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2024/05/06

■憲法サロン2024「憲法は誰のものか」報告

今年はあえて憲法関係のイベントが多い5月3日に憲法サロンを開催しました。しかも大型連休のど真ん中。果たして参加者はいるのかと思っていましたが、6人の方が参加してくれました。

テーマは「憲法は誰のものか」。
例年は、憲法の内容に関して話し合うのですが、今年はあえて「憲法とは何か」を選びました。

最初に参加者のみなさんに、憲法は「誰が誰に向けたものか」をお訊きしました。
最初の人は「憲法は主権者である国民が、為政者である政府に統治権を与えるとともに、統治する上での制限を与えたもの」と答えてくれました。
つづいておふたりの方が「憲法は政府と国民双方に向けたもの」、さらにもうおふたりは「万人に向けたもの」とも答えてくれました。
憲法に関してあまり考えたこともないという最後のおひとり(このサロンのために憲法関係の新書を読んできてくれました)は、「法律は自分の生活に関係があるが、憲法は遠い存在」と答えてくれました。それが多くの人の実感でしょう。

そこからいろいろな話し合いが展開しました。
憲法と法律はどう違うのか、条約は憲法の上位にあるのか。万人のためというなら、人権宣言などとどう違うのか。憲法に国民の義務が規定されているが「権利と義務」はセットなのか。三権分立と統治権の関係は、などなど、話し合いはいろいろ拡がりました。

次の問題は、そうした憲法を私たち国民はどう使うか、です。
自分の生活とは遠い存在といいながらも、そもそも私たちの生活を規制する法律のよりどころは憲法ですから、憲法が私たちの生活ルールを決めているともいえるのです。私たちの「自由な生活」を守ってくれているのは憲法と言ってもいいでしょう。
そうしたことを意識せずにいられるときには、憲法は「空気のような存在」ですが、冤罪で死刑判決を受けたら、守ってくれるのは憲法です。

しかし、守ってもらうだけではなく、もっと積極的に活用できるのではないか。そうすれば、憲法は私たちのものになっていくでしょう。子どもたちでさえも使っているコスタリカの憲法のように。
幸いに、日本国憲法には「国民主権」と明記されていますから、主権者たる国民が、憲法を使えないはずはないのです。
これに関しても話し合いはいろいろと拡がりました。

話し合いを聞いていて、私の考えも整理できました。

最初の人が言ったとおり、日本国憲法は主権者から為政者である政府に向けたものと言っていいでしょう。私は、学校でもそう教えられました。要は権力者が勝手な逸脱をしないように、制限を与えたものです。
しかし、日本国憲法の場合、憲法制定時の実際の「主権者」はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)です。つまり、日本国憲法は戦勝国の連合(国際連合)が日本国政府に統治権を保障した条件と言ってもいいかもしれません。

そう考えると、前文での国際連合のビジョン(世界連邦)のような内容も理解できますし、日本政府と日本国民を一体化して位置づけているのも理解できます。
そして、湯島のサロンでも時々話題になる、日本国憲法の上位にある日米合同委員会の存在も納得できます。

つまり、日本国憲法は、もし日本が独立国であれば、憲法というよりも「法律」なのです。分立された三権は規定されていますが、統治権は明記されていません。統治権者は、隠されているのです。

しかし、これはあくまでも制憲時の事実の話です。法規範で重要なのは、法の精神です。
つまり、そうした制定経緯に関わらず、日本国憲法は国民主権を明記していることが重要です。であれば、日本国民のオーナーは日本国民であって、日米合同委員会などではありません。そこから行動を起こせばいいだけの話です。
押しつけ憲法論などにとどまっていては動けません。そもそも建前はともかく、憲法とは「誰か」の押し付けで成立するのですから。

では日本国憲法をどう活用するか。
たとえば、日本政府が戦争を起こした場合、私たちは日本国憲法を根拠に、戦争に駆り出されることを拒否できるはずです。日本国政府も同じようなやり方でつい最近まで戦争に巻き込まれるのを避けてきていますから。もし多くの国民が拒否したら政府は戦争を起こしようがありません。ウクライナのような事態にはならないでしょう。

そうは言ってもいまの日本状況は、そんな状況にはないと言われそうです。
でもだからこそ、いま憲法への関心を高めることが大切ではないかと思うのです。
日本国憲法をノーベル平和賞の候補に、などといったたわごとにごまかされてはいけません。そんなうぬぼれよりも、地道に日本国憲法の精神を大事にすることです。
私たちがその気にならなければ、せっかくの日本国憲法は生きてはこないのですから。

書き出したら長くなってしまい、話し合いの内容などが十分に伝えられないものになってしまいました。憲法は万人のためにあるというのは、いわゆるブランディングに関わっていると考えられるといったような面白い議論もありました。「国家とは何か」「国民主権とは何か」という話もでましたが、書き出したらさらに長くなりそうです。

サロンで示唆を受けたことをもっと書きたかったのですが、これ以上長いとさすがに読んではもらえないでしょう。いつかまた今回の憲法サロンの続きをやりたいです。

いつも思いますが、サロンの報告は、実際のサロンでの豊かな話し合いに比べたらほんの一部なのです。しかも私の狭い主観的報告です。それがいつも残念です。

参加された方、補足してもらえるとうれしいです。

Kenpou2024000 

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