■節子への挽歌5554:もしかしたら明恵上人は私のなかにも生きていますね
節子
今日はにこのチアダンス発表会にはいかず、自宅で本を読んでいました。
梓澤要さんの小説「あかあかや明恵」です。
明恵上人といえば、松の木の上での座禅姿を描いた絵と自らで自らの耳を切り落とした耳切り事件、そして夢の話が有名ですが、私はそのこと以外に関してはあまりよく知りませんでした。
「あかあかや明恵」は、幼少時代に明恵に救われて、以来ずっと従者として仕えたイサが明恵のことを書き残したスタイルの小説です。
明恵の魅力もあることながら、私は語り手のイサの魅力にひかれて、一気に読み終えました。2人の関係も実にうらやましい。話の筋よりも、あるいは明恵の生き方よりも、ふたりの関係にこそ、明恵の思想が象徴されているような気がして、読んでいました。
読んでいるうちに、明恵のことも少しずつ思い出されてきました。
読む前は明恵のことはあまり知らないと思い込んでいましたが、なぜか読んでいるうちに、ああそうだったと思い出すことが多く、明恵に関する知識がなぜか私の中にたくさんあることにむしろ驚きました。
どこでこうした知識を得たいたのでしょうか。
夢の話は、そのほとんどに違和感を持ちませんでした。
これまた不思議なのですが、この本を読む気になったのも、実は先週読んだ山野浩一の「花と機械とゲシタルト」を読んだことと関係があります。
その本と真反対の小説が読みたいと思って、手に取ったのがこの本だったのですが、読んでわかったのは、真反対どころが同じ話のようにさえ思えました。
どこが同じだと言われそうですが、なにやら「花と機械とゲシタルト」の延長で読んだおかげで、読みやすかったのかもしれません。
いずれにしろ、こうしたことにもいつも定めを感じます。
イサも明恵も、実に天真爛漫です。私にはそう思えます。
世間にけがされていない素直さがある。
そこが実に魅力的ですが、私自身の生き方と重ねて考えると、いろいろと反省したり自己嫌悪に陥ったり、ちょっと嬉しかったり、複雑です。
ふたりほどではないですが、私もまだわずかながらそうした天真爛漫さのかけらを残していると思えたことが時々あったからです。
さて岡和田さんに「花と機械とゲシタルト」の感想をどう伝えようか。
これが実に悩ましい。
やはり私には理解できなかったのです。
つくられすぎていて、私が生きている現実世界よりも、平板に感じたのです。
というよりも、心がワクワクしなかあったと言った方がいいでしょうか。。
でも今日読んだ「あかあかや明恵」は、ともかくワクワクしたのです。
おそらく明恵は、生き生きと生きていたのでしょう。
そして今も生きているのではないか、そんな感じがしたのです。
つまりこの私のなかにも、明恵が生きているのをイキイキと感じたということです。
と、こう書いてもなかなかほかの人には伝わらないでしょうね。
でも久し振りに2時間も小説に埋没していました。
最近の私にはめずらしいことです。
寒い雨の日も、いいことがあるものです。
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