■節子への挽歌5712:「信主霊生」
節子
久しぶりの李東哲さんが湯島にやってきました。
前回約束していた、李さんによって現れてきた「主書」をもってきてくれたのです。
主は霊であふれている」という言葉から始まる「主書」には、李さんの生き方のすべてがたぶん示されているのでしょう。
「主教」は、数年前に李さん自らに降りてきた教えのようです。
李さんは「信主霊生」。主を信ずれば、霊が生まれる、と確信しています。
特に誰かに布教しようなどとは思っていないようですが、必ずいつか広がっていると信じているようです。
私が李さんとこの話をするのは、今回が初めてです。
「いのち」とはなにか、神とはなにか、信ずるとは何か、について、2人で話し合いました。
儒教、華厳経、ユダヤ教、キリスト教、そしてゾロアスター教と、話題は宗教にも及びました。「教」が現れることの意味についても。
併せて、科学や論理についての議論もありました。近代西欧のパラダイムから解放されないと生命は見えてこない。
こういう議論をするのは久しぶりです。
気が付いたら、話しだしてから2時間以上がたっていました。
おかげでまたお昼を食べそこないました。
困ったものです。
霊に関して、自分の問題として話し合うのは久しぶりです。
大きなところでは分かり合えたような気がしますが、主と霊の関係に関しては、今回はまだ分かり合えませんでした。
李さんは、石とも話をするという私の話を何の抵抗もなく受け入れました。
時間感覚も共有できました。時間は人間が作り出した「仮説」でしかありません。
李さんの息子さんに会いたくなりました。
人間は育った環境で大きく違ってきます。
環境には生活環境と社会(政治経済)環境がありますが、前者がどんどん失われてきていることに、改めて大きな不安を感じます。
人類はどこから来てどこに行くのか。
この有名な問いは、私には未熟な問いに感じます。
人類は今どこにいるかから発想すべきではないかと思っています。
宗教(信仰)にきちんと向き合っている人と話すと、救われることもあります。
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