■緊急サロン「最近の裁判っておかしくないですか 水俣病認定熊本地裁判決を題材に」報告
急に呼びかけたにもかかわらず、10人の人が参加してくれました。
最近の裁判判決におかしさを感じている人は少なくないことを知りました。
案内に、「判決を定期的に読んでいくサロン」と書いたため、実際に判決文を読むと思って参加してくれた人もいますが、問題提起者の吉本さんは、判決文など全く読まずに、水俣がどこに位置し、どんな場所だったのかを身体感覚的に話してくれました。
吉本さんは、子どもの頃から水俣の近くで生まれ育ち、水俣のことをよくご存じなのです。
吉本さんが、水俣病事件を他人事と捉えていないことが伝わってきました。自分事として捉えられるかどうかが、判決を読む際には重要になってきます。
しかし、なぜあれほどの事件が、周辺への広がりを見せずに、むしろ小さな地域の特別な事件に閉じ込められたのか。問題が発覚してもなお、なぜ水銀を排出していたチッソは操業を止めなかったのか。いまもなお、なぜ誰の目からも水俣病症状に襲われているとわかる人に、私たちの政府、つまり私たちは謝罪の言葉さえかけられないのか。
それは私たちの生き方にも深くつながっているように思います。今回の判決は、まさにそうした私たちの生き方を問い質すような判決にも感じます。
水俣のことを体験的に知っている吉本さんが、この判決に大きな違和感をもったのはよくわかります。おそらく原告にとってはお金の問題ではないのです。吉本さんも指摘しましたが、そもそも賠償金額は原告たちが受けた被害に釣り合うような金額ではありません。それに、賠償金全体を考えても、裁判にかかる国家の手続き費用(最高裁までの上告全体を考えてですが)で対応できる程度のものではないかと思います。
ですから問題は、まさに政治の話です。あるいは、国民に対する政府の姿勢が象徴されているとも言えます。それは「裁判とは何か」という問題にもつながっています。
三権分立と言いながら、日本における司法権は政治や経済に大きく影響されています。そもそも、日本では最高裁判事は行政府の長によって指名される建て付けになっているのです。そのため、これまでの多くの判決を見ても、政府への「忖度」がしばしば問題になっていますが、生活者感覚からのずれも大きいように思います。少なくとも自分がもし原告の立場にあったとしたら、とても納得できる判決ではないものは少なくない。
ちなみに、今回の裁判と同じ、水俣病被害者の救済措置の適用に関わる訴訟は、現在、全国4地域で起こされていますが、今回の熊本地裁の判決は昨年の大坂地裁の判決とは大きく違ったものでした。その結果、たとえば、同じ家で育った姉妹が、しかも同じような症状で苦しんできているにもかかわらず、たまたま訴訟時に住んでいるところの関係で大阪と熊本と別々の裁判の原告になった結果、一方は賠償対象になり一方は拒否されるというように、裁判長によって違った判決が出ているのです。
同じ法律による裁きなのに、判決は属人的なのです。そこに、「法治国家」の本質が示唆されています。法治国家もまた現実は「人治」なのです。
吉本さんは、今回の判決を出した品川裁判長のこれまでの裁判の判決もさっとレビューしたそうですが、特に違和感はなく、いずれも納得できるものだったと言います。でも今回の判決は、生活者感覚から、特に水俣のことを知っている立場からすれば、理解しがたい判決だと言うのです。
なぜそのようなことが起こるのか、話し合いではいろんな意見が出ました。
政治的な働きかけや「忖度」もあったのではないかという意見さえありました。
地裁から高裁、そして最高裁という三審制に対して、それぞれが役割分担しているのではないかという辛辣な意見もありました。あるいは国民視点ではなく、検察や裁判制度のメンツというか無謬性がまだ最優先されているのではないかという意見もありました。
そこまでではないにして、裁判官や検察官が「正義の味方」という感覚を持っている人はいまはもうあまりいないようです。しかし、それでいいのでしょうか。
多くの人は、裁判とは無縁の生活をしています。しかし、主権者である私たち国民が、政府に統治権を委ねているのは、問題が起きても司法が守ってくれるという信頼感があればこそです。しかし、どうも最近は裁判への信頼感が揺らいでいる。
袴田事件や大川原化工機冤罪事件の裁判に関わる司法の動きに違和感を持っている人は少なくないでしょう。しかし、そうした事件は、自分とは別の世界のことと思いがちです。しかし、決して私たちとは無縁のものではなく、いつ誰に起こってもおかしくないのです。
私たちはそうした意識をもっと持つべきではないのか。
裁判に巻き込まれてからではもう動きようがないのです。
私たちが、万一事件に巻き込まれたときに、安心して裁判に身を任せられるように、裁判に対する関心をもっと高めていく必要がある。
少なくとも、私たちの生活につながっているような事件の判決に関しては、日ごろから関心を持っておくことが大切です。
そこでまずは、マスコミで話題になるような判決については、読み過ごすのではなく、しっかりとみんなで話し合う仕組みができないかと思います。少なくとも、そういう判決が、誰にも簡単に読める仕組みが必要かもしれません。
一挙にはいきませんが、そんな判決をテーマにしたサロンを定期的に開催していきたいと思います。みなさんの中で、気になる判決があれば、このメーリングリストで呼びかけて、話し合うサロンを開催していきたいので、気楽に声をかけてください。私からも呼びかけていこうと思います。
一緒にこうした活動をやってもいいと言う人がいたらご連絡ください。
よろしくお願いします。
| 固定リンク
「司法時評」カテゴリの記事
- ■緊急サロン「最近の裁判っておかしくないですか 水俣病認定熊本地裁判決を題材に」報告(2024.04.13)
- ■「本当に裁かれるべきは、冤罪を生み出した我が国の司法制度」(2023.10.28)
- ■裁判もまた事件(2023.09.05)
- ■ホジャの話を思い出します(2023.03.14)
- ■日本の司法への不信感(2023.02.28)
「サロン報告」カテゴリの記事
- ■第3回あすあびサロン報告(2024.10.01)
- ■第3回増田サロン「老子は静かなロックだ 老子の思想と地湧きの思想」報告(2024.09.29)
- ■湯島サロン「私たちは外国の人たちをどう扱っているのか」報告(2024.09.25)
- ■湯島サロン「沖縄/南西諸島で急速に進むミサイル基地化」報告(2024.09.15)
- ■湯島サロン「秋の食養生」報告(2024.09.14)
コメント