■若いころ読んだ岩波新書の「実存主義」も一部を読みました
先週読んだ本の紹介ばかりしていますが、最後にこんな本も手に取ったという話です。
岩波新書の「実存主義」(松浪信三郎著)です。出版されたのは1962年、私が大学生の頃です。ただ私が読んだのは、会社に入ってからですが。
今回は全部読んだわけではなく、きちんと読んだのはわずか4頁ですが、若いころの私がいろいろなところに赤線を引いていたので、そこを中心に一応全部目を通しました。若いころの私が、いかにピント外れだったかがよくわかります。まあ時にいまも心に響くところもありましたが。
しかし、なぜ、こんな古い本を読んだのか。
2つの因縁が重なったのです。
まず一昨年リフォームをして私の書庫も書斎もなくしてしまったため、書籍をかなり処分し、残った書籍もまだ箱に埋もれたり書棚に積んであったりしたままなのですが、そういう過程で私に呼びかけてきた数冊の本があります。
実はこの「実存主義」もその1冊で、地味な本なので普段は気づかないはずですが、なぜか何回も私の目につくところに出てきて、アピールしたので、一番目立つ書棚に仮置きしていたのです。それが一つ目の縁。
そして、実は先々週、久しぶりに山野浩一さんの「花と機械とデシタルト」という小説を読んだのですが、その本の解説で、岡和田晃さんが、この「実存主義」に言及していたのです。
因縁には従うことにしている私としては読まないわけにはいかない、というわけです。
というわけで、きちんと読んだのは、「亡命の実存主義 ベルジャーエフ」と題した4頁だけです。岡和田さんがそこの「私と汝」の部分を引用していたからです。
今回読み直した「実存主義」の4頁の中にこんな文章がありました。
精神は決して反社会的なものではない。むしろ反対に、社会的であってこそ、精神は自由となり、人格的な創造に参与することができる。
とても共感できます。
しかし残念ながら、この本を読んだ若いころの私は、そこに赤線を引いていませんでした。たくさん赤線は引いてあったのですが、にもかかわらずです。
たとえば「人間は彼がみずからつくるところのものである」というようなところに赤線が引いてある。まあ若気の至りとしか言いようがない。
その頃の私が、もし今の私に会っていたら、とふと思ったのですが、そこで気づいたのは、いまなら若いころの私に出会えるかもしれないということです。
改めてむかし読んだ本を読み直してみようかとふと思いました。
でもまあ残された時間もあまりないし、やはり前に向かっていった方がいいかなとも思います。
さてどうするか。
すこし考えてみようと思います。
先週はここで紹介した4冊の本以外にも2、3冊は手に取りましたが、印象に残った本はこの4冊でした。いつもより多いのは、雨のおかげです。
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