■湯島サロン「厭わしき民と平等」報告
今回の問題提起者のN'daさんは、複数の名前を持ち、複数の人として生きている人です。私がN'daさんと知り合ったのは、つい1か月ほど前ですが、N'daさんのおおもとの半田智久さんとはもう40年ほどの付き合いです。
と書くと、いろいろとややこしいのですが、
冒頭、N'daさんからなぜ名前を変えたのかの話がありましたが、夫婦別姓のことを考えながら聞いていました。私(佐藤修)のように、ありふれた姓と名前だと姓名には全く何のこだわりもなく、ただの記号でしかないのですが、とても大きな意味を持っているのかもしれないと改めて思い直し、このテーマのサロンをやろうと思ったりしていました。
というわけで、本論に入る前にすでにさまざまな刺激を受けるサロンでした。
まだ書きたいことはありますが、一切省略して、N'da さんの問題提起の話を書きます。
私の理解では今回のメッセージは、言葉に惑わされて思考停止に陥ってはいけないということでした。その切り口として出されたのが、「民」と「平等」でした。
N'daさんは、最初に参加者に3つの問いかけをしました。
① あなたはどのようなときに国民としての自覚を得ますか?
② あなたが市民意識のもとに行動するのはどのようなときですか?
③ あなた自身の民族の由来をどう考えているか教えてください
国民、市民、民族。いずれにも「民」の文字がある問いかけです。
参加者全員の回答を聞いたうえで、N'daさんは「民」という文字は、もともとは目に針のようなものを刺した象形だという説があることを話してくれました。つまり、奴隷を盲目にしておいたことに由来する、というわけです。
いまは、「民」の文字を使った熟語はたくさんありますが、どちらかと言えば、いずれも肯定的に使われています。しかし、と、N'daさんは言います。「民」にそういう意味があることを知っていたら、市民とか民主主義とかいう言葉に、安直に身を任せてはいられないのではないか。民への偏執は思考の黴。「民」という文字には奴隷・隷属時代に培われた狡猾さの残り滓ないし亡霊が生きている。
たしかに私たちは、あまりに安直に「民」の文字を使います。最近は「公民」なる言葉が学校の教科にさえなっています。
重ねてN'daさんは、このことばを使うたびに隷属の身としてあった過去のくびきに再びつながれ、あたかもそのwifi伝導を受けたかの思考に囚われるのではないか、と言います。そして、こういうのです。
囚われの身を嘆きつつも互いに手を取り合い、苦悩の諸相を見つけ出しては共苦の情を示し合う。その思いやりなるものに安住し、独り立ち、足枷を外して洞窟を脱することから逃れ安堵している。民草に身体化された狡智に気づけ(恥じよ)、と。
そのメッセージの意図はよくわかりますし、共感できる面もある。「思いやりなるもの」への信頼の強い私でも、思いやりなるものへの安住ほど嫌いなことはありません。
ちなみに、「民」の対語は何かという問いがありましたが、民に対するのは、私は神や王だと思います。やまとことばで言えば、「かみ」(神)「きみ」(君)と「たみ」(田・多)との関係です。「おみ」(臣)という興味深いことばもあります。いずれにしろ、「民」には支配される存在という意味がある。これは蛇足的な私見です。
ちなみに、N'daさんは、文字の象形意味について別にうんちくを語ったわけではありません。そうではなく、ふだん、私たちが語り、読み、書くことばが、潜在的に私たちのこころに、ものの考え方の基本に及ぼす影響について、注意を喚起してくれたのです。
これに関しては私も同感で、言葉に呪縛されないように、いつも言葉から意図的に自由になろうと心がけています。そのため、サロンでも齟齬をきたすこともありますが。
N'daさんの問いかけはさらに鋭く、私たちの生き方に突き刺さってくるのですが、この辺りでやめておきましょう。問題の大きさから、一挙に受け止めるにはいささか重すぎる人も少なくないでしょう。しかし、とても大切なメッセ―ですので、できれば続きをまたやりたいです。N'daさんが承知してくれればですが。
ところで、タイトルにある「平等」という言葉も一役買っているのです。
平らで等しいというメッセージを与えてくれる「平等」概念を私たちはどう受け止めているのでしょうか。もし仮に、「平らで等しい」ことが「平等」であるならば、それは、平衡・静止・無機・死につながるだけで、そこには躍動する生はない。つまり、そこにあるのは目を潰された民に用意された世界と同じではないのか。N'daさんはそう言います。平等とは、群れと化した思考しない民を一律に扱うのではなく、多様な表情と思いを持った凸凹な存在、一人ひとりの「個の尊厳」を認め合うことでないか。と。
言い換えれば、そこにいるのは「民」ではなく「人」なのです。
そしてN'daさんは、民という文字を用いた言葉の「民」を「人」にかえて、示してくれました。たとえば、国民は国人、市民は市人、民族は人族、民主主義は人主主義…。
そういう言葉を眺めていると、世界が違って見えてくる。
ちなみに、N'daさんは、「良心の自由」や「基本的人権」に関連して、日本国憲法についても触れました。話し合いでは、民にはもっと平和な意味もあるのではないか、傍観者は「平等な対応」などというが福祉施設の現場では一人ひとりに合わせた対応が大切、さらには「正義」とか「良し悪し」は主観的で基準にはならないとか対話とは何か、などと盛りだくさんでした。
要は、言葉に呪縛されて思考停止に陥いることなく、民として生きるよりも、凸凹した自分をしっかりと生きようと言うのが、N'daさんからのメッセージだったような気がします。
それはそう簡単ではないことのN'daさんの実体験の話もありましたが、やはり私は、みんながしっかりと自分を素直に生きるようになってほしいなと改めて思いました。
N'daさんたちには、またサロンをお願いしようと思います。
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