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2023/03/20

■湯島サロン「ソーシャル・キャピタル」報告

「ソーシャル・キャピタル」をテーマにした今回のサロンは、2つの意味で「ソーシャル・キャピタルとは何だろうか」を考えるサロンでした。つまり「言葉の意味」とそれがいま「何を意味するか」という二重の問いかけです。
久しぶりに私が話をさせてもらいました。

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まず、20年前にあるテレビ番組が行った社会実験の紹介から話させてもらいました。北海道の身寄りの全くないお年寄りが東京の全く知らない人に、個人的なつながりを介して手紙を届けるとしたら何人の手を介して、手紙が届くか。いわゆる「スモールワールド実験」です。
それ以前の実験で、「6次の隔たり」と言われたように世界中の人は6人前後でみんなつながっているということが確かめられていたのですが、日本でもその時、7人目で届いたのです。人はみんなつながっているのです。

昭和の初めころまで、「人間」は「じんかん」と読まれて、「世の中」や「社会」を意味していた、といいます。そのことからもわかるように、人のつながりこそが社会、ソーシャルだったのです。でも、そのつながりがいま消えてきている。なぜだろう。そこから話をさせてもらいました。ソーシャル、社会とは何なのか。

次の問題は、キャピタルとは何か、です。そこで参加者に「キャピタルと聞いて何を思い出しますか?」と質問しました。当然のことながら、「資本」という答えが多かったのですが、私の子供の頃は「キャピタル」といえば、資本ではなく「首都」を意味しました。アメリカのキャピタルはニューヨークではなくワシントンだと先生に言われたのを今でも覚えていますが、同世代の参加者ももう忘れてしまっているようでした。しかし、辞書を開けばわかりますが、キャピタルには首都という意味もあり、形容詞として使えば、「主要な」「一番の」という意味もある。

つまり「ソーシャル・キャピタル」とは、人が生きている社会にとって一番大切なものと考えていいのではないか。それが、私が考えるソーシャル・キャピタルの概念です。

ところで、ソーシャル・キャピタルをそのまま素直に訳せば、「社会資本」になりますが、日本では「社会資本」といえば、社会基盤、インフラストラクチャーのことをいいました。そこでパットナムが提唱した「ソーシャル・キャピタル」は「社会関係資本」と訳されました。

それに似た言葉に「社会的共通資本」という言葉があります。これはインフラストラクチャーに加えて、「自然環境」と「制度資本」を加えた概念です。宇沢弘文さんが仲間と一緒にたくさんの本を残してくれています。
しかし、「社会的共通資本」発想にも、肝心の人間が登場しない。私はそこに、社会から身を離して社会を観察する研究者の限界を感じています。

まあそう言ってしまえば、あまりに独りよがりなので、ソーシャル・キャピタル概念を言い出したアメリカの政治学者のロバート・パットナムの話も少しさせてもらいました。彼はソーシャル・キャピタルを「人と人とのつながり」とか「信頼関係」とかいう意味で使い、それが、経済や政治に大きな影響を与えていると言ったのです。

そうした話を踏まえて、今回は「つながり」に焦点を置いて説明させてもらいました。
特に、「内に向いたつながりと外に向かうつながり」、そして「弱いつながりと強いつながり」に焦点を置きました。

前者に関しては、ボンディングとブリッジングという言葉が使われていますが、いずれも「つながりがつながりを壊す」という爆弾を抱えています。その典型が日本における「ウチとソト」の話であり、現在生じている現象で言えば、「家族の崩壊」です。

後者に関しては、ホモフィリー(同質集団)とヘテロフィリー(多様性集団)、つまり同調性やダイバーシティの話にもつながっていきます。
いずれも社会のありように関わってくる話なのです。

いずれにしろ、そういう様々なつながりをどうバランスさせ、どう活かしていくかが大切だろうと思います。が、これが実に煩わしい。だからみんなもう「絆」社会から抜け出したいと思っていたら、予想以上の分断社会になってしまった。

そういう社会で生きていくために頼りにしたのがお金です。
そしてお金が社会を支配しだした。
そして社会にとっての一番大切なもの、つまりキャピタルは貨幣、資本になってしまった。それでいいのか。とまあ、こんな話をしていったのです。

問題はそうした社会からどう抜け出すかです。
それに関しても、いくつかの事例で説明させてもらいましたが、つながりを回復させるのはそう難しいことではありません。たとえば誰でもできることは、自らの弱みをさらけ出すことなのです。
本来的な意味でのボランティア活動の基本には、そうしたことがあったと思いますが、最近のような小遣い稼ぎのためのボランティア活動の広がりの中ではそういう要素は残念ながら消えだしてしまっているような気がします。

私が取り組んできた、あるいは今取り組んでいる話もさせてもらいました。
その象徴が、この湯島サロンなのです。

そして最後に、みなさんに問いかけさせてもらいました。
「人を動かし、社会を創りだしているものは何でしょうか」。
私は、それこそが生活者にとってのソーシャル・キャピタルだと思っているのです。

私の問いに対するみなさんの答は、幸いにして資本(お金)ではありませんでした。
喜び、楽しさ、笑い、信頼、愛……。
ちなみに、私の考えているのは「慈愛」、愛と慈しみです。
参加者のみなさんと一致しました。
ソーシャル・キャピタルはお金ではなく愛なのです。

お金のための打算的なつながりではなく、慈愛に満ちたつながり。それこそが私たちの生きる支えになってくれる。私はそう考えていますが、みなさんはどうでしょうか?
しかし、最近は「愛」も「慈しみ」さえもが市場化の対象になりかねない。なにしろ、経営は顧客の創造だなどというドラッカー教が世界を席巻し、汎市場化が進んでいるからです。

日本にあった、そうした人と人をつなぐ仕組みがどんどんと失われつつある。
であればこそ、「ソーシャル・キャピタル、社会にとって大切なものを資源として消費する経済」から「ソーシャル・キャピタルを成果として育くむ経済」へと変えていく生き方をしなければいけないのではないか。

いまのままではマルクスが恐れたように、貨幣に支配された資本主義は生きる人間の終焉をもたらすように思います。資本主義をよくしようなどと思うのはもうやめて、資本主義から抜け出すことを考えなければいけないのではないか。

なにやら久しぶりに話したせいか、いろんなことを盛り込みすぎてしまったかもしれません。この報告も、いささか独りよがりかもしれません。
すみません。

なお、当日使ったパワーポイントがありますが、もし関心のある方がいたらお届けしますので、ご連絡下さい。ていねいに見ていただければ説明なしでも要旨は伝わると思いますので。

 

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