■節子への挽歌5565:「反精神病院」の湯島サロン
節子
昨日も湯島のサロンでした。
久しぶりに、遠方からの参加者も含めて、実に多彩な人が参加しました。
先日、書きましたが、最近、湯島のサロンは「花と機械とデシタルト」に出てくる「反精神病院」とますます重なってきました。こんな風に書くと、サロンの参加者に失礼ではないかと思われるかもしれませんが、私の価値観はいささか世間とは違うので許してもらえると思って、素直に書いてしまいます。
節子がまだサロンの手伝いをしてくれていたころにも、節子に時々、どうしてみんなサロンに来るのかなあと不思議に思っていたのですが、その答えがやっと見つかったような気がします。
ここは、まさに反精神病院、つまり精神を癒す場だったのです。
癒すのは、私ではなく、この「場所」で、私もまた癒されているのです。
そう考えるとなぜ人が集まるのかが理解できるような気がします。
ここでは自らに素直になれるのです。
そういう場ですから、みんな話し合っているようで、話していないのかもしれません。
そう思ってみんなの話を聞いていると、話し合いはあんまり行われていないことに気づきます。
しかし、それはこの場所に限ったことではなく、社会の至るところで、実は誰も話し合いなどしていないことにも気づかされます。
私は大学生の時に、人と人はわかり合えないものという思いを持っていました。そして、いつか「ディスコミュニケーション」をテーマに小説を書きたいと思っていた時期もあります。
一昨日、25歳の私の投稿記事を読んで、そんなことも思い出しました。
その後、コミュニケーションとはわかり合うことではなく、自分が変わることだという思いにたどり着き、そもそも自己と非自己は相対的なものと思うようになり、華厳経のインドラネットに溶融するような感覚さえ、時にもてるようになりました。
47歳で会社を辞めた時にも、言葉としてはこういうことを話していたと思いますが、気づいてみたら、今まさにそうした心境になってきています。
時評編で報告する予定ですが、昨日のサロンでの話も、こうした私の思いを実感させてくれたのです。
サロンが終わった後、思ってもいなかった人が私に「私も自閉症です」と話しかけてきました。言わなければまったくと言っていいほどわからないのですが、言われてみると心当たります。
改めて「異常」と「正常」とはいったいどう違うのだろうか、と考えてしまいました。
ちなみに、湯島が「反精神病院」ということは、世間は逆に「精神病院」だということに通じます。
いまやほとんどの人が「精神」を失ってしまってきている理由も、それでわかるような気がします。
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