■湯島サロン「死刑制度について考える」報告
「死」を切り口に、「よく生きる」を考えていくサロンの1回目は「死刑制度」をテーマにしました。事前の反応がよかったので、たくさんの参加者があるものと期待したのですが、残念ながら当日の参加者は6人にとどまりました。やはり話し合うにはいささか重く、また縁遠いテーマなのかもしれません。
最初にまず死刑制度に賛成か反対か表明してもらったところ、賛成2に対して反対は4(私も含めれば5)でした。
死刑制度を肯定する理由はいろいろあるでしょうが、一番大きいのは被害者遺族の立場に立ってのことのようです。賛成者は、もし自分にとって大切な人が殺されたら相手を殺したいと思うでしょう、とみんなに問いかけましたが、私も含めてほとんどの人が否定しませんでした。たしかにそういう気分になるかもしれません。少なくとも私はそうです。
しかし、直後はそう思うかもしれませんが、冷静になったら考えは変わるかもしれません。もし仮にそう思って加害者を殺害したら、その罪の意識をも背負うことになり、二重に苦しくなるだろうという参加者もいました。
また、「謝ってほしかった」「なぜあんなことをしたか理由を知りたかった」という被害者遺族も少なくない、という指摘もありました。実際に、すべての被害者遺族が死刑を望んでいるわけでもありません。
ただ今回のサロンに参加した死刑制度支持者のおひとりは、被害者遺族とも直接に交流のある方でしたから、その主張には説得力がありました。
被害者遺族が直接手を下すのはまさに私刑(リンチ)です。それを認めたら社会の秩序は維持できなくなる。そこで当人に代わって、しっかりした裁判の手続きを経たうえで、第三者(制度)によって加害者の命を奪うのが死刑制度のわけですが、それでも実際に死刑を執行する人がいるわけです。その人の気持ちはどうでしょうか。
元刑務官の思いを紹介した新聞記事を読んでもらいました。死刑を執行する刑務官の立場を思うと、私はやはりどこかで間違っている気がします。
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古来の黄金律のひとつに、「自分がされたくないことを人にしてはいけない」というのがありますが、自分ではとても執行できない作業を誰かにやらせるという意味では、この黄金律に反します。
死刑制度は殺人事件に対する抑止力を持つかどうかも話題になりましたが、一方では死刑になりたくて無差別殺人を起こすような事例が出て来ているように、むしろ殺人事件を誘発する面もあることも指摘されました。
世界の潮流に反して、なぜ日本では「死刑制度」が続いているのだろうかに関しては、日本文化が影響しているのかもしれないという話も少し出ました。これは「人権」をどう捉えるかという問題にもかかわっていきます。
死刑制度は、ある条件を満たせば、国家は人を殺すことができるという制度です。
「殺されていい人などどこにもいない」とテレビドラマ「相棒」の右京さんはよく言いますが、彼は死刑制度反対論者なのでしょうか。私はそのセリフを聞くたびに、複雑な気分になります。話が横にそれてしまいました。すみません。
人の命を奪ってはならない、ということは、平和な社会を実現するための基本則のように思いますが、人の命を奪った人の命は奪って良いというのは、私にはどうも理解しがたいものがあります。
そうした「小さなほつれ」や「例外」から、ルールは壊れていくからです。
もし「人の命を奪ってはいけない」ということが絶対禁止になれば、人を殺すことを伴う戦争もなくなるでしょう。逆に、例外的に人の命を奪うことが正当化された社会では、殺人事件もなくならないでしょう。
そういう意味でも、人の命を奪うことは絶対悪とすべきではないか。
冤罪の関係から死刑制度反対を言う人もいます。たしかにこの数年でさえ、冤罪による死刑判決の事例は決して少なくありません。しかし、冤罪を理由に死刑制度を反対するのは、問題を少しずらしているような気もします。
他にもいろんな話題は出ましたが、2時間を超える話し合いの結果、死刑制度への賛成・反対の考えは、話し合い前と誰も変わりませんでした。
2時間程度の話し合いで変わるような問題ではないのは当然です。
死刑制度への賛否に関わらず共通した意見もありました。
それは被害者遺族への理解や支援が弱いということです。
このことが最も大切なことのような気がします。
日本ではむしろ、加害者の人権問題が話題になることが多く、被害者遺族への支援や理解が遅れていたように思います。いや今でも被害者遺族への支援や世間の理解は加害者に関するよりも遅れているように思います。正確に言えば、どう付き合っていいかがわからないのかもしれません。その気持ちを埋めるためにも死刑制度支持へと向かっているとさえ思いたくなる気もします。
しかし、加害者を死刑にすれば、被害者遺族は救われるわけではありません。それはまったく別の問題ではないかと思います。
つまり問題の立て方が間違っているのかもしれません。
被害者遺族をどう支えていくか。それこそが重要な問題ではないか。
私が今回のサロンで一番気づかされたことは、このことでした。
サロンの後、参加者がこんなメールを送ってきました。
「死刑制度」を考えるということは、そこに限定される問題にとどまらないのだということを教えられたような気がします。
今朝の朝日新聞の「天声人語」。若い人たちが「どうしたら平和が守れるのか」と考え始めていること。昨日のサロンのテーマともどこかで繋がって行きますね。
「死刑制度」の問題はこんなにも大きくて、「生死」の根幹をえぐりだす問題だととらえることが出来ました。今までは分かりませんでした。
死刑制度に関しては、まだまだ話し合いたい気がしています。
できればまた機会を創りたいと思います。
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