■がん民間療法体験41:療法疲れ
がん民間療法体験も、終盤にきて、いささか疲れてきました。
療法実施で疲れるというのは、論理矛盾を感じますが、今回は「実験台的体験」を意図していることもあり、ともかくいろんなことに取り組んでいるので、それなりに大変なのです。支援してくださっている方のことを考えると、手を抜くわけにもいきません。
最初はなんとなく新鮮で、楽しかったのですが、毎日となるとだんだん面倒になってくる。それにいろんなものを飲むことにしたため、時に忘れてしまいがちです。
一番の問題は、体調や気分に合わせて生きるのではなく、体調を予定に合わせなければいけないことです。
たとえば、時にもう少し眠っておきたいことがあるのに、時間が来たら起きてヒートマットと水素吸入をしないとその後の予定が変わってしまうため、気が進まないのに起きなければいけない。ゆったりしていたのに、散歩に行かなければいけない。甘いものを食べたいのに食べられない。飲みにくいチャーガも飲まないといけない。
なんとなく本末転倒ではないかと思うような窮屈さがある。
幸いに、いまの私の場合、それぞれの療法をアドバイスしてきてくれた人がいますので、その人の顔を思い出しながら、取り組んでいるので、ただ規則や予定に従っているだけではありません。その人への感謝の思いをこめながら取り組んでいるので、義務感は生まれないのですが、それが毎日になると窮屈なことには変わりない。
私がいま取り組んでいるような「楽な療法」でさえそうなのですから、もっと大変な療法の場合は、継続はそれなりの努力が必要でしょう。でも「努力」は養生にとっていいことなのか。病気の度合いによっては、そんな悠長なことなどいってはいられないかもしれませんが。でも「今を生きる」か「明日を生きるか」という問題もある。
笑いと精神の安定が大切、などと言われても、実際にはそういう気分にさえならないこともあるでしょう。
今回、改めてそういうことにも気づかされました。
時に思いきり「療法」から解放されて、わがままに暮らしたい気分になってもおかしくない。
療法も養生も、やはり「日常の生活そのもの」にならないといけないのでしょう。
言い換えれば、日常の暮らし方こそが、最大の養生であり療法なのです。
さらに言い換えれば、病気を特別扱いして否定するのではなく、病気を受け入れ、共に生きていくことにこそ心がけた方がいいのかもしれません。
私の両親の時代の頃までは、まさに日々の生活の中に、たとえば、食後のお茶のように、そうした「養生」が組み込まれていた気もします。
今日は療法休養日にします。
朝、寝坊してしまったからですが。
残りわずかなのに、どうも緊張感がない。
困ったものです。
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