■節子への挽歌5558:若いころの私との出合い
時評編にも書きましたが、一昨日、若いころに読んだ岩波新書の「実存主義」を読みました。今から50年以上前に読んだ本です。
そこに赤い線がたくさん引いてありました。
そこの部分を読んでいると、なにか50年前の私に出会っているような気がします。
いまとはかなり関心事や感心するところが違うようです。
でもそこが面白い。
考えてみると、昔の私は、そういう形でいろんなところに残っています。
ということは、節子もまた、いろんなところに残っているわけです。
一番は節子の残した日記でしょう。
いつか読んでみようと思っていましたが、やはりなかなか読む気にはならないものです。
まだ読んでいませんが、だからと言って捨てる気にもならない。
おそらく娘たちは読まないでしょう。
私が読まなければ誰も読まない。
私は節子と結婚する時に、それまでの日記はすべて廃棄しました。
まったく新しい生活を始めようと思い、友人知人の住所録も廃棄してしまいました。
後で後悔しましたが、その時はそれがいい考えだと思ったのです。
まあ私の知恵などというのは、すべてその程度のお思い付きでしかありません。
節子とはまったく違っていました。
しかしこんな形でむかしの私に出会うことはうれしい気もしますし、何よりもあったかくなるのです。
節子の場合もそうで、時々、いろんな方とで節子に出会うこともある。
それがメモであったり写真であったり、誰かの心に残っている思い出話であったり、いろいろですが、節子が話題になることがあるとなんだかとてもうれしくなる。
そういう、ふとした軽い出会いがいい。
日記に詰まっている節子はあまりに強烈すぎるような気がして、まだ読む気にはなれません。でもそろそろ読みださないと、読まないまま終わってしまうかもしれません。
それに私が知らない節子に会えるかもしれません。
若いころの私との出会いが、若いころの節子との出会いに向けて、私の背中を押してくれた気がします。
そろそろ節子の日記を開いてみようかと思いだしてきました。
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