■山野浩一さんの「花と機械とゲシタルト」の世界
先週は寒さと雨のおかげで在宅での読書時間が多かったのですが、そこで読んだ本のほとんどは、その前の週に岡和田晃さんが送ってくださった本がきっかけでした。
その本は、岡和田さんが再刊に尽力した山野浩一さんのSF小説「花と機械とデシタルト」です。
岡和田さんが送ってくださったのには理由があります。
私が久しぶりに中国のSF小説「三体」を読んで面白くなかったとFBで書いたのですが、それを知った岡和田さんが、佐藤さんはこういう本を読んだほうがいいと、この本をわざわざ送ってきてくれたのです。
岡和田さんからは、これまでも文芸評論とは何かということをはじめ、いろいろなことを気づかせてもらっていますし、こと文学に関しては(生き方もですが)頭が上がらないので、ここは読むしかないのですが、いささか敷居が高くて読みだすのに時間がかかってしまいました。しかし思い切って、先々週読みました。
私にはやはりハードで、4日かけてようやく読み終えたのです。
読んだ後、そこからのメッセージがまだ読み取れないまま、1週間ほどいろいろと考えていましたが、その間に気分転換も込めて先週は4冊の本を読んでしまったわけです。
そういう本はいとも簡単に紹介できるのですが、岡和田さんが解説している「花と機械とデシタルト」はそう簡単には紹介できません。間違いなく、岡和田さんからは、なんだこの程度にしか読んでくれなかったのかといわれることは明らかだからです。
岡和田さんよりかなり年上の私としては、見栄もありますし、期待を裏切りたくないという思いもあるからです。
でもまあそんなことは瑣末なことです。そもそもそんなことは見透かされていることでしょう。大体において隠したいと思うことは、すでに相手には伝わっているものです。
というわけで、少し紹介させてもらうことにしました。
もし興味をもって、読んでくれる人が増えれば、それはうれしいことです。
この作品は、40年前に出版されていますが、当時の文壇からはあまり歓迎されなかったようで、「知る人ぞ知る」の作品という貴重な存在になっているようです。
それを岡和田さんが、ていねいな解説をつけて再刊してくれたのです。
40年前といえば、私があまりSF小説を読まなくなってから10年近くたっていますので、私が知らなかったのは仕方がありません。しかし、もちろん著者の山野浩一さんのその前の作品は一部読んでいますし、とても好きでした。
しかし、この作品は、私の好きな山野浩一さんの初期の短編作品とは全く異質です。
ちなみに、SF小説といえば、私はまだ「空想科学小説」というイメージですが、この作品の頃から「思弁小説」と言われだしていたようです。
この小説は、まさに思弁小説で、よほど思考を柔軟にしないと入っていけませんが、一度入ってしまうと、まさにメタバースに入ったように自由に読み込めていけます。
若いころなら、私も思い切り飛び回れたのでしょうが、いまの重い身心では、ついていくのにやっとでした。
しかし、岡和田さんがなぜ私に勧めたのかはわかりました。誤解かもしれませんが、いま私が生きている世界や私の関心事につながっているからです。
読みだしてすぐそれには気づいたのですが、確信したのは、先日の湯島でのサロンの時です。飛び込んできた自閉症の若い女性の言動に触れて、ハッと気づいたのです。湯島のサロンはあの小説の舞台になっている「反精神病院」そのものではないか、と。
この小説の舞台は、反精神医学理論の唱導者である「博士」が、仮想存在としての‟我”という概念を外部に実体化させ、それを核にして、みんなで自主的に運営していくためにつくり上げた‟反精神病院”、今様に言えば「コミュニティ」です。
そこで暮らす人たちは、自らを「彼」「彼女」と呼びますが、実に多様で多彩な人たちです。最初は、思弁的なめちゃくちゃさを感じますが、読んでいくうちに、実に生々しくリアルになっていく。まるで、いまの日本の社会を見ているようです。これは読んでみないとわからない。
湯島のサロンには、この話に登場するほどではないものの、統合失調症や躁鬱の人、あるいは長いこと引きこもっていた人、いまも引きこもりをつづけている人などもやってきます。時に人を殺しかねないような人も来て、しばらくは不安に苛まれることもありますし、自殺が心配で眠れないこともある。もしかしたら、そうしたサロンに長年参加しているおかげで、私はこの話に奇妙に親近感をもったのかもしれません。そして同時にそう簡単には読み進めなかったのかもしれません。
「我」と「彼・彼(女)」(話は逸れますが、よく使われるこの表現は私には違和感があります。「彼(女)」と書くならなぜ「彼(男)」と書かないのか)へと自らを預けてしまい、その抜け殻のなかに残った3人目の「わたし」と「あなた」が、最近の私の関心事なのですが、どうも昨今は、その「わたし」と「あなた」がいなくなってきているような気がしています。もうそんな人間は不要なのかもしれません。
湯島で長年サロンをやっていて、そういうことを最近強く感じているのですが、まさにこの作品の舞台である「反精神病院」が広がっているのかもしれません。いやその反対かもしれない。
いま湯島では隔月で万葉集サロンをやっていますが、そこでのテーマは、「我」と「汝」と「多・他」です。山野さんの作品の「我」は、私にはむしろ「多」に重なるのですが、そこでの関心も、「多」が「他」になり、そこに「我」を託す大きな流れを私は意識していますので、山野さんの話とも通じています。
そして今回気づいたのは、「多」が「他」となり、そこから「彼」が生まれるということです。そしてそこから「表情を持った彼」も生まれてくる。それを何と表現するのか、まだわかりませんが。
というわけで、最近のサロンのテーマもまた、この話につながっている。
サロンで時々話題になる二分心にもつながっていく。また以前話題にした「オメラスの寓話」や天皇制の問題にもつながっています。
言うまでもなく、それは湯島のサロンの世界を超えて、広がっていく。
前にも紹介しましたが、岡和田さんは昨年、山野浩一発掘小説集「いかに終わるか」も編集して再刊しています。
岡和田さんのこうした地道な活動はただただ頭が下がるだけですが、この2冊には未来を占うヒントもたくさん含意されているのでしょう。残念ながら私にはまだ十分には読み取れていないのですが。
しっかりと未来を考えたいという人は、いや、現代社会を読み解きたいという方は、ぜひ読んでみてください。なにか示唆が得られるかもしれません。
ちなみに前に紹介した「あかあかや明恵」を読んでいて感じたのですが、明恵の世界もまた反精神病院なのかもしれません。いや、そもそも寺院や教会は、みんな反精神病院だったかもしれない。
この10日程、いつもこの小説が頭にあったせいか、社会そのものがもう「反精神世界」になってしまったような気さえしだしています。
気分を変えないといけません。
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