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2024/11/26

■湯島サロン「第2回生きとし生けるものの生きる意味」報告

テレビ東京開局50周年記念ドラマの「生きとし生けるもの」を観ての「生きる意味を考えるサロン」は、2回目の開催にもかかわらず、10人を超す大勢の参加がありました。普段はテレビのドラマなど見ないという方も、わざわざ見てくれての参加でした。
「生きる意味」というテーマには、なんとなくみんな気になるものがあるのでしょう。

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まず参加者のみなさんから、ドラマを観て何を感じたかの感想を話してもらう予定だったのですが、数名の人から、なぜ2回もサロンを開くほどに佐藤さんが感動したのかを聞きたいと、言われてしまいました。
思ってもいない展開でいささか焦りましたが、改めて「どこにどう感動したのか」と問われるとなかなか説明しにくい。なにしろすべてに共感してしまったからです。

私の場合、余命宣告された患者と生きる意欲を失った医師という主人公たちの生き方に関心を持ったわけではありません。そんなのはまあよくある話ですから。
あえていえば主人公の一人の「もしかして、人間ってのは自分のために生きるんじゃなく、人のために生きるのかなあ。自分のためだけじゃ、味気ないっていうかな」という言葉が、あまりに私の気持ちにぴったりだったのです。

ただ「人のために」などというと、「利他」とかいう「退屈」な意味を与えてしまうかもしれませんが、私が共感したのはそういうことではありません。
人のいのちはみんなつながっているというような意味なのです。いや、つながっているのは、人のいのちだけではありません。すべての生き物(私の場合は、石も雲も生き物です)、しかも時空間を超えたすべての存在とつながっているということです。
もしそういう確信を持つことができれば、人は死ぬことはない。

しかし、自分のために生きているのではないので、ともかく「生まれた以上」、この生を守らなければいけない。どんなにつらくて、どんなに「無意味」に思えても、です。
いや「つらいこと」にさえ、「意味」がある。辛いからこそ生きなければいけない。
自分の命を絶つ権利など、仮にそれが「安楽死」であったとしても、あろうはずがないのです。
ちなみにこのドラマを観て、「安楽死」が必要ではないかと思った人もいるようですが、「安楽に死ぬこと」と「安楽死」は全く別のことだと思います。安楽死は他者がいなければ実現しませんが、このドラマのメッセージとは真逆のはずです。「おっさん」はそれに気づいたからこそ、生き抜いたのです。

1回目のサロンの報告で、「生きる意味は他者にあり、他者に見守られて人生を終わることが生きることではないか。それに気づけば、おのずと生き方は見えてくる」と書きました。このことも今回少し話させてもらいました。
ここで言う「生き方」とは、人とつながる生き方です。つながるのは難しくはありません。その人の役に立つことをやればいいのです。誰かの役に立つ生き方をするということです。こういうと、誰かの役に立つのは簡単ではないという反応が多いのですが、なにも難しいことを言っているわけではありません。たとえば、会ったら挨拶をするだけでもいいのです。家の前の掃除をするだけでもいいですし、無駄な電気を使わないだけでもいい。いや野の花を愛でるだけでもいい。つまり誰にでもできることが山ほどある。
人は一人では生きていけない。だとしたら誰かと一緒にいたら、必ずその人に役立てることがあるはずです。邪魔にならないことだって、役立っていることですし。

こういう生き方をしていれば、たぶん「孤独死」はしないでしょう。
必ず最後に手を握ってくれる人がいて、死んだ後も思い出してくれる人がいる。つまり死ぬことはない。これが私の生き方なのですが、このドラマをそのことを改めて私に確信させてくれたのです。

長々と自分のことを書いてしまいました。しかも中途半端なのでわかりにくいですね。
それに、サロンの報告になっていませんね。すみません。

サロンでは、生きる意味を失いかけたことのある人も何人か参加してくれました。私もその一人ではあるのですが。
ドラマの主人公のように、毎日、病室の天井だけを見る、しかもつらい日々を送った経験のある若者も参加してくれました。彼がどうやってつらさを克服したか、そしてそれがどういう結果をもたらしているかには、教えられることがありました。その言葉には力を感じました。

長らくビジネスの世界で生きてきた人は、みんなが「関係性」や「他者視点」で話すのに自分とは違うものを感じたと言いました。その感受性と柔軟性にも感激しました。

医療・福祉にかかわる人もいました。医療や福祉において大切なのは、「生きることの意味」でしょう。そこがしっかりしていなければ、産業になってしまう。私が敬服している医療関係者の一人が、近代ホスピスの生みの親であるシシリー・サンダースの言葉を紹介してくれました。
Not doing, but being
ホスピス緩和ケアの真髄を現わす言葉といわれますが、生きるを支える真髄ともいえるでしょう。

他にもたくさんの感想をもらいました。
でもこうした報告はあまり意味がない。
ともかく機会があったら是非このドラマを観てほしい。ご希望の方にはDVDを貸し出しますのでお申し付けください。

またいつか「生きる意味」のサロンをやりたいです。
あるいはいつでも話に来てくれたら応じたいです。

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