■第36回万葉集サロン「歌と物語 額田王と鏡王女の相聞歌」報告
あまり触れることのない「帰化人の歌」のシリーズから一転、今回は何かと話題の多い額田王が取り上げられました。しかも、「歌と物語」の視点というので、いろいろな話を期待した人も多かったでしょう。何しろ額田王といえば、「物語」に包まれたような人ですから。
最初に取り上げられたのは、額田王と鏡王女の相聞歌。これだけでも話題はたくさんありますが、升田さんはさらにそこから「天平の美意識」や「言葉からの意識への発展」など、論点盛りだくさんのお話をしてくれました。
私にとっては、5回分くらいの話題があったので、報告が難しいのですが、あまりにも長くなりそうなので「歌」と「物語」に焦点を合わせて報告します。
その前にまずは額田王と鏡王女の相聞歌。
額田王の近江天皇を思ひて作れる歌一首
君待つとわが恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の凰吹く(巻4-488)
鏡王女の作れる歌一首
風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(巻4-489)
この2首は、巻4のほか、巻8にもそろって再出している重出歌です。同じ組み合わせなので、当時は世上でも盛んに歌われていたのでしょう。しかし、巻4と巻8とでは、万葉仮名の表記が違います。そこから升田さんは、漢詩の影響を読むのです。この歌自体にも漢詩を感ずると言います。そして、『玉台新詠』の張華の情詩「清風動帷簾 晨月燭幽房 …」を紹介してくれました。たしかに似ている。この歌の詠み手(額田王・鏡王女)は、漢詩に通じていたと思われます。
しかし、漢詩の影響と共に、この相聞歌には日本列島土着の文化があるとも、升田さんは言います。たとえば「風」の捉え方です。当時、「風」は人の来る前兆として考えられていましたが、そうした民衆の文化をしっかりと踏まえている。
列島の生活文化にも大陸の漢詩文化にも通じている額田王とは一体何者か。
額田王は小説や漫画になったりしてよく知られていますが、実際にはその実像はあまりわかっていません。ただ、渡来人、それも一昔前の渡来人に囲まれて育ったと言われています。だから漢詩にも通じて、日本列島土着の文化にも通じていた。そこから私は、額田王も、聖徳太子と同じような「創られた人物像」に感じるのですが、今回はそれがテーマではありませんので、升田さんもこの話には全く触れませんでした。鏡王女についても、あまり言及はありませんでしたが、当時の人たちが上記の2首を並べて愉しんでいたというのはとても面白い。2つの歌を比べるだけでも面白い。
でも深入りはやめましょう。そこにはいるとそれこそ話が尽きなくなります。
で、今回のテーマ「歌と物語」です。
今回の升田さんのメッセージを要約すると、次のようになります(ここは升田さんに要約してもらいました)。
「た」とのゆるやかな共生・融和から平行に内向きに在った「わ」が覚醒、自立へと発展してゆく。その過程の中で、「た」「な」が存在の背景となり客観視(意識)出来たとき「物語」が生まれる。それは内から外に顕れた「わ(自分)」を外から内向きに眺める(意識する)ことになる。そこに「物語」はうまれ物語は自分の比喩となり、人間性や個性が生まれる。
そこにもっとも大きく関わる、「生き物」のように(意識を持つかのように)意識と共に自在に変容する「言葉」がある。
サロンでは、こうしたことをさまざまな資料をつかって解説してくれたのですが、ずっと升田サロンに参加していた人はともかく、これだけ読んでもわからないでしょう。
ですからここは思い切り私の主観的な視点で解説します。升田さんの意図とは食い違っているかもしれませんが、お許しください。
「言葉」と「日本人の思考様式」。これが升田万葉集サロンの基底にあるテーマです。
言葉は、身体の動きから発する音が「叫び」になり、そこから「歌」が生まれ、言葉に育っていった。言葉から歌が生まれたのではありません。そして物語が生まれてくる。そうした動きに大きな影響を与えたのが「文字」です。そうしたなかで、意識が生まれ、「た」や「な」や「わ」が生まれてきた。
私なりに勝手に要約すれば、こうなりますが、ややこしいのは、ここに声の文化と文字の文化という2つの流れがあることです。
声の文化と文字の文化は絡み合っていますが、かなり違う「意識」や「社会」を創りだしていく。「た」や「な」や「わ」も、2種類あるのかもしれない。さらに最近では、第3の「た」や「な」や「わ」が生まれだしているのかもしれないとさえ思います。
ちなみに、いまの私の関心事は「声の文化の復権」です。
そして「物語」。これまでもサロンで何回か取り上げられましたが、和歌は『古事記』や『日本書紀』の物語の中にも出てきます。そこでは、会話の部分や誰かが感情を述べるところが歌になっています。歌を支えて、物語を構成していたのは語りの部分の散文です。
初期万葉集は、物語の中から歌だけをとり出して編集したと言えます。歌だけで不十分の場合は、題詞で説明されるわけですが、みんなに知れ渡っていた物語は、歌だけで十分に通じたことでしょう。しかし、次第に語りがなくても歌だけで物語れるようになってくる。そしてそれが反転して、歌のない物語へと発展していくわけです。
問題は、物語と歌、どちらが先かです。これに関しても升田さんは興味ある歌を紹介してくれました。
たとえば巻13の3276番の長歌です。詠み人知らずの歌ですが、その長歌の最後の57577のフレイズが巻12の3002番の歌そのものなのです。つまり、「歌」があって「物語」が創られる。あるいは「歌」が「物語」の材料に使われる。いずれにしろ「歌」が物語を生み出すわけです。
ところで、57577ですが、これまでのサロンでは、前半の575は神の領域の言葉で、それを受けて後半の77で人の言葉が語られるという話でした。
言い換えれば、前半は与えられた意識を育て、後半では自らの意識を育てていく。
その話と歌の広がりで生まれてきた歌物語にある意識とはどうも次元が違うような気もします。でもまあそれはこれから解明されていくでしょう。
これを升田サロンのもう一つのテーマである「た」「な」「わ」につなげると、物語の中に「自分を見出す」ともいえるでしょう。語っているうちに自分を意識するといえばもっとわかりやすい。
「な」と対峙する「わ」から、「た」によって育てられる「わ」。これまでは「た」のなかに「な」を見つけて、それとの関係で「わ」が生まれてくるという話が多かったと思いますが、「た」のなかから生まれた物語の中に顕在する「わ」もある。そこでは、意識する「わ」と意識される「わ」が互いに働きかけて、個性や意識が育ってくる。多義的な社会の誕生です。
物語と意識に関して言えば、声の文化と文字の文化においてはかなり違ってくるでしょう。文字に頼らない時代の歌と漢詩(文字の文化)に触れた後の時代の歌とは違ってくるはずです。文字は音声言葉にも影響を与えていく。
升田さんは最後に、鏡王女の歌に出てくる「羨(とも)し」に関して、「乏(とも)し」とのつながりの話もしてくれました。
田さんはここで、「生き物」のように意識と共に自在に変容する「言葉」があることを話してくれたのですが、私には十分消化できずに、うまく報告できません。しかし、そこに「声(音)」が生み出す意識が言葉を生み、その意識がその意味や言葉をさらに変容させ、世界を広げていくのを感じました。
言葉も文字も、まさに違ったやり方で意識を生み出していく。
升田さんが配布してくれた資料の最後に、柿本人麻呂の歌、「あをみづら 依網の原に 人も逢はぬかも いはばしる 近江県の物語りせむ」(巻7の1287番歌)が載っていましたが、時間切れでそこまで説明が行きませんでした。不思議な歌です。ただ当時、「近江県の物語り」があったのです。
人麻呂ですから、近江県は荒都の近江京でしょう。その物語に額田王が関わっていることは間違いない。
こうしてさらに「物語」は膨らんでいく。額田王物語。
私の消化不足のために、長くなってしまいました。
しかし、額田王の物語世界は実に面白く、また示唆に富んでいます。次回もぜひ額田王を取り上げていただきたいと思っていますが、升田さんが受けてくれるかどうか。
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