■湯島サロン「安楽死・尊厳死について考える」報告
「善く生きる」を考えるサロンの2回目は「安楽死・尊厳死」を切り口にしました。室田一樹さんがわざわざ京都からこのサロンのために話題提供に来てくださいました。
室田さんは、家族や愛犬の死にまつわる体験から話を始め、「私にとっての安楽死とはどういうことか」、そして「自死の選択も人権ではないか」という話をした後、「私にとって〈善く生きる〉とはなにか」をご自分が接してきた子どもたち(室田さんは保育園の園長でもあります)のエピソードを通して語ってくれました。
10人の参加者がありましたが、世代も生き方も違うので、「安楽死」への関心の所在もさまざまで、話し合いも「安楽死の制度化」の是非を議論するというよりも、それぞれが自らの生き方を振り返るような、そして先行きを考えるようなやりとりも多かったです。
話し合いがかなり進んだところで、みなさんに制度としての安楽死への賛否を聞きましたが、室田さんを含めて賛成6、反対5でした。
要するに、積極的安楽死の合法化を望んでいる人のほうがわずかとはいえ多かったのです。正直、これは私には意外でした。
今回は30代から80代まで、さまざまな年齢の人が参加していましたが、安楽死の捉え方や距離感は大きく違っているはずです。
それに安楽死と言うと身体的な苦痛との関係で考えがちですが、精神的な視点で安楽死を考えている人もいるでしょう。室田さんは、「やり残したこと」や「さらにやりたいこと」の有無、あるいは家族や周辺の人との関係にも言及されましたが、それもまた安楽死を考える重要なテーマかもしれません。そうなるとますます「生き方」が問題になってきて、次回予定している「孤独死」の問題ともつながっていくように思います。
自らの尊厳を保ちながら、苦しむことなく心穏やかに死を迎えたいというのは、すべての人の望むところでしょう。これには反対する人はまずいないでしょう。そういう意味では、誰もが「安楽死」を望んでいると言っていい。
そして、生きることと死ぬことは誰かに管理されるのではなく、自らで決めていきたいということにも、おそらくほとんどの人は反対しないでしょう。
問題は、そういう生の終わり方をどういう形で迎えるかです。
自分でそういう生き方ができるのかどうか。誰かの助けが必要なのかどうか。
「安楽死」を迎えられるような生き方こそ、大切ではないかと、私は思っていますが(そして実際にそういう生き方に努めていますが)、そういう発言に対しては、それはきれいごとだと参加者からひと言で切り捨てられてしまいました。
それが難しいからこそ、もうどうしようもなく苦しくなったらあるいは生きることが難しくなったら、安らかに死ねることができる保証が欲しいというのです。私にはそれこそが、自ら生きることの放棄であり、不要に誰かの世話になるような行為だと思えるのですが、あまり賛同は得られませんでした。
参加者の一人が、いま死に直面しているか、あるいは死にたいと思っている人にとっては安楽死は切実な問題だろうが、そのどちらでもない自分は安楽死の是非を問う前に、死の前にある生を「どう善く生きるか」のほうにより関心がある、と発言されました。まさにいまをどう生きるかを精一杯模索している人も、安楽死など多分考えることなどないでしょう。今回、たまたま東京に出てきたので、テーマも意識せずにサロンに参加した参加者がいたのですが、彼女にとってはおそらく考えたことなど全くないテーマだったかもしれません。しかし、後で安楽死に関するさまざまな意見を聞いてとても面白かったとメールをくれました。やはり、死を考えることは生を考えることなのです。
「安楽死が認められればより善く生きられるようになる」「楽に死ねるという担保があれば生きるのも楽になる」という発言もあり、それに賛成する人も複数いました。それに対しては疑問も呈されましたが、穏やかな死が善く生きることを保証するというところに何かとても大切な示唆があるような気もします。私は逆に、善く生きることこそが穏やかな(身体的苦痛も緩和される)死を保証すると確信しているのですが。
また、もし自らの生や死を自らで決めたいのであれば、制度としての安楽死によって、自らの生を他者にゆだねていいのか、という気はします。それに安楽死に加担した人の気持ちを思うと、やはり私にはできないことです。
自らの死ぬ権利という話題が時々湯島でも出るのですが、安楽死の合法化は果たしてそれに当てはまるのかどうか。むしろ逆なのではないかと思うのです。
来週、日本でも公開される映画「すべてうまくいきますように」のフランソワ・オゾン監督が新聞のインタビューに答えて「僕は自分の意思で人生を終わらせる自由を持つべきだと思う」と話しているのを新聞で読みました。
私もそう思っていて、自分の生は自らで終わらせたいと思っているのですが、しかし自殺や安楽死制度頼みにはしないつもりです。
ではどうするか。いやそれ以上に、果たしてそうできるのか。
正直、自信があるわけではないのですが、そういうことを目指して生きています。
そういう生き方が大切だと思っているのです。
また個人的な視点での報告になってしまいましたが、改めて、心穏やかに生を全うすることを目指す生き方の大切さを確信させられたサロンでした。
安楽死問題が提起している問題に正面から答えていないのではないかと言われそうですが、話し合いの中で参加者それぞれがそういう問題を考えるきっかけを得たのではないかと思います。もちろん簡単に答えが出る問題ではありませんし、一つの答があるわけでもない。でも生き方を考える切り口のひとつとしてはとても大切だと思います。生々しい個人のお話をしてくださった室田さんに感謝したいです。
生き方は世代によってやはり大きく違うことも今回気づかされました。
私はもう80歳を過ぎてしまいましたが、生き方にはこれまで以上に注意していこうと思っています。そして、心穏やかに死を迎える生き方とはどういうことなのかを改めて考えてみようと思っています。
「善く生きる」サロンの3回目は、2月25日、孤独死が切り口です。
みなさんの参加をお待ちしています。
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