■共同親権が国会で議論されることの意味
離婚しても子どもの親権を両親に認める共同親権制度を盛り込んだ民法の改正が進められています。
共同親権に関しては両親にとっても子どもにとっても大きな意味を持っている問題ですが、意見は一致することはないでしょう。そもそも現実は多様過ぎて、当事者の視点からは問題として設定できないからです。逆に、当事者ではなく、社会秩序を管理する視点に立てば、問題はそう難しくはありません。まあ政治というのは、得てしてそういう枠組みの中で議論されていますが、それで悩む人が減るわけではないでしょう。ただ経済的に利得を得る人が出るだけです。そういう意味で、昨今の政治は、エコノミカル・ポリティクスになってしまっています。かつてはポリティカル・エコノミクスとは、政治と経済が反転しています。
それに関しては以前何回か書いたことがありますが。
そもそも、親子関係や家族関係は、政治が割り込んでくるような話ではないと私は思いますが、残念ながら政治に依存しないと収拾できないような親子関係あるいは家族関係が広がっているということでしょうか。
それにしても、「親権」という言葉には違和感があります。
そういう発想こそが最大の問題ではないかとさえ思います。
「親権」を認めるのであれば、「子権」も認めるべきでしょう。
子どもは親の所有物ではありませんし、そもそも他者(物)に対する支配を正当化する「権利」という概念を人間の関係に持ち込むことへの違和感があります。
最近、本田真隆さんの『「家庭」の誕生』(ちくま新書)を読みました。面白かったです。
気軽に読める新書ですので、よかったらぜひ。
夫婦別姓もそうですが、私にはみんなあまりに法律に依存しすぎているように思えてなりません。国民であると同時に、私は一人の人間として、生きていますので、親権や別姓などといった制度に保証され管理されるような発想は持っていません。
家族や家庭、あるいは親子や友人は、これからどう変質していくのでしょうか。
自分がどんどんそういう変化から取り残されていくのを実感しています。
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