■国家の安全保障のために政府には「機密」があってもいい、という「常識」
「嘘つきは政治家のはじまり」を常識にするような社会にはしたくないと書きましたが、それに関連して、いつも気になっている、もう一つの「常識」のことも書くことにしました。
国家の安全保障のために政府には「機密」があってもいい、という「常識」です。
この「常識」も私には受け入れられません。
もしその常識を認めるのであれば、情報公開での黒塗り資料も、その多寡はともかく、認めなければいけません。そして、政治家の嘘も、いくらでも言い訳ができるようになるでしょう。
さらにいえば、そういう常識がある限り、情報公開制度は無意味ではないかという気さえします。誤解のないように言えば、もちろん「無意味」ではありませんが、この言葉の真意を受け止めてもらえればうれしいです。こういう言葉じりでコメントをくださる方もいますが、どうかご容赦を。
政府の嘘には2つあります。
事実とは違うことを発表する嘘と事実を隠す嘘です。
私自身は、統治を任した政府が国家機密という名目で情報を隠蔽する行為は嘘つきと同じだと考えています。
しかし、安全保障や国家統治上、公開してはいけない情報はあるだろうと多くの人は言います。そう言われるとそうかなとついつい思ってしまいますが、本当にそうでしょうか。その情報を公開して困るのは、本当に多くの国民なのでしょうか。
むかしの話ですが、1917年、ロシア革命成就後に、レーニンは、「平和に関する布告」を発表し、秘密外交の廃止を唱え、すべての交渉過程を「全国民の面前で完全に公然とおこなう」ことをロシア労農政府の原則として宣言しました。つまり、政府の行動すべてを人民に対して「開く」という宣言をしたわけです。
書く以上、一応確認しておこうと思って、手近にあった加藤典洋さんの「戦後入門」(ちくま新書)で確認したのですが、上記の文章はそこからの引用を基本にしています。
そしてその文章に続いて、同書には「その重大性を受けとめたからこそ、アメリカのウィルソン大統領は2か月後に年頭教書のかたちで発した14か条の平和原則の第1に、自分もやはり、秘密外交の廃止をうたったのでした」と書かれていました。つまり当時は国民主権国家においては国家機密は必ずしも「常識」ではなかったのです。
それがいつから常識になったのか。
それにつづいて加藤さんの「戦後入門」には面白いことが書かれていました。
前に読んでいるはずですが、忘れていました。
第二次世界大戦の戦争遂行の内奥には、大いなる「秘密」が、ある時点から居座るようになります。それが原爆の開発、製造から使用にいたる、ルーズヴェルト主導による一大極秘の「マンハッタン」プロジェクトにほかなりません。
大いなる「秘密」。
「陰謀論」は、ここから国民主権国家政府にも広がりだしたのではないか。ルーズヴェルトならやりかねないでしょう。
ルーズヴェルトの嘘については、この2年ほど、数冊の本を読みましたが、やはり国家機密と称して嘘をつき事実を隠すと、結局、国家そのものが危うくなっていくような気がしてなりません。
政府の情報はすべて、主権者に公開すべきではないかと思いますが、どうでしょうか。
ちなみに私は、スターリンやルーズヴェルトと同じく、日本では小泉純一郎が、嘘を政府の根幹に置いた人だと思っています。
これは多分全く受け入れられないでしょうが。
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