には「人皆か吾のみや然る」と窮しているのは自分だけではないと思わないと生きていけないという意識(目線)の違いが現れています。生きる上で大切な2つの要素が見事に対置(あるいは並置)されています。
形式的に言えば、ひとつの歌の中に詠み手が2人いるわけです。さらに2人の詠み手を取り上げてうたっているのですから、第3の読み手も想定できます。
神に向けて詠んでいた歌、あるいは自分だけで思いを吐露していた歌、さらにはみんなで誦詠していた歌謡とはまったく違った歌(世界)の登場のような気がします。
「問答」の意味も違ってきたのです。横目線や斜め目線が生まれてきた。
つづく短歌(反歌)では「世間(世の中)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」とうたわれていて、そこに憶良の究極の人生観が詠われています。「飛びたちかねつ 鳥にしあらねば」、と。それは、生への執着。辛いけど生きるというのはそういうことだという人生観です。憶良の歌を読んでいく時には、この言葉を思い出すのがいいかもしれません。憶良は鳥にはなれなかったのです。
貧窮問答歌の最後に「山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る」とあります。
この歌は、ただ嘆いているだけではなく、誰かに向けての訴えなのです。
こんなに民が飢えと寒さに苦しんでいるのに、その実態をわかっているのか、という怒りを私は感じますが、それを訴えるに足る人がいない嘆きかもしれません。
憶良はただ貧窮を見ていただけではないのです。
とまあ、極めて簡単に(いささか不正確に)言えばそんな話を、升田さんは貧窮問答歌を解きほぐしながら解説してくれました。
升田さんの話は多岐にわたったので、その一部しか紹介できないのが残念です。
たとえば最後の短歌に「やさし」とありますが、これはいま私たちが使っている「優しい」という意味ではなく、人々の見る目が気になって身もやせ細る思いがするという意味で、「恥(やさ)し」「恥ずかしい」ということだという話もありました。
言葉の意味は時代によって変わってきますが、そうしたことからも社会の変化や時代時代の人々の生き方も見えてくるように思います。
ちなみに、憶良が貧窮問答歌をうたった時期は、社会が大きく変わろうとしていた時代です。数年前には、憶良とも交流があったであろう長屋王が政治争いの中で自殺し、藤原氏の時代へと大きく動き出し、また国家体制を整える必要から平城京の造営のため、各地の農民は駆り出され、その上、日照り続きや寒気の襲来などの天候不順もあって、住んでいたところから逃げ出す農民(「山沢に亡命する民」)も多く、不穏な状況にあったのです。そうしたなかで行基による民衆への仏教の伝播も始まっていました。
筑前の国守として赴任した憶良には、都での宮廷人たちとは違った風景が見えていたはずです。しかもそこに大伴旅人がいた。考えるとどんどん想像は膨らみます。
貧窮問答歌を読んだ後、参加者からさまざまな「憶良像」が出てきました。
前回のサロンで、憶良の生い立ちや経歴などはお聞きしていましたが、前回読んだ歌から伝わってくる憶良の人柄とはまた違った一面が見えてきたように思います。
参加者が語る憶良像はさまざまで、とても興味深いものでした。
升田さんは、憶良は自分の奥にある自分と常に問答していたと言います。人間をどう捉えるか、生きるとは何か。前回も話題に出たように、憶良は仏教にも儒教にも通じていた人ですが、そうしたものの教理に従うだけではなく、自らの問いとして自らの答を求めていた。そして、単なる記号としての文字ではなく、自分の思想としての言葉を生み出し、使っていた、と升田さんは言います。
自分との自問自答をつづけ絶えず葛藤しながら、そこから得たものは、たとえば仏教的な「無常観」ではなく、生活者としての「無常感」だったのではないか、と。
前回、憶良は長い序をつけて、そこに理を書いて、歌の方はそこから離れた人間としての自らの思い(情)をうたう、という話がありました。
みずからの思いを言葉にするには、自分との対話が必要です。そして、自分と対話することで、憶良は自分の中にもう一人の自分を見る。さらに、他人も見えてくるようになる。「わ」をとりまく「た」も多様化する。
今回は、そうした「わ」と「な」と「た」の話はあまり出ませんでしたが、「わ」の奥の「わ」との対峙、「な」と対峙することでみえてくる「わ」、「た」の多様化から可視化されてくる「な」と「わ」、というようなことが間接的に示唆されていたように思います。
さらにそこから、家族や国という存在も見えてくることも升田さんは示唆していたような気もします。いささか読みすぎかもしれませんが、さらに憶良を読んでいくことで、そういうことも見えてくる気がします。
また升田さんは、言霊と同時に、文字の力もあると言います。憶良は「言葉」だけではなく、「文字」の力も知っていて、言葉の霊力と文字に書いて見せた時の力との狭間の中にいたのではないかと升田さんは言います。
憶良は渡来人として漢語にも通じていたはずですが、日本列島で使われていた言葉が、文字との出会いの中で、大きく変わっていった経緯が憶良の歌に読み取れるのかもしれません。
長くなってしまいましたが、なにしろ毎回、升田さんの話は広範囲に広がるので、消化するのが追いつきません。これでも話のほんの一部だけなのです。しかも私流にかなり歪曲しているかもしれません。文責はすべて私にあります。すみません。
この報告を流そうと思った直前に、升田さんから次のようなメールが届きました。
(古代人は)生活の手立てもなかったから貧しくてかわいそうだと憶良は言っていない。
みんなで緩やかに共生することによって、貧窮を上回る幸せを生きている人間。その人間への眼差しは深くて優しい。「貧窮問答歌」の本質は、こんな風に言えるのではないかと思います。憶良は、人間の弱さと強さを見続けた。憶良にとっては、政治も宗教も上回るものが歌(文学)だったのだと思う。
とてもよくわかります。
万葉の歌を私たちはどうしても現代の感覚で読んでしまいがちですが、注意しなければいけません。
私が報告すると何やら難しくなってしまいがちですが、万葉集サロンは気楽なサロンですので、ぜひ気楽にご参加ください。
ちなみに次回は2月12日(日曜日)です。
2023年から万葉集サロンは偶数月の第2日曜開催が基本になりました。
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