■第29回万葉集サロン「改めて万葉集基礎講座」報告
2回目の「万葉集基礎知識」のサロンには10人を超す人が参加しました。
万葉集基礎講座と言っていますが、教科書的な基礎講座ではありません。
万葉集を「日本最古の歌集」というような「常識的な」捉え方をしてしまうと、升田万葉集サロンの面白さを十分に受け止められないばかりか、そもそも万葉集本来の面白さにもたどり着けないような気がします。
そこで、これまでの升田万葉集サロンの話を踏まえて、全回参加させてもらっている私の視点で、升田さんに問いかけながら、万葉集とは何かを復習的に少し整理しようという試みでした。
欲張りすぎたため、あんまりうまくいったとは思えませんが、万葉集はただの「歌集」ではなく、まさに「万(よろず)の言の葉」を集めたものだということは少し伝えられたかと思います。
「万葉集」に収められているのは「うた」だけではありません。漢詩や漢文、さらに日記、手紙のようなものまであります。歌番号は与えられていませんが、23回目のサロンでも取り上げた「沈痾自哀(ちんあじあい)文」のような長文もある。
問いかけは、「言葉があって歌が生まれたのか、歌があって言葉が生まれたのか」というところから始めさせてもらいました。一般には、言葉があって、歌が生まれたと思いがちですが、実際には、歌や言葉よりも、まずは単純な感動的な叫びのようなものがあったのではないか。そこから考えていかないと、万葉集の魅力も意味も読み取れないのではないか。
神事における神への挨拶と言われる「警蹕(けいひつ)」の叫び、あるいは生活の中で自然と出てくる身体からの(条件反射的な)発声、そこからすべては始まったのではないか。そこから多音節の音声が増えていき、鳥の鳴き声のような「うた」が生まれたのではないか、というのが私の最初の問いかけでした。
升田さんは、その問いかけに、「古事記」や「出雲風土記」の記事を使いながら、話をしてくれました。それ自体も、とても面白い話なのですが、そこに入ってしまうと、基礎講座になりません。無理やり説明を切り上げてもらって、先に進めました。
そうして生まれた音声言語が漢字との出会いで文字化され、記録されるようになった。そして文字言語として、「ことば」も大きく変わっていった。いわゆる「ヤマトことば」の誕生です。
そこで考案されたのが万葉仮名。その万葉仮名で書き留められて整理されて「万葉集」が出来上がったわけです。「万葉集」は漢字の羅列だったのです。
そこで、万葉仮名とは何か、についての解説をしてもらいました。万葉仮名は50音図どころか、970以上もあるそうです。かつては970音もあったというわけではありませんが、同じ「そ」でも少なくとも甲類・乙類と万葉仮名には2種類が確認されていますから。万葉仮名で記録される当時の「ことば」はいま以上にたくさんあったことは間違いない。いまではもう発音できず聞き分けられない音声(ことば)もあったわけです。
サロンに参加されていた中国出身の葉さんは、万葉仮名はすごい発明だと言いましたが、もし万葉仮名がなければ、日本の言葉は全く違ったものになっていたかもしれません。
身体から発する意味を持たないような発声が、みんなにシェアされて、やがてことばとなり、そのことばがつながりだして「うた」になり、そこから「言葉」が生まれ、さらにそれが文字を通して記録されることによって、言葉として完成された。そうした一連の様々な段階のものが、万葉集には集められている。まさに「万の言の葉」辞典ではないかと思います。
「うた」とはなにかの話も少しありました。以前も話題になりましたが、「うた」の語源にはいろいろな説があります。「打ツ」という動詞の名詞形、つまりリズムをとるということに求める説もありますが、「ウタタ」という、心持が湧き上って来て止めどもないという意味を持つ言葉の仲間に語源を求める人もいます。ウタタはウタガヒ(疑)のウタとも語根が同じです。叫びから「うた」が始まったと思う私は、この方が納得できます。「うた」は意識や技法の前に、もっと自然に生まれたに違いないと思いたい。
ではどうして世間で歌われていた「うた」が集められ文字に記録されたのか。
これまでのサロンでも「部領使」「撰善言司」「能く歌ふ男女」といった言葉が出てきていましたが、改めて升田さんは、歌を集める仕組みを簡単に説明してくれました。いずれにしろ、国家がある意図をもって、集めたのです。歌を集めるのは重要な国家事業だったと思います。
私は、そうした動きに、中国を統一したという秦の始皇帝の文字言語政策を思い出してしまうのですが、そこまで発想を飛躍させなくとも、国家による日本列島住民たちをまとめていく上で、「言葉」が大きな役割を果たしたことは否定できません。
というわけで、私自身は、万葉集は日本という「くに」を創り上げていく壮大なプロジェクトの記録という受け止め方をしているのです。文学書でも歴史書でもない。そこには日本国の誕生のプロセスが記録されている。これは完全に私見です。すみません。
サロンでは、さらにそこから「万葉集の概要」「誰がなぜ万葉集を編纂したのか」「万葉集450年の時代区分」「万葉集のその後と和歌の誕生」と続けたかったのですが、時間が不足したため、そこは超特急ですませました。
そして最後に、升田万葉集サロンの大きなテーマである「意識の誕生・物語の誕生」へと話題を進めました。
私がこれまでの升田さんの話を聴いて、簡単にまとめたのが次の文章です。
個人意識のない生命「た」(多)のなかから、「な(汝)」があらわれ、そこから「わ(我)」や「あ(吾)」の感覚が生まれ、そして「た(他)」が意識されるようになり、改めて意識された「わ」がうまれてきた。そして、「多」にむけて「放(はな)す」ための発声が、次第に「他」とともに「象(かたど)る」ことを目指す「語る」へと変わり、そこから物語が生まれ、社会が生まれた。
いささか簡単すぎるまとめですが、サロンが長くなっていたため、升田さんからはとりあえず、これでいいと言われました。このあたりは改めて、一度また、升田さんにゆっくりと話してもらうサロンを企画したいと思います。何しろこれこそが、升田万葉集サロンの核心ですから。
升田さんは、万葉集を、単なる文学書として、あるいは古代史の歴史資料として、だけではなく、そこに「自我の誕生」「物語の誕生」という大きな物語を見つけているのです。
それが私には、「壮大な国家プロジェクト記録」に読めてしまうわけですが。
「万葉の時代は、神々の世界から人間の世界へ、集団から個人へと目ざめていくプロセスをたどるという時期」という、昔読んだ木俣修さんの「万葉集」(NHKブックス)の言葉が私の万葉集理解の出発点なのですが、升田さんの話を聴いて、改めてその言葉を思い出しました。
いつもながらの中途半端な報告ですが、サロンでの質問をリストアップしたレジメを添付します。
ダウンロード - e4b887e89189e99b86e585a5e99680e8ac9be5baa7e3819de381aeefbc92e383ace382b8e383a1.docx
参加者から、今回のような「歌を中心にしない万葉集サロン」も時々やってほしいというリクエストもありました。升田さんが賛成して下さればぜひ実現したいです。
なお、これまでの升田さんの万葉集サロンの報告文を集めた総集編をつくりましたので、ご希望の方は私宛にご連絡いただければデータで送ります。
次回(10月15日)はまたいつものように、歌を読む万葉集サロンです。
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