« ■節子への挽歌5607:最近また気に萎える夢を見出しました | トップページ | ■湯島サロン「長崎の原爆をもっと思い出してほしい」のお誘い »

2023/05/06

■憲法サロン「統治行為論をどう思いますか?」報告

毎年開催している憲法サロンですが、今年は「統治行為論」をタイトルにしたせいか、参加者も少なく、議論もなかなか憲法につなげられませんでした。
責任は、ひとえに私にあります。私が思っている以上に、統治権という概念は生活から遠い概念のようです。すみません。

私が今回、話し合いたかったのは、「統治行為論」そのものではなく(その意味はあまりに明白だという思い込みが私にはありました)、そこから「日本国憲法は誰が誰のためにつくったのか」、そして「いまの日本の主権者は国民なのか」「そもそも日本は主権国家なのか」ということです。

一応、議論のベースにするための資料を作成しました。
添付しますので、もしよかったら目を通してください。

ダウンロード - e794bbe5838fefbe83efbe9eefbdb0efbe8001.bmp

「統治行為論」に関しては添付資料にゆだねますが、私はこの議論が起きた直後に大学に入り、安保闘争での樺さんの死の直後の大学に通い、翌年、憲法の講義で、この話を「統治行為説」という名称で学びました。ですからそれなりの「思い」もあるのです。日本の憲法学者への不信感はそれ以来です。

今回、当時のテキスト(唯一廃棄せずに持っている大学時代の教科書です)を改めて引っ張り出してきて読み直しました。著者の小林直樹さんは、明らかに最高裁判決に否定的です。その後に「憲法第9条と政治的現実」という文章を置いて、つじつまを合わせていますが。

話し合いで、私は「主権とは何か」と訊いてみました。選挙権のことではないかという人もいましたが、だとしたら素直に「選挙権がある」と言えばいいだけです。
私には国民に主権があるということの意味がわかりません。参加者の一人がルソーの「一般意思」の話をしてくれましたが、それは「説明のための仮説概念」です。ちょうど「社会契約」という概念がそうであるように。

「主権」を「統治権」だと置き換えれば、私にもよくわかります。
しかし、国民みんなが自らに対する統治権だけではなく、自らが生きる社会に対する統治権を持つことなど、私には想像ができません。そこで、統治の仕組みが課題になるわけでしょう。それこそが「政治の基本」のような気がします。
つまり、日本を統治しているのは誰か、そしてそれはどういう仕組みで正統性を得ているのか、「国民主権」原理とどうつながっているのか。それが大切なわけです。

まあこんなことを書いていると報告が長くなりますので、結論だけを書けば、日本という国家の統治権者は日本政府にはないと宣言したのが統治行為論を根拠にした砂川裁判の最高裁判決だったような気がします。重要な問題は日本政府では決められない。憲法を超えた「統治者」が存在するということです。

そしてそこから逆に考えれば、日本国憲法の宛先は、統治権者ではなく、政府と国民双方なのです。そう考えれば、日本国憲法に「国民の義務」という言葉が出てくるのもわかりますし、統治行為論で三権の上位の権力を認めたことも理解できます。
いささか飛躍しますが、サロンでも話題になっていた源泉徴収による徴税など、いろんなことが理解できるような気がします。

さらに言えば、日本国憲法は、統治権者が定めた「法律」なのではないかと思います。ですから、日本国憲法は条文も多いですし、国際条約の下位概念として位置づけられてもいるわけです。硬性憲法である理由も説明がつきます。

こうした認識に立てば、改憲や護憲など、たいした問題ではなくなります。サロンでも「憲法を一文字でも変えたら9条が変えられる」という話がありましたが、これも全くの茶番でしょう。問題の立て方も議論の取り組み方も間違っているとしか思えない。
そもそも日本国憲法は憲法と言えるのか。論点がずれているのではないのか。
本当の憲法はいったいどこにあるのか。それこそが憲法問題のキモなのではないのか。

サロンでは、憲法や統治権は、直接、話題の中心にはなりませんでしたが、話はいろいろと広がりました。いや広がりすぎてしまった感もあります。
幸いに、社会はよくなってきているといういまの政治を支持する人と社会は劣化しているといういまの政治に否定的な人とがいたため、適度に刺激的な対論もできました。

また憲法の捉え方も人によって大きく違っていました。空気のように当然のことと受け止めている世代もあるようですが、目指すべき理想や法を生み出す「法源」という捉え方もあります。でもいずれにしろ、自分の生活とつなげて考えている人はあまりいないのかもしれません。

私は、いまの私の生活があるのは日本国憲法のおかげだと思っていますので、その憲法が法律の位置へと貶められているのには不安を感じます。最近は戦争さえ見えてきているようで落ち着きません。

ウクライナ戦争やら台湾有事やら、私たちの生活はじわじわと戦争に巻き込まれているような気もします。でもGWの観光地やレストランにはそんな空気はみじんもない。

企画したものとしては、やはりどこかに中途半端な気分が残りました。
もう一度、統治行為論から何を考えるかのサロンパート2を開催することにしました。
案内は別にまた出しますが5月14日(日曜日)の午後2~4時を予定しています。
よかったらご参加ください。

Dsc_0512

|

« ■節子への挽歌5607:最近また気に萎える夢を見出しました | トップページ | ■湯島サロン「長崎の原爆をもっと思い出してほしい」のお誘い »

サロン報告」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■節子への挽歌5607:最近また気に萎える夢を見出しました | トップページ | ■湯島サロン「長崎の原爆をもっと思い出してほしい」のお誘い »