■節子への挽歌6137:節子と一緒に普段通りの1日にしようと思います
今日は節子の18回忌です。
お墓参りは昨日済ませていますし、家族みんなでの会食も昨日済ませています。
ですから今日は一人静かに節子を追悼するだけです。
といっても、特に何かをするわけではありません。
私が現世に執着がないのは、節子のいない現世と節子のいる彼岸と、いずれにも魅力があるからです。
そういう意味で、節子の命日は私には大きな意味がある日なのです。
繰り返しますが、だからといって何かをするわけでもありません。
昨日は家族との会食や墓参りで午後はちょっと動きましたが、できるだけ横になっていました。でも身心が楽になってきたという実感はありません。それに何もやることがないと、お腹が減ってきて、間食ばかりしていました。あまりいろんなことを考えるということなのですが、意識や心の思考は止められますが、身体の思考は止められない。
困ったものです。
それにしても今日は涼しくて、快適です。
自然も私を直そうとしてくれていると感謝したくなるほどです。
ともかく元気ですので、ご心配なく。
でもちょっとまた少し溜まっている「俗事」を処理したくなっています。
少しくらいならいいでしょう。
午後はちょっと俗事タイムを設けようと思います。
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