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2024年4月

2024/04/30

■前立腺がん治療体験報告26:病人を治すか病気を治すか

陽子線治療終了から10日が経ちました。

不覚にも、終了後の頑張りがたたってか体調を崩してしまい、3日ほど休んだのですが、また動き出したら、どうもうまくいかずに、今度こそと思い、今日から3日間完全休養です。
しかし、「休養」の仕方がよくわかりません。困ったものですが。とりあえず今日はほぼずっと横になっていましたが、なんだか「休養」したという感じはありません。

「休養」につかれたので、少しだけパソコンに向かって、その後の報告です。
21日間の陽子線治療通院が終了した後は、毎朝のホルモン療法の薬を1錠飲むだけの毎日です。以前から取り組んでいる「民間療法」はそれなりに継続していますが、リンゴもニンジンも高いし、黒にんにくも高いし、水素療法は面倒くさいし、いずれもだんだん「手抜き」になってきています。費用がかからないチャーガは飲みにくいので最近はもうやめてしまっています。

いま一番困っているのは、夜熟睡できないことです。治療後半の頃ほどではありませんが、それでも毎晩、4~5回、目が覚める。しかも、イライラしてくるのです。以前と違って本も読めない。
したがってベッドにいる時間は長いのですが、熟睡感がありません。
もう一つは、ガス、つまり「おなら」がよく出るのです。

思考力の低下も感じます。たとえばサロンの報告をまとめることがどうも最近面倒になってきた。これも陽子線治療のせいでしょうか。同じように、難しい本が以前以上に消化できなくなった。最近も話題の「音と脳」という本を借りてきたのに、結局、あんまり消化できないまま返却しました。そもそも「厚い」だけで読む気が萎える。

まあ体力的にも知力的にも、パワーダウンしているのがよくわかる。

もっとよくわかるのは、散歩に出る気が出てこないだけではなく、歩いているだけで疲れてしまう。湯島に行くときに、天気がいいと上野公園経由で20分ほど歩くのですが、一昨日は、その途中で座りたくなって、不忍池のほとりのベンチで5分ほど休んでいました。こんなことはこれまでありませんでした。

そういえば、その日の帰りは駅の階段をのぼっていて、最上段でしたが転んでしまった。バランス感覚もおかしくなっている。歩いていて、不安定によろけることがある。今月は危険を感じたことが何回かある。

これらはすべて「老化」のせいかもしれませんが、ともかく最近は、生きているだけで疲れてしまう。そんな気がするのです。
果たして前立腺がんは快癒の方向に向かっているのでしょうか。
癌は治っても心身がおかしくなったら、元も子もない。
でも西洋医療は、病人を治すのではなく、病気を治すのですから、そういうものかもしれません。医師は病人の顔や身体も見ずに、データ重視です。

まあ休養のために寝ていると、いろんなことを考えてしまう。
そういえば、また新しいスタイルのサロンも思いついてしまった。
「病気を楽しく話し合うサロン」や「オープンカフェ」や「おでかけサロン」です。
また忙しくなりそうだ。

「休養」って何なのでしょうかね。

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■前立腺がん治療体験報告26:病人を治すか病気を治すか

陽子線治療終了から10日が経ちました。

不覚にも、終了後の頑張りがたたってか体調を崩してしまい、3日ほど休んだのですが、また動き出したら、どうもうまくいかずに、今度こそと思い、今日から3日間完全休養です。
しかし、「休養」の仕方がよくわかりません。困ったものですが。とりあえず今日はほぼずっと横になっていましたが、なんだか「休養」したという感じはありません。

「休養」につかれたので、少しだけパソコンに向かって、その後の報告です。
21日間の陽子線治療通院が終了した後は、毎朝のホルモン療法の薬を1錠飲むだけの毎日です。以前から取り組んでいる「民間療法」はそれなりに継続していますが、リンゴもニンジンも高いし、黒にんにくも高いし、水素療法は面倒くさいし、いずれもだんだん「手抜き」になってきています。費用がかからないチャーガは飲みにくいので最近はもうやめてしまっています。

いま一番困っているのは、夜熟睡できないことです。治療後半の頃ほどではありませんが、それでも毎晩、4~5回、目が覚める。しかも、イライラしてくるのです。以前と違って本も読めない。
したがってベッドにいる時間は長いのですが、熟睡感がありません。
もう一つは、ガス、つまり「おなら」がよく出るのです。

思考力の低下も感じます。たとえばサロンの報告をまとめることがどうも最近面倒になってきた。これも陽子線治療のせいでしょうか。同じように、難しい本が以前以上に消化できなくなった。最近も話題の「音と脳」という本を借りてきたのに、結局、あんまり消化できないまま返却しました。そもそも「厚い」だけで読む気が萎える。

まあ体力的にも知力的にも、パワーダウンしているのがよくわかる。

もっとよくわかるのは、散歩に出る気が出てこないだけではなく、歩いているだけで疲れてしまう。湯島に行くときに、天気がいいと上野公園経由で20分ほど歩くのですが、一昨日は、その途中で座りたくなって、不忍池のほとりのベンチで5分ほど休んでいました。こんなことはこれまでありませんでした。

そういえば、その日の帰りは駅の階段をのぼっていて、最上段でしたが転んでしまった。バランス感覚もおかしくなっている。歩いていて、不安定によろけることがある。今月は危険を感じたことが何回かある。

これらはすべて「老化」のせいかもしれませんが、ともかく最近は、生きているだけで疲れてしまう。そんな気がするのです。
果たして前立腺がんは快癒の方向に向かっているのでしょうか。
癌は治っても心身がおかしくなったら、元も子もない。
でも西洋医療は、病人を治すのではなく、病気を治すのですから、そういうものかもしれません。医師は病人の顔や身体も見ずに、データ重視です。

まあ休養のために寝ていると、いろんなことを考えてしまう。
そういえば、また新しいスタイルのサロンも思いついてしまった。
「病気を楽しく話し合うサロン」や「オープンカフェ」や「おでかけサロン」です。
また忙しくなりそうだ。

「休養」って何なのでしょうかね。

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2024/04/29

■第33回万葉集サロン「帰化人の歌を読む part2」報告

今回は「帰化人の歌を読む」の2回目です。

升田さんは、前回にも触れた日本書紀歌謡(雄略紀・孝徳紀・斉明紀)にみる「倭歌」と帰化人との関係から話を始めました。
そして、紀歌謡は、「言葉」が音(声・楽器)であった原初的なありようを継承する歌世界と新しい歌世界のあり方を重ねて見せている、と解説してくれました。
帰化人の歌では、言葉よりも音声が重視されている、というのです。

その音声は、人の心を動かす。死者の霊をこの世に呼び戻そうとする「葬歌」(呪)から、遺されて悲嘆にくれる生者の魂を慰める歌(情)へと変容する「歌謡」を歌う帰化人。それが初期万葉の誕生につながり、「な」と融合分離しながら「わ」が明確に表出されてくる新しい抒情「和歌」の誕生が予兆される。これは自己意識の覚醒発展を意味するものでもある、というわけです。

こう書くといかにも難しそうですが、要するに、日本列島で育っていた文化(生活)と大陸・半島からやってきた文化(生活)という、異質な文化の接触が、「歌」や「言葉」に大きな影響をもたらし、その先に平安時代から始まる古今和歌集の世界へとつながっていくというのです。

当時、日本列島で話されていた「言葉」は育ちの途中で生き生きしていた、といえるかもしれませんし、そうしたなかでは「うた」も「ことば」も、ある意味では「音」も、あまり区別はなかったのかもしれません。となれば当然、動物や自然が発する音もまた、つながっていた。
想像はどんどん広がっていきます。

話を戻します。

万葉集の時代から古今和歌集の時代の間には、かつて「国風暗黒時代」ともいわれた「闇の時代」があります。万葉集は忘れられ、万葉仮名も使われなくなり、勅撰漢詩文集が編纂された時代ですが、その直後に『古今和歌集』を皮切りに、逆に国風文化が一挙に花開いていきます。そしておそらくその「闇の時代」に、万葉仮名から独自の平仮名が生まれ、それによって和歌、さらには日記や物語などの国風文化が広がっていくわけです。その間に何があったのか。そして『万葉集』は一時期とはいえ、なぜ忘れられてしまったのか。
それは、『万葉集』とは何なのかにつながる壮大なテーマのような気がします。
また話が広がりそうなのでやめますが、この「闇の時代」も今回のテーマではありません。

つづいて升田さんは、万葉集後期の帰化人の歌をいくつか読んでくれました。
今回取り上げたのは、大伴旅人・家持と関係のあった余明軍、橘諸兄・佐為王兄弟とその周辺に居る帰化人(薛妙観、秦朝元、婢など)とのやり取りです。
帰化人が採用している歌の詞(言葉)には、和歌との間に微妙なニュアンスの違いを持つ言葉が少なくありません。つまり生まれ育った地域での言葉の違いの問題ですが、語感覚のずれ、これが互いの「た」の環境を拡げる契機にも繋がっていったと考えられると升田さんは言います。
またまた想像を広げたくなりますが、ここは抑えて。

記紀に出てくる歌と違って、そこには「言霊」の国の文化との関係が読み取れ、しかし列島で育った人には思いつかないような言葉遣いや詠み方をしている。そしてそれがまた日本に住む人々の言葉を変化させていく。こうして帰化人が日本列島の言葉を切り開いていったと升田さんはいいます。まさに言葉は生きているのです。

そして、具体的な例として、帰化人の詠んだ〈ハフ(延ふ)〉と〈アカネサス〉という言葉を取り上げ、帰化人によって「言葉」が受容していくことを見るとともに、帰化人から見た抒情「和歌」とはどんなものだったのかを感じさせてもらいました。
〈ハフ(延ふ)〉に関しては、赤ちゃんの〈這い這い〉の話も出て、いろいろとおもしろい話が展開されました。

万葉集は、一般には「天皇から庶民までの歌が幅広く収められている日本最古の歌集」と説明されています。しかし、そのような横の関係だけではない縦の関係の多様性によって、万葉集はその命を美しく堅固なものにしていると升田さんは言います。
とりわけ、「和歌」形成の成り立ちをたどる上で、重要な伴侶?であり影響を与えたのが帰化人だったと升田さんは考えています。

たしかに、2回にわたって帰化人の歌に触れてみると、その存在の大きさに気づかされます。これまで知っていた万葉集の世界とは違った広がりがそこにある。
たとえば、今回、升田さんが紹介してくれた、橘諸兄と秦朝元のやりとり、「歌を賦するに堪へずは麝(じゃ)を以てこれを贖(あか)へ」という話ひとつとっても、その意味をみんなでじっくりと話し合いたいような気分でした。

帰化人とは何なのか、列島人とは何なのか、万葉人とは何なのか。
そして、「歌」とは何だったのか。
あまりに大きな話なので、なかなか消化できません。

どうも単に「帰化人の歌を読む」では終わらないテーマです。
日本という国家の成り立ちや「国風文化」とは何かにまでつながっていく。
そんな気がしてきました。
このテーマは3回と予定されていましたが、もう少し続けてほしいと思います。

今回、実は私は升田さんの話を聴きながら、日本列島を超えて想像を勝手に広げ過ぎてしまい、別のことを考えることが多かったため、きちんとした報告ができずに、いささか反省しています。
いずれにしろ私の理解の範囲では、なかなかきちんとした報告ができなくなってきました。
この帰化人シリーズが終わったら、ぜひ升田さんに論考をまとめてほしいと思います。

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2024/04/27

■湯島サロン「子どもたちの学びの場としての学校」のご案内

子どもたちをとりまく問題に関しては、最近、あまりサロンを開けずにいますが、今回は学校を中心に「子どもたちの学びの場」を取り上げたいと思います。

子どもたちが何をどう学んで成長していくかは、社会の未来につながっていますが、子どもがいないと、あるいは仮にいたとしても、学校がいまどういうようになっているかはなかなかわからないのではないかと思います。
でもそこではどうも大きな「変化」が起きているようです。

最近は新しいスタイルの学校も広がりだしていますし、新しい「学び方」への寛容度は高まっていますし、親の関心もかなり柔軟になっているような気もします。
しかし一番気になるのは、最近の子ども自殺の増加です。

今回は、3人のお子さんの父親でもあるYさんに、ご自分の体験をベースに、いま日本の学校はどういう状況になっていて、どこに向かっているのかを、あくまでもYさんの私見という形で話してもらい、それを踏まえて、みんなで話し合えたらと思います。

子どもたちの学びに関わっているみなさんの参加をぜひお願いしたいです。

〇日時:2024年5月13日(月曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「子どもたちの学びの場としての学校」
〇問題提起者:Yさん(3児の父)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2024/04/26

■面白かった本を紹介し合い話し合うブックサロンのお誘い

新しいサロンをスタートします。

湯島のサロンに参加した人から、時々、本を紹介されたり、本を置いておくよう頼まれたりしています。先日は、蔵書を処分したいので、ここに持ってきていいかという申し出もありました。即売会で売り上げを寄付したいという提案まで。まあ湯島の空間は、「コモンズ空間」を目指していますので、いろんな試みは大歓迎です。

私も以前から、「コモンズ図書館」を開くことを考えていたのですが、それに向けて、まずは読んだ本を多くの人に紹介したいという人のサロンを開くことにしました。

毎回、2~3人の人たちから15分ほどで本の紹介をしてもらい、それをベースに話し合うとともに、最後の10分では最近読んだ面白かった本を参加者それぞれから紹介してもらうというスタイルです。あるいは面白い本を読んだので、それに関して話し合いたいという呼びかけでの1冊の本を読み合うこともあっていいかもしれません。

まあやってみないとどんな感じになるかわからないのですが、できれば誰かそのサロンの幹事役を引き受けてくれるとうれしいです。

幸いにサロンに参加する本好きの方に声をかけたら、数名の方がすぐに手をあげてくれて、本の紹介も引き受けてくれました。今回は3人の人に、お薦めの書を紹介してもらいます。
20代男性一人と50代男性2人が今回の紹介者です。
今回は残念ながら男性ばかりですが。

どんな本が紹介されるかは未定ですが、最後に参加者全員からもそれぞれ一冊ずつ本を紹介してもらえればと思っています。

〇日時:2024年5月6日(月曜日/休日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:お薦めの本を紹介し合い話し合う
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2024/04/25

■第4回脱ひきこもりサロン「ある〈ひきこもりの親〉Sさんの場合」のご案内

脱ひきこもりサロンの4回目のご案内です。

「ひきこもり生活」というと、多くの人は「なんとかしなくてはいけない」と思いがちですが、そうではない考えもあります。むしろ「ひきこもりの安心さ」もありますし、家族それぞれの引きこもり生活を大切にし合っていく生き方もあります。
部外者にはわからない苦労もあるのかもしれませんが、ある意味では、とてもいいなあと思う「ひきこもり生活」もあります。当の本人たちは、その生き方に必ずしも満足してはいないかもしれませんが。

しかし、そもそも満足した生き方をしている人など、あまりいないでしょう。大切なのは、自分(たち)の人生を大事にするということです。
「8050問題」などが話題にされる状況の中では不安に思うこともあるでしょうが、そんな世間の風評や「押しつけ」などから解放されて、〈いまここ〉の自分の生き方を肯定して、みんながそれぞれの人生を送るような社会になってほしいというのが「脱ひきこもりサロン」をはじめた思いです。

さまざまな考え方をする人たちから構成される社会で生きていると「生きづらい」と考えることがあるのは当然です。そんな社会だからこそ、自分なりの生き方を考えることが大切です。生き方はいろいろあっていい。むしろそうであればこそ、社会は安定して楽しくなっていくように思います。もっと〈自分の人生〉を大事にしたい。〈自分の人生〉に「ひきこもる」ことは、決して悪いことではないはずです。

そうした原点に立ち返って、私が「ちょっといい生き方じゃないのか」と勝手に感じている方の「ひきこもり」観を話してもらい、みんなで話し合いたいと思い、脱ひきこもりサロンにも参加してくださっているSさんにお願いしてみました。
Sさんの息子さんの場合、その「生真面目さ」と「繊細さ」「やさしさ」のために、「外界」に出られなかった時期があったそうです。
親であるSさんに不安がないわけではないでしょうが、そうした息子さんの生き方を肯定しながら、親として何ができるかを考え実践してきています。つまり、「問題」を相手のせいにしないで、自分の身に置いているところが私にはとても共感できるのです。

Sさんには迷惑の話でしょうが、そんなSさんに親の立場からの思いの一部を話してもらい、参加者みんなで話し合えたらと思ったのです。
そこでお願いしたのですが、当然ながら断られてしまいました。
そして、Sさんはこう書いてきました。

せっかくお声がけ頂いたのにご期待に添えず申し訳ありません。
でも、お陰で改めてもう一度、「振り返り」ができました。

これを読んで、さらにSさんにお願いしたくなりました。
そうか私たちは、自分の生き方の「振り返り」を自分事にし過ぎているのかもしれない、と思ったのです。自分の生き方を他者の前にさらけだして振り返り、他者の生き方の振り返りに触れることで自らの生き方を振り返る。それこそが、この脱ひきこもりサロンの意味ではないかと思ったのです。

自分の家族の話を人前でするのは誰もいやでしょう。他者の生き方を「評価」しがちな人もいるからです。だからそもそもがこれは非常識なお願いなのです。
でもやはりまた挑戦してみたくなりました。

繰り返しまたお願いしたら、Sさんは自分の思いを話すだけでよければと言って、受けてくれたのです。Sさんの話を聴いて、みんなも自分事を語り合うサロンになればと思います。

ちなみに、第2回目のサロンで、同じような趣旨で、吉田さんにお話をしてもらいましたが、私の不手際で吉田さんには少し不愉快な思いをさせてしまいました。今回はそうならないようにしたいと思っています。

サロンは、他者の生き方を「評価」する場ではなく、ましてや他者に怒りをぶつけたり責めたりする場ではありません。いろいろな生き方に触れて、自分の生き方を問い質す場です。サロンのはじまる前に、そういう話を時々していますが、時に逸脱する人がいます。いろいろな生き方を赦し合い、認め合うことがなければ、自分の世界も広がりません。

自らの生き方を真摯に考えているみなさんの参加をお待ちします。

〇日時:2024年5月18日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ある〈ひきこもりの親〉Sさんの場合」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2024/04/24

■湯島サロン「春の食養生」報告

東方健美研究所代表の新倉久美子さんによる「食養生」サロンの春版ですが、今年はちょっと遅れてしまい、立夏に先立つ土用の季節になってしまいました。
そこで今回は、春食養と土用食養の話をしてくださいました。

昨年末の、「ふるさと薬膳のすすめ 郷土食は日本の薬膳」のサロンで、食養の考え方や新倉さんの提唱している「身土不二」のふるさと薬膳の解説はしてくださっていますが、今回もまた改めてしてくださいました。
これに関しては昨年の報告でも書きましたが、要約すれば、ひとつは「土地と食」という切り口から、地域食文化の継承と創造の意味や「身土不二」の大切さを、もう一つは「季節と食」という切り口から陰陽五行説を踏まえた「食養」の取り組み方。まとめて一言で言えば、「その土地でとれた食材を食べ、その季節にとれる旬のものを食べること」(「風土はフード」)こそ、健康につながる「食養生」だというお話です。

詳しくは前回の報告を読んでみてください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2023/11/post-c35e3b.html

前回は、中国の陰陽五行説に基づく「五行配当表」によって、季節季節の食養生のポイントを総論的に解説してくれましたが、今回は「春」と「土用」に焦点を合わせてくれました。
新倉さんの「五行配当表」を添付しますが、簡単に言えば、食物の持つ五味五性の性質と人間の臓器との関係を五行で閑連づけ、バランスよく配合することが「薬膳」の基本であり、特に五味五性の調和が大切なのです。
季節ごとの色も大きな意味を持っています。

Photo_20240424152501

ちなみに「土用」は日本では夏の「土用の丑の日」をイメージしがちですが、陰陽五行説では季節の変わり目を「土用」というのだそうです。つまり、いわゆる四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間のことだそうです。
今年で言えば、立夏が5月5日ですので、今まさに春から夏への土用というわけです。

今年は間に合いませんが、春の食生活のポイントは、「春は肝臓、酸味」だそうです。
春は、暖かくなる気候により植物が芽吹き、樹木は枝葉を伸ばす柔軟でのびやかな季節です。この季節を健やかに過ごす、食のポイントを漢方では「蔭」を養い育てて、肝機能を補う食事を心がけようという意味から「養蔭補肝」という言葉で表すそうです。

具体的には、涼性、冷性の食材で肝機能を補う作用のある旬のもの、葉物野菜やサヤエンドウ、レタス、ノビルやカンゾウ、ハコベなどの山野草、鶏肉、レバー、白身の魚などに「酸味」を加えて、食べるとよい、と新倉さんは言います。
また、春は目が疲れる、目がかすむ、など目にトラブルが多い季節だそうですが、こうした目の症状は肝機能の低下によることが多いそうです。ですから、旬の食材を上手に組み合わせて調理し、酸味を多めに摂るように心がけるのがいい。

今年はもう春の食養生の季節は終わってしまいましたが、夏に向けての「土用の食養生」に関しては、五行配当表にあるように、「涼・寒」でもなく「熱・温」でもなく、あまり刺激的でない「甘味」を意識するのがいいそうです。具体的には大豆やその加工品(豆腐やアブラゲ)をあげてくれました。そして「胃」を意識しようということでした。

話し合いでもいろいろな話が出ました。雑穀米の話やスローフードの話など、私にとってもとても示唆に富む話も多かったのですが、何しろ私は食材や料理に関する知識が乏しいので、きちんと紹介できないのが残念です。

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次回の「夏養生」サロンは、6月8日に開催しますので、ぜひ実際に料理をする人たちに参加してほしいと思います。ぜひ予定に入れておいてください。
もっとも料理しなくても食に関する知見がたくさん得られますので、ただ「食べるだけの食生活者」である私のような人にも大いに参考になります。

ちなみにサロンの日の夕食から、私は苦手な大豆食品をできるだけ食べるようにしました。これで今年も暑い夏を乗り越えられるでしょう。
と思っていたら、一昨日から胃がやられてしまいました。土用の期間はとりわけ胃に注意しないといけないと痛感させられました。

健康に関心のある方は必須のサロンです。

 

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■湯島サロン「春の食養生」報告

東方健美研究所代表の新倉久美子さんによる「食養生」サロンの春版ですが、今年はちょっと遅れてしまい、立夏に先立つ土用の季節になってしまいました。
そこで今回は、春食養と土用食養の話をしてくださいました。

昨年末の、「ふるさと薬膳のすすめ 郷土食は日本の薬膳」のサロンで、食養の考え方や新倉さんの提唱している「身土不二」のふるさと薬膳の解説はしてくださっていますが、今回もまた改めてしてくださいました。
これに関しては昨年の報告でも書きましたが、要約すれば、ひとつは「土地と食」という切り口から、地域食文化の継承と創造の意味や「身土不二」の大切さを、もう一つは「季節と食」という切り口から陰陽五行説を踏まえた「食養」の取り組み方。まとめて一言で言えば、「その土地でとれた食材を食べ、その季節にとれる旬のものを食べること」(「風土はフード」)こそ、健康につながる「食養生」だというお話です。

詳しくは前回の報告を読んでみてください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2023/11/post-c35e3b.html

前回は、中国の陰陽五行説に基づく「五行配当表」によって、季節季節の食養生のポイントを総論的に解説してくれましたが、今回は「春」と「土用」に焦点を合わせてくれました。
新倉さんの「五行配当表」を添付しますが、簡単に言えば、食物の持つ五味五性の性質と人間の臓器との関係を五行で閑連づけ、バランスよく配合することが「薬膳」の基本であり、特に五味五性の調和が大切なのです。
季節ごとの色も大きな意味を持っています。

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ちなみに「土用」は日本では夏の「土用の丑の日」をイメージしがちですが、陰陽五行説では季節の変わり目を「土用」というのだそうです。つまり、いわゆる四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間のことだそうです。
今年で言えば、立夏が5月5日ですので、今まさに春から夏への土用というわけです。

今年は間に合いませんが、春の食生活のポイントは、「春は肝臓、酸味」だそうです。
春は、暖かくなる気候により植物が芽吹き、樹木は枝葉を伸ばす柔軟でのびやかな季節です。この季節を健やかに過ごす、食のポイントを漢方では「蔭」を養い育てて、肝機能を補う食事を心がけようという意味から「養蔭補肝」という言葉で表すそうです。

具体的には、涼性、冷性の食材で肝機能を補う作用のある旬のもの、葉物野菜やサヤエンドウ、レタス、ノビルやカンゾウ、ハコベなどの山野草、鶏肉、レバー、白身の魚などに「酸味」を加えて、食べるとよい、と新倉さんは言います。
また、春は目が疲れる、目がかすむ、など目にトラブルが多い季節だそうですが、こうした目の症状は肝機能の低下によることが多いそうです。ですから、旬の食材を上手に組み合わせて調理し、酸味を多めに摂るように心がけるのがいい。

今年はもう春の食養生の季節は終わってしまいましたが、夏に向けての「土用の食養生」に関しては、五行配当表にあるように、「涼・寒」でもなく「熱・温」でもなく、あまり刺激的でない「甘味」を意識するのがいいそうです。具体的には大豆やその加工品(豆腐やアブラゲ)をあげてくれました。そして「胃」を意識しようということでした。

話し合いでもいろいろな話が出ました。雑穀米の話やスローフードの話など、私にとってもとても示唆に富む話も多かったのですが、何しろ私は食材や料理に関する知識が乏しいので、きちんと紹介できないのが残念です。

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次回の「夏養生」サロンは、6月8日に開催しますので、ぜひ実際に料理をする人たちに参加してほしいと思います。ぜひ予定に入れておいてください。
もっとも料理しなくても食に関する知見がたくさん得られますので、ただ「食べるだけの食生活者」である私のような人にも大いに参考になります。

ちなみにサロンの日の夕食から、私は苦手な大豆食品をできるだけ食べるようにしました。これで今年も暑い夏を乗り越えられるでしょう。
と思っていたら、一昨日から胃がやられてしまいました。土用の期間はとりわけ胃に注意しないといけないと痛感させられました。

健康に関心のある方は必須のサロンです。

 

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■湯島サロン「春の食養生」報告

東方健美研究所代表の新倉久美子さんによる「食養生」サロンの春版ですが、今年はちょっと遅れてしまい、立夏に先立つ土用の季節になってしまいました。
そこで今回は、春食養と土用食養の話をしてくださいました。

昨年末の、「ふるさと薬膳のすすめ 郷土食は日本の薬膳」のサロンで、食養の考え方や新倉さんの提唱している「身土不二」のふるさと薬膳の解説はしてくださっていますが、今回もまた改めてしてくださいました。
これに関しては昨年の報告でも書きましたが、要約すれば、ひとつは「土地と食」という切り口から、地域食文化の継承と創造の意味や「身土不二」の大切さを、もう一つは「季節と食」という切り口から陰陽五行説を踏まえた「食養」の取り組み方。まとめて一言で言えば、「その土地でとれた食材を食べ、その季節にとれる旬のものを食べること」(「風土はフード」)こそ、健康につながる「食養生」だというお話です。

詳しくは前回の報告を読んでみてください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2023/11/post-c35e3b.html

前回は、中国の陰陽五行説に基づく「五行配当表」によって、季節季節の食養生のポイントを総論的に解説してくれましたが、今回は「春」と「土用」に焦点を合わせてくれました。
新倉さんの「五行配当表」を添付しますが、簡単に言えば、食物の持つ五味五性の性質と人間の臓器との関係を五行で閑連づけ、バランスよく配合することが「薬膳」の基本であり、特に五味五性の調和が大切なのです。
季節ごとの色も大きな意味を持っています。

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ちなみに「土用」は日本では夏の「土用の丑の日」をイメージしがちですが、陰陽五行説では季節の変わり目を「土用」というのだそうです。つまり、いわゆる四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間のことだそうです。
今年で言えば、立夏が5月5日ですので、今まさに春から夏への土用というわけです。

今年は間に合いませんが、春の食生活のポイントは、「春は肝臓、酸味」だそうです。
春は、暖かくなる気候により植物が芽吹き、樹木は枝葉を伸ばす柔軟でのびやかな季節です。この季節を健やかに過ごす、食のポイントを漢方では「蔭」を養い育てて、肝機能を補う食事を心がけようという意味から「養蔭補肝」という言葉で表すそうです。

具体的には、涼性、冷性の食材で肝機能を補う作用のある旬のもの、葉物野菜やサヤエンドウ、レタス、ノビルやカンゾウ、ハコベなどの山野草、鶏肉、レバー、白身の魚などに「酸味」を加えて、食べるとよい、と新倉さんは言います。
また、春は目が疲れる、目がかすむ、など目にトラブルが多い季節だそうですが、こうした目の症状は肝機能の低下によることが多いそうです。ですから、旬の食材を上手に組み合わせて調理し、酸味を多めに摂るように心がけるのがいい。

今年はもう春の食養生の季節は終わってしまいましたが、夏に向けての「土用の食養生」に関しては、五行配当表にあるように、「涼・寒」でもなく「熱・温」でもなく、あまり刺激的でない「甘味」を意識するのがいいそうです。具体的には大豆やその加工品(豆腐やアブラゲ)をあげてくれました。そして「胃」を意識しようということでした。

話し合いでもいろいろな話が出ました。雑穀米の話やスローフードの話など、私にとってもとても示唆に富む話も多かったのですが、何しろ私は食材や料理に関する知識が乏しいので、きちんと紹介できないのが残念です。

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次回の「夏養生」サロンは、6月8日に開催しますので、ぜひ実際に料理をする人たちに参加してほしいと思います。ぜひ予定に入れておいてください。
もっとも料理しなくても食に関する知見がたくさん得られますので、ただ「食べるだけの食生活者」である私のような人にも大いに参考になります。

ちなみにサロンの日の夕食から、私は苦手な大豆食品をできるだけ食べるようにしました。これで今年も暑い夏を乗り越えられるでしょう。
と思っていたら、一昨日から胃がやられてしまいました。土用の期間はとりわけ胃に注意しないといけないと痛感させられました。

健康に関心のある方は必須のサロンです。

 

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2024/04/23

■湯島サロン「たんぽぽ農法~半農半Xのための野菜栽培技術」のご案内

私が知る限り、かなり早い時期から人間の生活にとって「農」という営みがとても大切ではないかという思いで、自らの生活の中に思いきり「農」を取り込んで人生を変えてしまった人の一人が、時々、湯島に顔を出す増山博康さんです。
湯島のサロンが縁になって、増山さんは「半農生活をはじめよう」(かんき出版)という本も出しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#090920

その増山さんから、久しぶりにまた農業の話をしたいと連絡がありました。
こんなメッセージをつけて。

僕が野菜づくりの師匠に弟子入りして最初に感じた事は、農業って本当は「楽」なんじゃないかという事です。
人がついていて、スイッチを押さなくても、野菜はひとりでに育つからです。
ただ、雑草もひとりでに育つので、草取りの手間が増えるが、それは解決可能なんじゃないかということです。
以来、20年近く試行錯誤が続いてきました。夏になると畑が草ボウボウになる状況は、「見た目」には改善されたとは言えません。

ただ、雑草生態学の本などを読みながら、雑草観察に務めたこともあって、ここ数年、ある種の手応えを感じつつあります。それで、数年前から「たんぽぽ農法」と言う名前で「売り出し」を始めました。
たぶん、毎日畑に来れない半農半Xの方向けにいいやり方なんじゃないかと思います。
今回は、たんぽぽ農法の考えや目指す方向性、実際のやり方などを具体的な畑の様子のご紹介をしながら話していきたいと思います。

以上が増山さんからのメッセージです。
私も、時々ですが、畑作業もどきをやっていますので、「雑草」観察には興味があります。「雑草」から教えられることは実に多い。ただ私は「雑草」という言葉は使いませんが(あえて一括りで言うときは「野草」と言います。これはサロン仲間の平田さんから学びました)。

最近、私も増山さんの話をしばらく聞いていないので、最近の活動と増山さんの人生観に触れたくなりました。どんな展開になるか、私にも全くわかりませんが、まあ面白いサロンになることは間違いありません。

農に関わる人も関わらない人も、ぜひ気楽にご参加ください。
増山さんの話は、自らの人生といつもつながった話なので、学ぶことが多いです。

〇日時:2024年5月19日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「たんぽぽ農法~半農半Xのための野菜栽培技術」
〇話題提供者:増山博康さん(見沼菜園クラブ代表)
https://saienclub.com/saienkyoshitsu/
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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2024/04/21

■憲法サロン2024「憲法は誰のものか」のお誘い

湯島では毎年、5月の憲法記念日前後に、せめて1年に1度は日本国憲法を思い出す日にしたいと、憲法サロンを開催していますが、今年はあえていろいろな憲法関連イベントが行われているであろう53日を開催日にしました。どこにも行くところのない人、よかったら参加してください。

昨年は「統治行為論」をテーマにし、2回にわたって開催しましたが、今年は思い切りゆるいテーマにしました。
「憲法は誰のものか」です。
いわゆる憲法の宛先論ですが、教科書的には統治者を対象にしていると言われています。建前はそうですが、日本国憲法を読んだ人なら、それは建前だと言うことはわかるでしょう。何しろ「国民の義務」まで決めているからです。

ではいったい、「憲法は誰のものか」。
私の意見は、日本国憲法は「私のもの」です。言い換えれば、私の生活を守ってくれるもの。ただし、本当に日本国憲法が私を守ってくれるかどうかはいささか心もとない。だからこそ、日本国憲法を毎年一度は(前半だけですが)5月3日に読んでいるのです。

というわけで、今年は「憲法は誰のものか」で憲法サロンを開催します。
生活者目線で憲法の意義を考えるような話し合いになればと思います。
気楽に参加してもらえるとうれしいです。

〇日時:2021年5月3日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:憲法は誰のものか
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

 

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2024/04/20

■湯島サロン「【人生のピンチ生き延びメソッド】をシェアしよう!」のお誘い

生きづらさを話し合うサロンの報告の最後に予告した、「生きづらさを、むしろ生かして〈今ここ〉の人生をしっかり生きている人に話題提供・問題提起してもらうサロン」ですが、高等遊民会議主宰の歌う作家・杉原学さんにお願いすることにしました。
以前、「善く生きる」のサロンをお願いして、とても教えられることが多かった、あの杉原さんです。

私が余計な説明をするよりも、杉原さんのメッセージをお読みください。

生きていれば誰しも経験するであろう「人生のピンチ」。
借金、孤独、失業、離婚、困窮、うつ、失恋……。いろいろあると思いますが、そんな時こそ、人は自分なりの「生き延びるための技や考え方」を編み出すのではないでしょうか。「あの時、どうやって乗り越えたんですか?」そう聞かれたら、みなさんどう答えるでしょうか。ひとまず話題提供として「杉原流生き延びメソッド」をいくつかご紹介し、みんなのメソッドを交換し合えたらいいなーと思っています。

かつてピンチを乗り越えた人も、いままさにピンチを乗り越えようとしている人も。互いの小技(?)をシェアしながら、面白おかしく生き延びましょう!

杉原さんは、社会の生きづらさを十分以上に実感しながらも、私が見る限り、生きることを楽しんでいるように思います。しかも肩に力を入れることなく、です。
きっと楽しい生き方へのヒントがもらえると思います。

ちなみに、杉原さんをご存じない方のために、杉原さんのオフィシャルサイトをご紹介します。
https://sugihara.my.canva.site/

〇日時:2024年5月11日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「【人生のピンチ生き延びメソッド】をシェアしよう!」
〇話題提供者:杉原学さん(高等遊民会議主宰/歌う作家)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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■4月オープンサロンのご案内

4月のオープンサロンのご案内です。

オープンサロンは、テーマも全くなく、参加した人次第で話題も決まりますし、話題もどんどん変わります。話す人も聴く人もいるサロンです。
出入りもいつも以上に自由で、申し込みも不要です。
気が向いたら気楽にどうぞ。

〇日時:2024年4月26日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■前立腺がん治療体験報告25:陽子線治療が終了しました

国立がん研究センター東病院での21日間の陽子線治療が昨日終了しました。

最終日の昨日、またまた装置の故障で、朝と午後の2回、通院する羽目になってしまいましたが。そのため、また患者仲間の工藤さんや技師の本田さんや受付のスタッフに挨拶できませんでした。ちょっと心残りの最後でしたが、技師の三浦さんがこれからのことを話してくれました。

21日は大変でした。ほぼ毎日送迎してくれた娘には感謝ですが、親孝行をさせてやれてよかったです。私のように、親が亡くなってから後悔することはないでしょう。子どもに迷惑をかける親の責任を少し果たせました。まあ娘はこういう私の意見には賛成していませんが。でもそのうち、わかるでしょう。

最後の頃は同じ時間帯に照射を受けることの多かった工藤さんと親しくなり、腰痛の話をしたら股関節強化体操を指南してくれました。それで2人だけの時には、2人で待合室で体操をしていました。

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前立腺がんに関してはかなり情報が集まり、さらに理解が深まりました。
近々「前立腺がんアドバイザー」を開業しようと思います。予約制で、依頼客が3人を超えたらスタートです。でもまあ、そんなアドバイスを受けるよりも、過剰反応しないことのほうが大切です。

陽子線治療の副作用は、頻尿と睡眠障害の面に少し出てきました。
最近は1時間おきに目が覚めるばかりか、動かずにはいられないほど精神的におかしくなるのです。本を読もうと思っても頭に全く入ってきません。
不眠で悩む人の話をよく聞きますが、ただ眠れないだけではないのだと言うことが初めてわかりました。ともかくつらい。動かずにはいられない。ただこれが果たして陽子線治療の副作用かどうかはわかりません。
でもせっかくの不眠体験なので、しっかりと体験して、他者の痛みの理解を深めることができるようになろうと思います。正直に言えば、かなりつらいので、薬で治したいところですが。

ちなみに昨日はじめて会った患者の「かわぐちさん」は頻尿になったので医師に頼んで薬をもらったらピタッと治ったそうです。私ももらえばよかったなと思ったのですが、もう最終日で医師には会えないので、薬はもらえません。
まあどちらがよかったかはわかりませんが、しかし、頻尿はそれなりにつらいです。

さてこれからですが、21日の治療終了で何がどう変わったかは国立がん研究センター東病院での治療プログラムには含まれていないのです。
あとはまた最初に前立腺がんの治療を受けた病院、私の場合は、我孫子市の東邦病院ですが、そこで血液検査をしてPSA値で状況を確認するのだそうです。
たぶん数値は下がっているでしょうが、また上昇する可能性はある。
値がまた安全閾値を超えたらどうするのか。
もし白黒つけたかったら「生体」をするしかないようです。
そして「転移」を確認する。
その後は転移部のがん対応になるのでしょうか。

私の場合は、年齢的に、その頃はもう治療の必要もないでしょうが、若い人の場合はどうなるのか。
やはり前立腺がんは、がんマイナス1なのです。
「ゴジさん」こと工藤さんは「がんもどき」と表現していましたが、同感です。
「癌」という言葉に振り回されてはいけません。

今回はとりあえず陽子線治療が終了したことの報告です。

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2024/04/19

■益田サロン「生物と環境シーズン2」報告

細菌学の視点を基軸に、生物と環境の関係を考え、そこから社会のさまざまな問題を捉え直そうという益田サロンのシーズン2が始まりました。
今回はその1回目として、原点に戻り、ジフテリア菌を切り口にして、「生物と環境」について考える枠組みを整理してもらいました。

益田さんの議論を支える命題の一つに「環境あっての生物」というのがあります。「環境は生物の存在を支える前提」と益田さんは考えています。
したがって、生物が環境を壊すことは自らの存在を否定することになりますから、そんなことは起こさないはずです。したがって、「生物は環境を壊さない」という命題がそこから出てきます。そしてそういう関係にある、生物にとっての環境を、益田さんは「本来の環境」というのです。
これが益田モデルを考える上での出発点です。

しかし、たとえば、ジフテリア菌は宿主である人体に病気を起こして壊すではないかという疑問が起きます。そこで今回は、ジフテリア菌を材料にして、その益田理論を解説してもらいました。ジフテリア菌は決して人体に害を与えてはいないのです。
ジフテリア菌それ自身は宿主である人体を害することはありません。ジフテリアという病気を起こすのは、ジフテリア菌の中にある「ファージ」がもっている「毒素」なのです。ファージや毒素は人体に寄生しているのではなく、ジフテリア菌を宿主とする「生物」です。そう考えれば、「生物は環境を壊さない」という命題は成り立ちます。
そういう感じで、生物や環境を多層的に捉えるのが益田モデルの特徴です。

益田さんは今回、新たに「二重の生物学」という考えを少しだけ紹介してくれました。
宿主と寄生生物、それぞれに生物学があり、その相互関係を考えていこうという視点のように受け止めましたが、この言葉にはもっと深い意味がありそうです。
今回は、まだ「言葉出し」にとどまりましたが、同じ細菌が「常在性」をもったり「病原性」をもったりすることにつながっているように理解しました。「感染」にもつながってくる話のようです。
いつかまたきちんと話してもらえると思います。

つづいて、ジフテリア菌の話を踏まえながら、益田さんの「生物-環境」モデルを改めて説明してもらいました。環境の多層性が同心円モデルになっているわけです。
同心円の場合、環境が外側になりますが、環境は自らの中に「生物(のようなもの)」を生み出していきます。たとえば、人間の場合、身体が心を生み出し、心が欲を生み出し、その欲がまた高次の欲を生み出していく。

しかし、ある時点で、動きが反転します。欲が自らの環境を生み出すようになる。反転を可能にするのは「言葉」です。そこで同心円を超えて、二重円錐モデルが生まれてきたのです。
たとえば、個の欲(私欲)を支えるために「公欲」という環境が生まれてくる。多様な個々の私欲の存在を支えるために、私欲を処理する(支える)環境が生み出されるわけです。益田さんは同意していませんが、欲を意識、公欲を制度とか文化と考えれば、わかりやすいと思います。

注意すべきは、ここでは「環境」と「生物」の関係が逆転していることです。環境は生物によって生み出される存在になっています。つまり、二重円錐の上と下では、世界の構成原理が違っているのです。

もう一つ重要なことは、空間モデルとは違って、上の円錐では時間が発生することです。
今回は、この辺りはまだ十分には説明されませんでしたが、益田さんは「言葉」が「環境」になることで、生物と環境との関係が反転するというのです。「言葉が環境になる」も益田モデルの重要な明愛の一つです
しかもそれが重ね合わされることで、空間モデルもまた違った捉え方ができるようになる。こうした状況の中での「本来の関係」とは何か。そもそも「関係」とは何か。

今回は空間モデルを中心に解説してもらったわけですが、そこには重要な問題がいくつか提出されています。
ジフテリア菌とファージと毒素で言えば、どういう括り方で「生物」を捉えるかで、環境問題の捉え方は変わってきます。益田さんは今回も「地と図」の話をしましたが、地と図の境界はどう考えればいいでしょうか。地があればこそ図があるわけですから、そこには境界という存在はない。しかし多層な環境という捉え方をすると、ますます「境界問題」が気になってくる。

括り方(境界の置き方)によっても、アイデンティティや「自己・非自己」の捉え方は変わってきます。当然、環境と生物の関係の「本来性」の問題も変わってくるでしょう。さらには復元性の問題もつながってくるでしょう。
そういう意味で、今回はさまざまなテーマが刺激的に示唆されたと言っていいでしょう。

次回は、破傷風菌の話を切り口に、さらに生物-環境モデルの理解を深められればと思います。
今回、毒素の存在は、宿主(ジフテリア菌)が本来の関係にある環境(人体)を壊してしまうのはなぜかという問題の深堀りはできませんでしたが、それも含めて、時間軸を取り組んでの「自利・利他」や「進化」の話にもいくかもしれません。

益田サロンの特徴は、益田さんから知識の講義を受けるわけではなく、益田さん自身が参加者と一緒に新しい「知」を模索していくところにあります。益田さんの「言葉」は、参加者の一人が「益田用語」と名づけたように、特定な思いを込めて使うこともありますので注意しないといけませんが、そこで語られているのは「新しい気づき」なのです。
それがわかると益田サロンはより楽しめます。

今回、益田さんは手づくりの紙のブンブンゴマをたくさん持ってきて、みんなに回転させることを促しました。そして、うまくブンブンゴマが回りだすと、そこに環境を感じるでしょうというのです。
たしかに、ブンブンゴマが自分の存在から離れて回りだすと「無私」とは言いませんが、小賢しい自己から解放された心境になります。でもそれが「環境」とどうつながっているのか、私にはまだ理解できていません。でも益田さんは、盛んにブンブンゴマが環境になると言う。まあこうした禅の公案のような命題が出てくるのも、益田サロンの特徴です。だから報告の書き手としてはとても疲れるのですが。

次回から、益田サロンをはじめる前にブンブンゴマ回しを入れようと思います。

次回は破傷風菌を切り口に、もう一度、益田モデルの理解を深めたいと思いますので、これから参加したことのない人もまたぜひ参加してください。

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2024/04/18

■湯島サロン「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」報告

「平和」の問題を考えるサロンの2回目は、折原利男さんが昨年発表した「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」という論考を材料に話し合いました。

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最初に折原さんは、論考の主旨を紹介してくれました。案内の時に添付しましたが、折原さんの論考をお読みになりたい方は、ご連絡いただければ改めてお送りします。

折原さんの主張を思い切り簡単に紹介すれば、日本はいま、攻められてもおかしくない状況へと向かっている、しかしもし攻められたら、国家も国民も悲惨なことになる、だから攻められないようにすることこそが、真の安全保障政策ではないか。そしてそのための具体的な提案をいくつか提起してくれました。

さらに最後に、それでも万一、攻められたらどうするかと問い直し、こうまとめてくれました。自国第一主義、国粋主義と排外主義が相まって目を覆うような紛争と軍事衝突があちこちで展開されている今日、やはり最終的な和平の拠り所と解決の手段は、コスタリカが尽力し、実践してきたように、国際機関を機能させ、国際法に則って、国連を中心とした国際法秩序をもう一度建て直す、ということではないか。

現状に対する認識や大きな流れにはあまり異論はなかったと思いますが、それへの対策に関しては異論反論もあり、話し合いは大いに盛り上がりました。

簡単に論点を整理します。

まずは「攻められたらどうするか」という論点ですが、今回はこの点はあまり論じられませんでした。現状分析などを通して、折原さんは攻められたらウクライナのように悲惨な状況になってしまうから、それは絶対に避けねばならないという認識のもとに、必要なのは「攻められないためにどうするか」だと考えているからです。
しかし、この論点に関しては改めてまたサロンをしたいと思います。
私自身は、この問いへの答えがすべての出発点だと思うからです。それは「国家とは何か」を問い直すことにもつながります。

次の論点は、攻められないためにはどうするかですが、これに関しては大きく分かれました。核兵器も含めて、というよりも、むしろ核武装を中心にして抑止力を高めるという考えと折原さんが提唱する非武装中立・非暴力不服従という考えです。

これに絡んで、核兵器とこれまでの通常兵器による軍事力に関する議論もありましたが、核兵器が開発されてしまった以上、それを無しにすることはできないという点では、軍備による抑止論者も非武装論者も同意できていたように思います。
前にもサロンで話題になりましたが、核兵器が開発されてしまった世界は、それ以前とは異質になってしまったのです。ですから従来の発想では対処しきれないはずです。にもかかわらず世界はまだ従来の発想の枠組みで動いている。これは前から本間さんが指摘していたことですが、このサロンのシリーズでは本間さんの問題提起もお願いしているので、そこで議論が展開されると思います。

ちなみに核兵器は使用可能かどうかに関しての議論もありましたが、これに関してもまだ情報はあまりシェアされていないことを痛感しました。

攻められないための方策としては、抑止論と非武装論の中間の「段階的軍縮論」もありますが、今回は話題にはなりませんでした。

折原さんは、非武装中立論を話す前に、デビッド・マッキーの絵本「せかいでいちばん強い国」を紹介してくれました。そして非武装中立の国を攻められるものでしょうか、と問いかけました。この問いには意見は二分されました。
おそらく結論は出ないでしょうが、これは話し合う価値のある大切な論点です。
「せかいでいちばん強い国」は折原さんの論考にも紹介されていますが、あらすじは次でも読めます。ぜひお読みください。いつかサロンにも取り上げたいです。
https://www.jac-youjikyouiku.com/chiiku/recommend/19275/

非武装平和は理念としては共感できるが、問題はそれをどう実現するかではないかという問いかけもありました。
折原さんは、コスタリカも訪問し、子どもたちさえもが憲法を活かしながら積極的な非武装中立の実現を支えていることを実感していますし、そこでの活動家とも交流を重ねていますので、理念と現実がつながっているのだと思いますが、日本においては、むしろ言葉と現実が乖離していて、結局はなし崩し的に「平和憲法」さえ風化しているという認識がつよく、非武装平和論には悲観的な人も多かったように思います。
そのためか、実践的な政策やアクションプランを期待した人もいました。またコスタリカに関する実際の状況ももう少し詳しく知りたい人もいて、たとえば、「万一攻められた場合のことをコスタリカの人はどう考えているのか」という問いかけも出されました。

他にもいろいろと話題が出ましたが、私からは、問題の立て方を変える必要があるのではないかと指摘させてもらいました。
攻められるとか、攻められないようにとかいう問題設定は、いずれも他国任せの発想です。むしろ安全保障を考える場合は、自国(自分たち)が他国を攻めるかどうかが重要な問題ではないかと思います。
もし自国政府が他国を攻めようとしているとすればどうするか。今の日本は折原さんの指摘にもあるように、まさにそういう状況にあるように思います。もしそうであれば、それをこそ止めるのが先決ではないのか。

問題は「攻められる」とか「攻められないように」ではなく、「攻めない」ことではないのか。もし政府が他国を攻めたり、他国からの侵略に対抗して戦う(攻める)のであれば、その政府と戦うこそが必要なのではないか。「敵」を間違ってはいけません。
そういう発想に立てば、いま展開しているウクライナ戦争の当事者の捉え方も全く変わってくるような気がします。
しかしこの問いかけは、折原さんの問題提起とはなかなか絡み合わないので、改めて別のサロンで話題にしたいと思います。

相変わらず不十分な報告ですみません。
参加されたみなさん、補足してもらえるとうれしいです。
次回の平和サロンは、非武装平和国家に向けての実践的・具体的な提案を含めて、ん倶楽部のN'da Haさんに問題提起してもらうことになりました。
日程が決まったらご案内させてもらいます。

 

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2024/04/17

■共同親権が国会で議論されることの意味

離婚しても子どもの親権を両親に認める共同親権制度を盛り込んだ民法の改正が進められています。

共同親権に関しては両親にとっても子どもにとっても大きな意味を持っている問題ですが、意見は一致することはないでしょう。そもそも現実は多様過ぎて、当事者の視点からは問題として設定できないからです。逆に、当事者ではなく、社会秩序を管理する視点に立てば、問題はそう難しくはありません。まあ政治というのは、得てしてそういう枠組みの中で議論されていますが、それで悩む人が減るわけではないでしょう。ただ経済的に利得を得る人が出るだけです。そういう意味で、昨今の政治は、エコノミカル・ポリティクスになってしまっています。かつてはポリティカル・エコノミクスとは、政治と経済が反転しています。
それに関しては以前何回か書いたことがありますが。

そもそも、親子関係や家族関係は、政治が割り込んでくるような話ではないと私は思いますが、残念ながら政治に依存しないと収拾できないような親子関係あるいは家族関係が広がっているということでしょうか。

それにしても、「親権」という言葉には違和感があります。
そういう発想こそが最大の問題ではないかとさえ思います。
「親権」を認めるのであれば、「子権」も認めるべきでしょう。
子どもは親の所有物ではありませんし、そもそも他者(物)に対する支配を正当化する「権利」という概念を人間の関係に持ち込むことへの違和感があります。

最近、本田真隆さんの『「家庭」の誕生』(ちくま新書)を読みました。面白かったです。
気軽に読める新書ですので、よかったらぜひ。
夫婦別姓もそうですが、私にはみんなあまりに法律に依存しすぎているように思えてなりません。国民であると同時に、私は一人の人間として、生きていますので、親権や別姓などといった制度に保証され管理されるような発想は持っていません。

家族や家庭、あるいは親子や友人は、これからどう変質していくのでしょうか。
自分がどんどんそういう変化から取り残されていくのを実感しています。

 

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2024/04/16

■前立腺がん治療体験報告24:生体検査

今日からまた陽子線治療が再開しました。あと4回で終了ですが。

今日は「生体検査」に関して、これまでわかったことを書いておきます。
前立腺がんは、その実体がなかなか目視できないようです。

待合室で話し合った治療を受けている人たちや技師のみなさんの話を総合したところ、誰も画像確認していませんでした。もちろん主治医にみんなそれぞれ画像を前に質問していますが、明確な答えを得られた人は皆無でした。
それで結局は、前立腺がんかどうかは「生体検査」、いわゆる「生検」をしなければい、けないようです。

その生検ですが、やりかたはいろいろで、話を聞いたなかでは、全身麻酔と部分麻酔がありました。全身麻酔の場合はいずれも入院ですが、3日入院と2日入院がいました。部分麻酔も2種類あるようですが、その場合は全員日帰りでした、

問題は、その「大変さ」です。全く何の問題もなく痛さもなかったという人と痛いうえに生検後が大変だったのでもう2度としたくないという人に分かれました。
なかには生検作業を自らも見ていて、施術者に質問したりしながら、終了後、2時間休んで歩いて帰宅したという人もいました。

あまりに違うのには驚きました。
生検をやる場合は、病院や施術者を選んだほうがよさそうです。
私なりの知見も少し蓄えました。

生検は何本かの針を打ち込んで生体を採取し、その悪性度を調べます。
今回聞いた範囲では14本から19本でしたが、そのうちのいくつの生体が悪性か、またその度合いはどうかを調べます。そこで前立腺がんのリスク度が決まります。
今回確認した中では、2人が、画像でどこが問題だったかを点で確認できたそうで、さらにその中の一人はそれをプリントアウトしてもらったそうです。
私はたしか21本を打ったと聞いていますが、そのうちの何本が悪性だったかを聞いていませんので、今度訊いてみようと思います。

ちなみに、陽子線治療の後は、PSA値で状況を確認するのだそうですが、なぜ再生検し、悪性の分布状況を調べないのでしょうか。そうすれば、治療のビフォアとアフターがわかり治療効果が確認できるはずなのですが。
どう考えても論理的ではありません。
つまり前立腺がんはまだ実体が十分に判明していないのと治療法が見つかっていないということでしょう。私があえて、「がんマイナス1」と命名した由縁です。

ちなみに私は1泊入院で全身麻酔で生検しましたが、全く何の問題もなく、もう一度やることには何の抵抗もありません。

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■「世界遺産の基礎知識がざっくりわかるサロン」の報告

「ざっくりわかるサロン」シリーズの第1回、「世界遺産」編は、NPO法人世界遺産アカデミー事務局の村上千明さんによる楽しい解説で盛り上がりました。
とりわけ今回は「奈良の世界遺産」に焦点を当ててくれたので、奈良ファンの私にはとてもうれしいサロンでした。

サロンは案内にあった通り、2部構成でした。
パート1は「世界遺産の基礎知識」編。
世界遺産誕生のきっかけは、エジプトのアスワンハイダム建設によってアブシンベル神殿がナイルの川底に沈むのを避けるために世界中の国々が協力したことから始まりました。見事に成功したそのプロジェクトから、「未来に残していくべき遺跡や自然を、国際的に守っていこう」という機運が高まり、「世界遺産条約」が創設されたのです。

そして、いまでは1200件ほどの世界遺産が指定されています。大きくは、「文化遺産」、「自然遺産」、そして文化と自然の両方の価値を持つ「複合遺産」の3種類があるそうです。
世界遺産が一番多いのはイタリアで、日本は現在11位(25件)。

とまあ、こんなことを村上さんは、クイズ形式もいれながら、映像も使って楽しく紹介してくれました。

つづいてパート2では、「奈良の世界遺産」に焦点を当ててくれました。
現在、奈良にある世界遺産は3つです。おわかりでしょうか。

日本での最初の世界遺産登録が「法隆寺地域の仏教建造物」ですが、ほかにも「古都奈良の文化財」「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録され、それに加えて現在、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」が世界遺産暫定一覧表に記載されています。
そのそれぞれについても、村上さんはクイズを問いかけながら、楽しく案内してくれました。

ご存じの方もいるでしょうが、世界遺産検定もあります。4級からマイスターまで6段階あるそうで、20万人以上の人が認定を受けているようです。関心のある方は村上さんにお問い合わせください。検定用のテキストも出版されています。

サロンでは、村上さんは世界遺産に関するたくさんのマメ知識「コネタ」を用意してくれていました。そのおかげで、終始楽しいサロンになりました。
たとえば、こんな問いかけが行われました。

①「モナリザ」と「最後の晩餐」のなかで世界遺産はどっち? それはなぜ?
②世界遺産に登録されている巡礼の道は2つ。それはどこか?
③世界遺産の法隆寺の五重塔は何階建ての建築でしょうか?
④奈良の人が鹿を大事にするのはなぜ?

みなさん、おわかりですか。

サロンで10問のクイズがありましたが、私は全問正解で商品までもらいました。
実は子どもの頃、ある本を読んで歴史遺産に興味を持ち、わずかな知識で毎年、自分のなかでの歴史遺産ベスト10を選んでいました。
たとえば、当時、雑誌で連載されていた『沙漠の魔王』に登場したエジプトの「メムノンの巨象」が私の憧れでしたが、30年後に実際に出合えた時は感激しました。一緒に行った家族はあまり感激していませんでしたが。
最近の世界遺産のあまりの多さにはいささか食傷気味でしたが、改めてまた世界遺産への興味を回復しました。

今回は村上さんのおかげでとても楽しめましたが、世界をちょっと広げる「ざっくりわかるサロン」もなかなか面白い。
村上さんにはぜひ「奈良編」ではないパート2をお願いしたい気分ですが、世界遺産以外でもいろいろと取り上げられそうです。
どなたかご自分の得意な分野で、ちょっと楽しい雑学知識を語る「世界をちょっと広げるサロン」をやってもいいという方はいないでしょうか。
自分の出身地自慢でも、密かに蓄えている雑知識集でも、知ってしまうと危ない知識でも、何でも歓迎です。

ともかく知らないことを知ることは楽しいことです。
というわけで、世界をちょっと広げるサロンの2回目をやってくださる方を募集します。
マニアックな分野でもいいので、ぜひ気楽に手をあげてください。

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2024/04/15

■前立腺がん治療体験報告23:陽子線治療の影響かもしれないこと

一昨日地域の集まりで「お大事に」と声をかけられました。昨日のサロンでは「闘病中なのに」とサロンの開催のお礼の言葉をもらいました。
この報告を読んでくださっている方もいらっしゃるので、あまり間をあけるのはよくないなと反省しました。
一時は毎日書いていましたから。

まずは最近感ずる陽子線治療の影響。
先週は装置の故障で、またこの週末は装置の定期メンテナンスのため、陽子線治療から解放されています。今日もお休みです。朝ゆっくりできるのは何よりです。
精神的にはとても楽ですが、これまでの陽子線被曝の影響のせいか、身体的な疲労感が高まっています。先週あたりから、体感するようになってきています。

さらに、これは気のせいかもしれませんが、歩き疲れたりして座ると、何か胃がむかむかしてきます。昨日も湯島について、しばらく椅子に座っていました。こんなことは以前は全くありませんでした。
もう一つ、夜中に何とも言えないような身体的違和感に襲われることがある。じっとしていられなくなるのです。これも陽子線の影響でしょうか。

私の場合、対処方法は2つです。ひとつは読書。しかしそれではどうしようもないときには、寝たままでの手足や腰の体操です。身体的違和感は身体的動作で打ち消そうというわけです。

と書いてしまうと心配されそうですが、いずれもすぐ収まるのです。すぐと言っても数十分後ですが。

医師や技師によれば、こうした副作用は治療終了後、元に戻るそうです。
おそらく副作用は、その人の弱いところに出るでしょうから、副作用を通して自らの身体の状況を把握することができるいい機会かもしれません。

でも無理はしない方がいいようです。
気づかなくとも疲労は蓄積しているかもしれないのでともかく休んだ方がいいと、高橋技師からも言われました。

人間の身体はとても不思議です。
でも信ずればきちんと期待に応えてくれる。でも過信は注意しなければいけません。
昨日もサロンの後、二次会に誘われましたが、辞退させてもらいました。
今日もまたサロンですが、前後に用件を入れるのはやめました。いつもついつい入れてしまうのです。

友人がきちんと水素ガスを吸うようにと言ってくれるので、最近また1日2時間のガス吸引をしています。民間療法もしっかりと続けていますので、まあ乗り越えられるでしょう。ご心配には及びません。
むしろ長生きしてもいいかなという気になってきています。
ワルゾーへの信頼感はますます高まっています。

いま治療中のみなさん、身体の疲労には素直に付き合うのがいいようです。
私がいうのもなんですが、無理は厳禁です。

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2024/04/14

■湯島サロン「生きづらさについて話し合おう」報告

「生きづらさ」については、人によって、その捉え方が全く違います。
生き方次第で、「生きづらさ」の意味が反転することもあります。
ですからサロンでテーマにするのは難しいとは思ったのですが、あえてテーマにしたのは、個人問題としてではなく、今の社会のありようを批判的に問い直してみたいと思ったからです。もしかしたら、みんな「生きづらさ」を誤解しているのではないか、それが私がずっと思っていることです。
そこで案内文にも、「ドコモロジー」に言及していたのですが、結果的にはどうも脱ひきこもりサロンの一環のように受けとられてしまったようです。

今回は私が問題提起者になったのですが、最初にみなさんに問いかけました。
「あなたは〇〇〇のために生きているのか?」と問われたら何と答えますか、という問いかけです。
参加者全員にまず応えてもらったあと少し話をさせてもらいました。この問いに対する参加者の回答だけでも長い報告文を書けそうですが、今回は一切省略します。

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問いかけに応えてもらった後、添付のメモに基づいて、少し話をさせてもらいました。

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社会を覆っている考え方やルールは個人のそれとは違いますから、合わせられる人と合わせられない人がいるのは当然です。個人との関係もそうですが、個人の場合は「付き合いづらさ」があれば付き合いをやめればいい。でも社会との付き合いは簡単にはやめられない。そこでいろんな生き方が生まれてくるわけです。
大きく分ければ、「社会に自分を合わせて生きる生き方(A)」「何とかやりくりして社会の中で生きる生き方(B)」「社会から距離を置いて自らの生きる世界を創り出しそこで生きる生き方(C)」の3つになると思います。

これまでの日本は、Aが基本でした。だから学校も家庭も、子どもたちが社会に合わせて生きられることを目指してきました。
しかし、1980年代頃から日本は変わりだし、「自立」とか「個性」が盛んに言われだしました。「自己責任」論も加わっていましたが。

「生きづらさ」で、私が問題にしたいのは、AとBの人たちです。なぜならCの人はすでに自らの快適な時空間を持っているからです。その周辺にいる人たちはまさに「生きづらさ」を感じているでしょうが。
こうした考えから、このサロンは「脱ひきこもりサロン」とは別に開催したのです。

サロンで話題にしたかったのは、生き方を合わせなければいけない現代社会とはどんな社会なのかということでした。それがわかっていなければ、生きづらさの実質もわからないはずだからです。
主観的な生きづらさに関しては話し合いは難しい。他者の生きづらさなど、だれにもわかるはずがないからです。でも、それぞれに「生きづらさ」を感じさせている現代社会を問い直すことを通して、それぞれの生きづらさを自己分析するとともに、お互いにシェアできることが見つかるかもしれません。
そこで、現代社会の一つの捉え方を、10年ほど前に出版されている古東哲明さんの『瞬間を生きる哲学』から紹介させてもらいました。

詳しくは添付の当日のメモを見てもらえればと思いますが、概略こんな紹介をさせてもらいました。

現代の日本は、なにかの「タメに生きる習慣」があたりまえになっている社会。〈今ここ〉ではない、〈いつかどこか〉のなにかのタメに生きること。おクニのタメとか、家族のタメとか、将来のタメとか。そんなライフ・スタイルが、通常の生存生活を織りあげ、社会システムを駆動する原動力になっている。

こうした近代特有の「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」のことを、フランスの社会思想家ヴィリリオは、ドロモロジーと名づけた。一時期、日本でも話題になったイリイチのコンヴィヴィアル(自立共生)な社会、つまり「身近な場所や身近な人たちと今ここで愉快に共に生きる生活形式」は、追いやられてしまった。

〈今ここの幸せ〉に目を向けず、今ここにはない〈明日の幸せ〉(もしかしたら明日は永遠に来ない)を目指して、走り続けることが求められている社会。もしそうであれば、そういう社会に合わせて生きることは、生きやすいはずはないような気がします。私には、人生が「手段」になっているような気さえします。

そして最後に3つの問いかけをさせてもらいました。
・生きづらいとはどういう意味か、いまの生き方のどこがどう生きづらいのか。
・なぜ、社会など気にせずに、〈今ここ〉の自分を素直に生きないのか。
・知識や言葉による洗脳から解放されて、もっと素直に自分を生きたらどうか。

そして話し合い。残念ながら、現代社会のありようよりも、やはり個人的な生きづらさの話題が中心になりがちでした。
個人的な話に関してはオフレコにさせてもらっている以上、あまり紹介できませんが、私は「生きづらさ」を考えるか上での大きな示唆をいつもながらにいただきました。
しかし、残念ながら、私の3つの問いかけにはあまり回答はもらえませんでした。それで改めてまた、同じテーマのサロンを企画する予定です。
今度は「なぜ現代の社会は生きづらいのか」というような呼びかけにさせてもらう予定です。そしてそういう社会の生きづらさを、むしろ生かして〈今ここ〉の人生をしっかり生きている人に話題提供・問題提起してもらおうと思います。私ではどうも説得力がないようですので。

どなたか話題提供者になってくれませんか。

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2024/04/13

■湯島サロン「コモンズの共創② 公と共の違いを話し合う」のお誘い

コモンズの共創をテーマにしたサロンの2回目です。

今回は前回、私が話をさせてもらった「公と共の違い」について、みんなで話し合うサロンを企画しました。前回は私の話が中心になってしまい、話し合いが消化不足だった気がしますので、今回は思い切り話し合い中心でいこうと思います。

予定では、次の話題は「コモンズの悲劇」を取り上げたいのですが、その前にもう少し「共」の捉え方や「公」「私」との関係を整理しておきたいと思います。
特に「公」という発想について考え直せればと思っています。
さらにできれば、「社会」という捉え方も少し話し合いたいです。

最初に前回の話の最後の部分だけを5分ほどで話し、後は参加者みんなでの話し合いです。公と共に関するみなさんの捉え方をぜひお聞きしたいです。
前回参加されなかった方にはご連絡いただければ前回使ったパワーポイントを送りますので、事前に見ておいてください。前回参加した方ももちろんご連絡いただければ送ります。

気楽にご参加いただければと思います。

〇日時:2024年4月29日(月曜日/祝日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:公と共の違いを話し合う
〇問題提起者:佐藤修(CWSコモンズ村村長)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■緊急サロン「最近の裁判っておかしくないですか 水俣病認定熊本地裁判決を題材に」報告

急に呼びかけたにもかかわらず、10人の人が参加してくれました。
最近の裁判判決におかしさを感じている人は少なくないことを知りました。

Minamata2024040000

案内に、「判決を定期的に読んでいくサロン」と書いたため、実際に判決文を読むと思って参加してくれた人もいますが、問題提起者の吉本さんは、判決文など全く読まずに、水俣がどこに位置し、どんな場所だったのかを身体感覚的に話してくれました。

吉本さんは、子どもの頃から水俣の近くで生まれ育ち、水俣のことをよくご存じなのです。
吉本さんが、水俣病事件を他人事と捉えていないことが伝わってきました。自分事として捉えられるかどうかが、判決を読む際には重要になってきます。

しかし、なぜあれほどの事件が、周辺への広がりを見せずに、むしろ小さな地域の特別な事件に閉じ込められたのか。問題が発覚してもなお、なぜ水銀を排出していたチッソは操業を止めなかったのか。いまもなお、なぜ誰の目からも水俣病症状に襲われているとわかる人に、私たちの政府、つまり私たちは謝罪の言葉さえかけられないのか。
それは私たちの生き方にも深くつながっているように思います。今回の判決は、まさにそうした私たちの生き方を問い質すような判決にも感じます。

水俣のことを体験的に知っている吉本さんが、この判決に大きな違和感をもったのはよくわかります。おそらく原告にとってはお金の問題ではないのです。吉本さんも指摘しましたが、そもそも賠償金額は原告たちが受けた被害に釣り合うような金額ではありません。それに、賠償金全体を考えても、裁判にかかる国家の手続き費用(最高裁までの上告全体を考えてですが)で対応できる程度のものではないかと思います。

ですから問題は、まさに政治の話です。あるいは、国民に対する政府の姿勢が象徴されているとも言えます。それは「裁判とは何か」という問題にもつながっています。

三権分立と言いながら、日本における司法権は政治や経済に大きく影響されています。そもそも、日本では最高裁判事は行政府の長によって指名される建て付けになっているのです。そのため、これまでの多くの判決を見ても、政府への「忖度」がしばしば問題になっていますが、生活者感覚からのずれも大きいように思います。少なくとも自分がもし原告の立場にあったとしたら、とても納得できる判決ではないものは少なくない。

ちなみに、今回の裁判と同じ、水俣病被害者の救済措置の適用に関わる訴訟は、現在、全国4地域で起こされていますが、今回の熊本地裁の判決は昨年の大坂地裁の判決とは大きく違ったものでした。その結果、たとえば、同じ家で育った姉妹が、しかも同じような症状で苦しんできているにもかかわらず、たまたま訴訟時に住んでいるところの関係で大阪と熊本と別々の裁判の原告になった結果、一方は賠償対象になり一方は拒否されるというように、裁判長によって違った判決が出ているのです。
同じ法律による裁きなのに、判決は属人的なのです。そこに、「法治国家」の本質が示唆されています。法治国家もまた現実は「人治」なのです。

吉本さんは、今回の判決を出した品川裁判長のこれまでの裁判の判決もさっとレビューしたそうですが、特に違和感はなく、いずれも納得できるものだったと言います。でも今回の判決は、生活者感覚から、特に水俣のことを知っている立場からすれば、理解しがたい判決だと言うのです。
なぜそのようなことが起こるのか、話し合いではいろんな意見が出ました。

政治的な働きかけや「忖度」もあったのではないかという意見さえありました。
地裁から高裁、そして最高裁という三審制に対して、それぞれが役割分担しているのではないかという辛辣な意見もありました。あるいは国民視点ではなく、検察や裁判制度のメンツというか無謬性がまだ最優先されているのではないかという意見もありました。
そこまでではないにして、裁判官や検察官が「正義の味方」という感覚を持っている人はいまはもうあまりいないようです。しかし、それでいいのでしょうか。

多くの人は、裁判とは無縁の生活をしています。しかし、主権者である私たち国民が、政府に統治権を委ねているのは、問題が起きても司法が守ってくれるという信頼感があればこそです。しかし、どうも最近は裁判への信頼感が揺らいでいる。

袴田事件や大川原化工機冤罪事件の裁判に関わる司法の動きに違和感を持っている人は少なくないでしょう。しかし、そうした事件は、自分とは別の世界のことと思いがちです。しかし、決して私たちとは無縁のものではなく、いつ誰に起こってもおかしくないのです。
私たちはそうした意識をもっと持つべきではないのか。
裁判に巻き込まれてからではもう動きようがないのです。
私たちが、万一事件に巻き込まれたときに、安心して裁判に身を任せられるように、裁判に対する関心をもっと高めていく必要がある。

少なくとも、私たちの生活につながっているような事件の判決に関しては、日ごろから関心を持っておくことが大切です。
そこでまずは、マスコミで話題になるような判決については、読み過ごすのではなく、しっかりとみんなで話し合う仕組みができないかと思います。少なくとも、そういう判決が、誰にも簡単に読める仕組みが必要かもしれません。

一挙にはいきませんが、そんな判決をテーマにしたサロンを定期的に開催していきたいと思います。みなさんの中で、気になる判決があれば、このメーリングリストで呼びかけて、話し合うサロンを開催していきたいので、気楽に声をかけてください。私からも呼びかけていこうと思います。
一緒にこうした活動をやってもいいと言う人がいたらご連絡ください。
よろしくお願いします。

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2024/04/09

■湯島サロン「海外から感じている日本社会の変化」報告

40年近くアメリカにお住まいになっている坂口さんは、毎年、1~2回、日本に来て各地をまわられていますが、今年は桜に合わせて日程を組まれたようです。
今年は桜が遅れていますが、桜を見る前に湯島でサロンを開いてもらいました。

「海外から感じている日本社会の変化」と題させてもらったせいか、たくさんの方が参加されました。こうしたことに関心のある人は多いようです。

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坂口さんは、ご自身がなぜアメリカに移住したかから話しはじめましたが、そこでまず話されたのが、アメリカ人とかアメリカとかを一括りでとらえてしまいがちな私たちの習癖でした。
坂口さんも渡米前は、当時形成されていた「ジャック&ベティ」型のアメリカ人イメージを持っていたようですが、行ってみて実際に出合ったのは、まさにメルティングポットといわれる、さまざまな民族が集まり、文化的に溶け合っている社会、さまざまなアメリカ人でした。私たちが見えていると思っている世界と実際とは違うのです。

坂口さんはまず中西部で10年以上、それから東海岸のボストンで20年以上、暮らしていますが、同じアメリカでも中西部と東海岸でも大きく違う。「アメリカは…」と一括りにできないのです。

おなじことは、たぶん日本にも言えるでしょう。安直に「海外から感じている日本社会の変化」などというテーマを設定したことを反省しました。問題をこのように単純化してしまうことで、わかったような気になってしまおうとすることなのかもしれません。それでは世界はもちろん、自分さえも見えてこない。

坂口さんは、日本でアメリカ文学を専攻し、アメリカで日本文学を専攻し、その後、ライブラリアンとして日本文化の紹介に関わる活動を長らくしてきていますが、仕事を始めたころは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代であり、後半はアメリカでの日本の存在感がどんどんと低下していった時代です。日本人に対する見方も大きく変わったとはいうものの、その変わり方は一様ではありません。

さらに、アメリカ人と結婚してから周りの目が変わった(「競争相手」と見られるようになった)と坂口さんは言います。「異邦人」と「同朋人」とでは関係性もまた変わってくるのです。
というわけで、社会の変化などということを軽々には表現できないのです。

それに社会はそう簡単には変わらない。
人権意識にしても、平和への動きにしても、マスコミで報じられていることと実態とは大きく違うと坂口さんは感じているようです。
坂口さんは、今でも世界各地のテレビ報道ニュースを毎日4時間ほど録画して、それをチェックしているそうです。表層的にはいい方向に向かっているようにつくられてはいるものの、むしろ実態は劣化しているように感じているようです。

しかも、各地の報道内容が似てきている。正確に言えば、欧米社会といったあるくくりのなかでの報道が均質化してきているということです。社会の「劣化」を覆い隠すように、きれいに編集されているのかもしれません。そのことは、世界を見えやすくするかもしれませんが、あきらかに分断していく。どこに属しているかで、世界の見え方は変わってきてしまう。

さらに問題は全体の方向性です。世界はみんなを幸せにする方向に動いているのか。長年、ライブラリアンとして培ってきた坂口さんの感覚では、どうも世界中で、社会の劣化が起こっている。日本社会がどうのこうのというレベルを超えて、どうも世界がおかしくなってきているというのです。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代においても日本人が対等に扱われるようになったわけではありません。ましてや存在感がなくなってきた今では、アジアンヘイトのなかに日本人も組み込まれているようです。黒人差別もそうですが、アメリカにおけるレイシズムはそう簡単に解消はされないようです。

でも社会は変わってきている、とも坂口さんは言います。
アメリカでは、建国の父たちへの評価が揺らぎだしている、というのです。国家の根幹である「権威への信頼感」が揺らぎだしている。
そのために一時的な混乱が起きるとしても(そして今まさに起きていますが)、そこに希望があるのかもしれません。そういう視点から、たとえばアメリカ社会における銃規制問題やトランプ現象も見ていかないといけないのかもしれません。

こうしてみると、「劣化」は、主に経済的な意味や情報面での話かもしれません。
これに関しても、坂口さんはとても示唆に富む話をされました。
アメリカに転居した際、坂口さんは日本的に両隣にあいさつにまわったそうです。そのおかげで、その後、ひったくりにあったときに助けられ、隣人づきあいが始まったそうです。どこにいても、自らが生まれ育った自分の文化を大事にする坂口さんの生き方には、大きな示唆がある。

劣化とは、もしかしたらそれぞれの文化を失い、表層的で画一的な経済や効率が優先される生き方へと変わってきていることを示しているのかもしれません。そこでは、人権はもちろん、人間さえも居場所をなくしてきているのかもしれません。であればこそ、人間として抗う余地がある。生まれ育った生活の文化を見直していく価値がある。

坂口さんが毎年日本に戻ってきて各地を回っているのは、それを確かめに来ているのかもしれません。坂口さんは、ボストンでもクリスマスやお正月に、日本式のお節料理も含めて、近隣の人たちとの交流をされているようです。
人が共に食べ笑い合えば、人権もレイシズムも問題にはならず、銃も要りません。

坂口さんのお話を勝手に大きく膨らませてしまいました。
最後に、参加者から、アメリカで注目されている日本人は誰かという象徴的な問いかけがありました。
坂口さんは、しばらく考えたうえで、自分の話として、1998年のIBBY(国際児童図書評議会)の世界大会での美智子皇后(当時)の基調講演の話をされました。
世界を感動させたそのスピーチは、「橋をかける」という書物になって出版されたので読んでいる人も多いでしょうが、アメリカでも話題になったそうです。

坂口さんがなぜこの話題を出したのか、なんとなくわかるような気もします。
このスピーチの全文は、ネットで読めますので、ぜひ読んでみてください。
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html

ちなみに、経済や政治の面はともかく、文化の面では、日本の位置づけはむしろ見直されてきているのではないかという指摘もありました。
日本の役割は、むしろ大きくなってきているのではないか。
世界中がもし「劣化」してきているのであれば、それを嘆くよりも、それに抗って私たちに何ができるかを考えるのがいい。
そのヒントはきっと私たちの暮らしの中にある。

ちなみに坂口さんが私にアクセスしてきてくれたのは、湯島のサロンに興味を感じたからです。今回、坂口さんのお話を聞いて、またサロンをやめられなくなってしまいました。

坂口さんは、いま西日本各地をまわっていますが、4月20日頃に東京に戻り、20日の万葉集サロンに参加して、その後、帰国されます。
万葉集サロンの終わった後の30分で、今回各地をまわっての坂口さんの感想を話してもらおうと思います。
関心のある方はぜひご参加ください。

 

 

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■前立腺がん治療体験報告22:ついにダウンしてしまいました

陽子線治療も順調に進んで、後6回というところまで来たのですが、ここに至ってついにダウンしてしまい、治療が受けられなくなってしまいました。
無理がたたったのです。過剰な無理をしてはいけません。
いまのところ回復の目途はたっていないので、今日もおとなしく自宅で安静にしています。
そろそろ寿命かもしれません。

というと誤解されそうですが、ダウンしたのは私ではなくて陽子線治療の装置です。
実は私も先週後半からいささか疲れが出ていて、今週は極力、治療以外は休もうと思っていましたが、それを知ってか知らずか、陽子線照射装置の方が昨日から動かなくなってしまったのです。

昨日は病院で待っていましたが、結局、作動させられずに私も帰宅。装置修復のためには、四国にあるメーカー本社からチームを呼ばないといけないようで、昨日はそのチームが徹夜で修復作業をしていたはずです。

今朝早く電話があり、今日も動かないので中止、明日はまた電話で連絡するということです。何しろこの装置はもう25年前から稼働しているのです。もう寿命が来ているのかもしれません。先端技術というので最新の機械だとみんな思っているのに、何やら古いのでみんな気になっていたようですが、確認したら25年前のものだそうです。
だから毎月1回、定期的に治療をやめて整備しているようですが、今週末の定期修理日を待てずにダウンしたというわけです。

明日回復するかどうかもいまのところ、不明。かなりの重症です。
また、明日の朝、電話があるとのこと。

今日は雨風の強い日なので、私も自宅で休養しようと思います。
実は最近、私自身もいささか疲労が蓄積してきて、ちょっと我ながらに危ういことがあるのですが、もしかしたらそれを察知した陽子線治療装置の心遣いかもしれません。

すべてに感謝する生き方は心を元気にしてくれます。

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2024/04/07

■前立腺がん治療体験報告21:陽子線治療後のこと

昨日の続きです。

陽子線治療も、照射を受けているときには何も感じませんが、身体に放射線を浴びている以上、身体には負担は残るそうです。

ちなみに、治療仲間の「バトミントンK」さんは、治療終了後、がんセンター近くのテニスコートでテニスをやって帰ることが多いようです。ところが彼によれば、治療を受けていると調子がいいと言うのです。それでテニス仲間には、毎日放射線を浴びてゴジラ―のようにパワーアップしていると言っているそうです。その話を聞いてから、彼の名前を「ゴジラ―」に改名しました。

そういう人もいますが、ふつうはそれなりの負担がかかるのだそうです。
たしかに毎日照射を受けている個所は日焼けのような状況になっていますし、じわーっとした重い疲労感が蓄積してきているような気がします。
私の場合、自然体で生きられているので、疲れた時には早めに寝るので、あまり意識できなかったのですが、一昨日、高橋技師から言われてから疲労を指揮できるようになりました。

それと並行して行っているホルモン療法の服薬の影響で食欲が高まり、完食が増えています。
昨日も湯島に来た人がおにぎりとパンも持ってきて、私にも勧めたので、ついうっかり食べてしまいました。サロンでもお菓子を持ってくる人がいるため、それも食べてしまったので、やはり調子はよくありません。
やはり間食は抑制しなければいけません。

無駄話が多いですね。すみません。

陽子線治療後ですが、後はホルモン療法をつづけながらPSAの動きの経過観察になるそうです。一般にPSA値は1以下に低下するそうですが、徐々に上昇するそうです。ゴジラ―さんによれば、正常値は4以内だが、一度癌を発症した人は2以下にとどめておかないといけないそうです。でもまあそこで普通は安定するそうです。
治療仲間とのネットワークをつくっておけば、そうした治療後の状況交換もできたのですが、残念ながら作れずに終わりそうです。あの「10時の人」がいないネットワークはつくる気が起きないからです。

また無駄話になりそうですね。

治療が終了したら、湯島で報告サロンと同時に、前立腺がん所有者のネットワークづくりをしてもいいかなと思いだしています。
主には情報交換とがんマイナス1の前立腺がんとの付き合い方の開発です。
もしかしたら、私は前立腺がんになってしまったために、長生きしそうな気がしてきて、困っているのです。でもワルゾーの力を借りたら、長生きではなく、新しい生き方が見つかるかもしれない、そんな気がしてきたのです。

ますます無駄話になりそうなので、終わります。

 

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2024/04/06

■前立腺がん治療体験報告20:前立腺がんは「がんマイナス1」

陽子線治療も2/3を終了し、前立腺がんに関しての体験知も含めてかなり実態がわかってきました。

同時にまた、治療疲れも出てきました。昨日、陽子線治療受けた後、技師の高橋さんから、週末はゆっくり休んでくださいと言われました。当然のことですが、陽子線を受ける身体的負担はあるそうです。
そういえば、今週に入ってから、いささか疲労感を覚えるようになっています。治療を受けだしてからも、生活はあまり変えていませんが、夕方にどっと疲労感が出て早々と寝てしまうことがあるようになりました。
無理をしてはいけません。

ところで、前立腺がんに関しては、毎日、陽子線照射をしてくれる技師の本田さん、三浦さん、高橋さんなどから毎回少しずつですが、話を聞いています。また治療を受ける前には待合室で治療仲間と情報交換しています。
そのおかげで、前立腺がんのことがほぼわかったような気がしてきました。

ちなみに私は、ネットや書籍などでの知識はあまりありません。ほとんどが実際に前立腺がんを指摘されて、いま陽子線治療を受けている当事者からの情報です。
ですから間違っている可能性はありますし、偏っているかもしれません。

結論から言えば、前立腺がんは私が知っている胃がんとは全く違うということです。
なにが違うかと言えば、がんの実体が目で確認しにくいということです。
技師のおひとりがとても明確に言ってくれたのですが、陽子線治療のビフォアとアフターの画像確認はほとんどの場合、明確にはできないのだそうです。

たしかに私も主治医にどこが癌ですかと訊きましたが、指示してはくれませんでしたし、治療仲間全員がそうだったようです。そこにみんな「もやもや」を感じているのです。
MRIやCTでは判明ができないので、結局は生体検査をやって確認しなければいけない。となれば、MRICTなどではなく、最初から生体検査をやればいいのですが。

ちなみに、生体検査ですが、これはなんでもなかったという人と2度とやりたくないほど痛かったという2つに分かれます。私の場合は1日入院で全身麻酔でしたが、部分麻酔で日帰りだったが痛くもつらくもなかったという人もいます。これは医師によって大きく違うようですが、全身麻酔をお薦めします。

ところで視覚的に確認できないのであれば、どう対処するかですが、結局、PSA値で状況を確認していくしかないようです。
つまり前立腺がんには完治という概念がない、つまりはがんという実態がないということです。そこから多部所への転移、特に骨に転移しやすいと言われますが、「転移」というよりも、「発症」という方が適切なような気がします。

つまり、前立腺がんは、まだがんとしては成り立っていないけれども、他部所でのがんの発症を誘発させる力を持っているということです。ちなみに、がん治療によって身体に負担をかけていくこともまた、がんの発症を促進するわけです。
というわけで、私は前立腺がんをいまのゴジラ映画に倣って、「がんマイナス1」と呼ぶことにしました。

長くなってしまいました。続きはまた明日にでも。
今日も休めずに、湯島でサロンなのです。

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2024/04/05

■シャーロックにはなれそうもありません

もう20年ほど前ですが、たぶん誰かの紹介で面識のない人が湯島に何か相談に来ました。
お話を聞いたうえで、まず私が問うたのは、「ところでエジプトはどうでしたか?」でした。
相談とは全く無縁の問いでしたので、相手は驚いた様子で、どうして私がエジプトに行っていたことを知っているのですか、と訊いてきました。
理由は簡単で、彼女がエジプトツアーに行くと必ず買わされるであろうアクセサリーをしていたからです。このやり取りで、その後の展開はとてもうまくいきました。
これが私のシャーロックゲームの一番の経験です。

 子どもの頃はシャーロキアンにあこがれていましたし、新しい人に会うと、ついついプロファイルしてしまうのです。それでこういうことはいまも少なくありません。

 いま病院で毎日それを楽しんでいますが、昨日、それが見事にピント外れだったことが判明しました。例の「バトミントンK」さんです。
実は前に書いた後も、推測を重ね、推測をかなり修正しました。高校の先生で、病院にはUSVで来ていること。だから春休みを利用しての通院であること。などなど。
そして思い切って、昨日、確認の問いかけをしたのです。
テニスはお仕事ですか、仕事場は柏駅近くですか、と質問しました。
そこから話が弾みだしました。仕事はテニスだけではなく、ギターと空手もです。事務所は駅近くです。???

とと言うわけで、私の推測は見事に外れ。でもどうやら私との接点が見つかりそうな気がして、さらに話をつづけましたが、これまた見事にすべての可能性が否定されました。
でもいつか彼と会いたくなったら、会う方法は見つかりました。
2度と会うことが不可能になった「10時の人」の誤りは犯したくなかったのです。
そういえば、昨日で最後になった「とりでさん」とも、最後のわずかの一言で、いつかまた会えるきっかけを確保しました。

まあこんな感じで病院通いを楽しんでいますので、退屈はしませんが、疲れるようです。
今日はまた会うメンバーが変わるかもしれませんので、まずは会話なしでのプロファイリングです。

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■第33回万葉集サロン「帰化人の歌を読む part2」のご案内

前回に続き、今回もまた「帰化人の歌」を取り上げます。
升田さんからの案内です。

今回は、まず大伴旅人・家持関係にある余明軍の歌から入り、そこから橘諸兄・佐為王兄弟とその周辺に居る帰化人(薛妙観、秦朝元、婢など)とのやり取りを取り上げてみたいと考えています。

帰化人が採用している歌の詞(言葉)には、和歌との間に微妙なニュアンスの違いを持つ言葉が少なくありません。つまり他国での言葉の違いの問題ですが、語感覚のずれ、これが互いの「た」の環境を拡げる契機にも繋がっていく共生の妙であると考えると楽しいものがあります。

『古事記』や『日本書紀』と異なり『万葉集』は人々の「生(なま)」の声を伝えてくれます。
渡来人・帰化人との緩やかな共生への基盤は、「言葉」が互いの異なりを心の寛容へと導くところにあるのかもしれません。

「和歌」は何なのかを考えさせる問題にも繋がるかと考えます。

以上が升田さんの呼びかけですが、前回に続き、今回もまた万葉時代のにぎやかな「た」の世界を感じさせてもらえそうです。
「和歌」は何なのかを考えさせる問題、ということにも興味を感じます。
万葉集サロンが、また新しい段階に入っていきそうで、とても楽しみです。

まだ参加されたことのない方も含めて、みなさんの参加をお待ちしています。

〇テーマ:「帰化人の歌を読む part2」
〇日時:2024年4月21日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

 

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2024/04/04

■なぜみんな地域活動が嫌いになるのか

昨日、自治会の年度会計監査の集まりがありました。
私は昨年度の会計監査の一人なのです。

私たちの自治会では、16ある班が順番に会長役を引き受け、班のなかで会長などの役員を決めます。任期は1年ですが、会長は翌年は副会長、そしてそのあと2年は会計監査を務めることになっています。私は2年前に会長の役をさせてもらったので、昨年度と今年度が会計監査なのです。

昨年度の会長から丁寧な説明を受け、監査は無事終了しました。
その時に話題になったのが、会長職の大変さです。
そして一度会長職をやった人は、もう2度とやりたくないと言う人が多いという話になりました。
たしかに会長職は大変で、あまり意味があるとは思えないような会議によく参加しなければいけないのです。仕事をしている世代の人にはなかなかできることではありません。

そういう話をしていて、気づいたのですが、もしかしたらこうした自治会活動が、多くの人の地域活動嫌いを引き起こしているかもしれません。さらに勘ぐれば、そこにこそ「自治会活動」の狙いはあるのではないか。

私の体験からも、多くの場合、「自治会」と言っているものの、行政などの下請け的な活動が多く、私の感覚でも「住民活動」というよりも「市民活動」「公民活動」と言った方がいいようなものが多いのです。自分たちから自主的に行う、本来的な意味での「自治活動」はその気にならなければ何もしなくても終わります。

私が会長だった時には、幸いに私たちの班のみなさんが自発的にいろいろな役割を自主的に引き受けてくれました。ですから私はとても楽でしたし、出席を求められた会議も、意味がないものは欠席し、そこで何か主張できることがある場合には参加して意見を言いました。しかも私が会長をさせてもらった時期は、コロナの関係で地域のお祭りもなく、仕事量が少なかったこともありますが、あまり負担には感じませんでした。防災活動も副会長に一任でした。
また、会計も会計監査もすべて、会計役の人に一任していました。ですから、今回、初めて詳しい内容の説明を聞かせてもらったのです。

自治会としてやろうと思えばできることはいろいろとあります。ただ私たちの自治会の場合、任期は1年ですので、注意しないと次年度の会長役に負担をかけてしまうので、あまり勝手なことはできません。事実、私は20年ほど前に会長をやったときに、自治会の顧問的な長老役の人から、余計なことをやり過ぎないようにとお達しを受けていました。今回もそのことは、それなりに頭にあり、結果的には、独自の活動はしませんでしたが、それなりに楽しい会長仕事だった気がします。
でも多くの人には、自治会の仕事は負担でしかないようです。

私自身は、これから社会を変えていくのは、いわゆる「地域主義」的な住民活動だと思っています。期待していたNPO活動はどうも経済にからめとられたような気がしますが、逆に自治体行政のレベルでの地域主義は広がりだしています。
若い世代の意識も変わりだしている。

高齢世代が主役の「自治会」活動は、そろそろ役割を終わったのかもしれません。
昨日はそんなことを考えていました。

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2024/04/03

■湯島サロン「アグロエコロジーから学ぶ農と食と社会のあり方」の案内

農をどう位置づけるかで、その社会の経済のありようが見え、食をどう位置づけるかで、その社会の文化が見えてくる、と私は思っています。
それは同時に、その社会で生きる人たち、つまり私の生き方にも深くつながっています。

ということで、湯島のサロンでの大きなテーマの一つが「食と農」ですが、今回はまさにそれにぴったりの話題提供者であり問題提起者の吉田太郎さんにサロンをお願いできることになりました。
しかも思い切り正面からのアグロエコロジーの視点から、しかし理論だけではなく、タイとキューバでの実際の取り組みをしっかりと取り込んでのわかりやすいお話です。ぜひ多くの人に聴いていただき、話し合いに参加していただきたいと思います。

食料・農業・農村基本法の改正に関連して、いままさに話題になっている食料自給率の問題も、あるいはようやく危機感が広がりだしそうなタネ問題などもしっかりと解説してもらえそうです。

吉田さんはつい最近も、「大地を守る会」のこーいちクラブで「小規模家族農家が主人公となる有機農業」というタイトルで講演をされています。
そこで、タイの複合農業(アグロフォレストリー)と「足るを知る経済」、そして、キューバのアグロエコロジーと食料主権・国民栄養教育法の取り組みについても紹介しています。その動画も公開されていますので、関心のある方は是非ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tmQfPnKp7A4
今回も、こうした話もお聞きできると思います。

吉田さんは、自ら「アグエコ情報屋」を自称していますが、アグロエコロジー関連の世界の動きを収集・解析し、広く発信しています。のみならず、ご自身の食体験をベースに「タネと内臓 有機野菜と腸内細菌が日本を変える」など、わかりやすい食生活の提案の書籍も出版されています。そしてなによりも話が面白いのです。
農や食に関心のある方はもちろんですが、そうでない方もぜひご参加ください。
きっと食や農への、あるいはキューバや吉田さんへの関心が高まると思います。

〇日時:2024年4月28日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「アグロエコロジーから学ぶ農と食と社会のあり方」
話題提供者:吉田太郎さん(アグエコ情報屋)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■前立腺がん治療体験報告19:治療仲間共通の違和感

陽子線治療も半分を越えました。
報告するのをいささか躊躇したい悲喜劇も起こっていますが、いまのところ順調です。

あんまり情報価値はないですが、いくつかの報告です。

まず治療仲間の交流は少しずつ深まっていて、情報交換も始まっていますが、ほぼ全員に共通する違和感に気づきました。
それは、陽子線治療と自分の病状との関係とつながりを実感できないことです。
いささか考えすぎれば、これは果たして治療なのか、研究なのか、という疑問さえ導き出されかねません。それに改めて癌とは何かの問いも。

私が話したすべての患者はみんないま取り組んでいる治療が終わった後、なんの治療結果報告もないまま、以前かかっていた病院でのホルモン療法をつづけ、結果確認はそこでのPSA値だけということに、不安や違和感を持っています。
10時の人」は、かなり大きな不満を持っていましたし、昨日会ったそろそろ治療が終わる「とりでさん」も「なんかすっきりしない」と言っていました。
治療の前後に、画像撮影が行われるわけでもなく、もちろん陽子線照射中には癌の様子など誰も見ていないのです。
PSA値だけで結果確認されても不安が残るのは当然ではないかと思います。
こうしたことから、私は、前立腺癌というのははたして実体があるのか、癌もどきなのではないか、とさえ思ってしまいます。

毎回治療費が無料だった謎は簡単に解決しました。
最初に一括で請求されていたのです。しかもそれは、高額医療費制度が事前に適用されたため、私には8000円の請求しかなかったのです。
私は毎回、らくらく決済というスマホ決済をしているため、領収書も診察明細も受け取っていなかったのですが、先日、一括して受け取り、それを見たら、陽子線治療は160万円ほどの請求があり、それがいろんな制度によって、私に直接来た請求は8000円だったのです。
でもこういうことを知らない人も少なくないでしょう。私のまわりには、陽子線治療は経済的に手が出ないと思っている人もいました。むしろ摘出手術よりも経済的負担は少ないのかもしれません。

副作用に関しても書いておきます。
私自身は、いまのところ、夜中にトイレに起きる回数は増えた以外には特に副作用は感じていませんが、最近、やはり治療を受けると疲労するのがわかってきました。
治療を始めてからも、私は生活をまったく変えていません。それなりにサロンをやり他の活動も続けていますが、どうも夕方の疲労感が以前よりも大きい気がしてきました。
時々は帰宅するとがっくりとして、夕食後、なにもやる気が起きずにすぐに寝てしまうこともあります。こんなことは以前はなかったような気がします。
治療3週間を迎えて、少し注意しないといけないと思い出しています。

ちなみにホルモン療法の副作用として、体毛が抜けてしまうと「10時の人」は言っていましたが、私は感じていません。「かめあり」さんは食欲増進で体重が増えたと言っていましたが、私の場合は甘いものが欲しくなってきている気はします。
でもまあ副作用は感じていません。

とまあ、いろんな不安や違和感を持っている治療中は多いのですが、みんな最近は楽しくやっています。
朝、会えば大きな声であいさつし合い、治療が終わると、あのバトミントンKさんも、手をあげてお先にと大きな声を発して、帰っていきます。
10時の人がいるときには、まだ実現できていなかったのですが、今もそれが悔いで、残念でなりません。

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2024/04/02

■湯島サロン「厭わしき民と平等」報告

今回の問題提起者のN'daさんは、複数の名前を持ち、複数の人として生きている人です。私がN'daさんと知り合ったのは、つい1か月ほど前ですが、N'daさんのおおもとの半田智久さんとはもう40年ほどの付き合いです。
と書くと、いろいろとややこしいのですが、

Nda2000

冒頭、N'daさんからなぜ名前を変えたのかの話がありましたが、夫婦別姓のことを考えながら聞いていました。私(佐藤修)のように、ありふれた姓と名前だと姓名には全く何のこだわりもなく、ただの記号でしかないのですが、とても大きな意味を持っているのかもしれないと改めて思い直し、このテーマのサロンをやろうと思ったりしていました。

というわけで、本論に入る前にすでにさまざまな刺激を受けるサロンでした。
まだ書きたいことはありますが、一切省略して、N'da さんの問題提起の話を書きます。
私の理解では今回のメッセージは、言葉に惑わされて思考停止に陥ってはいけないということでした。その切り口として出されたのが、「民」と「平等」でした。

N'daさんは、最初に参加者に3つの問いかけをしました。
① あなたはどのようなときに国民としての自覚を得ますか?
② あなたが市民意識のもとに行動するのはどのようなときですか?
③ あなた自身の民族の由来をどう考えているか教えてください

国民、市民、民族。いずれにも「民」の文字がある問いかけです。
参加者全員の回答を聞いたうえで、N'daさんは「民」という文字は、もともとは目に針のようなものを刺した象形だという説があることを話してくれました。つまり、奴隷を盲目にしておいたことに由来する、というわけです。

いまは、「民」の文字を使った熟語はたくさんありますが、どちらかと言えば、いずれも肯定的に使われています。しかし、と、N'daさんは言います。「民」にそういう意味があることを知っていたら、市民とか民主主義とかいう言葉に、安直に身を任せてはいられないのではないか。民への偏執は思考の黴。「民」という文字には奴隷・隷属時代に培われた狡猾さの残り滓ないし亡霊が生きている。
たしかに私たちは、あまりに安直に「民」の文字を使います。最近は「公民」なる言葉が学校の教科にさえなっています。

重ねてN'daさんは、このことばを使うたびに隷属の身としてあった過去のくびきに再びつながれ、あたかもそのwifi伝導を受けたかの思考に囚われるのではないか、と言います。そして、こういうのです。
囚われの身を嘆きつつも互いに手を取り合い、苦悩の諸相を見つけ出しては共苦の情を示し合う。その思いやりなるものに安住し、独り立ち、足枷を外して洞窟を脱することから逃れ安堵している。民草に身体化された狡智に気づけ(恥じよ)、と。

そのメッセージの意図はよくわかりますし、共感できる面もある。「思いやりなるもの」への信頼の強い私でも、思いやりなるものへの安住ほど嫌いなことはありません。

ちなみに、「民」の対語は何かという問いがありましたが、民に対するのは、私は神や王だと思います。やまとことばで言えば、「かみ」(神)「きみ」(君)と「たみ」(田・多)との関係です。「おみ」(臣)という興味深いことばもあります。いずれにしろ、「民」には支配される存在という意味がある。これは蛇足的な私見です。        

ちなみに、N'daさんは、文字の象形意味について別にうんちくを語ったわけではありません。そうではなく、ふだん、私たちが語り、読み、書くことばが、潜在的に私たちのこころに、ものの考え方の基本に及ぼす影響について、注意を喚起してくれたのです。
これに関しては私も同感で、言葉に呪縛されないように、いつも言葉から意図的に自由になろうと心がけています。そのため、サロンでも齟齬をきたすこともありますが。

N'daさんの問いかけはさらに鋭く、私たちの生き方に突き刺さってくるのですが、この辺りでやめておきましょう。問題の大きさから、一挙に受け止めるにはいささか重すぎる人も少なくないでしょう。しかし、とても大切なメッセ―ですので、できれば続きをまたやりたいです。N'daさんが承知してくれればですが。

ところで、タイトルにある「平等」という言葉も一役買っているのです。
平らで等しいというメッセージを与えてくれる「平等」概念を私たちはどう受け止めているのでしょうか。もし仮に、「平らで等しい」ことが「平等」であるならば、それは、平衡・静止・無機・死につながるだけで、そこには躍動する生はない。つまり、そこにあるのは目を潰された民に用意された世界と同じではないのか。N'daさんはそう言います。平等とは、群れと化した思考しない民を一律に扱うのではなく、多様な表情と思いを持った凸凹な存在、一人ひとりの「個の尊厳」を認め合うことでないか。と。

言い換えれば、そこにいるのは「民」ではなく「人」なのです。
そしてN'daさんは、民という文字を用いた言葉の「民」を「人」にかえて、示してくれました。たとえば、国民は国人、市民は市人、民族は人族、民主主義は人主主義…。
そういう言葉を眺めていると、世界が違って見えてくる。

ちなみに、N'daさんは、「良心の自由」や「基本的人権」に関連して、日本国憲法についても触れました。話し合いでは、民にはもっと平和な意味もあるのではないか、傍観者は「平等な対応」などというが福祉施設の現場では一人ひとりに合わせた対応が大切、さらには「正義」とか「良し悪し」は主観的で基準にはならないとか対話とは何か、などと盛りだくさんでした。

要は、言葉に呪縛されて思考停止に陥いることなく、民として生きるよりも、凸凹した自分をしっかりと生きようと言うのが、N'daさんからのメッセージだったような気がします。
それはそう簡単ではないことのN'daさんの実体験の話もありましたが、やはり私は、みんながしっかりと自分を素直に生きるようになってほしいなと改めて思いました。

N'daさんたちには、またサロンをお願いしようと思います。

 

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■湯島サロン「春の食養生」のご案内

昨年末、東方健美研究所代表の新倉久美子さんに、「ふるさと薬膳のすすめ 郷土食は日本の薬膳」をテーマにサロンを開始してもらいました。
その時に、食は地域と季節に深くつながってこその「薬膳」だというお話があり、そこから季節ごとの「食養生」のサロンを開催してくださるというお話がありました。
ちょっと遅れましたが、その「季節ごとの食養生」サロンの春版を開催していただけることになりました。

前回の報告にも書かせてもらいましたが、食は生き方にも深くつながっています。
「春の食養生」を切り口に、最近ともすれば失われがちの「季節感」も取り戻しながら、それぞれの生き方や社会のあり様について、楽しく話し合えるサロンになればと思っています。

みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2024年4月20日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「春の食養」
〇話題提供者:新倉久美子さん(東方健美研究所代表・農都共生総合研究所取締役)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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