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2024/02/21

■第32回万葉集サロン「帰化人の歌を読む」報告

今回から3回にわたって、「帰化人の歌を読む」ことになりました。
余明軍・麻田陽春など、これまで名前も聞いたことのない歌人の歌です。

帰化人の歌(倭歌)は記紀にも万葉集にもあるそうですが、そこには共通する特徴と相違点があって、そこから改めて「和歌」とは何か、を考えることができると升田さんは言います。
帰化人の詠んだ倭歌は、中国の詩経や新羅の郷歌(ヒョンガ)と同じく叙事的であるのに対して、和歌は叙情的。そこに日本人の「わ」の成り立ちを考える材料があるというわけです。

さらに、万葉集のなかの帰化人の歌を読むことで、当時の日本列島での人々の生活をうかがい知ることができ、日本という「国」の成り立ちのヒントも得られる。そうしたところに、記紀とは違った「歴史書」としての万葉集の面白さがあるようです。
万葉集は、その歌の数において、4500首という世界にも類例をみない歌集ですが、内容的にも実に多彩なのです。しかも、その多様さが、人のこころで束ねられている。升田さんは、そこに万葉集に託した大伴家持の壮大な構想を感じているようです。

「帰化人の歌を読む」シリーズの1回目は、まず大陸や朝鮮半島と豊かな日常的な交流があった当時の時代状況をしっかりと理解することからはいりました。そこには現代以上にグローバルな生き生きした世界があり、なかにはアラブの美女らしき人(升田さんの印象)も登場する歌もありました。現代のような、国境によって分割された世界像を前提にしていると、万葉の時代は見えてこないのかもしれません。そうした社会では、言葉もまたいまとはかなり違った位置づけだったような気がします。(私は「バベルの塔」以前の社会をイメージしました)

そう考えると、そもそも「帰化人」とは何か、が問題になります。そのため、参加者から、「帰化人」をどう理解していけばいいかという問いかけがありました。
帰化人とか渡来人とかいう発想は、小賢しく国境を作ってしまった近代人の発想かもしれません。しかし、万葉の時代にも、やはり渡来人の存在は目立っていたようです。
升田さんは、遣唐使での交流や技術者集団の日本列島への渡来など、大陸や朝鮮半島との人や物の交流の話をしてくれました。

日本列島への人々の渡来は長い時間をかけて繰り返し行われていますが、その理由は様々です。そして、万人単位での渡来もあり、今でも地名などに名残がありますが、日本列島には渡来人たちの村もたくさんあったのです。宮都(みやこ)や大宰府はまるで国際バザールのようににぎわっていたのかもしれません。そんな情景を思わせる高橋虫麻呂の歌も読んでくれました。

言葉が違うためのトラブルも起こったでしょう。升田さんは、日本書紀にある、言葉がうまく通ぜずに殺されそうになった帰化人の話を紹介してくれましたが、そういう事件もあったでしょうが、言葉の違う人たちが、日常的に緩やかに溶け合うように共生していたのが当時の社会だったようです。お互いの話し合いが、鳥の「さえずり」のようだとうたっている歌もふたつ紹介してくれましたが、言葉の位置づけもいまとは違っていたような気がします。
そうしたなかで、歌には言葉の違う人もつなげていく効果があったのかもしれません。
「歌」と「言葉」の関係を考えるヒントが、そこにあるような気がします。

帰化人も「和歌」を歌っています。それが日本書紀や古事記に出てきますが、そうした記紀歌謡は万葉集の歌とは違い、叙事的で、詠み手の思いは歌の外で注記的に語られています(升田さんはそういう歌を漢詩などに対置し「倭歌」と呼びました)。そこには、帰化人の故郷の詩経や郷歌が色濃く感じられる。しかし、それが初期万葉集の歌へとつながり、次第に叙情歌へとなっていく。
升田さんは、記紀万葉は万葉集の夜明けの歌とも位置づけました。いずれにしろ、記紀歌謡と万葉集歌謡とはつながっている、そして変化しているのです。

大伴家持が「心の想いは歌でしかはらうことは難しい」と述べているように、万葉人たちにとっては想いを吐き出すのが「うた」だったようですが、帰化人の歌にはそういう抒情的な心を詠んだものは見当たらないようです。
歌の意味が、帰化人と長年日本列島で生きた人とは違っている、と、そんな風にも考えられるかもしれません。いや、反対かもしれません。「歌」が両者を近づけたのかもしれない。これは私の勝手な解釈ですが。
5・7・5・7・7というリズミカルな短い文字に、こころのうちを吐き出す歌形式はめずらしいものであり、もしかしたらそこに大きなヒントがあるのかもしれません。こころのうちを吐き出すリズムが、叙情的な歌を生み出した。

帰化人には望郷の歌がないことも、升田さんは気になっているようです。
たとえば、帰国を果たせず唐で亡くなった遣唐使の阿倍仲麻呂の、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(古今和歌集)という望郷歌は有名ですが、そういう歌は記紀にも万葉集にも見当たらないそうです。
そうしたことにも、当時の状況(渡来とか帰化の意味も含めて)を考える材料がある、と升田さんは考えているようです。

家持は、父の旅人と一緒に太宰府に住んだことがあり、その時にたくさんの帰化人・渡来人と交流したはずです。それが家持の万葉集構想に影響したことは間違いないでしょう。升田さんは、さらに、もしかしたら万葉集成立には帰化人が関与していたかもしれないという大胆な仮説もつぶやいてくれました。湯島サロンならではのつぶやきです。
8次遣唐使で来日した袁晋卿(えんしんけい)という天才に恵まれた若者の話も出ました。

たくさんの話題が出されましたので、ほんの一部しか紹介できませんが、万葉集が生まれた当時の時代状況はみんなそれぞれにイメージできたように思います。
こういうにぎやかな時代背景を踏まえて、次回はいよいよ万葉集にある帰化人の「和歌」を読みます。帰化人の「こころのうち」が読めるかもしれません。
そして、帰化人たちが和歌をどう受け止めてきたか、そして和歌が帰化人たちの歌からどんな影響を受けてきたか。「た」と「わ」の関係の変化も意識しながら、改めて「和歌」の魅力を楽しみたいと思います。

Manyou32000

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