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2024/08/03

■湯島サロン「コモンズの共創③ コモンズの悲劇あるいは幸せ」報告

「コモンズの共創サロン」の第3回目は「コモンズの悲劇」を取り上げました。
果たしてコモンズの先にあるのは悲劇なのか幸せなのか。
この問いは、湯島サロンの根底にあるテーマでもあります。
湯島サロンも湯島の場も、コモンズの幸福を目指しています。

今回は、これまで2回にわたって話してきた私の「コモンズ論」を確認したうえで、参加者にいくつかの問いかけをして話し合うスタイルを目指しましたが、コモンズに関する共通基盤がまだできていないためか、いささかかみ合わない議論になってしまいました。私の問いかけ方が悪かったためです。

ちなみにこれまでサロンで話してきた「コモンズ」に関して要点を整理した資料を当日配布しましたが、それを添付します。今回、話し合いたかった論点も書いていますが、これはまた改めて再挑戦したいです。

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案内にも書きましたが、コモンズの悲劇とは、生物学者ギャレット・ハーデインが提唱した、「みんなが使える共有物は個人的な利益追求のために過度に利用され、結局、破滅してしまう」という考えです。この考えが、「私有制」を基本に置く資本主義の発展を支援してきました。私は、ハーデインのこの思い込みが大きな間違いだったのだと思っています。コモンズは、悲劇などではなく幸せを生み出すのです。むしろ「コモンズ」を失う(あるいは育て損なう)が故に「悲劇」が起こるのです。

法学者キャロル・ローズは、「人多ければ楽しみ多し」という慣用句を持ち出して、コモンズこそがみんなを幸せにするという「コモンズの喜劇」を提唱しました。こうした考えは、むしろ資本主義が隆盛を極める前の常識だったように思います。そもそも1人で生きるよりも2人で生きた方が生きやすいはずです。私はこれを「コモンズの幸せ」と呼んでいます。でも最近は、2人よりも1人の方が生きやすいのだそうです。私には理解できませんが。

ではなぜ、コモンズは幸せ(喜劇)にならずに悲劇になってしまったのか。それは、そもそもコモンズが失われたからです。つまり「みんなのものという意識やみんなという関係」がなくなってしまった。そこで「コモンズの悲劇」とは「コモンズ不在の悲劇」という人もいますし、「コモンズの統治(協治)」が重要という人もいます。
経済学者ユリノア・オストロムは、世界各地のコモンズの調査を踏まえて、コモンズを幸せにしていく条件をあげています。言い換えれば、「コモンズとは何か」ということになります。オストロムは日本でもその事例を集めています。

案内と同じような報告になってしまいましたが、やはり「コモンズ」という概念はまだまだ消化されていないようです。
コモンズと言えば、「入会地」と置き換えられたり、あるいは最近は斉藤幸平さんがさかんに「コモン」を「共有財・公共財」と読み替えたりしていますが、私が考える「コモンズ」はそうではありません。いささか大仰に言えば、私たちの生き方の根本にかかわる「人と人、人と自然」の在り方なのです。

コモンズが回復されれば、少子高齢化問題も、環境問題も、格差問題も解決するでしょう。

そんな「コモンズ」を考えていきたいのです。
改めて次回の「コモンズサロン」で投げかけさせてもらい、話し合えればと思います。

 

 

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