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2023/04/06

■第22回益田サロン「人間が行う三重の破壊から生物と環境を考える」報告

今回のテーマは「人間が行う三重の破壊」。人間が行う自然破壊、体の破壊、心の破壊を、病原体やウイルスの行動を参考に考えてみようという試みです。

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益田さんは、まず「本来の関係」がキーワードだと言います。

生物は、本来の関係にある環境(本来の環境)を壊すことはありません。自らを守ってくれる存在だからです。そうした本来の関係にある環境の中では病原体は「常在菌」として、環境とはむしろ「互恵的」に存在しています。「環境あっての生物」ですから、生物は環境を壊さないのです。

しかし、その環境が本来の関係ではない場合、病原体は常在性から病原性に変わり、環境を壊すこと(病気)も起こります。
ウイルスについても同じことが言えるわけで、本来の宿主に存在していたウイルスが、状況の変化で別の宿主に移ってしまうとその宿主に災いを起こしてしまいかねません。今回のコロナ騒ぎはそのおかげで起こったと言ってもいいでしょう。本来の関係にないために、双方が互恵的ではない関係になってしまったのです。

つまり、「環境」と言っても、「本来の関係にある環境」と「非本来の関係にある環境」とでは、生物との関係は変わってしまうわけです。なお、益田サロンで「環境」という場合、「本来の関係にある環境」を指すことが基本です。

こういうことをベースにして、益田さんは人間のおこなう3つの破壊について説明してくれました。

人間は自分の存在を守ってくれる自然環境をなぜ破壊するのか。
「身心」という言葉があるように、人間は「身」と「心」から成り立っています。
自然環境を本来の環境としているのは人間の身体です。そして「心」は人間の「身体」を環境としていると捉えられます。自然環境と本来の関係にあるのは身体で、人間の心にとっての本来の環境は身体と言ってもいいでしょう。
つまり、自然破壊を起こしているのは、人間の心であって、心にとって自然環境は本来の環境ではないので破壊することができるのです。
これがいま問題になっている自然環境破壊の話です。身体にとっては迷惑ですが、心にとっては不都合は起きてこないのです。

次に、人間の心が身体を本来の環境とするような関係を心について考えてみるとどうでしょう。つまり、心を環境とする存在、たとえばそれを「欲」と言ってもいいでしょう。「欲」の本来の環境は心になりますので、「欲」は心を壊すようには働きませんが、しかし、身体には時に悪さをします。
たとえば糖尿病を考えてみましょう。甘いものを食べすぎると身体を壊しかねませんが、身体を本来の環境とは考えない「食欲」はドクターストップがかかっていてもついつい食べてしまいます。そして身体を壊してしまうわけです。知識欲で身体を壊すこともあるでしょう。「欲」は本来の関係にない身体には無頓着なのです。
これが第2の破壊です。

こう考えていくと、環境は、自らの中に「生物のようなもの」を生み出していくという言い方もできます。人間が心を生み出し、心が欲を生み出す。
では「欲」が生み出す「生物のようなもの」とは何か。
益田さんは、それは「人間独特の欲」、たとえば名誉欲や金銭欲だと言います。
「人間独特の欲」が本来の環境とするのは「欲」であって、心ではありません。ですから「人間独特の欲」は自らの心を壊すこともいとわないのです。心が破壊され、時には自殺へとつながっていく。これを益田さんは第3の破壊というわけです。

生物は環境を壊さないように存在するにもかかわらず、人間が3つの破壊を起こしてしまうのは、本来の関係ではない環境と複雑に付き合っているからです。言い方を変えれば、人間は自らの中に、「生物のようなもの」を幾層にも生み出してしまったのです。
そこを変えていかなければ、破壊は止められないのではないかと益田さんは示唆しています。やみくもに対処療法しているだけでは問題は解決しない。

うまく伝わったかどうか心配ですが、これが今回の益田さんの話の概要です。詳しく知りたい方は益田さんの著書「病原体から見た人間」(ちくま新書)の第5章をお読みください。

今回、改めて確認できたのは、「本来の関係にある環境」という捉え方と「環境は生物のようなものを生み出すとともに、生物もまた環境になっていく」ということです。
この視点で、環境破壊や健康維持、人間関係などを考えていくと、新しいヒントが得られるように思います。

話し合いでも示唆に富む話がたくさん出ました。
報告が長くなったので紹介できないのが残念ですが、特に気になったテーマを3つだけ紹介しておきます。いつかまた益田サロンでテーマにしてもらおうと思います。

1つ目は、本来の関係にある生物と環境とを「2個1(にこいち)」(発言者の表現)で考えて家族やコミュニティを捉えるとすごくわかりやすくなると参加者のおひとりが話されたことです。
益田さんはそれに関連して「イエ」の話もしましたが、個体としての「生物と環境」ではなく、「生物と生物」の関係を包み込むような環境の話がそこから見えてくるような気がしました。

2つ目は、もし環境がさらなる生物のようなものを生むのであれば、「人間独特の欲」が生み出す「生物のようなもの」は何なのか。そしてそうした先には、もしかしてすべてを支える何か素晴らしいものがあるのではないか。

3つ目は、2つ目ともつながるのですが、「破壊」というとどうしてもネガティブなイメージがあるが、時空間的に俯瞰したらそこには大きな意味でのポジティブな価値があるのではないか、ということです。


いずれも少しだけ話し合いになりましたが、なんだかとてつもなく大きなビジョンを感じさせられました。
他にも、空腹感と食欲の話とか、もう少し具体的な話も出ましたが、いずれにしろいろんな示唆をもらえたサロンでした。
次回は今回のサロンをもう一歩進められればと思います。

 

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