■第20回益田サロン「破傷風菌における自己とは何か」報告
今回は破傷風菌を切り口に、改めて「自己とは何か」について考えるサロンでした。
案内文にも書きましたが、破傷風菌は自らの内にある毒素が宿主である人間や動物を殺し、その死骸から大量の栄養を得ることによって、破傷風菌が大増殖し存続していくことを可能にしますが、毒素を外部に出して破傷風を発症させるためには、自ら崩壊しなければいけません。宿主が死亡して大量の栄養を提供してくれる時に、毒素を発した破傷風菌はその恩恵は享受できないのです。恩恵を享受できるのは、毒素を出さなかったほかの破傷風菌なのです。
この場合、「自己」というのをどう考えればいいのか。これが今回のテーマです。
自己保存本能を持っているはずの生命体が、自らを破壊してしまう。これをどう考えればいいでしょうか。
たしかに、毒素を放出した破傷風菌は存在できなくなりますが、それによって種としての破傷風菌は大量の栄養源を得て大繁殖します。だとすれば、破傷風菌における自己保存は個のレベルではなく、種のレベルで機能すると考えられます。
となれば、破傷風菌における「自己」とは何か。
自らを犠牲にした破傷風菌と恩恵を受けた破傷風菌とはどういう関係になるのか。そして、保存された「生命」とは何なのか。
破傷風菌にも「個性」があるかどうかは私にはわかりませんが、毒素を放出して死んだ破傷風菌と恩恵を享受する破傷風菌が全く同じだとも言い切れないでしょう。それらが違う行動をとるのは、同じ破傷風菌でありながら、与えられた「役割」や置かれた「環境」が違っているからかもしれません。
これと似た話は、人間社会にもあるような気がします。
仲間のために自らを犠牲にしたという話はよく聞きます。組織(仲間)を守るために自らの生命を断つことさえ起きている。病原体の話を聞いていると、実に人間社会とつながってくることが多いのです。
益田さんは、一つの破傷風菌を見ていても破傷風のことは分からない。実在するのは種としての破傷風菌、いわばコミュニティではないかと言います。
さらに、益田さんはこうも言います。生物と環境の関係もまた同じではないか。自己非自己もまた同じ。すべて関係だけが実在しているのではないか。
個体としての生命と種としての生命。
個人としての自己とコミュニティの一員としての自己。
個々の自己は種、あるいはコミュニティに包摂されていて、個体として単独では存在していない。そういう生命の持つ本質を、破傷風菌は教えてくれているような気がします。
自己は他者があってこそ成り立つ概念ですが、環境も含めて生命を捉える「環世界」という概念もあります。自己をどう規定するかで環境もまた決まってくる。
破傷風菌の行動は、私たちの生き方や社会のあり方を考える上でもいろんな示唆を与えてくれるような気がします。
さらに言えば、私たちは破傷風を引き起こすものを「毒素」と呼んでいますが、種としての破傷風菌にとっては、その毒素こそが増殖の基盤を与えてくれる「益素」(そんな言葉があればですが)になっている。こういう事例は、人間社会にもよくある話です。
益田さんがいつも言うように、病原体から学ぶことはたくさんある。
病原体のマイナス面だけ見て、そこから学ぼうとしない姿勢(たとえば「ゼロコロナ発想」)には私は大きな違和感を持っています。
益田サロンでの話し合いの内容を伝えるのは毎回難しくて、いつも私の感想が中心になってしまいます。益田サロンではもっと様々なことが語られているのです。関心のある方は、ぜひご参加ください。
なお、益田サロンは、次回から改めてもう一度、原点に戻って、ウイルスとは何か、病原体とは何か、そして人間とは何かを考えることになりました。
私たちは、あまりにウイルスのことを知らなさすぎる。怖がっているばかりでは、それこそ「善い関係」は構築できません。もっとウイルスや病原体のことを理解したいと思います。
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