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2023年1月

2023/01/31

■第21回益田サロン「ウイルスを改めてもう少し理解しよう」のご案内

細菌学者の益田昭吾さんによるサロンも21回目になりました。
回を重ねてきているものの、途中からの参加者も多く、改めてもう一度、原点に戻って、ウイルスとは何かをテーマにしたいと思います。
予備知識がなくてもわかるように話してもらおうと思いますので、これまでいささか敷居が高いと感じていた方もぜひ気楽にご参加ください。

細菌とウイルスは時々混同されますが、別の存在です。
益田サロンのテーマでもある「生物と環境」ということで言えば、たとえば細菌を宿主、つまり「環境」とするファージというウイルスもいます。その細菌は人間を宿主(環境)にするわけですが、そうした多層的な生物と環境との関係は、人間社会のさまざまな問題を考えるヒントを与えてくれるような気がします。

益田サロンは、ただ病原体についての知識を得るサロンではありません。益田さんの一般向けの著書「病原体から見た人間」(ちくま新書)の表紙には、こんな文章が書かれています。

病原体の多くは私たちの身体を環境としていながら、人間の身体を破壊し、極端な場合には生命まで奪います。このような病原体の振る舞いは、「環境あっての生物」という原則に反しているようです。一方、「我こそは地球上の代表的な生物」と自惚れている人間もまた、自然環境を破壊し続けてやみません。

ではどうしたらいいか。

病原体から学ぶことはたくさんあります。
まずは手始めに、改めてウイルスへの理解を深めたいと思います。
ウイルスは決して人間にとって悪い存在だけではないのです。
物事すべてに裏もあれば表もある。
そういう理解が深まれば、昨今のコロナ騒ぎへの対処法も変わるかもしれません。

ウイルスとは何か、ウイルスのようなものがどうして出現してきたのか。
そのウイルスとどう付き合ったらいいのか。
そんなことを考えながら、私たちそれぞれの生き方を考えるヒントを得られればと思います。

〇日時:2023年2月26日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ウイルスを改めてもう少し理解しよう」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2023/01/30

■湯島サロン「安楽死・尊厳死について考える」報告

「善く生きる」を考えるサロンの2回目は「安楽死・尊厳死」を切り口にしました。室田一樹さんがわざわざ京都からこのサロンのために話題提供に来てくださいました。

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室田さんは、家族や愛犬の死にまつわる体験から話を始め、「私にとっての安楽死とはどういうことか」、そして「自死の選択も人権ではないか」という話をした後、「私にとって〈善く生きる〉とはなにか」をご自分が接してきた子どもたち(室田さんは保育園の園長でもあります)のエピソードを通して語ってくれました。

10人の参加者がありましたが、世代も生き方も違うので、「安楽死」への関心の所在もさまざまで、話し合いも「安楽死の制度化」の是非を議論するというよりも、それぞれが自らの生き方を振り返るような、そして先行きを考えるようなやりとりも多かったです。

話し合いがかなり進んだところで、みなさんに制度としての安楽死への賛否を聞きましたが、室田さんを含めて賛成6、反対5でした。
要するに、積極的安楽死の合法化を望んでいる人のほうがわずかとはいえ多かったのです。正直、これは私には意外でした。

今回は30代から80代まで、さまざまな年齢の人が参加していましたが、安楽死の捉え方や距離感は大きく違っているはずです。
それに安楽死と言うと身体的な苦痛との関係で考えがちですが、精神的な視点で安楽死を考えている人もいるでしょう。室田さんは、「やり残したこと」や「さらにやりたいこと」の有無、あるいは家族や周辺の人との関係にも言及されましたが、それもまた安楽死を考える重要なテーマかもしれません。そうなるとますます「生き方」が問題になってきて、次回予定している「孤独死」の問題ともつながっていくように思います。

自らの尊厳を保ちながら、苦しむことなく心穏やかに死を迎えたいというのは、すべての人の望むところでしょう。これには反対する人はまずいないでしょう。そういう意味では、誰もが「安楽死」を望んでいると言っていい。
そして、生きることと死ぬことは誰かに管理されるのではなく、自らで決めていきたいということにも、おそらくほとんどの人は反対しないでしょう。
問題は、そういう生の終わり方をどういう形で迎えるかです。
自分でそういう生き方ができるのかどうか。誰かの助けが必要なのかどうか。

「安楽死」を迎えられるような生き方こそ、大切ではないかと、私は思っていますが(そして実際にそういう生き方に努めていますが)、そういう発言に対しては、それはきれいごとだと参加者からひと言で切り捨てられてしまいました。
それが難しいからこそ、もうどうしようもなく苦しくなったらあるいは生きることが難しくなったら、安らかに死ねることができる保証が欲しいというのです。私にはそれこそが、自ら生きることの放棄であり、不要に誰かの世話になるような行為だと思えるのですが、あまり賛同は得られませんでした。

参加者の一人が、いま死に直面しているか、あるいは死にたいと思っている人にとっては安楽死は切実な問題だろうが、そのどちらでもない自分は安楽死の是非を問う前に、死の前にある生を「どう善く生きるか」のほうにより関心がある、と発言されました。まさにいまをどう生きるかを精一杯模索している人も、安楽死など多分考えることなどないでしょう。今回、たまたま東京に出てきたので、テーマも意識せずにサロンに参加した参加者がいたのですが、彼女にとってはおそらく考えたことなど全くないテーマだったかもしれません。しかし、後で安楽死に関するさまざまな意見を聞いてとても面白かったとメールをくれました。やはり、死を考えることは生を考えることなのです。

「安楽死が認められればより善く生きられるようになる」「楽に死ねるという担保があれば生きるのも楽になる」という発言もあり、それに賛成する人も複数いました。それに対しては疑問も呈されましたが、穏やかな死が善く生きることを保証するというところに何かとても大切な示唆があるような気もします。私は逆に、善く生きることこそが穏やかな(身体的苦痛も緩和される)死を保証すると確信しているのですが。

また、もし自らの生や死を自らで決めたいのであれば、制度としての安楽死によって、自らの生を他者にゆだねていいのか、という気はします。それに安楽死に加担した人の気持ちを思うと、やはり私にはできないことです。
自らの死ぬ権利という話題が時々湯島でも出るのですが、安楽死の合法化は果たしてそれに当てはまるのかどうか。むしろ逆なのではないかと思うのです。

来週、日本でも公開される映画「すべてうまくいきますように」のフランソワ・オゾン監督が新聞のインタビューに答えて「僕は自分の意思で人生を終わらせる自由を持つべきだと思う」と話しているのを新聞で読みました。
私もそう思っていて、自分の生は自らで終わらせたいと思っているのですが、しかし自殺や安楽死制度頼みにはしないつもりです。

ではどうするか。いやそれ以上に、果たしてそうできるのか。
正直、自信があるわけではないのですが、そういうことを目指して生きています。
そういう生き方が大切だと思っているのです。

また個人的な視点での報告になってしまいましたが、改めて、心穏やかに生を全うすることを目指す生き方の大切さを確信させられたサロンでした。

安楽死問題が提起している問題に正面から答えていないのではないかと言われそうですが、話し合いの中で参加者それぞれがそういう問題を考えるきっかけを得たのではないかと思います。もちろん簡単に答えが出る問題ではありませんし、一つの答があるわけでもない。でも生き方を考える切り口のひとつとしてはとても大切だと思います。生々しい個人のお話をしてくださった室田さんに感謝したいです。

生き方は世代によってやはり大きく違うことも今回気づかされました。
私はもう80歳を過ぎてしまいましたが、生き方にはこれまで以上に注意していこうと思っています。そして、心穏やかに死を迎える生き方とはどういうことなのかを改めて考えてみようと思っています。

「善く生きる」サロンの3回目は、225日、孤独死が切り口です。
みなさんの参加をお待ちしています。

 

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2023/01/28

■第1回リンカーンクラブ例会サロンのお誘い

先日、湯島のサロンで、リンカーンクラブ代表の武田文彦さんに、新著「日本政治の解体新書」のお披露目も含めて、リンカーンクラブの紹介をしてもらいましたが、その時に武田さんから呼びかけがあった、リンカーンクラブの例会サロンをはじめます。

日本の政治状況を変えるためには、大同小異で行かなくてはいけません。

1回目は、改めてリンカーンクラブの紹介と活動に向けての考え方などを武田さんから説明してもらった後、武田さんの「日本政治の解体新書」を読んだ方にはその感想を話していただき、まだ読んでいない方には、リンカーンクラブへの期待や関心のある政治課題などを話していただき、それらを踏まえて、これからのリンカーンクラブの活動展開に関して話し合う予定です。

今回は1回目なので、特にテーマを決めずに話し合いますが、次回からは、具体的なテーマを決めて論議していく予定です。

リンカーンクラブに入会をご希望の方はもちろんですが、いまの日本の政治状況を変えていきたいと思っている方はぜひご参加ください。前回の武田さんのサロンに参加されなかった方も、気軽にご参加ください。

なお、今回も武田さんの「日本政治の解体新書」は特別価格(4000円)で販売するとのことです。

〇日時:2023年2月18日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ(今回は特にテーマを決めません)
・「日本政治の解体新書」読後感
・日本の政治状況で気になること
・リンカーンクラブ例会サロンの進め方などの話し合い
〇話題提起者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2023/01/27

■湯島サロン「看取られながら人生を終わりたくないですか」のお誘い

昨年末放映されたテレビドラマ「ザ・トラベルナース」は、現在の医療制度のあり方への問題提起を含意する示唆に富むドラマでした。ドラマが始まったころに、突然の入院を体験した私としては、毎回、深くうなずきながら観ていました。

その最終回に、ハッとするシーンがありました。
何時も実に明るく、自らの死にも悟りきっていると思えるナース(中井貴一さんが魅力的に演じていました)が、死を直前に、自分が陰ながら育ててきたナースに本音を言うのです。「一人で死ぬは怖い、あなたに看取られたい」、と。
まあドラマの筋から言えば、これは極めて不正確な紹介なのですが、それはともかく、私はこの言葉にハッとしたのです。

私は、死に関しては比較的達観しています。
死は怖くもないし、むしろある意味では歓迎でもあるのですが、この言葉に、私もまた一人で死ぬのは嫌だなと気づいたのです。

私は両親と妻を見送っていますが、いつもそこに家族みんながいました。
いずれも私は看取ることができました。でも私の場合はどうでしょうか。
伴侶がいなくなって娘たちもそれぞれの生活を持っている今、私を看取ってくれる人が必ずいるとは言えません。これまで、「看取ること」はよく考えましたが、「看取られること」は考えたことがなかったのです。

最近、私の周辺にも独り暮らしの友人が増えてきました。
一昨年、そうした友人の最後に付き合いましたが、看取ることはできませんでした。
前日、彼のところに行き、とてもいい時間を過ごし、彼が笑顔で元気そうになったので、そのまま私は帰宅したのですが、翌朝、彼は逝ってしまいました。
前日の笑顔を思いだすと悔いはないのですが、でも一人で行くのはどういう気持ちだったのか。

よく人は死ぬときは誰でも「独り」だと言いますが、私はその言葉を全く受け入れられません。人はいつでも「独り」ではないというのが私の信念です。いつも誰かと共に生きている以上、死ぬときだっていつも誰かと一緒です。しかし、その誰かが死の間際に手を握ってくれるとは限らない。
そう思うと、やはりドラマの中井貴一さん演ずる静さんの本音がわかる気がします。

長々と書いてしまいましたが、そんなわけで、「善く生きる」をテーマにしたサロンの3回目は、「孤独死」をテーマに取り上げます。
長年この問題に取り組んでいる北原千香子さんに、無理を言って、最初の問題提起をお願いし、あとはみんなで自由に話し合えればと思います。
どうしたら、最後にだれかに手を握ってもらえるだろうか。

いつも以上に重い話ですが、できればそれを明るく軽やかに話せないか。そう思っています。

〇日時:2023年2月25日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「看取られながら人生を終わりたくないですか」
〇話題提供者:北原千香子さん(無縁化防止団体OMUSUBI代表)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■個人判断してはいけない時代だったことに気づきませんでした

新型コロナウイルス感染症に対する政府の方針が変わることになりました。

今朝の朝日新聞の見出しには、「コロナ5類移行 マスクは個人判断」と出ていました。本文には、「マスクの着用は、屋内外を問わず、原則として個人の判断にゆだねる方針だ」と書かれています。

驚きました。
私自身は、これまでもマスクの着用は「個人判断」だと思っていたからです。
私の認識違いだったようです。
ですからどこでもみんなマスクをしていたのですね。

まさに日本の社会は国家管理体制にあった。自分では判断しない人が多かったわけです。世界で一番新型コロナの被害が大きかったわけがやっとわかりました。
自己判断しないで生きている人が自分を守れるはずはありませんから。

心配なのは、一度、自己判断をやめた人は2度と自己判断できなくなるのではないかということです。考えすぎでしょうか。
マスクをしろと言われればマスクをし、ワクチンを打てと言われれば個人の状況など考えずにワクチンを接種し、病気になれと言われれば身を犠牲にして病気にもなる。戦場に行けと言われれば戦場にも行くでしょう。何しろ個人では判断しないのですから。恐ろしい社会です。でもまあ、個人で判断しなくてもいいのですから、生きやすいのかもしれません。

しかし、マスク着用は自己判断していいよと言われて判断するのですから、それは本当の意味での自己判断ではないでしょう。もうこの日本には、自分をしっかりと生きている人は少なくなったのでしょう。自己判断するかどうかまで、政府が指示してくれる。
ますます病気が増えそうで心配です。

ちなみに私は、自己判断してはいけなくなっていたのに気づかず、この3年間も自己判断してきました。
自己判断し、風邪はもちろん、新型コロナウイルス感染症にかからないように十分に注意してきました。おかげでこの3年間も元気できました。
もちろんこれからもこれまで以上に注意するつもりです。
なにしろ自己判断しないで生きている人が多いことに気づかされましたので、注意しないと私も巻き込まれて、病気になりそうですから。

 

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2023/01/26

■国家の安全保障のために政府には「機密」があってもいい、という「常識」

「嘘つきは政治家のはじまり」を常識にするような社会にはしたくないと書きましたが、それに関連して、いつも気になっている、もう一つの「常識」のことも書くことにしました。

国家の安全保障のために政府には「機密」があってもいい、という「常識」です。
この「常識」も私には受け入れられません。

もしその常識を認めるのであれば、情報公開での黒塗り資料も、その多寡はともかく、認めなければいけません。そして、政治家の嘘も、いくらでも言い訳ができるようになるでしょう。
さらにいえば、そういう常識がある限り、情報公開制度は無意味ではないかという気さえします。誤解のないように言えば、もちろん「無意味」ではありませんが、この言葉の真意を受け止めてもらえればうれしいです。こういう言葉じりでコメントをくださる方もいますが、どうかご容赦を。

政府の嘘には2つあります。
事実とは違うことを発表する嘘と事実を隠す嘘です。

私自身は、統治を任した政府が国家機密という名目で情報を隠蔽する行為は嘘つきと同じだと考えています。
しかし、安全保障や国家統治上、公開してはいけない情報はあるだろうと多くの人は言います。そう言われるとそうかなとついつい思ってしまいますが、本当にそうでしょうか。その情報を公開して困るのは、本当に多くの国民なのでしょうか。

むかしの話ですが、1917年、ロシア革命成就後に、レーニンは、「平和に関する布告」を発表し、秘密外交の廃止を唱え、すべての交渉過程を「全国民の面前で完全に公然とおこなう」ことをロシア労農政府の原則として宣言しました。つまり、政府の行動すべてを人民に対して「開く」という宣言をしたわけです。

書く以上、一応確認しておこうと思って、手近にあった加藤典洋さんの「戦後入門」(ちくま新書)で確認したのですが、上記の文章はそこからの引用を基本にしています。

そしてその文章に続いて、同書には「その重大性を受けとめたからこそ、アメリカのウィルソン大統領は2か月後に年頭教書のかたちで発した14か条の平和原則の第1に、自分もやはり、秘密外交の廃止をうたったのでした」と書かれていました。つまり当時は国民主権国家においては国家機密は必ずしも「常識」ではなかったのです。
それがいつから常識になったのか。

それにつづいて加藤さんの「戦後入門」には面白いことが書かれていました。
前に読んでいるはずですが、忘れていました。

第二次世界大戦の戦争遂行の内奥には、大いなる「秘密」が、ある時点から居座るようになります。それが原爆の開発、製造から使用にいたる、ルーズヴェルト主導による一大極秘の「マンハッタン」プロジェクトにほかなりません。

大いなる「秘密」。
「陰謀論」は、ここから国民主権国家政府にも広がりだしたのではないか。ルーズヴェルトならやりかねないでしょう。

ルーズヴェルトの嘘については、この2年ほど、数冊の本を読みましたが、やはり国家機密と称して嘘をつき事実を隠すと、結局、国家そのものが危うくなっていくような気がしてなりません。
政府の情報はすべて、主権者に公開すべきではないかと思いますが、どうでしょうか。

ちなみに私は、スターリンやルーズヴェルトと同じく、日本では小泉純一郎が、嘘を政府の根幹に置いた人だと思っています。
これは多分全く受け入れられないでしょうが。

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■「嘘つきは政治家のはじまり」にしてはいけません

統一教会との関係が問題になっている細田衆院議長が、24日に行われた与野党の代表者への説明会の中で、2019年に旧統一教会の友好団体が開催した会合に出席し「安倍首相(当時)に早速報告したい」と挨拶したことについて、「この団体が安倍元首相に近い団体というのは知っていたので、リップサービスとして言った。ただ安倍元首相には報告していない」と述べたそうです。

多くの新聞が、そのことをさらっと流しているのが、とても気になります。とても聞き流せるような話ではない。しかも発言者は立法の長たる衆議院議長です。

リップサービス。要するに嘘をついたということです。リップサービスなどという表現に騙されてはいけない。リップサービスは嘘とは違います。言葉は正確に使わなければいけません。まあそのこと自体も、いまや軽んじられていますが。

単なる私人なら嘘も時には許されるかもしれませんが、公人としての政治家は嘘をついてはいけません。残念ながら政治家とは嘘をつくものだという「常識」が広がっていますが、責任ある人が嘘をついたら社会は成り立たなくなります。どんな犯罪さえも否定できなくなる。「嘘つきは泥棒のはじまり」という教えがあるように、犯罪のほとんどは、嘘から始まりますから。
いまは「嘘つきは政治家のはじまり」と言い換えたほうがいいかもしれません。嘘にまみれた政治家が社会を統治していると思えば、最近の犯罪の広がりや経済の劣化もまた、「時代の流れ」かと諦めてしまいたくもなります。

しかし、一昔前の政治や経済では嘘は現に戒められていた。その基本になったのは、「信頼」であり「誠実」だったと思っています。
でもそれが今や失われようとしている。
いや失われてしまった。

嘘が見逃される風潮の中では、嘘つきが主流になっていく。
そのうちに、学校で「嘘のつき方を教えるようになるかもしれません。
そんな悪い冗談さえ、なんだか真実味をもってきてしまう。

その流れに巻き込まれないようにしないといけません。

 

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2023/01/25

■You tubeを金儲けの手段にしてほしくありません

回転寿司の店舗での横取りやワサビ乗せの動画が話題になっています。

You tubeでの閲覧者を増やすために、こうした動画づくりに取り組むyou tuberが増えているようです。
こういう事件がなぜなくならないのか、どうしたら減らせるのか、は簡単です。でもだれもとめようとしませんし、むしろ増やそうという動きの方が多いような気もします。その根底にあるのは、こうした行為の深刻さへの認識が足りないからだと思います。

犯罪と言われる行為の評価基準に関しては、私と日本の司法界とでは全く違うようなのですが、私自身は時には「ある種の殺人」(例えば介護疲れややむにやまれずの結果)よりもこうした行為の方が社会を壊す意味では重罪だと思っています。
ですから、たとえば今回の横取りやワサビ乗せ行為者は、少なくとも1年以上の実刑としての懲役刑と罰金刑を重複で課すべきかと思っています。無期懲役刑もあってもいいと思うくらいです。なぜなら、被害は社会そのものを壊すことであり、特定の人たちに留まらないからです。
まあ、あまり賛成は得られないでしょうが。

幸いに今回は、被害を受けた会社(はま寿司)側が、当事者からの謝罪で許すことなく、訴えると言っています。そう決断したはま寿司に拍手したいです。
テレビでも映像が出ていますが、顔が隠されています。これもいつも不満で、本人がyou tubeで顔を出しているのであれば、テレビでも顔を出すべきです。無人販売所からお金も払わずに商品を持ち出す映像も時々テレビで流れますが、この場合も顔を出しません。そうしたマスコミの「過剰な気づかい」にもいつも違和感を持ちます。
まあそれはそれとして、みんななぜ「加害者」にこんなに気を遣うのか、私には理解できません。もしかして加害者の仲間なのでしょうか。

話がずれました。戻します。

こうした行為を過熱させる原因の一つは、you tubeへのアクセス数が多ければお金が入るからです。たしかにネットのおかげで、すべての人が情報発信者になれる時代です。それはとてもいいことだと思いますが、それを金儲けの手段にするのは問題が多すぎます。

近代社会の産業は「問題解決」型であるがゆえに、市場を拡大するためには問題を創り出せばいいという構造になっていますが、私はそれを「産業のジレンマ」と呼んでいます。ドラッカーがいったように、顧客を創造すれば、つまり必要もない人に必要性を感じさせれば、経済はいくらでも成長するのです。私はそんなことは「経営」だなどとはどうしても思えないのですが、you tubeは顧客創造の手段としては実に好都合なツールのような気がします。でもそれでいいのか。そろそろドラッカーの弊害に気づくべきではないのか。

また書きすぎました。
しかし、今回の横取り・ワサビ乗せ動画の投稿者のような人は、社会を壊す存在です。千丈の堤も蟻の一穴より崩れることを忘れてはいけません。そういう人が生まれる素地を広げているYou tubeの課金システムにはどうしても批判的になってしまいます。

もちろんYou tubeそのものを批判しているのではありません。社会を豊かにし、安心したものにしていくために活動しているYou tuberも決して少なくありませんから。
私が批判的なのは、安直にお金を稼ぐ仕組みと生き方です。

 

 

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2023/01/24

■第25回万葉集サロン「作られてゆく憶良」のご案内

万葉集サロンは偶数月の第3日曜日が基本ですが、今年最初の万葉集サロンは第2日曜日の212日にさせてもらいました。
案内が遅れてすみません。

昨年に引き続き、しばらくは山上憶良を取り上げていく予定ですが、今回は「作られてゆく憶良」をテーマに、「筑前国志賀白水郞歌十首」(巻十六-38603869)を取り上げます。この歌を私は知りませんでした。憶良には他にもまだ私でも知っている有名な歌がありますので、3回目がまさかこの歌とは思って思いませんでした。

この歌は、憶良の作だと左注にはありますが、作者、構成(歌の順序)などに問題の多い歌のようです。憶良の歌は、そのほとんどが巻五に収載されているのに、この歌は巻十六にあります。巻十六は特殊な歌を集めた巻だそうですが、その意味でも謎があると升田さんは言います。
今回はなんと謎解きみたいな話サロンになりそうです。

どんな謎なのか。そして、「作られてゆく憶良」とはどういうことなのか。
升田さんは、この歌を通して、人々が憶良をどのような歌人だと受け止めていたのかを知ることができたら、逆に憶良の人間性がよりはっきりと浮き彫りにされてくるのではないかといいます。
なんだか、私が知らなかった憶良に会えるようで、興味津々です。

というわけで、今年もまた、ただ歌を鑑賞するだけではない、升田万葉集サロンが始まります。
万葉集を読んだこともない方も、読み込まれている方も、私のように歌心など全くない人も、それぞれに楽しめるのが升田万葉集サロンです。
みなさんの気楽なご参加をお待ちしています。

〇テーマ:「作られてゆく憶良」
〇日時:2023年2月12日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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2023/01/23

■湯島サロン「『日本政治の解体新書』を出版して」報告

久しぶりのリンカーンクラブ代表武田文彦さんのサロンは10人を超す参加者で、話し合いも(反論異論もあって)盛り上がり、武田さんが持ってきた「高価」な新著(4000円!)も完売でした。さらに武田さんの呼びかけによって、リンカーンクラブ活動再開に向けての定例会が2月から開催されることになりました。

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サロンの後、武田さんから、これからの活動に向けて大きな力をもらったと参加者に謝意を伝えてほしいと連絡がありました。参加者のエール(反対論も含めてです)のおかげで、民主国家に向けての武田さんの「熱量」はさらに高まったようです。

武田さんは、「民主主義的政治は政治家ではなく国民が決める政治」でなければならないという、いつもの話から始めました。

しかし政治を変えていくためには、目指すべき国のあり方を具体的に示すことも必要だと考えて、今回の著書では理念に加えて具体的政策を書いたら1000頁を超す大著になってしまったのだそうです。それは読んでもらうとして、と言って、サロンでは基本的に大事な3点だけ話してくれました。

まず第1は、「誰かが決めてしまう政治ではなく、主権者である国民みんなで決める政治の実現」です。一挙には難しくても、現行の選挙制度を少し変えるだけでもそうした政治には近づけるはずだと武田さんは言います。

次に、国のあり方に関して、2点だけ話しました。「目標としての平和国家」と「食料自給と資源(エネルギー)の安定確保の重視」です。その根底には、当然、主権国家としての対米従属からの自立が含意されています。

具体的な政策や国のあり方になると、さまざまな意見があるでしょう。本書での武田さんの提案もその一つですから、当然賛否が分かれるでしょう。しかし、そういう異論反論をぶつけ合いながら、誰もが政治決定に関われる政治を目指したいというのが、武田さんの思いなのです。
たとえば、今回もいささか極端の事例として核兵器保有の是非が話題に出されましたが、最初から核兵器絶対反対というのではなく、賛否いずれの人も相手の意見に耳を傾けて一緒に考えようというのが、「みんなで決める政治」なのです。
そのためには、少なくとも重要な政治課題については直接主権者の手で決められるという選択肢がなければならないというのです。
みんなでは決められない問題もあるのではないかという議論もありましたが、武田さんの出発点は、あくまでも「みんなで決める政治」です。

すべての人が同じ一票をもつ「みんなで決める政治」が本当にいいのか、という問いも参加者から出ました。
たしかに、「みんなで決める政治」、つまり民主主義に対する肯定的な評価が広がったのは、たかだかこの2世紀くらいの話です。武田さんはみんなが決める政治ならば「戦争」は起きにくいだろうと言いますが、9.11直後のアメリカや敗戦直前の日本でもし国民投票を行ったら多くの人は戦争を選んだかもしれません。現に今もそういう雰囲気がないとは言えません。

「みんなで決める政治」が「みんなにとって善い結果」につながる保証はありません。しかし、なにが善いのかどうかを決めるのは至難のことです。みんなで決めた結果がみんなにとって悪い結果にならないようにすることは当然のことですが、そうしたことも踏まえて、善い悪いもみんなで決めようというのが武田さんの思いです。
それこそが、国民主権国家の民主政治のあり方だというわけです。

ちなみに今回の武田さんの新著は、「近代日本は実に高低差の激しい2つの革命を迎えることになった」という文章で始まります。2つの革命とは明治維新と敗戦です。そして、明治維新の77年後に敗戦、奇しくも昨年は敗戦から77年。武田さんは、そこから今こそ「第三の革命」が起きる時期だと考えているのです。
その革命を、主権者の自覚と気づきに基づいた選挙という手段を通して起こそうというのが本書の主張です。そして自立性の高い国家体制の建設を目指す。その革命を、選挙、民主主義、平和、科学の頭文字をとって、武田さんは、E(DPS)革命と呼びます。

詳しくは武田さんの本をお読みください。

ちなみに、武田さんの新著の帯にはこう書かれています。

敗戦後今日までの自由民主党政治を分析すれば、日本国憲法に対する殺意、治安維持法への回帰希望、森友学園と加計学園に見る政治の私物化、旧統一教会との根深い癒着体質、2世と芸能人の跋扈する国会議員団、ただ紙幣を印刷するだけの紙幣印刷財政、「アメリカ様お助けくださいませぇ」条約に依存しきる安全保障策等々、こんな政治的状況がいつまでも続いたら、日本はどうなるのか。そしてどうすればいいのかを考えたのが本書である。

武田さんの熱い思いのこもった話はなかなかうまく伝えられませんが、もし今の日本の政治状況を変えたいという武田さんの思いに関心を持ってもらえたら、是非リンカーンクラブにご入会下さい。

入会してくださった人たちを中心に、武田さんは、これから毎月、「日本政治の解体新書」を題材にして、話し合い、実際の活動に移していく場を定期的に開催する予定です。

また改めてご案内しますが、第1回は2月18日(土曜日)の午後を予定しているそうです。いまの政治状況に満足していない方はもちろん、政治を変えたいと思っている方はぜひご参加ください。「みんなで決める政治」を実現するためには、みんながその気にならなければいけません。

またリンカーンクラブや新著に関する問い合わせは、リンカーンクラブ専用電話(080-2237-3940)で武田さんにご照会ください。

なお、武田さんの新著『日本政治の解体新書』(5500円)は楽天でも購入できますが、湯島にも置いています。湯島では4000円で購入できますので、ご希望の方は湯島に来た時にお申し出ください。売上金はリンカーンクラブの活動資金になりますので。
https://books.rakuten.co.jp/rb/17389219/

 

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2023/01/21

■湯島サロン「NPOで(ボランタリーに)〈働く〉ということ」報告

〈働く〉をテーマにしたサロンの3回目は、長年ボランティア活動をしている島村八重子さん(全国マイケアプラン・ネットワーク)と須田正子さん(よりあい*ええげえし)のおふたりに話題提供をお願いしました。

おふたりとも、私には〈働く〉を楽しんでいるように思えます。長年のお付き合いですが、その働きぶりはますます広がり、その人生もますます豊かになっているような気がします。おふたりにとっては、生きることと働くことが見事に重なっている、そんな気がいつもしています。

しかし、おふたりとも、その〈働く〉活動は金銭的なものを目的にはしていません。「働く=お金を稼ぐ」と考える人も少なくないと思いますが、おふたりの働きへの動機や意欲は金銭とは無縁のようです。

では、そのおふたりにとって〈働く〉とは何か。

働くとは「社会に働きかけること」と島村さんは言います。働きかけるとはどういうことか、さらに島村さんは「社会に自分の力を還元すること」と言い、同時に「社会から自分の力を高めてもらうこと」とも話してくれました。
須田さんは、働くとは「自分が育つこと」だと言います。そしてご自身の体験からこんな話をしてくれました。義父の介護を通して、義父から学んだことがたくさんあると話してくれたうえで、世話になること、死んでいくことを見せることも「働く」ことではないかと言うのです。島村さんも同じように考えています。

老親の介護は大変だとよく言われますが、おふたりにとっては、大変ではあれどそれ以上に積極的な価値ある活動だったわけです、おふたりが、いまのような生き方、働き方になった契機も、義父の介護にあったというのです。つまり、義父が〈働いてくれた〉おかげとも言えるでしょう。

私も、社会とのかかわりのなかで〈働く〉を考えていますが、おふたりの〈働く〉観をつなげて考えると、自分と社会(他者)とのかかわりのなかで、自分にも社会(他者)にも価値が生まれ育っていく、そんなイメージが持てます。働くとは単なる時間と金銭の交換ではないのです。誰もが働けますし、お金を稼いでいても働いていないこともある。いわゆる「ブルシットジョブ(役に立たない無駄な仕事)」は、いかに報酬が高価だとしても、私には〈働く〉ことではありません。
おふたりの考えは、私の考えている〈働く〉と重なっています。つまり、このテーマのサロンの趣旨を見事に象徴してくれているように思います。

ちなみにおふたりとも、組織の雇用労働で働いていたこともあるのですが、そこで得たものもとても大きかったと言います。島村さんはそこで、働くための知恵や技を身につけたと言います。組織で働くことの意味は大きい。
島村さんはこんな話もしてくれました。

主婦の時は、島村の妻、子どもたちの母、近隣にとっては**町のあの家に住んでいる人、という、固有名詞のない存在でした。それが、組織やPTAで役員になることで、
誰かの〇〇ではなく名前を持った存在になり、行動半径も劇的に広がった。そのおかげで、さまざまな人との出会いのが増え、その重なりのおかげで人生がますます豊かになってきた。それで今の自分がある。

しかし同時に、組織の持つ限界やデメリット、組織のなかで構築される上下関係や管理指向にも気づいたようです。そのためかどうかわかりませんが、おふたりはいま、法人化されていないゆるやかな任意団体のグループを拠点にして働いていますが、グループが法人格を持っていないことで困ったことはないと言います。おふたりとも、制度としての組織ではなく、実質的な組織(仲間)を時間をかけて育ててきているのでしょう。

家事労働に関しても話題になりました。
専業主婦の家事仕事は、金銭評価されないことが問題になりますが、どうも問題の本質は違うところにあるのではないかということに気づかされました。

他にもさまざまな話題がでました。
おふたりの活動の話もとても示唆に富むものでした。全国マイケアプラン・ネットワークの活動もよりあい*ええげえしの活動もそれ自身が実に興味ある活動です、関心のある人はそれぞれのサイトをご覧ください。

全国マイケアプラン・ネットワーク
http://www.mycareplan-net.com/
よりあい*ええげえし
https://eegeesi.com/

改めて〈働く〉とは何かを考えさせられるサロンでした。
参加者が少なかったのが、実に残念です。もう一度、同じテーマに挑戦したいと思っています。
どなたか話題提供してくれる人を探しています。

お話を聞きながら、最近、福祉関係のサロンをあまり開いていないことにも気づきました。コロナに対する心理的免疫もかなりできてきたようなので、またコムケアサロンを再開しようと思います。
話してもいいという方がいたら、ぜひご連絡ください。

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2023/01/20

■第20回益田サロン「破傷風菌における自己とは何か」報告

今回は破傷風菌を切り口に、改めて「自己とは何か」について考えるサロンでした。

案内文にも書きましたが、破傷風菌は自らの内にある毒素が宿主である人間や動物を殺し、その死骸から大量の栄養を得ることによって、破傷風菌が大増殖し存続していくことを可能にしますが、毒素を外部に出して破傷風を発症させるためには、自ら崩壊しなければいけません。宿主が死亡して大量の栄養を提供してくれる時に、毒素を発した破傷風菌はその恩恵は享受できないのです。恩恵を享受できるのは、毒素を出さなかったほかの破傷風菌なのです。
この場合、「自己」というのをどう考えればいいのか。これが今回のテーマです。

自己保存本能を持っているはずの生命体が、自らを破壊してしまう。これをどう考えればいいでしょうか。
たしかに、毒素を放出した破傷風菌は存在できなくなりますが、それによって種としての破傷風菌は大量の栄養源を得て大繁殖します。だとすれば、破傷風菌における自己保存は個のレベルではなく、種のレベルで機能すると考えられます。
となれば、破傷風菌における「自己」とは何か。

自らを犠牲にした破傷風菌と恩恵を受けた破傷風菌とはどういう関係になるのか。そして、保存された「生命」とは何なのか。
破傷風菌にも「個性」があるかどうかは私にはわかりませんが、毒素を放出して死んだ破傷風菌と恩恵を享受する破傷風菌が全く同じだとも言い切れないでしょう。それらが違う行動をとるのは、同じ破傷風菌でありながら、与えられた「役割」や置かれた「環境」が違っているからかもしれません。

これと似た話は、人間社会にもあるような気がします。
仲間のために自らを犠牲にしたという話はよく聞きます。組織(仲間)を守るために自らの生命を断つことさえ起きている。病原体の話を聞いていると、実に人間社会とつながってくることが多いのです。

益田さんは、一つの破傷風菌を見ていても破傷風のことは分からない。実在するのは種としての破傷風菌、いわばコミュニティではないかと言います。
さらに、益田さんはこうも言います。生物と環境の関係もまた同じではないか。自己非自己もまた同じ。すべて関係だけが実在しているのではないか。

個体としての生命と種としての生命。
個人としての自己とコミュニティの一員としての自己。
個々の自己は種、あるいはコミュニティに包摂されていて、個体として単独では存在していない。そういう生命の持つ本質を、破傷風菌は教えてくれているような気がします。

自己は他者があってこそ成り立つ概念ですが、環境も含めて生命を捉える「環世界」という概念もあります。自己をどう規定するかで環境もまた決まってくる。
破傷風菌の行動は、私たちの生き方や社会のあり方を考える上でもいろんな示唆を与えてくれるような気がします。

さらに言えば、私たちは破傷風を引き起こすものを「毒素」と呼んでいますが、種としての破傷風菌にとっては、その毒素こそが増殖の基盤を与えてくれる「益素」(そんな言葉があればですが)になっている。こういう事例は、人間社会にもよくある話です。

益田さんがいつも言うように、病原体から学ぶことはたくさんある。
病原体のマイナス面だけ見て、そこから学ぼうとしない姿勢(たとえば「ゼロコロナ発想」)には私は大きな違和感を持っています。

益田サロンでの話し合いの内容を伝えるのは毎回難しくて、いつも私の感想が中心になってしまいます。益田サロンではもっと様々なことが語られているのです。関心のある方は、ぜひご参加ください。

なお、益田サロンは、次回から改めてもう一度、原点に戻って、ウイルスとは何か、病原体とは何か、そして人間とは何かを考えることになりました。
私たちは、あまりにウイルスのことを知らなさすぎる。怖がっているばかりでは、それこそ「善い関係」は構築できません。もっとウイルスや病原体のことを理解したいと思います。

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2023/01/17

■国会議員ローテーション制度に賛成します

またれいわ新選組が、物議をかもす方針を打ち出しました。
同党の参院議員の水道橋博士さんが体調不良で議員辞職することになったのを契機に、 議員ローテーション制度を導入すると発表したのです。

水道橋博士さんは昨年の選挙で比例当選していますので、辞職に伴い、同党の議員席は選挙で次点だった大島九州男さんの繰り上げ当選によって確保されます。

そこまでならこれまで行われていたことなのですが、昨日の記者会見で、山本太郎代表は、これを契機に、1年程度で辞職と繰り上げ当選を繰り返させる「ローテーション制度」を導入すると発表しました。
これに対して、立憲民主党や共産党は「違和感」を表明していますが、私は「目から鱗」がおちた感じで、改めてれいわ新選組の知恵に感心しました。

ネットで調べたら、「法政大大学院の白鳥浩教授(現代政治分析)は取材に「参院比例代表では非拘束名簿式を採用しており、政党名でなく個人名で投票する有権者もいる」と指摘した。れいわの構想に関し「政党の論理による手法で民意がないがしろになる。不適切だ」と話した」という記事もあり、政治学者にもあまり評判はよくないようです。しかし、政治学者のほとんどは体制維持のために存在しているわけですから、現状を変えようという動きには概して否定的なのは当然でしょう。

一時期、首相が1年おきに代わる状況が日本で発生した時も、世論はあまり肯定的ではありませんでしたが、私はとてもいいと思っていました。
古代ギリシアでもローマでも、執政官は1年単位でしたし、いまもたとえば、サンマリノ共和国では国家元首も政府代表も半年単位で交代しています。

最近読んだ國分功一郎さんの「スピノザ」(岩波新書)にも、「スピノザはマキャヴェッリに言及し、「国家には、人間の身体と同様に、「時々清めなければならぬ何ものかが毎日溜まる」のである」と書いている」とありました。
もし国会議員が国民を代表するのであれば、在任期間が6年というのはいかにも長い気がします。ルソーも、国民が主権者になるのは選挙の時だけだと言っていますが、代表を選ぶことが大変だった時代は、そうちょいちょいとは選挙は出来なかったのです。
しかし、「権力は腐敗する」とよく言われるように、国会議員になってしまうと、たぶん特別扱いされて、人はどんどん変わってしまうものです。

それに、いろんな人が国会議員の立場で国政に関わることの意味はとても大きいと思います。
ちなみ統治の継続性に関しては、しっかりした官僚制度(行政制度)があれば問題はないでしょう。今の日本の官僚制度は崩れに崩れているとは思いますが、それもまた立法制度を担う議員の職業化・世襲化とつながっています。

今回の議員ローテーション制度に対する評価や意見で、政治家や政党、あるいは政治学者が考えている政治の姿が見えてきます。

國分さんは先の「スピノザ」の最後で、スピノザの『国家論』を紹介していますが、そこで、『国家論』が民主国家の章で中断しているという事実には、スピノザの「私に代わって民主国家を論じてくれ」というメッセージが含まれているのではないか、というようなことを書いています。
最近は「民主政治」の評判があまりよくないようですが、おそらくそれは「似非民主政治」が横行しているためでしょう。

国民一人ひとりの意見が政治に届くようにするにはどうしたらいいかを真摯に考え続けている山本太郎さんたちに、いつも希望を感じ、元気をもらっています。
すでに90年前の大政翼賛会国家に向かっている日本をとどめているのは、私には今やれいわ新選組だけではないかと思えてなりません。

 

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2023/01/14

■湯島サロン「DSの陰謀が見えてきた!?」報告

陰謀論にもつながるサロンは、毎回、参加者が増えてきています。いうまでもなく、このサロンは、陰謀論そのものをテーマにはしていません。むしろ、真の陰謀を隠すための「陰謀論」から、その背景にある事実を考えようというのがサロンの趣旨です。

今回も、北川さんと中島さんから話題提供をしていただきました。
おふたりの姿勢は真反対です。

北川さんは、気になる事実を克明に集める中で、それを整理し、実際に何が起きているかをあぶりだしていく「帰納的」なアプローチです。それに対して中嶋さんは、陰謀論仮説を参照しながら「演繹的」に事実を整理していくアプローチです。

陰謀論は物事に対する疑いから出発しています。たとえば、ケネディー暗殺に関して発表された報道に納得できなかったり、9.11事件の世界貿易センタービルの崩壊の様子に納得できなかったり。北川さんの場合は、2019年の米国大統領選挙の結果だったようです。
中嶋さんの場合は、諜報関係(陰謀論ではありません)の書籍との出合いで、そこから世界を動かしている黒幕は誰かという問題意識を持って情報収集を始め、自らの仮説を構築しながら、その検証に取り組んでいます。演繹的というよりも仮説推論的というべきでしょうか。
ちなみに、いわゆる「陰謀論」に対するおふたりの受け止め方は対照的です。

しかし、そのおふたりが行き着くところがつながっていくところに面白さがあります。もちろんおふたりの話をどう受け止め、つないでいくかは参加者それぞれによって違います。なにしろ「陰謀論」とは、自分が納得できる「物語づくり」でもありますから。

今回は北川さんがまずは、安倍元首相の襲撃事件、コロナパンデミックとワクチン利権などに関して、一番納得できると思われる見方を詳細なデータや関係者の発言なども入れながら解説してくれました。また北川さん自身が注目し参照している情報源の紹介もしてくれました。
そしてDSにつながるような話として、20世紀後半に進められた「グロバーリズム」の動きを整理してくれたうえで、いまや地球には「国家」を超えたさまざまな勢力集団があると指摘し、コロナ・ワクチンやウクライナ侵攻の話の後ろに見える、そういう集団の動きを紹介してくれました。

つづいて中嶋さんが、自らの仮説から、そういう動きの背景や意味を整理し、そうした事態にどう対処していけばいいかの示唆を出してくれました。要は与えられた「物語」に従って行動するのではなく、おかしいと思ったら自分で調べて判断して行動しようというのがおふたりのメッセージです。
いわゆる「陰謀論」は、思考を抑える狙いがありますが、逆に思考を起動させる契機にもできるのです。陰謀論は、まさに「両刃の剣」なのです。

おふたりがお話になった内容は省略しますが、関心のある人には北川さんのレジメを送らせてもらいますので、ご連絡ください。

話し合いは、おふたりの話を補強する情報も含めて盛り上がりました。昨今のような「情報」があふれる状況では、多くの人が気になった情報を出し合うことの意味は少なくありません。同じ情報も人によって解釈は違っていますから。

また切実な問題として、コロナ・ワクチンの怖さも話題になりました。
実際の被害が周辺に起こりだしている人も最近増えていると思いますが、そういう時にどうしたらいいかも、話題になりました。そういう情報はもっと広げていきたいですが、気楽に話し合える場は決して多くはありません。しかも、自発的に封じられがちな状況が広がっています。

今回はDS(ディープステート)そのものについての話はあまり出ませんでしたが、「さまざまな意図」が複雑に絡み合っているということが見えてきたように思います。個々の「事件」や「事象」だけを見ていると気づかないこともあります。「陰謀論」の是非はともかく、ちょっと違った視点で物事を考えることや、与えられる情報だけではなく、気になったら自分で情報を探しに行くことも必要です。

おかしいと思ったら調べてみる。
調べてわかったことを周辺に伝えていく。わからなかったら周辺に問うてみる。
そういうことを本音で話し合える場をつくっていく。さらにはそこでの情報を公開し、さらに広く集まるような情報バンクを育てていく。
そういう仕組みがほしいですが、しかし実際にはそうした仕組みを創るのは難しい。偏ったり、論争になったり、玉石混交してわけがわからなくなったりしがちだからです。
ですから、また時々こういうサロンを開かなければいけません。

困ったものです。

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2023/01/11

■布教が目的になってしまえば人の救済にはなりません

自宅でパソコンに向かっていたら、玄関のチャイムが鳴りました。
荷物が届いたのかと出てみたら、エホバの証人の布教にまわっている人でした。

以前はよく回ってきていましたが、コロナ流行からは途絶えていました。
2~3人の女性たちがグループで回っているのです。
各戸訪問は大体においておひとりです。

じっくりと対応したこともありますが、最近は私は真言宗徒だと言ってお断りしています。
でも今日はついつい余計なことを言ってしまいました。
統一教会でも話題になっているように、お子様たちのことをしっかりと考えられた方がいいですよ、と。
今回は子連れではなかったのですが、時に子供連れのこともあったのを思い出したのです。

一瞬、相手の動きが止まりましたが、すぐに、出てきてくださってありがとうございますとていねいに言って、次のお宅に向かいました。
なんだか余計なことを言ってしまったようで、後味がよくありません。
相手も私に対してそう思ったかもしれません。

こうして回ってくるのはエホバの証人だけではありません。
倫理協会だとか早起き会だとかも含めて、いろんな人がきて、出なくても小冊子をポストに入れていくこともあります。
そんな時間と小冊子をつくるお金があれば、もっとやれることがあるだろうといつも思いますが、そういう人たちにとっては、それこそが価値ある仕事なのでしょう。
仕事の価値は、人によって全く違いますから。

自分の信仰を他者に勧めるのは決して悪いことではありません。
しかし、戸別訪問までしての布教活動には不快感があります。
いつもこうした人の訪問を受けた後味がとても悪いからです。
一人住まいで暇を持て余している人を相手にした悪徳商法のような気もしてしまいます。

そもそも布教が目的になってしまえば、人の救済にはなりません。
要するに自分のための利己行為でしかありません。相手の都合への配慮もない。

私は、信仰や宗教には高い価値を感じています。
しかし、信仰は商品ではないので、戸別訪問には適しません。
自己満足のための行為としか思えない。
こういう人たちが、善意のもとに、信仰や宗教を貶めているような気がします。

なにやら不快感が残ってしまったので、ついつい書いてしまいました。

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2023/01/10

■自らを恵まれた場所に置いていると事実は全く見えてこない

今日もまた日差しの強いあったかな日です。
と思って、実は薄着で散歩に出かけました。
ところが部屋の中での感じと外はかなり違っていて、風も強いし空気も冷たい。
身体が冷えて風邪を引きそうな気がしたので、慌てて散歩は中断。予定のコースとはまったく違ったコースで20分で戻ってきました。

教訓。
自らを恵まれた場所に置いていると事実は全く見えてこない。

 おそらく私がいろいろと偉そうに書いていることの多くは、当該の現場にいる人たちから見たら、まったくのピント外れの論考が多いのでしょう。
注意しなければいけません。
でもまあ、だからと言って、私が思ったことを発言しないのがいいわけでもありません。
ひとつの見方としては意味があると思うからです。

でも今日の外は寒かったです。
陽射しに恵まれた暖かな部屋で見ていては、それはまったくわからない。
同じように、マスコミ報道の事件の現場から遠くにいる私には、世界はほんの一部しか見えていないのでしょう。いや今日の私のように、現場とは真反対の風景を見ているのかもしれません。
ウクライナ戦争も中国のデモも、北朝鮮の国民生活も、ブラジルの騒ぎも、マスコミ報道だけで決めつけないようにしようと思います。

今日はしかし、久しぶりの道を歩いてきました。
以前はよく犬の散歩で歩いていたところです。
様子は大きく変わっていましたが、変わっていないところもありました。

その一つが、成田山恵勝寺。わが家のすぐ近くです。
以前、その由来などに関して近くの知人から聞いたのですが、うろ覚えなので、ネットで調べてみましたが、なぜか縁起など全く記事が見つかりません。
住宅街の中の小さなお寺なのですが、新勝寺ともゆかりがあるはずです。
少し離れたところに大きな駐車場もあって、以前、そこが満杯になっていたこともありました。

我孫子は何かと成田山とは縁があります。
我孫子の湖北地区の人たちは、成田山新勝寺にはお参りに行きません。
それどころか、湖北にある観音寺の観音様は、成田山の方向から顔をそらしているのです。

これは以前も書きましたが、平将門に関係しています。成田山新勝寺は、将門調伏を祈ったので、将門の居城があったこの地域(この説は我孫子まちづくり編集会議仲間の戸田さんの主張です)の人たちは、新勝寺が許せないのです。
今年は、観音寺も含めて将門ツアーウォーキングを企画しますので、詳しくはその時に。

そこから自宅に戻ってくる途中で、手賀沼が見えました。
風が強いので湖面が波立っていて、ちょうど大河の流れのようです。
凪いでいる時の鏡面のような手賀沼とは全く違います。
寒い中をしばらく見ていました。いろいろと思うことがあったのです。

というわけで、今日は3000歩しか歩きませんでしたが、気がついてみたら、時間は40分。
身体は冷え切ってしまいました。
実は今日はもう一つの健康法の週一断食を再開する予定でしたが、早々と挫折し、食事もしてしまいました。困ったものです。

金銭の呪縛どころか、寒さにも耐えられず、食欲も抑制できずに、いまもまたお煎餅を間食しています。
心を改めるために、これから抹茶を淹れて一服しようと思いましたが、ともかく寒いので、簡単な珈琲にしてしまいました。
やっと身体があったまってきました。
風邪は大丈夫そうです。

見かけや報道に騙されてはいけません。

 

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■ふるさと納税制度の罪深さ

私は日本の税制度には大きな違和感があります。
まるで江戸時代の悪代官の悪行のような気がしてなりません。
その証拠に、節税や脱税が後を絶ちません。節税講座さえ行われている状況です。
納税へのモチベーションは、私にはほとんどありません。

消費税に関しては前にも何回か書いたことがありますが(私の思考の中では究極の悪税です)、もう一つ拒否感があるのが、「ふるさと納税制度」です。
はじまる前はむしろ、そういう制度づくりに賛成していたのですが、どうもまったく私が思っていたものとは違ったものができてしまった気がします。

今朝の朝日新聞に、『ふるさと納税 町村15%「赤字」』という記事が出ていました。
この見出しでもわかるように、「ふるさと納税」は収益を目指す事業で、NPM(ニューパブリックマネジメント)ブームの中で生まれてきた制度です。

「税」という言葉があるので、税制と勘違いする人もいるかもしれませんが、寄付の一種で、日本の税制の寄付金控除を活用した事業です。ただ、赤字に関しては、私たちが政府に支払っている税金から補填されますので、税金の「使途」のひとつと考えていいでしょう。その意味では税制度と無縁ではありません。

今のふるさと納税は、各自治体の返礼品競争になっているため、寄付額の一部は寄付者と地元の企業に向かい、行政費用には向かいません。つまり税としては使えないということです。しかもそこで発生した「赤字」は税金で補填されますから、自治体にはリスクはほとんどないのです。

それはまあいいとしても、ふるさと納税でほかの自治体にどう勝つかに行政職員は頭と時間をつかうわけです。職員には、もちろん私たち国民の税金が仕事をお願いするために給与を払っているわけですが、その貴重な頭と時間が、なないやらバカらしい見返り品競争へと向いているわけです。それが本来の仕事だとは私には到底思えません。もっとやるべき仕事があるでしょう。
もちろんそれによって地場産品が育ったり、地域の魅力が磨かれたりすることもあるでしょう。しかし、そのための制度としてはいかにもお粗末だと思います。
だからこういう赤字結果が多くなるのです。

日本では「民営化」というと、「お上」から「民」が取り戻したという肯定的なイメージが強いですが、そこでの「民」は国民ではなく、「企業の株主」なのです。
そこを勘違いしては行けません。

国鉄の民営化も郵貯の民営化も介護の民営化も、その実は市場化であり、資本に主権を譲りわたしただけの話で、私たち「民」からはむしろ遠い存在になったのです。
言葉に騙されてはいけません。

日本の税制は、ますます「富裕者」のための制度に向かっているような気がします。
ふるさと納税制度も、その例外ではなく、表向きの理念とは別に、社会の汎市場化、金銭社会化に向けてのまやかしの制度のように思えるのです。
日本の主権は、日本政府になく、アメリカ軍にあるという意見もありますが、状況はもうそんな段階をとおに越しています。

故郷のために寄付したいのであれば、見返りを求めてはいけません。
ただ寄付すればいい。それだけの話です。
新しい制度は必ず誰か富裕者が入り込んで、「中抜き」の仕組みを作りますから。

たくさん反論がきそうですが、この件に関してはコメントへのリコメントは行いませんので、あしからず。文字のやりとりは最近疲れてしまいます。
もしどうしてもいう方は湯島に話しに来てください。

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2023/01/09

■月収5万円でも豊かに暮らせる社会

一昨日会った友人から聞いたもう一つのうれしい話です。
いささかプライバシーにかかわる話ですが、まあいいでしょう。

彼女は昨年、伴侶を見送りました。
現在の定期的な金銭収入は年金ですが、月額5万円ほどらしいです。
私の3分の1です。

ところが、私と会うと、私の方がお金持ちだからと言ってご馳走してくれることもある。
それに私と会う時には必ず何かを持ってきてくれます。買ったものではありませんが。
私はそれに対してお返しをした記憶がありません。
まあ、お互いそんなことは気にしません。

彼女は5万円もあれば、お金が余ってしまうというのです。
私の場合は年金15万円弱ですが、ある事情があって、実際の可処分所得は10万円弱です。固定資産税の負担時期など、年に何回か、厳しい時はありますが、でも自宅ですし、最近はお金のかかる仕事はしていませんので(地方にも出かけられませんが)、なんとかやれています。でもまだお金が余るところまではいっていません。

でも、5万円の収入でも彼女はお金が余るというのです。
彼女のことだからあまったら誰かに回して役立てているのでしょう。
そして実に豊かな暮らしをしています。
私よりもはるかに行動範囲は広く、海外も含めてよく出かけています。

5万円でどうしてと思われるかもしれませんが、前「牛とひよこの話」を思い出してもらえれば、お金などはさして問題ではないことがわかってもらえるでしょう。
お金がなくても、きちんと生きていれば、お金が必要になるとどうにかなるものなのです。お金は「天下のまわりもの」ですから。

5万円のベーシックインカムならば、今の財政状態でも実現できるはずです。
ベーシックインカムは現実性のない政策だという人もいますが、国民みんながその気になれば簡単に実現できるのです。
その気になるということは、みんなが生き方を変えるということです。
月収5万円で幸せに生きる。彼女のような生き方です。

日本には空き家が溢れるほどありますし、廃棄している食材もたくさんある。エネルギーの浪費は目に余るものがありますが、そうした社会のあり方を少し組み替えれば、そして多くの人がその気になれば、できるはずです。
いや今のような忙しく労働する生き方を変えるだけで金銭出費はかなり抑えられるでしょう。

でもそうなると、いわゆる富裕族の人たちは困るでしょう。
彼らの生きがいは、貧困者の存在なのですから。貧困者がいなければ富裕者は生まれないのです。彼らのことも少しは考えてやらなければいけません。

しかし、金銭的貧困者が、豊かな暮らしをするようになれば、たぶん世界は平和になるでしょう。富裕層が羨むような豊かな生活を実現すればいい。
だとしたら、まずは自らが金銭的貧困者になることです。
それはそう難しいことではないでしょう。ただ、いまの社会では金銭なしに生き続けることは簡単なことではない。それなりの準備がいる。

私は20年かけてようやくここまで来ましたが、残念ながらこれまでの生き方のつけもあって、なかなか彼女のようにはなれません。まだ金銭の呪縛から自由にはなれていません。自分が満足できる仕事もできない。時にお金が欲しくなる。
困ったものです。

でも幸いなことに、私も彼女と同じように、それなりに豊かな暮らしをしています。
人並みに、悩みもほどほどにありますし、健全な老化も進んでいる。それもまた「豊かな生き方」の条件だと思っています。
「バブルな生活」をしていたころが、時に懐かしくなってしまうような未練がましさも残っていますが、まあ何とか幸せでもある。

生き方を変えれば、誰でも幸せになれる可能性がある。
格差社会と言われていますが、今はそんな社会でもあるような気がします。
バブル時代を生きてきた私にもある程度できるのですから、いまの若い世代ならもっと自然にできるでしょう。
金銭依存から離れる人が増えれば、社会はもっと豊かになる。

5万円で十分だと言い切る彼女の話を聞いていて、無性にうれしい気持ちになりました。
今までは信頼だけでしたが、ちょっと彼女に尊敬の念を持ちました。
もちろん本人にはそんなことは絶対に言いませんが。

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■節子への挽歌5510:人嫌いに陥っていた1日

節子

昨日のサロンはたくさんの人がやってきました。
しかし、人と会うのはそれなりに疲れます。
良いこともあれば悪いこともある。

いろんな人がいて、どうしてもいろんな面が見えてくる。
ともかく人の良い面を見るとともに、好きになれない面にも良いことを見つけようとする生き方をつづけていますが、最近はどうもそれが難しくなってきている様な気がします。だからきっと疲れるのでしょう。

節子もよく知っているように、世界には「悪い人」はいないというのが、私の考えの出発点です。「悪い人」と思いたくなる人も、すき好んでそうしているわけではなく、状況の中でやむを得ずそうなってしまっているというように考えようというわけです。

もちろん私にも、「好きな人」もいれば「嫌いな人」もいます。でもだからと言って、「嫌いな人」を避けるわけではありません。「嫌いな人」にも必ず「好きになれる面」があるからです。そしてそれを見つけたら、その面と付き合うようにすると「嫌いな人」も好きになれると思っているのです。
まあ絶対に成功するわけではないでしょうが、私の場合、ほぼ成功しています。

もっともそうした中で、先方の方から私から離れていくことも少なくない。つまり相手もまた私が嫌いだったのでしょう。その場合は、「去る者は追わず」です。
でもなぜか、数年後、数十年後に、先方から会いに来ることも多いのです。

好き嫌いとは別に、他にも疲れることはたくさんあります。
そこでどうしても「ストレス」が生じてしまう。
節子がいた頃は、私のそうしたストレスは、形になる前に節子が解消してくれた。
あるいは私のストレスを節子にぶつけることで解消していたのかもしれません。
これはいまでいえば、DV論議につながりかねませんが、節子はすべてを受け入れてくれていました。

いろいろと書きましたが、いずれにしろ昨日は疲れてしまいました。
疲れるとすべての人が嫌いになってしまう。
それが、節子がいなくなってから私に起こった変化です。
いわゆる厭世観、人嫌いの状況です。
もっともこれは1~2日で自然解消して、また人に会いたくなる。

でも今日は誰にも会いたくないほどの人嫌いに陥っています。
散歩にも出たくないので、丸一日、自宅に引きこもっていました。
困ったものです。

でもおかげで、夕方には解消。
パソコンを開いて、メールにも対応する気分になりました。

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■とてもいい話を聞いてわずかな時間幸せになりました

誰にでもいると思いますが、私にも完全に信頼できる友人が何人かいます。
そういう友人のひとりから昨日、とてもうれしい話を2つ聞きました。
昨日は、そのおかげで少しだけですが、幸せな時間を過ごせました。

その一つを紹介します。
その友人は夫婦で農業に取り組んでいます。
牛(肉牛)を飼っていますが、子どもが生まれました。
それを知った彼女の友人が、その牛をくれないかと言ってきたそうです。

彼女は、夫に訊いてみたらと答えたそうですが、夫は「いいよ」と言ったそうで、牛はその友人のものになりました。
数日して、その人は鶏のひよこを30羽持ってきたそうです。
その人は養鶏業を営んでいて、これから牛も買いたいと考えているようです。

牛一頭とひよこ30羽が同価値かどうかなどと考える文化は、私の友人たちにはないようです。というか、彼らには、そもそも「交換」とか「贈与」という経済概念で語られるような関係もないのでしょう。柄谷行人さん風に言えば、そこにあるのは「交換様式D」かもしれません。

さらにこの話は続きもあるのですが、それはともかく、友人が言うには、友人夫婦と養鶏業の人との間には、こうしたやりとりはあるものの、そこに金銭は一切入ってこないのだそうです。
私があこがれている人と人とのつながりのスタイルです。

ちなみに、この話は1年ほど前の話のようですが、件の牛はまだ友人の農場にいるそうです。養鶏場にはまだ牛を飼う場所ができていないので、預かっているようです。
つまり、彼らには所有の概念もないのかもしれません。
こんなことが私の身近にもまだあることを知って、昨日はとても幸せになったのです。

しかし、すぐそのあと、湯島で「陰謀論サロン」がありました。
そこで私の「幸せな気分」は壊されてしまいましたが、でもまあ自然にも「陰謀」、つまり見えない謀、言い換えれば人智では察しえない力があるのですから、陰謀が悪いわけではありません。みんなよかれと思ってやっているのですから。

でもなぜ人は、自分は信じられても他者は信じられないのか。
さびしい話です。

農場をやっている友人も、養鶏業の人も、幸せでしょうね。
見習わなければいけません。

養鶏業の人に引き取られた牛の母牛には、数年前に私も会いました。

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2023/01/08

■湯島サロン「仕事の対価をどう考えるか」のご案内

1月15日に「働く」を考えるサロンの4回目「NPOで(ボランタリーに)〈働く〉ということ」、を開催しますが、その次の5回目のご案内です。
この〈働くを考える〉サロンの「働く」はむしろ「生きる」に近い意味で使っていますので、テーマタイトルはともかく、さまざまな立場の人の参加をお待ちしています。

今回は5回目の案内です。
5回目は、個人対個人の仕事を金銭評価するにはどうしたらいいかという難しいテーマを選びました。そもそも「金銭評価」する必要があるのかという問題も視野に入れたいと思います。
個人で仕事をしている人にとっては、悩ましい問題ではないかと思いますが、そこからいろいろなことが見えてくるような気がします。

専門職であれば、その業界が標準価格表のようなものを作っていますので、それで割り切れますし、企業相手の経営相談のような場合は、結果が企業業績の向上につながることで、金銭評価の妥当性がお互いに評価できるでしょう。
しかし、個人相手に、たとえば困ったことの相談を受けるような仕事の場合など、金銭につなげるのは簡単な話ではありません。

弁護士や資格のあるカウンセラーなどであれば、1時間会ったら後日請求書が送られてきますが、悩み相談ではなかなかそうはいきません。日本では、相談料という概念が少ないからかもしれません。
事実、湯島サロン仲間でもそういう仕事をしている人もいますが、値決めは実に難しい。価格表を提示していてもなかなか払ってもらえないことも多いようです。しかも、相談だけなのにお金を請求するのかと問題になった事例もあるようです。

個人相手に個人で仕事を始めた人は、おそらくこういう問題にぶつかることがあると思います。実際にいま、私のまわりでもその問題を抱えている人もいます。
そこで、そういう人たちを中心に、どうしたら「仕事をお金にどうつなげるか」についての体験や知恵を出し合えればと思います。

さらに言えば、そういう話し合いの中から、仕事の報酬って何なのだろうかも話し合えればと思っています。できれば、金銭報酬につながっていない家事労働(シャドウワーク)の価値なども意識できればと思っています。

金銭が絡むので、なかなか話しづらいテーマかと思いますが、ぜひ個人で仕事をしている人たちにとって役に立つサロンになればと思っています。
相談する側の人も参加してもらえるととてもうれしいです。

どんなサロンになるかいささか心配ですが、新しい働き方を考える上でもとても大切なテーマなので、よろしくお願いいたします。

〇日時:2023年2月5日(日曜日)午後2時~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「仕事の対価をどう考えるか」
〇問題提起者:阿部達明さん+川端修平さん
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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■節子への挽歌5509:「がん」という言葉

節子

サロンの常連の一人が、がんのステージ4です。
昨年は年が越せるかどうかと言っていましたが、幸いに元気が回復してきて、年末サロンには元気な顔を出してくれました。

サロンの常連だった太田さんが、がんで余命宣告を受け、まったくの無治療で1年もたたずに亡くなったのは、ほんの数年前です。
葬儀は家族葬でしたが、無理を言って参列させてもらいました。
とても静かで穏やかな死に顔でした。
その時から、誰かの死に関しては、感傷的にならずに、ただ淡々と受け入れようと決めました。
だから今回も特別な姿勢は全くとっていません。

しかし、そうは言ってもやはり気にはなります。
その一方で、今年は「生と死」を大きなテーマのひとつに取り上げようと思っています。
そのなかで、がん治療に関してもサロンができないかという話が出てきています。

がん治療に関しては、節子が闘病中には、私もいろいろな治療法が参照できるデータバンクが欲しいなと思っていました。
しかし節子を見送った後、もう二度と「がん」という言葉を見たくないという心境に襲われて、集めた資料も消去してしまい、同時にそうしたことへの関心を失ってしまいました。
実にだらしない話ですが、正直、しばらくは「がん」という言葉さえ、拒否したかったくらいです。

かく言う私も「がん」とは無縁であるはずもありません。
自分ががんと判明した時、私はその治療に意識が向かうか。
太田さんと同じく、ただ成り行きに任せるだけの生き方を選びそうです。

最近、どうも周辺でまた、「がん」という言葉が飛び交うのが少し気になってきました。

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2023/01/07

■節子への挽歌5508:湯島天神への参拝

節子

今年初めて湯島に行きました。
例年はもっと早いのですが、今年はどうも出る気にならなかったのです。

まずは湯島天神に。
いつもより遅かったので、参拝客も並ぶほどではなく、正面から挨拶できました。
その後、庭を一巡しましたが、紅梅が少し花をつけていました。

節子がいた頃は、毎年、三が日にふたりでやって来て湯島の部屋の大掃除でしたが、節子がいなくなってからは大掃除も手抜きになってしまい、それもだんだんやらなくなってしまいました。
むかしは、早朝に来るまでやって来て、大掃除の後、湯島で持参した朝食を食べ、それから途中どこかに寄りながら帰りました。
松坂屋で大きな福袋を買ったこともありますし、途中で昼食をしたこともあります。

しかし、考えてみると、掃除と食事くらいしか記憶がない。
節子も私も、いつかもっとゆっくりとお正月を楽しむときが来るだろうと思っていたような気もします。
しかし、その「いつか」は私たちには訪れることがなかった
まあ人生はそんなものなのでしょう。

湯島天神から戻ると、部屋の前にサロンの参加者が待っていました。
30分前なのに、早く来る人もいるのです。
この人もお正月行く場所がなかったのでしょうか。
まあ人生はいろいろです。

幸いに今日のサロンは参加者が少なかった。
ちょっと寂しいと同時に、ホッとします。

今日は雪の予報まで出ていたのですが、いい天気になりました。
今年もきっと私は晴れ男でいけそうです。
太陽と共に生きている者としては、とてもうれしいです。

さてまたサロンの1年が始まりました。

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2023/01/06

■節子への挽歌5507:頂いた年賀状への返信メール

節子がいた頃は、年賀状を書くことはいつも年末の大行事でした。
2~3日、かかっていたような気がします。

基本的には節子がデザインし、自分で版画を創り、押していました。
それを乾かすために、部屋中に年賀はがきが広げられていて足の踏み場もなくなっていたころが懐かしいです。
乾いたら、そこにそれぞれがメッセージを入れる。
楽しい作業でした。

会社活動をしていたころは、別に文字で近況報告やメッセージを書いた年賀状を作成していました。
仕事関係では多い時には1500枚ほど出していましたが、それぞれに1行でも手書きの文字を入れていました。当時は多いことがうれしかったのです。
しかし私のそうした作業を見て、節子は心が入っていないといつも言っていました。

節子は年賀はがきにメッセージを入れるにも、いつも少し考えながら書いていました。長い時には1枚仕上げるのに30分近くかかることもありました。まあふたりでいろいろ話をしていて書くのを忘れてしまうわけですが。
しかし、仕事関係ではそんなことはやっていられませんので、あて先を見て思いついたことを瞬時に書くというやり方でしたが、それを節子は書く意味があるのかと言っていたのです。
たしかに今にして思えば、その通りです。

年賀状を書くのをやめてもう10年近くになります。
それでも年賀状をくださる方がいますが、最初はそれに返事を書いていましたが、次第にメールになり、この2年はそれもやめてしまいました。
困ったものです。

今年も数十通の年賀状が届きました。
年賀メールも届きました。
それへの返信もしていませんでした。

今日、ようやく返事をメールで書こうという気になりました。
頂いた年賀状を改めてゆっくりと読み、それぞれに返信しました。
親戚関係は娘に返事を頼みました。

メールをやっていない方からの年賀状は、手紙で返信する予定ですが、今日はそれは書けませんでした。そういえば、喪中のための年賀欠礼のはがきも届いていました。
そういう人にこそ、返事を書こうと思っていますが、それも含めて、返事は小正月にしようと思います。
こうして私はどんどん怠惰になってきているわけです。

まことに困ったものです。

 

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2023/01/05

■節子への挽歌5506:健康的な1日

節子

無為の日が5日も続くとさすがに退屈になります。
節子がいた頃は、退屈という概念は私には全くなかったのですが、最近は退屈を味わうこともあるのです。

午後、深呼吸歩きで手賀沼の遊歩道で手賀沼大橋まで行きました。
水の館までが目標でしたが、風が強かったので、水の館が見えてきたところで、折り返し、帰路は大通りを歩いてきました。
往復50分。4.5キロでした。基本形は「はーはーはーはーふ—―」の4回吐いて1回吸うがどうも私には合っているようです。

手賀沼大橋は4車線のアーチ橋で、手賀沼の真ん中で我孫子市と柏市をつないでいます。この先は船橋です。わが家からも遠くに見えます。

その先にあるのが水の館。
建物のデザインは、漫画家の池田理代子さん(「ベルサイユのばら」の作者)ですが、3階にはプラネタリウムもあります。
私たちの地元のグループではここで毎年イベントもやっています。
デザインはあまり評判がよくないのですが、いまはもう手賀沼に溶け込んだ感じで、少なくとも私には違和感はありません。
節子が元気だったころとは内容はかなり変わり、1階には産直のお店やレストランができています。

今日はほとんど休むこともなく、50分歩きづめでした。
帰宅してラジオ体操。
その合間に兄宅にも行って、父母の仏壇にお線香もあげに行ってきました。

今日はとても健康的な1日でした。

 

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■今年最初のサロンのご案内です

今年最初のサロンのご案内です。
今年も湯島でサロンを開催します。

今年最初のオープンサロンは17日の午後1~4時です。
いつものようにテーマのない、出入り自由のサロンです。
なにやら東京も雪が降るかもしれないという予想ですが、もし気が向いたらどうぞ。

 最初のテーマサロンは、1月8日の「陰謀論」サロンです。
このサロンはいつもより30分早い1時半から開始ですので、お気を付けください。

今年もこんな感じで、サロンを継続します。
テーマがあろうとなかろうと、いつも気楽なサロンです。

サロンは勉強会でも研究会でもなく、要するに参加者による気楽な話し合いで、誰もが個人として尊重される場ですので、知識の有無や性格の善し悪しなどは無関係に誰でもが歓迎される(はず)です。性格の悪い私(なぜか多くの人にそういわれます)も、偏った知識しかない私(これは自覚しています)でも、参加できていますので。

またこんなサロンをやりたいという方がいたら、ぜひお願いしたいです。
今まで以上に、参加者みんなで育てるサロンにしていきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

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2023/01/04

■節子への挽歌5505:孫との初会食

節子

にこへのお年玉は、あみだくじ方式で行ったため、にこは私からお年玉をもらえませんでした。その代わりに「いつでも何冊でも好きな本プレゼント券」を孫は手に入れました。そこで今日、孫から本屋さんに買いに行くのを誘われました。
私は車の免許はもうないので、ふたりで自転車で行くことになりました。

今回は意外と早く買う本が2冊決まりました。
また妖怪関係の本かと思いましたが、そうではありませんでした。

ついでに近くに住んでいる兄の家に行くことにしました。
兄から娘経由でにこはお年玉をもらっていたので、そのお礼にです。
突然だったので兄はいませんでしたが、義姉がいました。
義姉からは一昨日、ユカが着物をもらってきていたので、それを着て見せに行く予定もあったのですが、家に入るとなかなか帰れなくなるので、今回は玄関での立ち話にしました。

その後、実はさらに遠くの布施弁天まで行こうと提案したのですが、断られてしまいました。ふたりだけだと不安があるようです。なにしろ私はもう81歳で、いつ死ぬかわからないと孫は思っているのです。

意外なことににこから食事をしようと提案がありました。
にこは卵アレルギーもあって、母親がいないと食事はしないのです。
さてどこで食べようかと訊いたら、書店のあるエスパのガストがいいというのです。これまた意外。

それで2人でガストに入りました。にこは別のガストに行ったことがあると言って、説明してくれました。ロボットが持ってきてくれることも教えてくれました。
卵が絶対に入っていないこども用のネギトロ丼を注文。私もその大人版を注文。
にことの初めての2人だけの会食です。

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食事しながら、呼び方の交渉をしました。
「おさむさん」はやめて、「おさむ」か「おさべえ」を提案。
結局、お互いに呼び捨てにしようということになりました。
「おさむじいさん」が回避されてよかったです。

食事の後、デザートを勧めましたが、家に帰ればアイスクリームがあるからいいと言って、注文せずに、買ってきた本の一冊を読みだしました。
にこはあまり物欲はなく、節約家のようです。いや、相手の私に気をつかっているのかもしれません。なにしろ私はお金をほとんど使わずに、いつもユカに支払いを頼んでいるからかもしれません。

本は読むというよりも、見る感じで、1冊をすべて見終わってしまいました。後半は私も一緒に目を通しましたが、25の有名な話を紹介した本でした。
少し早目の昼食でしたが、混んできたので、帰宅することにしました。

にことの初めての2人だけの会食がガストのネギトロ丼とは、ちょっとなあ…という気もしますが、まあわが家らしいと言えばわが家らしい。
でもまあ、今回は途中で喧嘩もせずに、なかよく過ごせ、帰宅後もにこは2階に来て、遊んでいました。
私への信頼感も少し改善されたかもしれません。

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2023/01/03

■節子への挽歌5504:歩き初め

節子
今日は歩き初めです。

眩しいほどの陽光に誘われて今年の初歩きに出かけました。
昨年、初めての深呼吸歩きをしたのと同じ北柏に向かうハケの道のコースですが、武者小路別荘跡を目指し、その少し先にある手賀沼トラストが管理している蓮田を折り返し地点にしました。
ここは観賞用に藕糸蓮(ぐうしれん)の水田ですが、いまは全く何もありません。
そこでちょうど20分。そこから手賀沼沿いに出て、手賀沼を見ながら戻ってきました。

このコースはむかし節子と時々歩いたコースです。
途中で毎日絵を描いている人がいたり、いろんな出会いのあったコースです。
途中には節子が学んでいた絵の先生の家もあります。
私と違って節子は学び事も好きでした。

往路は基本的に4回吐いて1回吸うというスタイル。帰路はランダムで気分次第。時に8回吐いて2回吸うという感じですが、久しぶりに手賀沼を時々ゆっくり見たりしながら、陽光を楽しんできました。

手賀沼もなかなかいい感じです。
明日からまた深呼吸歩き散歩復活です。

 

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2023/01/02

■5503:平穏無事な2日目

節子

今日は一人で過ごしました。
ジュン家族も出かけずにくつろいでいましたが、午後はみんなで公園に遊びに行きました。
ユカはめずらしく一人で兄家族の家に行きました。
兄家族も娘たち家族がみんな揃ったようで、誘われていたのです。
私は今年は行くのをやめたので、家で一人のんびりとしていました。

年賀状は昨日届いていましたが、今年は返信もせずにいます。
午後、従兄弟から新年の電話がかかってきましたが、それに出たくらいでしょうか。
まったく何もしないで怠惰に過ごしました。

夕食はユカが戻ってきて今年初めてのお雑煮です。
節子の時よりも少し江戸風に近づいていますが、それでも具が多いのが私の好みです。
美味しくできあがりました。

元日は、ステーキなど脂分も多かったですし、甘いお菓子も食べてしまったので、今日は少し自重し、薬もきちんと飲みました。
やはり食には気をつけないと、油断するとやはりあまり調子がよくありません。

幸いにメールも大きな問題はなく、気になっていた若者も何とか底を脱したようです。
三が日の呼び出しもなく、今年はのんびりできそうです。

 

 

 

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2023/01/01

■節子への挽歌5502:いつもと同じ初詣と会食

節子

最近のわが家の毎年最初の恒例行事は近くの子の神様への初詣です。
今年はなぜかあまり人出は多くはなかったです。
天気がいいのと、コロナに慣れたので、みんな遠出するようになったのでしょうか。
わが家はそういう事情にはほとんど影響されない家なので、いつものように、みんなで静かにお詣り。
その後、あまり多くない家族みんなで自宅で会食。

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私のにこへのお年玉は、あみだくじにしました。
先日、クリスマスプレゼントの時、ただ渡すのではだめで、宝探しのようにどこかに隠して見つけさせろと要望されて苦労したので今回はあみだくじにしたのです。

残念ながらにこは外れでお年玉はもらえませんでした。
代わりに、恒例の何時でも何回でも好きな本プレゼント券が当たりましたが、あんまり嬉しそうではありませんでした。
関係がさらに悪化しなければいいですが。

食事後、みんな出かけました。
午後は一人でゆっくりと過ごしています。

静かなあたたかな年明けです。

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■節子への挽歌5501:今年は良い年になりそうです

節子

初日の出がとれてもきれいでした。
お天道様に祝福されて、今年は(毎年そう思うのですが)私にとっては良い年になりそうです。

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また太陽が上ったら、手賀沼の表面に直線の水の流れが見えました。

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毎年初日を見ていますが、これに気づいたのは初めてです。
取水口もしくは流入している川の水の流れでしょうか。しかしあまりにきれいな直線です。今朝は凪いでいたので水面はどこも静かでしたが、不思議な光景でした。

節子と最後にこの初日の出を見てからもう16年たちました。
ということは今年は17回忌に当たります。
最後に見た年も寒い日でした。
しかしあの年は夏がとても暑かった。
今年もそうなるでしょうか。

ここに転居して以来、毎年、屋上から初日を見ています。
今年は日の出前の朝焼けがとてもきれいでした。
節子もどこかでこの朝焼けを見ているのでしょうか。
最近、そういうことを強く感ずるようになってきました。

太陽が上がりだしたら、周辺の空気が一変し、あったかさが覆ってきました。
穏やかであたたかな年のはじまりです。

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