■節子への挽歌6076:迷惑と心配はちがうようです
節子
迷惑と心配はちがうようです。
昨日、持論の「娘に迷惑をかけるのは親の責任」ということをフェイスブックに書いたら、それを読んだユカから「迷惑と心配は違うからね」と言われました。迷惑をかけてもいいけれど、心配させるようなことをするなというのです。
なるほど、それは一理ある。
私がやっていたのは、迷惑をかけることではなく、心配をかけていたのか、とようやくにして気づきました。たしかに「心配」をかけるのはよくない。
というわけで、今日も完全「休養」日にしました。
この数日、いろんな人から「膵炎」の怖さを指摘されます。
退院後、もう2週間以上たつのに、一向にすっきりしない。
昨日は図書館に出かけただけなのに、帰りは疲れてやっとの帰宅でした。
でも「養生」とか「休養」というのは、意外と難しい。
ただぼーっとして空を見上げていればいいのでしょうか。
そういえば、「養生訓」に関する本もどこかにあったはずです。
それでも探して読もうかと思います。
いや、もしかしたら「養生」もまた、「迷惑と心配」につながる話かもしれません。
これを考えるのも、養生になるかもしれません。
迷惑と心配こそが、人の身心に「悪さ」を与えているのかもしれない。
それに、ある行為を「迷惑」と考えるか「心配」と考えるか、そこに人と人とのつながりの関係が見えてくるのではないか。
「養生訓」の本を読むより、この関係を考えるのが面白そうです。
でもなんとなく、「娘に心配をさせるのも親の責任」というような結論になりそうで、またユカから叱られそうです。
困ったものです。はい。
やはり今日はおとなしく、退屈な「養生訓」の本でも読んでいるのがいいかもしれません。
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