■民間療法余談:「科学的」ということの勘違い
「科学的」という言葉ほど誤解されている言葉はないような気がします。
私の今の民間療法への取り組みに対しても、「非科学的」と決めつけられています。
私は、全く真反対に、そういう指摘をしている人こそ、非科学的だと思っています。
「科学的」とは、いったいどういうことなのか。
「科学革命の時代」と呼ばれている頃から、たぶん「科学的」という言葉も生まれたのではないかと思いますが、だとすれば、17世紀のヨーロッパから広がってきている近代科学における「知の体系」をどう受け止めるかが問題です。
よく言われるように、近代科学の知の体系は、真理ではなく、原理的にはすべて「仮説」です。ある条件に基づいて構築した世界における知の体系が、近代科学と言っていいでしょう。いいかえれば、理解できた世界に限定した論理体系なのです。
しかし、新たなことがわかると、知の体系は変わります。これが「パラダイム・シフト」です。ニュートンの科学世界と量子論の世界とでは、知の体系も組み替えられるのです。
科学者は、仮説の世界で生きていますから、その世界では「科学的」「論理的」という言葉を使うことは一向にかまいません。
しかし、その「科学」とは、ある意味では限られた世界の話なのです。
知的な人には退屈な世界かもしれません。
それに、人間はそうした世界で生きているわけではありません。
まだまだ人間には理解できないことはたくさんある。
虚空蔵とつながっていたと言われる空海やアガスティアの葉とつながっていたと言われるサイババならともかく、そうでない人はどんなに多くの知識を持っていても、まあどんぐりの背比べでしょう。ともかく知らない世界は、ソクラテスがたぶん知っていたように、無尽蔵なはずですから。
だからこそ、近代科学の世界の外に目を向けていくことが大事になります。
近代科学が気づかせてくれたことは、私たちが知っていることは、ほんのわずかでしかないということです。
大澤真幸さんは「科学革命は、知の革命である以前に、無知(の知)の革命と理解すべきです」とある本で書いていますが、人間の知っていることの少なさを気づかせてくれ、思考の呪縛を解いてくれたのが、近代科学革命だったのではないかと思います。
これも有名な話ですが、万有引力などという、目に見えない力は、近代の科学革命前には理解不能で、ニュートンが言い出した時には、評判が悪かった。まさに、いまでいえば、「スピリチュアルな霊感」発想と捉えられていたのではないかと思います。でも今では誰もいかがわしいとは思わないでしょう。
この世に「真理」などなく、常に知は新しい知を求めていく。
その姿勢が、私には「科学的」「知的」ということなのです。
知らないことを小さな知識で切り捨てるのではなく、知らないことがあれば、できるだけ知ろうとするのが、私の生き方なのです。
言わずもがなのことを書いてしまいました。
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