■湯島サロン「子どもたちの学びの場としての学校」報告
「子どもたちの学びの場」である学校を中心に、取材活動を続けているYさんに、ご自分の作品などの紹介も含めて、ご自身の考えなどを話してもらうサロンでした。
Yさんの要請で、Yさんのことをきちんと紹介できないのが残念ですが、Yさんは3児の父親で、学校現場への取材活動などに取り組んでいます。
子どもの教育などに関心の深い女性たちが6人と、それなりに関心のある男性たちが4人、参加しました。参加者のなかにも子育て中の母親父親がいました。
Yさんのお話はとても刺激的なものでしたし、参加者の紹介する事例や体験も示唆に富むもので、こういう話し合いの場をもっと開きたいなと思いましたが、なかなか難しいようです。なぜ難しいのか、それが書けないのももどかしいですが。
いまの日本は本当に言論の自由があるのかいささか疑問に思いますが、まあそういう話はまた別の機会に。
Yさんの話はまずふたつの言葉の問いかけから始まりました。
アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)とアタッチメントです。
後者はまだあまり広がっていないので、聴きなれないかもしれません。「愛着」などと訳されているため誤解されそうですが、不安な時に誰かにくっついて安心を得ようとする欲求や行動のことです。
アンコンシャスバイアスに関しては、私たちがいかにそうした「バイアス(偏見)」に左右されて行動しているかを、Yさんはいろんな事例を出して話してくれました。
たとえば、学校で日本語をきちんと教えてもらえなかったために社会からはみ出してしまった在日外国人の子どもの学びの場をYさんが取材した時に、校長先生が、20年前は日本人の学びこそが学校の役割だと受け止めていたと振り返り、でも今は(日本国籍の子どもだけではなく)すべての子どもの学びの場と捉えているということを紹介してくれました。学校は何のためにあるかの「常識」が変わったのです。その「常識」は、その時々の、まさに「アンコンシャスバイアス」と言っていいでしょう。
そうした事例を紹介しながら、Yさんは今の「常識」に含まれている「アンコンシャスバイアス」の不都合が、将来、顕在化してくるかもしれないといいます。
だからこそ、私たちはいまの常識や当然とされている学校の在り方やルールを問い質し続けなくてはいけないのではないかというのです。
たしかに最近では、不登校に関する世間の「常識」「見方」は少し変わりだしていますし、新しいスタイルの学校も広がりだしています。新しい「学び方」への寛容度は高まっている。
Yさんはそんな事例もいくつか紹介してくれました。いまの「常識」からすれば、そこまでやるかという事例もありますが、20年後には、「そこまでしかやれなかったのか」ということになっているかもしれません。
しかし、同時にYさんは、小中学校は「義務教育」とされているので、学校側もルールから逸脱した子どもを無闇に放出できないが、高校は「自由教育」なので、学校のルールに反してしまうと切り捨てられてしまうこともあると話してくれました。しかし、高校から切り捨てられてしまうと、いまの日本ではそれから先の人生がとても厳しいものになってしまいかねない。
ある先生は、高校はうまく社会に乗れない子どもたちにとっては「最後の砦」だと話したそうですが、Yさんもそう感じているようです。
高校から切り捨てられると、「学びの場」どころか「居場所」さえなくなってしまう。そして、その結果がもしかしたら最近の社会に大きな影を落としている。
最近の子どもの自殺の増加も、そうした子どもたちの育ちの場の変化の結果かもしれません。学校は果たして「社会人」を育成するための「教育の場」と捉えるだけでいいのか。もし子どもにとって、それが大切な「居場所」にもなっているのであれば、「福祉の場」としての視点も必要ではないか。
学校の役割や意味が、大きく変わってきている。子どもの「ウェルビーイング」を第一に捉える学校でなければいけないのではないか。Yさんはそう考えているようです。
最近、テレビでも「アタッチメント」という言葉が取り上げられだしています。
それに関してもYさんは言及してくれました。
人の触れ合いやつながりの大切さは、よく話題になります。
認知症対策でも、一時期、「ユマニチュード」というフランス発祥の認知症ケアが話題になりました。「アタッチメント」は育児ケアで話題になっていましたが、それが今では大人の世界にも使われだしています。
いずれも要するに、人の触れ合い(肌の触れ合いから心の触れ合いまで)を大事にするという、以前の日本社会には当然としてあった話なのですが、新しいケアの手法として、産業界や専門家が取り上げると、新しい技法や概念として、もてはやされてしまうのです。でも多くの場合、すぐ忘れられてしまうことも少なくない。
だから私自身はあまり好きではないのですが、しかし、自己責任社会へと人のつながりを分断する方向に向かっている社会の流れを変えていくには、そうした新しい言葉も必要かもしれません。
「ユマニチュード」が短い期間の流行語で終わったようなことにならなければと思いながら、「アタッチメント」という概念や実践の大切さを広げていきたいと思います。
いつかこのテーマのサロンをやってもいいかもしれません。
Yさんは、いろいろな事例を出しながら、新しい学びの場への動きを紹介してくれましたが、一方で大きな流れとしての学校制度の限界も話してくれたように思います。
この事態を方向づけていくのは、やはり実際に子どもと向き合っている親世代の人たちの行動であり、それを支えていく社会の姿勢でしょう。制度や専門知識が社会を変えていくわけではありません。制度や専門知識をうまく活用するかどうかは、当事者です。
そして話し合い。
実際にご自分の子どもたちの学びの場探しに取り組んでいる母親や父親もいたので、抽象論に落ち込まない実践的な話ができたように思います。
私はもう、この分野には直接的な接点がないのですが、話を聞いていて、たくさんの気づきや示唆をもらいました。でもその一方で、やはり問題は私たちに深く刻まれてしまっている「アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)」からどれだけ自由になれるかではないかという気もしました。Yさんは、たしか「先入観からの脱出」という言葉も使っていたように思いますが、それが大切なのかもしれません。
とても残念だったのは、学校の先生や当事者である中高生や大学生が参加していなかったことです。そうした人たちとYさんのやりとりを聞きたかった。
いつか高校生を中心にして、「最後の砦の高校」をテーマにしたサロンをやってみたくなりました。
いろいろと制約があって、ちょっとわかりにくい報告になってしまっていると思いますが、お許しください。
ちなみに、今回は写真のアングルを変えました。Yさんは写っていません。代わりに私がいますが、いつも私が写っていない写真を載せるので、ある人から「違和感がある」と言われてしまったのであえてこの写真を使わせてもらいました。
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