■第34回万葉集サロン「開かれる自己 言葉の主体を求めて」報告
「帰化人の歌を読む」シリーズも3回目を迎えました。
今回は、土師宿禰水道「覆らば覆れ」(巻4-557)、秦許遍麿「妹挿頭都」(8-1590)、吉田連宜「長恋」(5-864)の歌を中心に、そこで使われている言葉が取り上げられました。そして帰化人とのやりとりを通して、日本列島に先住していた倭人の言葉や意識がどんな変化をしていったか、を読み解いてくれました。
話は意外にも、『枕草子』の「春はあけぼの」と夏目漱石の『吾輩は猫である』から始まりました。明確な主語がない文章が日本語には多いと言われますが、その事例を平安文学と近代文学の中から示してくれたのです。
明確な主語がない文章が成り立つ社会は、まだ神がいる社会かもしれません。そこでは、言葉には呪術性があり、言葉を発した者さえもが制約される。言葉の主体は、必ずしも発した本人にあるとは限らない。万葉集の初期の時代は、まさにそんな時代だったかもしれません。
しかし、そうした社会に新たにやってきた帰化人は、仲間ではないので自らをしっかりと主張しないわけにはいかない。そうしたなかから、「た」と「な」の世界から「わ」が生まれだしていく。
ちなみに、「帰化人」と言ってもその内容は多様です。そもそも大陸や半島と日本列島の往来の歴史は古い。いやそもそも大陸や半島と日本列島の違いなどなく、ともかくそこをみんなが往来していた。最近の考古学の知見では、かつての人の行動鼻には予想以上に広いのです。そして往来も激しい。
でもいつの間にか大陸や半島と日本列島のそれぞれにあるそれぞれにあるまとまりのある社会が育ちだし、いずれの時代からか、「渡来」とか「帰化」とかという発想が生まれたのでしょう。
したがって、空間的な違いを見ることで、時間的な変化が読み取れることになる。
ということは、「帰化人」の歌を通して、日本人の意識の変化を読み解けるということです。
今回は3人の帰化人の歌を読みながら、同じ言葉でも、微妙な意味の違いなどを気づかせてもらいました。またそれと対比的な言葉の使い方を、有名な梅花の宴の32首などで対比してくれました。
それをきちんと紹介するのは私に能力を超えるので、今回は、升田さんにタイトルの「開かれる自己 言葉の主体を求めて」の要旨をまとめてもらいました。
以下は、升田さんの要約です。本当はこれをベースに報告を書くようにということでしたが、私が緊急入院してしまい、これも病室のベッドで書いているので、升田さんからもらったものをそのまま引用させてもらいます。お許しください。
万葉集のなかの帰化人の歌を読むと、倭歌(倭言葉)との間に語意語感上のズレを抱えている表現が多い。
そこから読み解いて行くと、そのズレこそが奈良時代の日本人と帰化人(主として朝鮮半島の人々)との異質な言語感を共有しながらも自由で豊かな交流を果たした原点があるとして視野に入ってくる。倭歌や日本人の上にやがてやってくる変化の兆しを感じる。
言葉と声による「言霊」、「声の力」、「言葉の力」。
集団の共同幻想。言葉の違いは思想の違いにも通じるものだが、万葉集の彼らの言葉のズレは、日本人が「た」の中で「わ」を緩やかに融合共生させているのに対し(無主語の問題を想起する)、「た」の中で「わ」を主体として表出する意識をあからさまにする帰化人たちの生きざまが見えてくる。それを個性と呼んでも良いかもしれないが、万葉人に大いに刺激を与えたことであろう。
大伴家持が到達した「孤愁」の詩境も彼らと無縁では無いはずである。いわゆる国風暗黒時代の約100年を経て隆盛をみる「平安和歌」は、「主体を朧化させるところに優雅な美を見出だす」歌風へと発展して、後々まで日本人の、世界に類を見ない短詩形叙情詩として今に引き継ぐことになる。
「歌合」に興じた平安の歌人たち。「合わせる」の意味は剣道の手合わせではないが文字通り闘わせることとして、負けたことを恥じて行方をくらました者もいた。古代にも「歌垣」があったし戦闘歌謡「歌闘(うただたかい)」があったがそれとは根本的に土壌が違う。
何によれ異質なものとの出会いは新しい命を生む衝撃的な契機となることを、万葉集は語っているように思う。
以上が升田さんがまとめてくれたものです。
万葉和歌から平安和歌までに広がる、「国風文化」の誕生が凝縮されているととともに、「た」と「わ」と「な」の、この万葉集サロンのテーマが、さらに大きく語られている気がします。
言葉は異質なものの触れ合いの中でこそ、育っていく。
万葉の時代の日本列島は、閉じた狭い空間に、多様な人たちが群れ合って、多様な言葉(話し言葉も文字言葉も)で競い合っていた、いわば「言語のるつぼ」だったのかもしれません。豊かな「方言」もたくさんあったはずです。日本語にオノマトペが多いのはそのせいかもしれません。そんな中で生まれた、「和歌」の本質が少し垣間見えたような気がします。
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