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2023/12/13

■湯島サロン「一般社会とひきこもり社会 ひきこもり問題を考える」報告

久しぶりの「ひきこもり問題」関係のサロンは20人を超えるサロンになりました。

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ひきこもり関係に関しては、さまざまな集まりの場が増えてきているので、湯島では最近あまりとりあげていなかったのですが、ますます必要なのかもしれません。
来年から、湯島らしい定期的な集まりも考えたいと思います。

今回は、ひきこもり関係者の相談に乗る一方で、関係者の集まりの場を主催したり支援したりしている阿部達明さんに「一般社会とひきこもり社会」という切り口で問題提起してもらいました。

阿部さんは、これまでの実践での体験知をわかりやすい資料にまとめて参加者に配布してくれました。そして、「ひきこもり」の子と親をモデルに、一般社会とひきこもり社会の比較から話をはじめました。

「一般社会」に生きている親とそうした「一般社会」を信頼できずに、そこから距離を置くことで自分の生きる場をつくっている子どもは、別の社会(「ひきこもり社会」)に生きている、しかもその「ひきこもり社会」は各人各様で、それこそ一般的には決められないという認識を持つことが、ひきこもり問題を考える出発点ではないか、と阿部さんは言います。
もし、「一般」への拒否感がひきこもりの理由であるとすれば、一般社会基準で考えてのアドバイスは、ひきこもり社会にいる人には逆作用することにもなりかねません。

となると、その「一般社会」とは何なのかということになります。
阿部さんは一般社会ではみんな鎧(よろい)を着て生きているが、その鎧が着られず、素直な自分を生きたいと思うと、生きづらくひきこもってしまうこともあると言います。しかしもしそうなら、鎧を着ているほうこそ、鎧の中に引きこもっているというべきではないかという気もします。そう考えれば、問題の立て方が全く変わってくるはずです。
いやもっと広く言えば、「一般社会」などという枠の中で、それ(社会の常識や通念)に合わせて生きている人たちこそ、「ひきこもり」ともいえるのではないか。

問題は、そうした「一般基準」や「社会通念」「社会の評判」などといった枠に合わせようとする風潮こそが、主体的に自分を素直に生きようとしている若者たち(時にはそれに気づいた中高年者たち)を、それぞれの「ひきこもり社会」へと追い込んでいるのではないか。
もしそうなら、ただすべきは「一般社会」ではないか。そんな気もします。

しかし、そんな理屈はともかく、ひきこもりの現実では、なかなか社会に出ていきづらいために苦労している当事者と関係者がいるのです。だとしたら、そういう状況を変えていくにはどうしたらいいか、を実践的に考えないといけません。

参加者のなかには、いまもなお問題に直面している当事者も多かったのですが、それぞれの引きこもり体験やいまの悩みを話してくれました。親としての反省や悩みを話してくれた人もいます。
そしてそうした話に対して、自らも過去に引きこもり当事者あるいは家族だった人、さらにはひきこもり問題に長年関わってきている人などが、それぞれの立場からのアドバイスや感想を話してくれました。

この問題には、それこそ一般的な解決策や回答はありませんが、そういう現実を踏まえての話し合いは、それぞれにとても参考になったと思います。
私も多くのことに気づかせてもらいましたし、問題提起者の阿部さんさえも、「改めてみんな違うんだなあと感じた」と言うほど、さまざまな話が出ました。

ひきこもり体験者から、新聞や本などで紹介されるような事例はきれいすぎるというような発言もありましたが、現実は、「ひきこもり問題」という一言では語れない多様さがあるのです。
8050問題」という捉え方そのものへの疑問も出されました。
実際の引きこもり状況に関する話し合いの内容は、サロン外にはオフレコですので報告できませんが、多くの人に聞いてほしい話ばかりでした。

ひきこもり状況を変えていくために、まず変わる(変える)べきは、子ども(当事者)なのか親なのか、ということも話題になりました。
また、それに関連して、昭和から令和へと社会(の価値観)は大きく変わっているのに、まだ昭和の感覚でいる親が少なくないという話もありました。阿部さんの問題提起に従えば、「一般」の内容も変わってきている。それに気づくことも大事です。

みなさんの話し合いを聞いていて、私は改めて、「ひきこもり」という言葉にこそ問題があるのではないかという思いを強くしました。
そもそも「一般的なひきこもり」などというのはないのではないか。それぞれ違う社会に生きているのであれば、それぞれの生き方を尊重することこそが大切ではないか。
もしそうなら、変えるとか変わるとかいう前に、まずは自分と相手のことを知ることが大切ではないか。特に、結果的に子供を引きこもらせている親こそ、自らを知らねばいけないのではないか。引きこもり問題を抱える家族の場合、私にはむしろひきこもっているのは親の方ではないか、と思うことが多いのです。

自分を知るためには、まず自分を語りださないといけません。そして聴いてもらわないといけない。あるいは知りたい人の話を聴かなければいけない。
実際に私自身、ある問題の相談を受けて、関係者それぞれに会って、自らや相手をいかに知らないかに気づいてもらうことを通して、問題を改善した体験があります。
私たちは、自分のことも含めて、知っているつもりが意外と知らないことが多いのです。
しかし、変化は必ず現実を「知ること」から始まるのです。

「ひきこもり」問題を自分のこととして受け止めている人が多かったおかげで、話し合いは空転せずに現実的な話で終始したように思います。こういう場がやはり大切です。

私は、最近はほとんどすべての人が「ひきこもり生活」をしているので、それをこわそうと湯島サロンを長く続けているのですが、現実に「ひきこもり」問題に直面している人たちを中心とした「脱ひきこもりサロン」を来年からはじめたいと思いました。ひきこもりに関心のある人が気楽に話をし、みんなと話し合うサロンです。
湯島のサロンですから、親であろうと子どもであろうと区別はしません。そもそも「ひきこもり」の枠などももうけません。でも一応「脱ひきこもり」と命名しました。

また改めて案内させてもらいます。

 

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