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2023/02/18

■第25回万葉集サロン「作られてゆく憶良」報告

山上憶良の3回目は、「筑前国志賀白水郞歌十首」が取り上げられました。それも意外でしたが、さらに意外だったのは、今回最初に詠み上げられたのが、山部赤人の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪は降りつつ」だったことです。

これは誰もが知っている、百人一首にある赤人の歌です。
この歌は、万葉集では長歌の短歌として詠まれていて、しかも微妙に言葉遣いが違う。そう言って、升田さんは、長歌と一緒に万葉集の歌を詠み上げてくれました。

私の好きな歌なので、全文をあえて載せさせてもらいます。

天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は
反歌
田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける

はじめに升田さんが詠んでくれた赤人の歌は、本来、長歌の反歌だったのがその後独り歩きし、百人一首に選ばれたわけですが、百人一首と万葉集とでは、微妙に言葉遣いが違います。声にして詠み上げると、その印象はまったくと言っていいほど違います。ぜひ声に出して詠んでみてください。
ここから、平安時代における赤人の人間像は、万葉時代の赤人とは違っていたことがうかがえます。
こうして万葉歌人の人間像はつくられていく、と升田さんは言います。

ここまででも実に興味深く、十分に1回分の話題なのですが、升田さんの万葉集サロンではこれは話の糸口でしかありません。ここから話が始まるのです。ですからいつも報告をまとめるのが大変なのですが、升田さんはそんなことなど気にしてはくれません。
そして本論が始まります。

今回取り上げられた「筑前国志賀白水郞歌十首」は、あまり知られていないでしょう。
作者に関しても、民謡説も含めて、諸説あるようですが、万葉集の左注に「憶良の作」とも言われているとあるのです。作者は一人ではないのではないかという説もあるそうですが、10首はつながっていて、全体として物語性を持っています。その物語から憶良作という考えが出てきた。つまり、この歌は憶良にふさわしいと万葉集が編纂されたころには思われていたのではないか。そしてこういう風にして、憶良の人物像はつくられていったのではないかというわけです。

憶良は百済からの渡来人で、しかも遣唐使として唐の社会にも触れています。またみやこびととして宮廷人とも交流がある一方、伯耆や筑前、大宰府などの地方官として、さまざまな人とも触れ合っていたと思われます。

そうしたさまざまな社会の中で生き、さまざまな暮らしぶりに触れるなかで、憶良の人間や社会を見る目は育っていった。そして、神と対峙する人々の「多」の集まりが、多様な人びとの「他」の集まりへと変わり、そこから改めて「な(汝)」や「わ(吾)」の意識が深まっていく。

升田さんの「作られてゆく憶良」の話には、そうした人びとの意識や生き方、さらには社会のかたちの変化の動きが示唆されているのではないか。升田さんの多彩な話を組み合わせていくと、さらにその先へと思考がどんどん広がってしまうのですが、勝手な解釈はやめましょう。しかし、憶良は一筋縄ではいかないと升田さんが言っていた意味が少しわかった気がします。

前回話題になったように、憶良は、「わ(自己)」の中のもう一人の「わ」とたえず語り合っていたと言いますが、「わ」のなかに「た(多・他)」をみていたのかもしれません。そして、その「もうひとりのわ」との対話の中から憶良の歌は生まれてきた。
そこで生まれるのは、神の物語ではなく、人の物語です。そしてそこには、家族がいる。人と人とのつながりもある。人麿の世界とはまったく違います。

憶良は、家族単位で自分と人とのつながりを詠んだ最初の人だそうです。
憶良には、家族や共に生きる人へのまなざしがあった。家族はうるさいし、面倒だ。しかし子どもをみていると辛くても生きたいと思う。そう思わせるのが家族。

「世間の道」を受け容れながら、それを超えて、不条理・不可避の摂理に辛苦しながら生きる。障害になるものもひっくるめて生きている。憶良は、そこに生きる意味を見つけた。大変だが生きていたい。生への執着も強い
だからこそ、憶良は若者の死を悼んで歌っている。その憶良なら、船乗りの荒雄が嵐に合って妻子を残して死んだ時にこういう歌を歌うだろう、というわけです。

その「筑前国志賀白水郞歌十首」も升田さんはていねいに詠んでくれました。
作者や配列に関する諸説の紹介もありましたし、なかには、憶良らしからぬものもありました。しかし、たしかに憶良を感じさせるものもある。
万葉集編纂時代にすでに憶良の人間像はできていた。だから、この作者のわからない歌が、憶良ならこういう歌を詠んだだろうと思われ、憶良作と言われる歌がまた憶良の人間像をつくっていく。まさに「作られてゆく憶良」。

長くなってしまいました。
実はまだお伝えしたい話はたくさんあるのですが、そろそろ読んでもらえる限度ですね。
でもあと2つだけはお伝えしておきたいです。

まず一つは、この歌が収められている巻16のことです。

巻16には特殊な歌を集められています。これ以降の万葉集は編者の家持の歌日記であることを考えれば、この最終の巻16には分類不能な、でも気になる歌が集められているようです。この歌がどうしてここに収められたのかも興味があると升田さんは言いますが、いつか巻16もまた読み解いてほしいと思います。今回、少しだけ紹介してくれましたが、本当に万葉集の世界は広大で深遠です。

最後に升田さんは、憶良が「痾(やまひ)に沈みし時の歌」を紹介してくれました。
「をのこやも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして」。
憶良にとって生きるとは何だったのか。
今回は詠むにとどまりましたが、升田さんがなぜこの歌を最後に出したのか、サロン終了後、ずっと考えていますが、わかりません。

憶良の世界がこんなに面白いとは思ってもいませんでした。
お伝えできないことが他にもあるのが残念です。

なお私の消化力の限界があって、升田さんのお話を誤解・曲解しているところがあるかもしれません。
文責は私にあります。念のため。

 Manyou251

 

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