■「助けてと言える社会」か「助けてと言わないでいい社会」か
今朝の朝日新聞の読書ページに『「助けて」と言える社会へ』が紹介されていました。
私はまだ読んでいませんし、いまはあまり読もうとは思っていませんが、その書名が気になって、少し書きたくなりました。
一言でいえば、「助けてと言える社会」がまだ死語になっていないことへの違和感です。
以前も書いたことがありますが、「助けてと言える社会」という考えには私は違和感を持っています。その根底に、問題を他者のせいにする意識が感じられるからです。
そういう意識こそが、社会をおかしくするのだと私は思っているのです。
助けを求めている人に「助けて」と言わせるのはむずかしい。
それが言えないからこそ苦境に陥っているのです。
そもそも「助けて」と言える人は言っている。
問題は、それに耳を傾ける人、聞こうとする人が少ないだけの話なのではないか。
にもかかわらず、まるで「助けて」と言わないことが悪いような、あるいは、むりやり「助けて」といわせようとしているような、そんな印象をどうしても受けてしまう。
そもそも問題は、「助けて」と言わなければいけないような状況をつくりだすことだと思いますが、知らず知らずのうちに、私たちは、他者をそういう状況に追い込むような生き方をしてしまっていることもあります。そうしたことにこそ、気を付けるべきではないか。
そもそも、「助けてと言える社会」をめざそうなどという発想そのものがその一つではないのか。そんな気さえします。
その気になってまわりを見てみれば、助けを求めている人に気づくはずです。
もしそうした余裕がない生き方をしているのであれば、まずは自らが「助けて」と声をあげればいい。そう思うのです。
あまりに雑駁に語ったので、またまた反論をもらいそうですが、「助けてと言える社会」ではなく、「助けてと言わないでいい社会」をつくることに意識を向けたいと思います。
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