■布教が目的になってしまえば人の救済にはなりません
自宅でパソコンに向かっていたら、玄関のチャイムが鳴りました。
荷物が届いたのかと出てみたら、エホバの証人の布教にまわっている人でした。
以前はよく回ってきていましたが、コロナ流行からは途絶えていました。
2~3人の女性たちがグループで回っているのです。
各戸訪問は大体においておひとりです。
じっくりと対応したこともありますが、最近は私は真言宗徒だと言ってお断りしています。
でも今日はついつい余計なことを言ってしまいました。
統一教会でも話題になっているように、お子様たちのことをしっかりと考えられた方がいいですよ、と。
今回は子連れではなかったのですが、時に子供連れのこともあったのを思い出したのです。
一瞬、相手の動きが止まりましたが、すぐに、出てきてくださってありがとうございますとていねいに言って、次のお宅に向かいました。
なんだか余計なことを言ってしまったようで、後味がよくありません。
相手も私に対してそう思ったかもしれません。
こうして回ってくるのはエホバの証人だけではありません。
倫理協会だとか早起き会だとかも含めて、いろんな人がきて、出なくても小冊子をポストに入れていくこともあります。
そんな時間と小冊子をつくるお金があれば、もっとやれることがあるだろうといつも思いますが、そういう人たちにとっては、それこそが価値ある仕事なのでしょう。
仕事の価値は、人によって全く違いますから。
自分の信仰を他者に勧めるのは決して悪いことではありません。
しかし、戸別訪問までしての布教活動には不快感があります。
いつもこうした人の訪問を受けた後味がとても悪いからです。
一人住まいで暇を持て余している人を相手にした悪徳商法のような気もしてしまいます。
そもそも布教が目的になってしまえば、人の救済にはなりません。
要するに自分のための利己行為でしかありません。相手の都合への配慮もない。
私は、信仰や宗教には高い価値を感じています。
しかし、信仰は商品ではないので、戸別訪問には適しません。
自己満足のための行為としか思えない。
こういう人たちが、善意のもとに、信仰や宗教を貶めているような気がします。
なにやら不快感が残ってしまったので、ついつい書いてしまいました。
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