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2023/04/19

■湯島サロン「ある氷河期世代の死生観」報告

「最近、死に対する考え方が変わりました」という書き出しで始まった文章に出合って、ぜひお話を聴きたいとお願いした落合正和さんのサロンは、私たちの生き方を根底から問い質すような示唆といまの社会がどんなに人の生き方をゆがめているかを気づかせてくれる刺激的なサロンになりました。
20代から80代、男女半々、立場も多様なら関心も多様な人が11人が参加。それぞれの反応もまたとても興味深いものでした。

Ochiai20230415

最初に落合さんは、案内文にも書いたFBの記事を改めて読み上げてくれました。

そしてこの発言に至った経緯を、自己紹介も含めて、実にストレートに(本人も翌日少し本音で話し過ぎたかなと言ってきたほどです)話してくれました。その生々しいメッセージは、いまの社会のあり様とそこに生きている私たちの生き方の、隠されている実相を可視化(意識化)してくれたような気がします。

つづいて、いまの心境や生き方、そして「死生観」を、これも実践も含めながら話してくれたのです。

就職氷河期世代とは、197084年生まれで、新卒として就活していた時期が1990年代初頭~2000年代半ばにあたる世代を指すそうです。落合さんは、その世代は「時代に翻弄され、我慢を強いられた世代」だと言います。
そしてご自分の人生を「或る事例」として紹介しながら、それがどういうことかを生々しく語ってくれました。

落合さんは、そうした状況から抜け出して、2006年に独立し、WEBメディア関係の会社を立ち上げ、評論家としてもマスコミで活躍し、大学での教鞭や公益活動などでも活躍しています。

しかし、独立して生活も安定し社会的にも活躍できるようになってからも、「我慢する生き方」は続いていたと言います。落合さんの「我慢話」は実に具体的で、いろいろと考えさせられる問題提起を含む、示唆に富むものでした。

そうした落合さんも、我慢して生きているけれどこれでほんとにいいのか、と思うようになったようです。我慢しつづけていては幸せを感じられないようにも思えてきて、昨年10月に仲間に問いかけて、幸せとは何かを語り合ったそうです。

そして落合さんが行き着いた「人が幸せを感じる時」は、「いまより豊かな未来が待っていると感じた時」「右肩上がりの人生を感じた時」「未来に期待できる時」、つまりまとめれば、「希望を持てる時」だったそうです。

言葉で捉えれば、これは新しい話ではありません。しかし、落合さんのなかでは、たとえば「豊か」とか「右肩上がり」とか「希望」ということの捉え方が、たぶん一新されているのです。そのことは、注意深く落合さんの話を聞いていると気づいたと思いますが、参加者の多くはまだ従来の発想、たとえば「右肩上がり」と言うと経済成長をどうしてもイメージしてしまうようで、話し合いでは多くの人から違和感が出されました。私自身はその話し合いそのものにいまの社会の実相を感じました。
人は、他者を語りながら、いつも自らを、あるいは「社会」を語っているのです。

落合さんはこういう言い方もしました。
「他人の言葉に左右されるのはもうイヤだ」「これからは自分の価値観と想いを最優先に生きよう」「自分の人生を自分のものとし、自らの価値観で生きる」。
まさに「我慢」をやめて、「我がまま」に生きるということです。
これこそが落合さんの「幸せ」のカギだと思います。
ここにも価値観の反転を感じます。

豊かさも右肩上がりの尺度も、与えられた基準でではなく、自分の尺度で考えようというわけですから、右肩上がりの基準も落合さん自らの尺度なのです。決して経済的な右肩上がりではない。そういう発想から落合さんは抜け出した。つまり基準(言葉の意味)が全く変わってしまったのです。
ここも、「身勝手な生き方」などと短絡的に考えてしまうと落合さんの真意が見えなくなってしまうような気がします。

そんな時、落合さんは映画「エルネスト」を観て、一つの言葉に出合います。
「私は行きたい場所に行き、言いたいことを言う」。
実は落合さんがこの映画を観た背景には、落合さんの人柄や生き方を象徴する面白いエピソードもあるのですが、報告ではそうしたことが紹介できないので残念です。これは落合さんのサロンに限らずで、そこに直接話し合うサロンの魅力があります。

それはともかく、落合さんにとっての今の幸せは、「行きたい場所に行き、言いたいことを言う」ことなのです。そして、家族や周辺の人たちに、そういう生き方をすると公言し、実際にそう生きだした。
そうしたら、霧がかかった人生から晴れ晴れした人生へと変わったそうです。そして、まるで、違った人格を生きているような気さえしてきたと言います。
たぶん、幸せも見つかった。というよりも、幸せになった。
「青い鳥」は、「いまここ」にいたのです。

「死に対する考え方」も変わったのです。いつ死んでもいい。つまり、いまをしっかり生きることに生き方の基軸が移った。それが案内文にも引用させてもらった、FBへの書き込み記事になったのでしょう。

落合さんの話を聞いていて、なぜ私がこの文章に魅かれたかの意味が改めてわかった気がしました。
同時に、そこからもっとたくさんのメッセージも感じました。

落合さんは「いまここ」をしっかりと生きている。明日のために今日を我慢するのではなく、「いまここ」を真摯に誠実に生きることで、幸せな「明日」を創り出している。それは、まさに落合さんの今の「いまここ」が、落合さんのこれまでの生き方が創り出してきたように、です。
これは最近の多くの人たちが忘れてしまった生き方のように思います。

明日のために我慢した生き方から抜け出さない限り、その「明日」は永遠に来ないでしょう。来たとしても「ゆがんだ明日」になってしまっているでしょう。
逆に、「いまここ」をしっかりと生きていれば、明日は心配しなくても開けてくる。
大切なのは、明日ではなく、今日なのだという思いを確信させてもらいました。

サロンに参加した一人がサロン終了後、たまたまサロンの後で読んだ本にこんな文章があったと送ってきてくれました。

「自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときこそひとはもっとも自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きていくための功利的な配慮もいらなくなる。自分のほんとうにしたいこと、ほんとうにしなければならないと思うことだけすればいい。そのときこそひとはなんの気がねもなく、その「生きた挙動」へむかう。そのなかからはおどろくほど純粋なよろこびが湧きあがりうる」(神谷美恵子『生きがいについて』)

そしてその人はこう書いてきました。

落合さんが「いつ死んでもいい」というときの解放感、自由の感覚は、上記の「自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときこそひとはもっとも自由になる」に当たるのではないかと思いました。
そしてその感覚は落合さんが「行きたいところへ行く、言いたいことを言う」方向へ変容したこと、つまり「虚飾が不要になった」こと、「現世で生きていくための功利的な配慮」をしなくなったこととセットになっているように思います。

私もそう思います。

落合さんが描く、右肩上がりの先にあるものは、まだ落合さんにも見えていないのかもしれません。あるいはそこには何もないのかもしれません。
でもたぶん、落合さんの生きる喜びはまわりを幸せにしていくだろうなと思います。少なくとも私は、今回のサロンで落合さんから幸せをもらった気がします。
最近少し滅入り気味の私には、とても元気づけられたサロンでした。

最後に、改めて、落合さんのFB書き込みの文章を再掲させてもらいます。

最近、死に対する考え方が変わりました。
周りの人がどう思うかはわからないが、自分の人生を振り返ってみると、よくやってきたほうだと思っています。
誘いがあっても悪い方向になびくこともなく、人のために尽くしてきたし、見たこともない、全く知らない子供の為にお金も使ってきた。耐えるべきことに耐え、必死に働いて、それなりの実績も残したと思っています。他人の評価なんて聞きたくもありませんが、少しも恥ずべきところはありません。波はあれど、ここまでよくやってきた。上出来です。悔いも無い。

人間何があるかわかりません。これから先、間違いを犯し、失敗して落ちていくくらいなら、いま、自分にとって上出来だと思えるところで、人生を終わらせたほうが楽だろうなと思えるようになりました。

そう考えるようになったのは昨年末くらいからですが、それ以来、死は怖いものではなくなり、もっと好きなように生きても良いのではないかと思うようになりました。

私は今年のテーマとして、
「行きたい場所に行き、言いたいことを言う」
を挙げました。仕事仲間にも、友人にも、お客様にも、部下にも、この宣言をしました。自分勝手のように聞こえるかもしれませんが、自分自身で納得しており、今年のテーマではなく、残りの人生のテーマとしていこうと思っています。

誰かの作ったルールに従うことなく、自分の正義と倫理観で生きるし、誰かの為に我慢することも、もうしません。やりたくないことはやらないし、嫌いな人とは会いません。
少なくとも後半に入った私の人生。それほど長くはないでしょう。自分が思うように、好きなように生きていこうと思います。

さぁ3月のスタート。

 

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