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2025年2月

2025/02/28

■節子への挽歌6285:娘と一緒の恒例の奈良・京都旅行は無事終わりました

節子
ユカと一緒の奈良・京都旅行は無事終わり、昨日帰宅しました。
今回も毎日2万歩を歩く毎日でしたが、2年前(昨年は入院つづきでいけませんでした)よりもかなり疲れました。やはり体力はかなり劣化しているようです。
それが明白に現れたのは、清水寺の大舞台で段差のあるところで転倒したことです。
幸いに舞台からの転落はさすがになかったのですが、周りの人は驚いたでしょう。
何しろ大きく転んでしまいましたから。

衰えているのは体力だけではありません。
記憶力もです。
今回も訪問先をユカに提案すると、そこは前回行ったでしょうと言われることも多い。
一番のショックは、今朝、前回の勝林院訪問のことを調べようと思ってホームページを調べたら、前回の勝林院訪問以来、その後も訪れていたのです。そして、その時すでに、阿弥陀は戻っていたのです。
ちなみに最初に悪魔の立像に出合った記事はなく、その記憶に関する記事しか見当たりませんでした。
http://cws.c.ooco.jp/katsudoukiroku3.htm

しかし、年々、京都の仏たちの表情が変わっているのは間違いありません。
三千院の阿弥陀堂で、僧侶から見る人の心境などで仏様の表情は変わりますからね、と言われましたが、変わったのは仏たちではなく、私なのかもしれませんが。

自宅に戻って、今朝はいつものルーチン生活。
朝20分の入浴をし、ニンジンたっぷりのリンゴジュースをつくり、コーヒーを飲み終えました。
日の出は見損ないましたが、いい天気です。

今日はブックサロンで湯島です。

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2025/02/27

■節子への挽歌6284:白川沿い散策から平安神宮へ

節子
知恩院もかなり疲れましたが、ユカが近くの白川沿いを歩きたいというので、付き合うことにしました。
正直私としては少し休みたかったのですが、私に付き合ってばかりさせていては申し訳ありません。
それに私は白川沿いを散策したことはないのです。

川沿いに歩く前に川べりで休むことにしました。
とてもいい風情です。
この川は気に入りました。

少し休んでいたら元気が出ました。
この先には平安神宮があるというので、これまた久しぶりに平安神宮に行くことにしました。
たぶんここもシーズンオフなので花がないだろうとは思いましたが、節子との思い出はかなり鮮明にあるところです。

白川には幅30センチほどの石橋が所々にかかっています。
そういうのを見るとついついわたりたくなります。
毎日歩き過ぎで足がふらつくので、落ちてしまいかねませんが、やはりわたりたくなりました。
何とかうまく渡り切りました。
まあそんなこんなでゆっくりと散策。

平安神宮はあいにく改装中でした。
庭に入りましたが、誰もいません。花もない。

しかしゆっくりと歩いているうちに陽が出てきて、観光客もちらほら入ってきました。
記憶にある橋殿の泰平閣でゆっくりと休んで、次の計画を相談することにしました。
この泰平閣は、節子と来た頃と全く変わっていません。
花が全くなかったので雰囲気はかなり違っていましたが。

新幹線の時刻までまだかなりあったので、どうしようかと迷っていたのですが、永観堂が近いのを思い出しました。
さすがに歩くのは辛いので、タクシーで行くことにしました。
永観堂は、モミジで有名ですが、この季節は何もないだろうとは思いましたが、見返り阿弥陀には会えるでしょう。
でもここはいろんな建物がつながっていて、しかも会談が多いので、堂内を歩くだけでも疲れます。
でもまあ、京都駅で待つよりはいいだろうとユカとの合意ができて永観堂に行きました。
行ってよかったです。
水琴窟も聴けましたし、お堂を見下ろす位置まで行けました。
残念ながらちょっと上の多宝塔まではいけませんでしたが、庭を見ながら少し休んで元気を取り戻しました。

これで観光は完了。
ちょっと小腹が空いたので京都ラーメンが食べたくなったのですが、気に衣類店がなく、前回と同じラーメン屋さんで食べました。
最後に京都駅ビルの屋上に登りましたが、いつもここは上がってきて見晴らしの悪さにがっかりしてすぐに下りてしまいます。
今回もそうでした。

ユカはにこから京都らしいぬいぐるみを要望されて、お土産屋さんで探しているうちに、私は待合室で休憩。
新幹線では寝てしまい、あっという間に東京に着きました。

今日も2万歩以上歩きました。
よく歩いた3日間でした。

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■節子への挽歌6282:60年ぶりの知恩院の大鐘楼

節子
清水寺から知恩院まで歩きました。
節子とは、ここはよく歩きました。
最近は以前と違って道が整備され、道沿いにはお店がたくさんあります。
途中休みながらゆっくり歩いて、知恩院の南門に着いたのが8時半。
ちょうど南門近くにある知恩会館のcafeカリンが開店したところでした。そこでパンケーキとコーヒーのモーニングをいただきました。
パンケーキがとても美味しかったです。
少し休んで久しぶりの知恩院です。一昨年も門前までは来ていますが、入山するのは久しぶりです。疲れていましたが、正面の男坂の急階段を上ることにしました。段差がとても大きく、大変でした。途中で倒れるのではないかと思ったほどですが、何とか登り切りました。

久しぶりに阿弥陀如来に会いましたが、道内を歩く元気はなく、そのまま出ようと思ったのですが、むかし除夜の鐘を突きに来たことを思い出して、頑張って少し離れて上にある大鐘楼まで上ることにしました。
ここは会社に入った翌年のお正月、帰宅せずに寮に残って年越ししたのですが、その大みそかに友人とここに除夜の鐘をつきに来たのです。それから京都市内を歩いて明け方に帰ったのですが、その時に唯一覚えているのが知恩院の鐘つきでした。
あの時はまだ節子とは付き合っていなかったのですが、誰と来たのか記憶が全くありません。

除夜の鐘付きではありませんが、ここは節子と来たこともあります。
この辺りはともかくよく歩きました。

しかし今回は何だか昔を思い出すたびになってきているような気がします。
もしかしたら節子も一緒に歩いているのかもしれません。

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■節子への挽歌6281:早朝の清水寺でのソウシチョウへの餌やり

節子
3日目の京都は早朝の出発です。
ユカが早朝の清水寺を体験させたいというのです。
6時にホテルをチェックアウトし、清水に向かいました。
朝の清水は私は初めての体験でした。

海外の人がやはり多かったです。
茶わん坂を登って清水寺に行ったのですが、さすがに足が疲れていて、清水の舞台で段差に足を取られて思わず大きく転んでしまいました。幸いに舞台から落ちないで済みましたが、いささか醜態を演じてしまいました。でもまあそれもいい思い出になるでしょう。
ゆっくりと子安の塔に向けて散策しましたが、途中で野鳥に餌付けしている人に会いました。
外来種のソウシチョウが増えているのだそうですが、その人はソウシチョウやヤマガラに毎朝、餌を提供しに来ているようです。
掌に餌を載せて、差し出すとソウシチョウやヤマガラは飛んできて、手のひらにとまり餌を持っていくのです。
しかもソウシチョウは餌を食べるのではなく、それを巣に持ち帰り隠しておくと言います。
見とれていましたが、私もやりたくなって餌を少しもらい、手のひらに乗せて差し出すとすぐにソウシチョウが跳んできました。

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ピーナッツが好きなようです。
これは楽しい記憶に残りそうです。
節子がいたら大喜びしたでしょうね。

清水をこんなにゆっくり歩いたのは何年ぶりでしょうか。

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2025/02/26

■節子への挽歌6280:街場の信仰場所と二条城

節子
奈良・京都旅行の2日目の午後は、ユカの生きたいところに付き合うことにしました。
最初は六角堂、続いて平等寺因幡堂。いずれも私は行ったことのないところです。
いずれも地域の人に守られてきた街場の信仰場所という感じです。確かに極めて庶民的で親しみがあります。京都というよりも何となく大阪を思い出す気がしました。

2つを拝観した後、疲れたので休みたくなって近くのコメダ珈琲に入って休みました。ソフトクリームがとてもおいしく感じました。

近くに佛光寺というのがあるというのでついでにそこに行くことにしました。
残念ながら浄土真宗のお寺で、仏には会えませんでした。
どうもマイナーすぎていずれもモチベーションが出ないので、近くの二条城の庭園でも見に行こうと誘いました。ユカはいまは何もないよと言いましたが、私ももう半世紀以上、行ったことがないので、行くことにしました。
ユカは節子との最後の京都旅行では二条城近くに宿泊し、二条城にも行ったそうですが、付き合ってくれることになりました。

しかしやはりユカが言うとおり、シーズンオフで花は全くなく、ただただ広い庭を歩くだけの羽目になってしまいました。
唯一の救いは、天守閣跡の展望台で、比叡山をゆっくりと見えたことくらいでしょうか。
ともかく海外の観光客ばかりで日本人はほとんどいませんでした。

昨日も2万歩を歩きましたが、今日も2万歩以上歩きました、
さすがに疲れました。
夕食はホテルに帰って食べようということになりましたが、あんまりお腹が減らないのと疲れすぎもあって、コンビニで軽食を買って部屋で食べることになりました。
今日もよく歩きました。

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■節子への挽歌6279:不思議な勝林院

節子
三千院の次に3つの塔頭を拝観しました。
まず問題の勝林院。20年前の冬、一人で来た時にお参りしたら、悪魔の化身の黒い立像がいたのです。そして私を診てニヤッと笑ったのです。あの時の驚愕はいまも忘れられません。

今回は 阿弥陀様が座っていました。 前回の雪の時は確かに立っていて、衣装も違っていましたが、今回は金色で座っていました。
前回はあまりの恐ろしさに急いで飛び出しましたが 今回はゆっくりお会いして横顔を見ました。横から見ると、とてもいい顔で正面とは全く違います。

続いて隣の宝泉院。ここは庭が有名です。庭を見ながら 抹茶をごちそうになりました。
さらに頑張ってもう一つ来迎院にも行きました。またまた きつい上り坂。バスの時間があったので3仏にお会いした後すぐバス停に戻りました。
こんなにゆっくり大原を堪能したのは初めてです。
しかし寂光院は今回は諦めました。
今回の大原は、心穏やかに回らせてもらいました。

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■節子への挽歌6278:久しぶりの大原三千院

節子
ユカとの奈良・京都旅行の2日目は、大原からのスタートです。
先週から大原は雪が積もっていると聞いたので、雪の大原を久しぶりに歩きたくなって、ユカに希望を出したのですが、運よく採用されたのです。

三千院は節子とも何回か行きましたが、最後に行った三千院は春でした。
節子が闘病中で、ちょっと小康状態になったときに、節子の姉夫婦のところに行った時に、敦賀から鯖街道を通って、三千院まで連れてきてくれたのです。
秋にも行ったことがありますが、その時は節子と2人で、寂光院まで足を延ばしました。

私自身は、最初に三千院に行ったのは、結婚前に一人で行った記憶がありますが、あの時には阿弥陀堂の中に入れて、線香の煙が充満した薄暗い阿弥陀堂の中で僧侶からの話を聞いた記憶があります。
その時に、これはタイムマシンだと実感したのですが、それ以来、三千院は私には特別の場所になったのです。
でもその後、何回か行く中でイメージはだいぶ変わってしまいました。
最後に行ったのは、確か節子が逝ってしまってからですが、もう10年近く前かもしれません。
いずれにしろ節子がいなくなってから、私の過去の記憶はほとんど消えてしまった気もします。

雪はほとんどなく、今日は温かな大原でした。
そんな大原を3時間堪能しました。
三千院の阿弥陀堂の勢至菩薩が少し痩せていました。気になって、そこにいた僧侶に、ちょっと痩せましたねと言いましたが、まあ仏様は見る人の心境で変わりますからね、と言われてしまいました。
しかし最初に出合った時に比べると2人の菩薩は毎回、疲れを感じさせます。その一方で、阿弥陀如来は不動です。最近は正面からしか拝顔できないのでなんともいえませんが、最初に出会った時から印象は全く変わっていません。

今回は時間があったので 観音堂の方まで足を伸ばしました。なんだか今様のつくりで、私は好きにはなれませんが。

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2025/02/25

■節子への挽歌6277:ホテル エミオン京都

節子

今回の奈良・京都旅行もすべてユカが準備してくれました。
私の希望は、奈良に1日行くこととホテルは駅近で大浴場があることだけです。
ホテルの部屋にある小さな浴槽が苦手なのです。
いつもJRの格安ツアーですので、ホテルもそう選べませんが、今回はホテル エミオン京都を選んでくれました。
京都駅隣の梅小路京都西駅に隣接した新しいホテルです。
空間が広いのと人間的な対応がきちんとあるので私にはとても向いていました。
大浴場も大きくてよかったです。
部屋も快適でした。
来年もここでいいなと思ったほどですが、ユカのことですから、来年はまた別のホテルを選ぶでしょう。

ジャグジーでゆっくり身体をいやし、明日に備えました。
こうして無事、1日目が終了しました。

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■節子への挽歌6276:久しぶりの二月堂

節子

浄瑠璃寺を拝観した後、奈良に向かいました。
目当ては元興寺。実は意外にもここはいままで行ったことがなかったのです。
なぜ行く気になったかと言えば、先日の万葉集サロンで、鬼の話が話題になったからです。
元興寺は地元では「ガゴウジ」と呼ばれ、鬼のお寺と言われていると以前何かの本で読んだのを思い出したのです。それで「鬼の痕跡」を探したくなったわけです。
元興寺は、奈良町のど真ん中にありますが、ちょっと道に迷ってしまいました。ちょうどお年寄りたちが通りがかったので、元興寺ってどこですかと訊いたら、一人の人が「ガゴウジならこの先をまっすぐ言って左に曲がって…」と教えてくれました。やはり地元の人たちはガゴウジと呼んでいるのです。
ガゴウジについたら鬼の痕跡探しをすっかり忘れてしまいました。午前中の山歩きの疲れがどっと出てきてしまったのです。

お参りの後、時間が合ったので、久しぶりに東大寺の三月堂に行きたくなりました。
どうやって行くのかよくわからない、ともかく大通りに出ようと思ったのですが、うっかり道を間違えて、新薬師寺の通りに出てしまいました。
新薬師寺でもいいかなと思いながらも、やはり三月堂の仏たちに会いたいと思ってい老ロしていたら、運よくタクシーがやってきました。
3時ころ、東大寺の三月堂に着きました。すぐに拝観すればよかったのですが、久しぶりに四二月堂の舞台で奈良市街を見ながら休んでしまいましました。
時計を見たら4時10分前、あわてて三月堂に向かいましたが、閉門時間の5分前に着いたのですが、もう閉門されてしまっていました。
結局、今回も前回に続き、三月堂には入れませんでした。
まあこれも何かのメッセージなのでしょう。

というわけで、いくつかこぼれ落としはありますが、一番行きたかった初めての訪問先はふたつともゆっくり体験させてもらいました。
今日の歩行は2万歩を超えました。
夕食はお刺身でした。

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■節子への挽歌6275:はじめての浄瑠璃寺

節子
年に一度の奈良・京都旅行です。
すべてはユカが準備してくれるので、私はただただついていくだけですが、希望はいくつか伝えています。
初日の今日は、奈良を希望しました。行き先は浄瑠璃寺と元興寺を希望。

いつものように出発は早朝です。
朝5時半に家を出発、京都駅に着いたのが9時。そこから当尾の浄瑠璃寺に向かいました。浄瑠璃寺は私はまだ行ったことがありませんが、9体の阿弥陀如来像に会いたくなったからです。それに、ガイドブックで調べるとこの辺りは石仏が多いようです。
山の中というのもいい。

初めての浄瑠璃寺は思った以上に山の奥でした。JR加茂駅からバスで30分。日光のいろは坂以上のつづら折りの上り道を上っていきました。この辺りは北山杉と竹林が多いです。
9体の 阿弥陀仏にはお会いできました。 写真でも見ていましたが、やはり印の結び方が88体とも同じのは残念です。どうせなら、9つの印を結んで、すべての衆生を救ってほしかったです。
その後、石仏めぐりをしながら、岩船寺まで歩くことにしたのですが、これがとんでもない急な上り坂で大変でした。むしろ手前の岩船寺から歩けば、20分ほどでつくようですが、逆コースは急な登り坂で1時間近くかかりました。おかげで時間がなくなり岩船寺は門だけ拝んでバスに乗りました。
でもまあ山の空気も満喫できてよかったです。
加茂駅で昼食。ところが駅前にはお店がないのです。やっと見つけたお蕎麦屋さんで、なんとかお腹を満たして奈良に向かいました。

この辺りは節子とはきたことがありません。
もっと奈良を回っておけばよかったとつくづく思います。

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■節子への挽歌6274:京都へ出発

節子
今日から京都です。
朝7時の東京発の新幹線なので、5時半出発です。
ちなみにすべてユカが手配してくれましたが、最近はすべてが電子化されていて、スイカですべてがまかなえるのだそうです。
切符もないのでなんだか不安ですが。

サンダルで行きたかったのですが、京都はもしかしたら雪だというので、慣れない靴で行くことにしました。
服装はいつものままです。最近は、自宅でも湯島でも、どこでも同じ服装です。
一応、毎日、着替えてはいますが、見た感じは全く同じです。
ちなみに今回の京都の3日間は、同じ服を着続けます。もちろん肌着は別ですが。

だから荷物は極めて少ない。
湯島に行くのとそう違わないのです。
でも久しぶりの新幹線です。

京都は雪だそうです。
もしかしたら雪の三千院もいいかもしれません。
ではそろそろ出発です。

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2025/02/24

■節子への挽歌6273:明日から京都・奈良旅行です

節子
明日から3日間、京都・奈良に行くことにしました。
年に一度、ユカが予定を組んで、激安ツアーでの3日間です。
今回の私の希望は浄瑠璃寺と朝の清水寺です。
できれば三千院も希望しました。

ところが昨日、万葉集サロンで「鬼」の話が出ました。
急に元興寺に行きたくなりました。
元興寺はもともとは飛鳥寺で、蘇我氏の氏寺ですが、「がこうじ」とも言われ、「鬼」を現わすと何かに書いてあったのを思い出したのです。つまり私の解釈では、「が」(鬼)が興した寺という勝手な解釈なのです。
でももしかしたら、鬼の証拠がどこかにあるかもしれません。
浄瑠璃寺は京都と言っても、奈良に近いのでちょっと足を延ばせば、行けるでしょう。

でも奈良に言ったら、東大寺の三月堂や二月堂にも行きたい気がしてきました。
あの辺りは節子との思い出があふれかえっています。

と言っても、行ってみてからの話です。
昨年は病院通いでいけませんでしたので、2年ぶりの京都・奈良です。

 

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■闘論サロン①「安楽死をどう思いますか」報告

新たに始まった異論反論をぶつけ合う「闘論サロン」の1回目は、テーマに「安楽死」をとりあげました。このテーマは以前一度取り上げたことがありますが、改めての闘論です。

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参加者は7人。最初にまず立場を明確にするために、「安楽死制度に賛成か反対か」を問いかけました。賛成5人、反対2人でした。
ちなみに今回参加した人の多くは、何らかの意味で「安楽死」を真剣に考えた人だと思います。だから単に頭で考えている人ではないのです。もちろん私も、その一人ですが、自ら、あるいは身近な人が、生を断ち切りたいほどに苦痛を感じる現場に触れたら、だれしも「安楽死」を望みたくなることは言うまでもありません。
そもそも苦痛を伴いながらの死は、誰もが回避したいでしょう。
つまり問題は、安楽死の是非ではなく、安楽死制度をつくるかどうか、なのです。

ちなみに、「苦痛」は肉体的なものなのか、精神的なものなのかという問いもありますが、実際に直面した人なら、そんな問いは無意味だと思うはずです。両者は切り離せないからです。これに関しては、今回の参加者の間では全く問題にはなりませんでした。

尊厳死と安楽死はどこが違うのかという問いかけもありました。
ここは問題提起者である立場で私が最初に定義させてもらいました。
尊厳死と安楽死の違いは、他者の手を借りるかどうかということです。平たく言えば、安楽死制度は「殺人」や「医療」の概念を広げるということです。
しかし、他者の手を借りて安楽死することは、私にとっては尊厳死ではないのです。
もう少しわかりやすく言うと、自分の生死を他者に委ねることは、私には生死に対して誠実ではない、つまり安楽ではあるが、尊厳は守れないと思うのです。
これは異論のあるところでしょう。

こんな問いも出されました。
飲めば安楽に死ねる錠剤があって、簡単に手に入るようになったら、苦痛が極まったときに、それを飲むのは「安楽死制度」に入るのか。
安楽死賛成派は、ほとんどがこれにはイエスのようでしたが、反対者はいずれもノーでした。それを許したら、殺人さえもが簡単になるからです。
しかし現実には、そうした「薬品」や「食品」はすでにたくさんあります。たとえばトリカブトや水仙の球根も、死をもたらすと言われます。
だからもしその気なれば、制度がなくても、スイスに行かなくても、他者の手を借りずに、自らの生命を断つことはできるのです。でもそれがめったに起こらないのは、そういう死は安楽ではあっても尊厳ではないからではないかと思います。

そこから自殺・自死の問題につながっていきます。しかしこれはまた別に議論したいと思います。問題の意味が違うように思えるからです。
死刑制度に関しても少し話題になりました。これはまた別の問題を含んでいます。
安楽死賛成のふたりが、サロンが終わってからの帰り際に私に、自分たちは死刑制度は反対だと教えてくれました。

私と共に、安楽死制度反対の立場の参加者は、安楽死制度を認めたら、悪用されて社会への影響が大きいということを強調しました。だから反対だというのです。
そこで前にサロンをやった映画「プラン75」が話題になりましたが、苦痛とは無縁に安楽死に向かわされる状況が起こるかもしれないというのです。優性思想にもつながりかねない。これもとても重要なポイントだと思います。

そう考えると、安楽死と尊厳死の違いがもう一つ見えてきます。
尊厳死は一人称の話ですが、安楽死は人称を超えた話になっていくということです。
そして、安楽死は「ビジネスの対象」にもなりうるということです。
格差拡大を助長することにもつながるかもしれません。

多くの人は、安楽死と尊厳死を混同しますが、私は全く異質なものだと思います。
安楽死制度は、個人の生死の問題を超えて、社会の問題であることを私たちはしっかりと認識しなければならないのではないかと思います。

でも現実は、安楽死制度を望む人が多いのです。
今回のサロンでも7割強の人が賛成でしたし、アンケートなどでも安楽死賛成は多いように思います。
最近発表された「死刑制度」も賛成が多いのが現状です。
そうした風潮は、私は生命の尊厳を軽んずるものだと思いますが、社会の劣化と深くつながっている気がします。安心安全な社会など望むべくもない気がします。

「生と死」をどう扱うかは実に悩ましい問題です。
またいつか別の形で闘論したいと思います。

闘論サロンは、異論をぶつけ合って勝負するようなディベートとは違います。
闘論のなかから、それぞれが気付きを得て、自らの考えを広め深めていくのが目的です。
ちなみに今回の闘論の結果、賛否の考えを変えた人は一人もいませんでした。

なお闘論サロンで取り上げたいテーマがあったらご連絡ください。

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■節子への挽歌6272:ボストンの坂口さんが来ました

節子
昨日はボストンから帰国している坂口さんが湯島に来ました。
午後、万葉集のサロンですが、坂口さんはそれに参加してくれたのですがsの前に万葉集サロンの講師役の升田さんや葉さんと一緒にランチミーティングをしようということになっていたのです。
なぜかランチの手配をお願いしていた升田さんや葉さんが遅れてしまったため、坂口さんとゆっくりと話せる時間になりました。
おかげで、だいぶ坂口さんのことがわかりました。

坂口さんは長くアメリカのアカデミアで情報関係のお仕事に関わっています。
の性かどうかわかりませんが、インターネットには慎重で、ネット交流はあまりできないのですが、坂口さんが例外的に時々アクセスするブログが3つあります。
イルカさんのブログと私のブログ。そして3つ目が藤永茂さんのブログです。
前にその話をお聞きした時に、イルカさんは私も存じ上げていますが、藤永さんはぴんと来なかったのですが、どこかで聞いた名前だなと思っていました。
坂口さんの読んだ和歌を読ませてもらってわかりました。
あの「藤永さん」、私も何冊か本を読ませてもらっていた藤永さんなのです。
それでまた少し坂口さんのことがわかった気がします。
まあそんな感じで少しずつ坂口さんの謎も解けてきました。

同時に、坂口さんが帰国するのももしかしたら今年が最後だという話もちらっと出ました。
坂口さんとゆっくり話せたのも偶然ではなかったのかもしれません。
坂口さんもそうですが、お天道様はどこかできっと見ていてくれるのでしょう。
時空を超えて。

お土産にいつものように、ボストンのチョコレートをもらいました。

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■湯島サロン「海外から感じている日本社会」のご案内

湯島のサロンには、時々、東京に来た機会に参加してくださる人もいますが、その一人、坂口和子さんはアメリカのボストンに長らくお住まいです。
毎年、日本に帰国し、各地の友人たちなどを回っていますが、最近は、その滞在日程の中に、湯島のサロンへの参加を組み込んでくださっています。

今年もまた日本に来て、いま日本各地をまわっていますが、帰国の前に東京で数日宿泊するというので、ご無理を言って、サロンをお願いしました。

サロンのテーマには一応、「海外から感じている日本社会」としていますが、最初に少しだけ私が質問させてもらい、後は参加者みんなで話し合うという気楽なサロンです。トランプ大統領再就任後のアメリカの様子や毎年帰国して日本を回っての感想など、気楽に談話したいと思っています。

また坂口さんは、最近は思いを込めたメッセージを込めた歌も詠んでいます。
その紹介もしてもらおうと思います。
まあどんな内容になるかは全くわかりませんが、ともかく気楽なサロンになればと思っています。
みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2025年3月17日(月曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「海外から感じている日本社会」
〇問題提起者:坂口和子さん(ボストン在住)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2025/02/23

■節子への挽歌6271:「おうい友よ」

節子
朝起きたら、友人から「おうい雲よ」と題するメールが届いていました。

ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと岩城平の方までゆくんか

こっちの坂の上では男と女が
のんびり神さびた歌会だそうだ

だけどもな
ひとりは 飛脚のように街道を走りまわり
空も見上げてないぞお

おうい雲よ
耳成山の方まで持ち上げてやってくれんか
白い道がずっと続いている
あの辺りだ

こういうメールは実に楽しい。
早速に返信しました。

おうい友よ

いそいそと
小利口にいそがしさうじゃないか
どこからきたんだ
あの岩城平の方からか

こっちの崖の辺では人も石もが
時を超えて気ままな歌会だそうだ

だけどもな
ひとりは しっかりと大地に根を下ろして
空も背負っているぞお

おういそこのない青空よ
香久山の方までつなげてやってくれんか
青い道がずっと続いている
あの辺りだ

 

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2025/02/22

■節子への挽歌6270:フィルターなしで生きていくこと

節子
ちょっと挽歌を書くのを忘れるとあっという間に1か月という感じで、時間は過ぎていきます。
書かない日も、節子への報告はいろいろあるのですが、だからこそまとめて書こうなどと思っているため、空白はどんどん増えていく。
そこからぬめるために、まずは今朝は今朝のことを書くところから始めることにしました。
まあこういうことはこれまでも何回も繰り返してきましたが、一向に直りません。
困ったものです。

今朝は、午前中は我孫子で「あすあびサロン」、午後は湯島で「安楽死をテーマにした闘論サロン」とダブルヘッダーです。
安楽死に関しては、以前にもサロンをしていましたが、最近読んだある本の文章に触発されてまた呼びかけてしまいました。
ところが、呼びかけた後、ある人から私がその本を読み違えていると指摘がありました。
慌てて読み直してみるとまさに指摘通りで、私の完全な読み違いでした。

思いが強いと時々こういうことが起こる。
これまでもきっとこういうことが何回もあったのでしょう。
注意しなければいけません。
以前はそれでも節子というフィルターがあった。
怒りや疑問は、まず節子に向けて言語化することができた。
そこで間違いに気づくこともありました。
でもいまはもうそのフィルターはありません。
逆に認知バイアスは高まっていることでしょう。何しろ先が実感できないからです。

フィルターなしで生きていくことをしっかりと自覚しなければいけません。

 

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2025/02/21

■湯島サロン「バングラディシュのこと、ごぞんじですか?」のご案内

私たちは、意外と世界の国々のことを知りません。
そこで今年は改めて、いろんな国の方のお話を聴くサロンを企画していきたいと思いますが、第1回目は、サロンの常連のおひとりの仲谷さんの企画で、バングラディシュを選びました。
バングラディシュは、1971年にパキスタンから独立した新しい国ですが、よく知らない人も多いでしょう。面積は日本の半分より小さいのですが、人口は日本より多い国です。私が20代のころに独立した国なので、私も当時ささやかに応援していました。

今回お話しいただくのは、モラ エムディ マスドさんご家族です。
マスドさんご家族に関しては、日程案内の後ろをご覧ください。

なお、サロンの前にマスドさん家族手づくりのバングラディシュ風カレーランチ会を仲谷さんの主催で開催します。異文化の料理を味わえばその文化を自らの体で経験できます。カレーを希望する方はあらかじめ申込みいただき、サロンの1時間前の午後1時に来てもらい、カレーを味わってもらいます。
準備の関係もありますので、ご希望の方は3月11日(月曜日)までに仲谷さんまで申し込んで下さい。参加を希望する方は500円を別途ご負担ください。
仲谷さんのアドレスは下記のとおりです。
t_nakaya@yahoo.com

〇日時:2025年3月16日(日曜日)午後2時~4時
 *カレーランチ会(会費500円)は午後1時から始まりますのでご注意ください。
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「バングラディシュのこと、ごぞんじですか?」
〇話題提供者:モラ エムディ マスドさん(バングラディシュと日本の交流をもっと広げたいと活動しています)
〇会費:500円(カレーを希望する方は別途500円)
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
 *カレーランチ会申し込みは仲谷とおるさん(t_nakaya@yahoo.com)

〔マスドさんのこと〕
マスドさんは、35年前に日本にやってきて独力で日本語を習得。そのまま日本に住み、現在は川崎市幸区に在住しながら自動車関連の仕事をしています。
バングラディシュの教育体制はいまなお脆弱なので、日本の教育の素晴らしさを母国で実現したいとの思いから、マスドさんは数年前から母国に学校を建てる活動に取り組んでいます。また、マスドさんは日本とバングラディシュの交流を広げるためにさまざまな活動をしています。
マスドさんには伴侶と3人のお子さんがいます。ご家族は去年までは全員バングラディシュに住んでいましたが、昨10月、在住許可がようやく取れたので、奥さんと末っ子(11歳)が先月来日しました。末っ子は今は4年生から始めて、4月から5年生になります。奥さんは出来るだけ多くの方と接する機会をもちながら、日本に慣れるようにしたい意向とのことです。日本で暮らし始めたこの2人も今回サロンに参加します。
今回は、バングラディシュのことをもっと知るとともに、マスドさんが考えていることなどをお聴きして、何か役立てることがないかをみんなで考えたいと思います。

 

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2025/02/20

■中央政府が劣化してくると地域政府も劣化する

私が住んでいる我孫子で、一人でしこしことベリングキャット活動的な活動を続けている人がいます。実際に行政に対しても改善提案をしてきたりしています。

私は時々、その人からいろいろと話を聞かされるのですが、今日もその人から最近の「発見」をどう活かしていったらいいかの相談を受けました。

私の生き方は、ともかく「公開」が原則ですので、わかったことは公開していけばいいという立場ですが、その人はただ「公開」しただけでは何も変わらないという思いが強いのです。これまではその人の「発見」を活かしてくれる人が議員にも行政にもそれなりにいたのですが、いまはいなくなってしまったようです。

そろそろ我孫子ベリングキャットグループを呼びかけたらと提案しましたが、今回もだめでした。仲間が見つかるはずがないと、その人は思っているのです。

私財や時間をつかってのベリングキャット活動は、誰でもできるわけではありませんし、問題を見つけてその解決に取り組むのは楽しい仕事でもありません。時に人を傷つけますし、反撃に合うこともある。それに、最近の兵庫県知事の事件のように、世論はまったく当てにはできない。

その人の迷いもよくわかります。
中央政府が劣化してくると地域政府も劣化するものです。
それを反転させなければいけないという、先日のサロンでの開成町の露木さんの話を思い出しました。
地域政府が正常化すれば、中央政府も正常化する。

流れを変えないといけません。

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■湯島サロン「日本の食と農を改善に取り組みたい」報告(2025年2月17日開催)

「子供たちの給食を自然食材に改善する仲間づくりプロジェクト」をスタートさせた平山典彦さんのサロンは、残念ながら男性だけの集まりになりました。
平山さんは、食や農の視点から日本がいま世界的にどのような位置にあるかを俯瞰してくれました。いま「日本の食」がどんな状況に置かれているかを、子育てに関わっている女性にも広く知っていただきたかったのですが、残念でした。

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ちなみに平山さんは徳之島生まれですが、平山さんが生まれた時の徳之島は米国の統治下にありました。それもあってか、原発の仕事からスタートした平山さんの活動は世界的な広がりの中でとてもドラマティックです。そのおかげで、普通では見えない世界の裏の実相にも触れてきているのでしょう。湯島で話題になる「陰謀論」の世界を、平山さんは直接体験してきているのかもしれません。言葉の端々にそうした「陰謀論の裏」を感じさせられる、ドキッとする話も少なくありません。

その辺りは文字にするのにためらいがあり、一切、省略させてもらいますが、平山さんの危機感は大きく、動かずにはいられなかったのでしょう。いま「子供たちの給食を自然食材に改善する仲間づくりプロジェクト」に取り組みだし、クラウドファンディングをスタートさせています。
https://camp-fire.jp/projects/730899/view?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_open

平山さんは、土壌の大切さや子育ての食環境、菌根菌ネットワーク、さらには国際食料市場における日本の置かれている状況などの話をした後、「農業とは何か」を参加者と話し合いたいと問いかけました。

たまたまいまコミュニティ農園づくりに取り組んでいる人や土と触れ合うことでメンタルダウンから抜け出した人が参加していて、それぞれから実践的な話が紹介されました。いずれも実践体験に裏付けられているので、説得力がありました。

案内にも書きましたが、私は「食と農」は社会の基本だと思っています。
しかし、それが「産業」や「経済」の視点でしか語られない傾向が強いことに強い違和感があります。地産地消にしても産業や経済の視点で語られているような気がしますし、一時期流行った「食育教育」もどうもしっくりきませんでした。

そもそも「農業」という言葉にこそ、問題が象徴されるような気がします。
「農」を「工業化(産業化)」したのが「農業」ですが、それによって「農」の持つ多様な価値が損なわれ、近代産業の思想である「効率的ないいとこどり」を軸にした「消費的生産」(私の勝手な造語です)の対象になってしまったのです。しかし「いいとこどり」はいつか手痛いしっぺ返しに合います。今まさに健康問題や環境問題で、それが顕在化してきています。
ですから改めて「農業」を「農の営み」に変えていかなければいけないと私は思っています。「稼げる農業」ではなく、「生活と共にある農」へと発想を変えなければいけません。地域が支える農業(CAS)はその一つの在り方ではないかと思います。
私はそんな趣旨の発言をさせてもらいました。
幸いに参加者も平山さんも大筋では賛同してくれました。

また最近少しずつ広がりだしている学校給食の有機食材化に関して、なぜ反対が相変わらず存在してなかなか進まないのかという疑問が参加者から出されました。
これに関しても、やはりまずは食や農の実体を多くの人が知ることからはじめないといけないのでしょう。学校給食を市場の対象にして、経済論理で判断していいのか。

「農」は「食」をつくり、「食」は「生命」をつくり「社会」をつくっていきます。
しかし、その結果が表れてくるのは数十年先です。
平山さんの話によれば、この数十年間の私たちの食生活や、それを支えてきた「農業」が、いまの私たちの身心や社会に大きな影響を与えているのです。
いずれにしろ、「食」も「農」もいま、大きな変わり目にあります。
最近、米や野菜の食材の高騰が話題になりますが、おそらく問題は価格問題などではないのです。問題の立て方を間違えてしまうと解はなかなか見つかりません。

私たちは改めて、「食」や「農」にしっかりと向き合わなければいけないという平山さんの問題提起に共感します。

3月9日に吉田太郎さんが、農に関する「最新科学の知見と篤農家の叡智」のサロンを開いてくださいます。
ぜひ多くの人に聴いてもらいたいと思っています。
平山さんのクラウドファンディングもよろしくお願いします。

「食」と「農」のテーマはこれからも取り上げていきます。
問題提起したい方がいたらご連絡ください。

 

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2025/02/19

■湯島サロン「飛び切り小さな町の元町長が語る体験的君主論」報告

政治がいま大きく変わろうとしていますが、その時に重要なのが「中央と地方の関係」です。言い換えれば、国家政府と地域共同体(地方自治体)のどちらが主導していくかで、政治の変化の方向は真逆になっていく可能性があります。
トランプのアメリカは国家政府主導ですが、欧州や南米では生活共同体が主導して政治を変えていくミュニシパリズム(地域主権主義)が広がっています。
「中央と地方の関係」は、私は「経済と生活の関係」と読み替えていますが、政治を経済が主導するか、生活が主導するかという問題でもあります。

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日本でもミュニシパリズムの動きは少しずつ広がっていますが、今回はその一つと思われる神奈川県開成町の元町長の露木順一さんに体験的首長論を語ってもらいました。
呼びかけには「体験的君主論」と書きましたが、あまりに「みなさんのご意見を聞いて政治します」というポピュリズムの行き過ぎ風潮に違和感を持っている露木さんは、あまり評判のよくないマキャベッリの『君主論』からの学びこそ、いま必要ではないかと考えて、こうした呼びかけにしたのだと思います。
最近、マキャベッリの『君主論』に対する評価も変わってきていて、しっかりした読み直しも始まっているように思いますので、首長になるのであれば、『君主論』くらいしっかり読んで考えてほしいという露木さんの思いには共感します。

開成町と言っても知らない人もいると思いますが、神奈川県小田原市に隣接する小さな町です。しかし、最近は人口増加率は神奈川県でトップ、住み続けたいランキングは全国20位です。
開成町がいまこうして元気なのは、首長の指導力の貢献が大きいと露木さんは言います。
とりわけ高度成長時代に時流に乗らずに、当時の町長が厳格な土地利用計画を施行し乱開発を防いだ都市計画行政こそが、いまの開成町の土台になっていると、具体的に説明してくれました。

当時の町長、露木甚造さんは露木さんの父ですが、元帝国陸軍軍人で、生死を分かつ体験から得た負けじ魂から、息子の露木さんでさえ「オーラ」を感じたと言います。
世論(輿論ではありません)に流されることなく、首長が大きな構想の下に、時に不退転の決意を断行してきたからこそ、時代の流れが変わってから開成町は、大きな可能性を得たわけですが、もし世論に応じて町長が時流に乗っていたら、いまの開成町はなかっただろうと露木さんは言います。
露木さんはその父を見て育ったのですが、その後、自分が町長になって、改めてその意味を実感されたようです。この辺りは、昨年、露木さんがやってくれた「先見と実践~地方自治体におけるリーダーシップ論」で話してくださっています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2024/07/post-982b50.html

『君主論』で学ぶべきは「冷徹さ」や「畏怖の念」だけではありません。絶対的な側近の配置もまた、マキャベッリは重視しています。畏怖されながらも、イエスマンで固めるのではなく、しっかりと進言する側近を持つこと、それこそが『君主論』の現代への最大の教訓であると露木さんは言います。
そして続けて、情熱が土台にあってこそ初めて冷徹は活きる、とも強調しました。情熱があればこそ、オーラが生まれ、冷徹さも畏怖の念も、輝きだす。

しかし、今回、露木さんが紹介してくれたのは『君主論』だけではありません。
つづいて、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を紹介してくれました。そして、「情熱」に加えて、「冷静な判断力」と「責任感」が大切だと言います。
責任感に関しては、ヴェーバーは2つの責任感を示していますが、「信条倫理的責任感」のみならず、「責任倫理的責任感」、つまり、結果に対する責任をしっかりと意識して行動することが首長には大切だと言います。

さらに露木さんは3冊目の本も紹介してくれました。
西郷隆盛の『西郷南洲遺訓』です。
『西郷南洲遺訓』は「政治と道徳の一致」を主張するなど、ある意味、反マキャベリズム宣言的要素を持った王道政治を提唱していますが、マキャベッリもまた状況によっては王道政治を提唱していますから、決して相反するものではないのです。

長くなるので詳しい紹介は省略しますが、露木さんのまとめによれば、こんな感じになります。
マキャベッリは、権謀術数渦巻く政治の現実の世界を冷徹に捉え事実に立脚して権力を獲得し理想を実現しようとした。
ヴェーバーは、結果責任という足かせをはめることによって狂気を抑え冷静な判断のもとで理想を実現しようとした。
西郷隆盛は西洋の政治の伝統とは全く異質の登用の王道性を追求することによって理想の政治を実現しようとした。

時代の大きな変わり目の中で、こうした3つの要素にしっかりと目配せしていくことこそが、これからの政治を担うリーダーに求められているのです。
果たしてそうした時代の要請を受け止めて、この地球規模の危機を乗り越えるために、日本と日本人の役割を果たすのは一体誰なのか?
最後に露木さんは、ご自身の仮説を表明しましたが、少なくともその前提とした「大きな決断には宗教にも似た確信(天からの啓示)めいたものが介在しているのではないか」という指摘にはおそらく大方の参加者は共感したのではないかと思います。
私も共感しました。
ただ、改めて「アマテラスオオミカミ」、という露木さんの意見には異論もあったような気もしますが、時間の関係もあって十分な話し合いには至りませんでした。
しかし賛否はともかく、私にはとても示唆に富む提案だったような気がします。

長くなったので話し合いは省略します。
ただこうした「冷静な判断力」と「情熱」をもった首長たちが、「宗教にも似た確信(天からの啓示)」を軸にゆるやかにつながっていくことが求められている気がします。
露木さんはご自身の体験から、次のように言います。
小さな自治体が、コモンズ的な考え方を土台にしたまちづくりを進めていく。その創り上げる一連の過程は汎用性を持つので、それを変革の起点として、全国に広げていく。こうした運動が燎原の火のように広がれば日本の新時代創造につながる。それが日本全体の変革につながっていく。これが露木さんの構想です。

基本的に共感します。
これからの露木さんの行動に期待したいです。

 

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2025/02/18

■闘論サロン①「安楽死をどう思いますか」のご案内(再送)

開催日が近づきましたので、改めてのご案内です。

闘論サロンの1回目のテーマに「安楽死」を選びました。
その案内文に、橘玲さんの「DD論」から次の文章を紹介しました。

日本では(安楽死に関する)議論すら許されない。その理由はきわめて明快で、「日本人の民度が低いから」です。そのときに使われる定番の理屈は、「欧米と比べて同調圧力の強い日本で安楽死を認めれば、社会や家族の都合で生死が決められるようになる」です。これは、「日本人は愚かだから欧米と同じことをするのは無理だ」というのと同じです。

これを読んだ人から、佐藤さんは読み違えていると叱れられました
実はこの文章の後に次の文章があるのです。

この論理がグロテスクなのは、愚かな日本人を「説教」する自分が特権的に優れていることを当然の前提にしているからです。

つまり橘さんも、この文章の発想を批判しているのです。
私が、怒りの矛先を橘さんに向けたのはとんでもない間違いでした。
むしろ橘さんは、安楽死問題をしっかりと議論すべきだとお考えのようです。

橘さんに対してはもちろんですが、この案内を読んでくださった皆さんにもお詫びします
しかし、「安楽死」闘論サロンは予定通り開催します。
私は反対ですし、たぶん賛成論者がお一人参加してくれるので、闘論は成り立ちますので。
皆さんの参加をお待ちしています。

〇日時:2025年2月22日(土曜日)午後2時~4時
〇テーマ:安楽死をどう思いますか
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2025/02/17

■節子への挽歌6265:八代特産の晩日柚

節子
今日は徳之島出身の平山さんのサロンでした。
まあそのせいではないのですが、熊本出身の方が2人、参加しました。
そのおひとりのイシモトさんが最近、熊本に帰省していたと言って、八代特産の晩日柚(ばんぺいゆ)を持ってきてくれました。
ザボンの1種ですが、晩日柚は八代市の特産品だそうです。

ウィキペディアによれば、柑橘類で最大の果実だそうです。
今回持ってきてくれたのも、私がこれまで見た中では一番大きかったですが、これでも中型だそうです。
八代市の日奈久温泉では12月から1月、冬の風物詩として晩日柚風呂と言って、この大きな晩日柚が湯船にたくさん浮かべられるのだそうです。

サロンの最後に、イシモトさんは晩日柚を切ってみんなに振舞ってくれました。
普通の果物ナイフでは無理だと言って、わざわざ包丁まで持ってきてくれたのです。
切り方や剥き方も慣れたものでしたが、皮もまたいろいろな食べ方があるそうです。
さわやかでとてもおいしかったです。
美味しくて肝心の食べるところの写真を撮るのを忘れてしまいました。

イシモトさんは、切り分けた皮をみんなに分けてくれて、その活用法を説明してくれました。お菓子に仕上げる方法と入浴剤利用です。

ちなみに平山さんのサロンは「日本の食」の話でした。
日本の「食」はいまや危機状態にあると思いますが、この晩日柚はまだ大丈夫のようです。

ちなみにイシモトさんは柏在住の方で、先日のあすあびサロンに参加してくれて知己を得たのです。
毎朝、自転車で手賀沼を一周し、写真を撮っています。
すばらしい写真です。
手賀沼の魅力に惹かれると毎日写真を撮りたくなるのでしょうね。
私も朝焼けや日の出を見ているとついつい写真を撮りたくなります。

もっと節子とこの風景を満喫しておけばよかったとつくづく思います。

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2025/02/16

■湯島サロン「熊本で働いて感じたこと」のお誘い

大学生時代から湯島のサロンに参加し、その後、「学ぶとは何か」「生きるとは何か」「働くとは何か」などを考えるために、大学を休学して、いろんなフィールドで体験を重ねてきた川端修平さんが、昨春、ようやく大学を卒業。一時、就職したかと思ったら、大学の時と同じように3か月で退社。その後も模索を続け、昨年末に人生探しのための旅行先での出会いから熊本で3か月ほど働いていましたが、3月に一度戻ってきます。
その先はまだわかりませんが、3月は東京にいるので、一度、自分の体験を整理するためにも、サロンで話をしたいと言ってきました。

川端さんのことですから、3か月の熊本での生活でたくさんのことを学んできたでしょうが、それを整理するためにも話し合いの場を持ちたいというのも彼らしいです。若い世代が、「あの熊本」で何を得てきたかは、老いた私にも興味がありますので、やってもらうことにしました。
私も水俣や阿蘇で多くの気づきをもらった一人ですので。

というわけで、今回のサロンは、ともかく若い世代の人が熊本の地で何を感じたか、について自由に話し、それを聞きながら参加者は自由に突っ込む、いつも以上に気楽なサロンです。
いつもより長目の時間を設定しましたが、途中での退席もありの気楽なスタイルにしたいと思います。
みなさんの参加をお待ちしています。

この案内をするにあたって、川端さんからもらったメッセージを日時などの後に転載します。川端さんの思いが伝わってくるとともに、私がサロンに託している気持ちにもちょっと言及してくれていますので、よかったらお読みください。

〇日時:2025年3月8日(土曜日)午後2時~5時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:川端修平さん(20代の若者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

〔川端からのメッセージ〕
佐藤さんから案内文の叩き台が送られてきて「思い切り直してくれ」と言われたけれど、ほとんど直しようがありませんでした。佐藤さんの案内文が面白かったこともあるけれど、何か書き換えたいと思うところも、言葉が思いつきません。

自分が何をしているかを説明する言葉が、自分の中にも見当たらない。
でも、言葉が見当たらないから、ないわけじゃなくて、むしろ確かに何かある。何かはわからないけれど、確かにわかっている。
確かだけど確定はしていなくて、だから流動しながら、求め続けている。
そうやって生きることがおもしろくって仕方ない。ほんとにおもしろい出会いに、たくさん巻き込まれています。

じゃあ日々おもしろさだけで成立しているのかと言うと、そうではなくて、むしろ瞬間瞬間つっかえながら、しょっちゅうささくれ立ってます。いつもどこかしら痛いし、それは過去の出来事を引き連れてもいる。
そういうことが「おもしろさ」の源になっていくこともたしかだけど、ハナからそうはいかない、まずは少なくとも、それらが表現されやすい場が必要だと思った。暇と隙間の豊富な場所。

案内文に載せる要点を書こうとすると、こういう抽象的な表現になってしまいますが、当日は多分具体的なエピソードがたくさん出てくると思います。
自分でもよくわからない、混沌とした思いがたくさんあります。それで、湯島の場の力を借りて、話したいと思いました。
そしてその日湯島に来た人が吹く、新しい風に吹かれたい。そうすれば、何かがクリアになる気がするからです。

あと、湯島で知り合ったみなさんに報告もしたくて!

自分の思いばかりで、ある意味だいぶ身勝手に湯島サロンを使わせてもらいますが、
湯島サロンはそんな個の勝手の良さが、世界と通底して何かを変えているところを認めてくれるところだと思いますので、それでも構わない方が遊びに来てくだされば嬉しいです。

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■オープンサロンのご案内

3月のオープンサロンは3月4日です。
昨年末から年始にかけて、ブラジルに行っていた黒田さんのお土産のコーヒーを用意しました。
紅茶は、これまためずらしい永田さんから提供された「至福のシャインマスカット」です。こちらは味の保証はありませんが。

オープンサロンは、テーマも全くなく、参加した人次第で話題も決まりますし、話題もどんどん変わります。話す人も聴く人もいるサロンです。
出入りもいつも以上に自由で、申し込みも不要です。
気が向いたら気楽にどうぞ。
事前申し込みも不要です。
何しろオープンサロンですので。

〇日時:2025年3月4日(火曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

 

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2025/02/15

■白和・自刃会の「老子」談話会に参加しました

メーリングリストで北京一さんから呼びかけのあった。教学比較IRコモンズ・白和梵店主催の白和・自刃会の談話会に参加しました。
https://shiraniki.jp
呼びかけたのは北京一さんですが、なぜか今回は北さんは参加せずに、白和次郎さんが主催してくれました。とりあげたテキストが、白さんが独自に編集した『老子』だったからでしょうか。北さんと白さんは一緒に活動している仲間のようです。

その進め方は、白さんの仲間の半田智久さんから以前から聞いていたスタイルでしたが、半田さんが15年目までやっていた日本構想学会での年次大会でのセッションを思い出しました。それもそのはず、白さんも北さんも半田さんの仲間のようです。
私は白さんとは初対面でしたが、何やら旧知のような感じで、いつものように気楽に3時間を過ごさせてもらいました。

202502153

『老子』に関しては、先日、湯島のサロンでも増田圭一郎さんが「地湧の思想」につなげて解説してくれましたが、私は50年以上前に、朝日新聞社の吉川幸次郎監修の「中国古典選」シリーズの福永光司さんの『老子』を読んだのが最後ですが、『老子』の最後に出てくる「小国寡民」を目指す「道」に誘導するような感じを受けていました。
だからニューサイエンスブームの時に話題になったタオイズム関連の本も、あまり深入りできませんでした。要するに私はワクワクしなかったのです。あまりに当たり前すぎて。

今回、白さんの編集した『老子』を読んで、「道」には2つの道があることに気づきました。歩く道とつくる道です。そして、「小国寡民」は目的地ではなく、出発点でもあることにも気づきました。文字にとらわれて、「子」が「老」に向けて歩く「道」というイメージに呪縛されていたのです。
そう思って読み直すと、また違った世界が見えてくるような気がしました。
改めて当時の本を少し読み直してみようと思います。

それはともかく3時間の白和・自刃会の談話会は、いろいろと示唆に富むものでした。

ちなみに、白さんや北さんや半田さんたちは、15年ぶりにまた、日本構想学会の活動を再起動させる予定だそうです。当時の仲間もまた集まってきそうです。
近々湯島のサロンでその呼びかけをしてくれるそうです。
私も「小国寡民」意識から抜け出して、参加してみようと思います。

 

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■CWSコモンズライブラリー第1回推薦書

前に予告していた湯島でのCWSコモンズライブラリーの貸し出しをスタートします。
第1回目の推薦図書として5冊を選ばせてもらいました。
提供してくださったのはサロン仲間のみなさんですが、推薦書に決めたのは私の独断です。
しばらくは独断で推薦書を決めていきたいと思いますが、みなさんの推薦も参考にしたいと思いますので、この本をみんなに読んでほしいという本で提供してもらえる本があればご連絡ください。
ただし提供期間は3か月以上にしていただき、貸し出しに伴うリスク(毀損・紛失)は覚悟してください。

今回の推薦書は次の5冊です。
いずれもサロンで話題になっているテーマにつながっています。
すでに貸し出しが始まっており、今も2冊の本が貸し出されていますが、予約可能ですので、ご希望の方は私にご連絡ください。
湯島に貸出ノートがありますので、必ずそれに記帳して借り出してください。
貸出期間は最長で2週間です。

〔第1回推薦書〕

〇森本哲郎「ゆたかさへの旅」(ダイヤモンド社)〔佐藤修提供〕 貸出中
  豊かさは何かを問い直す示唆をくれます。
〇吉田太郎「シン・オーガニック」(農文協)〔金子友子提供〕 貸出中
  世界の見え方が違ってきます。著者が3月9日にサロンをしてくださいます。
〇山本眞人「コモンズ思考をマッピングする」(BMFT出版部)〔増田圭一郎提供〕
  湯島サロンの二連である「コモンズ」について俯瞰してもらえます。
〇池田浩士「ヴァイマル憲法とヒトラー」(岩波書店)〔武田文彦提供〕
  「国民」とは何かを問い直させてくれます。ヒトラーから学ぶことは多いような気がします。
〇リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(紀伊國屋書店)〔升田淑子提供〕
  湯島の近藤サロンの出発点になった本です。利己と利他の捉え方も変えさせてくれます。

今後は推薦のポイントを簡潔に書こうと思っていますが、今回はとりあえずの書名のみです。
読んだ方は簡単な感想を送ってもらえればと思いますが、それも公開していく予定です。
また貸出が多い本に関しては、それを中心にしたサロンも企画したいです。

まあ進めながらゆっくりと仕組みを育てていきますので、よろしくお願いいたします。

 

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2025/02/14

■第2回from MEゲーム体験会報告

小針丈幸さんのカードゲーム「from Me」の体験会は、1回目が申し込みが多くて10人を超えたため、当日参加できなかった人のために、小針さんにお願いして2回目を開催したしました。
カードゲーム「from Me」に関しては、1回目の報告をご覧ください。

http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2025/01/post-45cf3f.html

今回は参加人数も7人だったため、終了後、時間をとって体験の感想などを話し合いました。

From-me From-me

その話し合いでの気づきもたくさんありました。

小針さん(カードゲーム「from Me」ディレクター)は、このゲームをもっと広げていきたいと考えています。試してみたいというグループなどありましたら、ぜひ小針さんにアクセスして相談してください。
また各地で行われている体験会への個人参加も、次のサイトを通して申込できます。
https://jfra.jp/fromme/

 

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■第6回中国現代文学サロン「劉慶邦『いちめんの白い花』」報告

第6回中国現代文学サロンは、劉慶邦さんの「いちめんの白い花」(「現代中国文学8号」所収)をとりあげました。
今回は、前回取り上げた作品『養蜂場旅館』の翻訳者の趙さんも参加してくれました。

案内役は、いつものように中国現代文学翻訳会の葉紅(ようこう)さんです。この作品の翻訳者でもあります。
葉さんは冒頭、自分がなぜこの作品を翻訳したかについて話してくれました。その理由は、「これぞ中国文学だ!」と思ったからだそうです。今回、私はこの葉さんの言葉が一番印象的でした。すみません、あまりに個人的な話で。

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葉さんはいつものように、この作品を読むための背景情報をていねいに解説してくれました。作者のこと、この作品が沈従文(しん・じゅうぶん)の影響を受けていると言われていること。そして、沈従文についても話してくれました。
私は、沈従文のことを知らなかったのですが、その生き方にも興味を持ちましたが、作品を読みたくなりました。そういう知らない世界に気づかせてくれるのが、この中国文学サロンの面白さでもあります。

つづいて作品を読み解いていく上でのヒントの解説です。これがいつもとても面白い。そして現代の中国のことを理解する示唆がたくさんもらえる。
たとえばこの作品には「太平車」という言葉が出てきますが、この言葉が出てくることで、この作品の時代が推測されるというのです。
今回の作品には、主人公ではないですが、小扣子(しゃおこうず)という子どもがでてきます。それに関連して、名前に関する話をしてくれました。
苗字や名前の前に「小」をつけて呼ぶ習慣がある。家族や近隣では愛称として呼ばれる。職場では名字の前に「小」をつけて「~さん」になる。キャリアを積んだ人や年長者には「老」をつける。とまあ、こういうことを教えてくれるのです。
そこからまたいろいろと話が発展する。
あるいは作品に、「下放した両親と農村で過ごす」という文章が出てくると、「下放」の意味やその当時の話を解説してくれる。それもかなり具体的に、です。
こうやって参加者は、中国への理解を深められるのです。

そうした解説と質疑応答の後、いよいよ作品の読後感の話し合いです。今回はその冒頭で、葉さんは「議論してほしいこと」として2つの課題を投げかけました。
「これは初恋を描いた作品として読むことができるか」と「少年の成長物語として読むことができるか?」です。
参加者の一人が、自分はまさに「初恋の物語」と読んだと話しだし、それを聞いたもう一人も大きくうなづき、話し合いが始まりました。
私もこの問いには、「イエス」ですが、ただ私は「初恋」とか「成長」ということは思いもしなかったと発言しました。参加者の男性の一人がそれに同感してくれました。この言葉に対応させて言えば、私が感じたのは「博愛」と「劣化」だったのです。
「恋と愛」「成長と劣化」。ここから少し話し合を深めたかったのですが、異議申し立てが起きました。この作品に「恋」を感じない男性たちはロマンチシズムを持っていないのか!というのです。
なんだか作品の舞台の村に文革指導者がやってきたような気がして、ついつい私も暴言を吐いてしまいましたが、その辺りから議論は作品を離れてしまいがちになってしまいました。まあこんなハプニングも、湯島のサロンならではでしょう。

とはいうものの、その都度、だれかの発言で作品の話に戻りましたので、葉さんが紹介したかった、中国の人たちにとどまらない「人間とは何か」へのヒントはそれぞれに得られたような気がします。発言を通しての参加者の人間性も教材にして、です。

作品を読んでいない人にはわからないでしょうが、もし興味をもったら湯島にこの作品が掲載された雑誌が置いてありますので、サロンに来た時にでもぜひ読んでみてください。
とても気持ちが明るくなると同時に、こういう時代が日本にもあった、いや本当はこういう風景(私は『老子』の「小国寡民」をすぐ思い出しました)こそが人間社会の基本なのではないかと思えるかもしれません。同時に、そうした美しい村がなぜ壊れてしまったのかもヒントもそこにあるように思います。
この作品を題材に、もう一度、サロンをしたい気分です。

作品の訳語を通して、中国の文化と日本の文化を比べる話など、他にもいろんな話が出ました。葉さんの読書会は、ともかく話題が広がるので面白いです。

最後に葉さんは、関連書籍の案内もしてくれました。

次回は6月8日(第2日曜日)の予定ですが、今回と同じ劉慶邦の作品『月は遥かに』(立松昇一訳)を取りあげます。同作品は雑誌「現代中国文学7号」に収載されていますが、同誌ご希望の方は葉さんがまとめて購入してくださいますので、購入ご希望の方は今月中に私までお申し込みください。ネットでも購入できます。

みなさんへのお願いです。
できれば、地元の図書館に雑誌『現代中国文学』(ひつじ書房/年2回発行)の購入を要望してもらえるとうれしいです。この雑誌はあまり知られていませんが、中国理解の上で、もっと多くの人に読んでほしいと思っています。ぜひ一度、手に取って読んでみてください。

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2025/02/13

■遠山サロン⑦「世界は「関係」でできている、のか?」のお誘い

ブックサロンからスピンオフした遠山哲也さんの「『社会心理学講義』を読み解く」サロンの7回目は、カルロ・ロヴェッリの『世界は「関係」でできている』(NHK出版)を取り上げます。「美しくも過激な量子論」として、少し前に話題になった本です。

前回、ナーガールジュナ(龍樹)と『中論』が話題になった関係で、ここに跳んだのだろうと思いますが、遠山さんは、「今まで社会学、心理学、言語学から虚構の働きを見てきましたが、今回は自然科学から入りたいと思います。量子力学の一つの仮説、量子力学的関係論の紹介をして、そこから話をはじめたい。結論は同じですが、今までとは違った道を通ることになり、違った風景が見られると思います」と言っています。
「違った風景」。「違った虚構の世界」。楽しみです。

量子力学と『中論』? と思われるかもしれませんが、本書の第5章で「関係論とナーガールジュナ」が語られていますので、そこを中心に遠山さんは最初に量子力学的関係論を解説してくれると思います。
もちろん、根底にあるテーマは「虚構」です。

同書でロヴェッリは、「知の探究を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在なのだ。自分たちが無知であることを鋭く意識するからこそ、疑いに心を開いて学び続け、よりよく学ぶことができる。それこそが、一貫して科学的な思索(好奇心と反抗と変化から生まれた思索)の力だった」と書いていますが、同時に、「自分が自立的な実体として存在しているのではない、という悟りは、自身を愛着や苦しみから解き放つ助けとなる」とも書いています。
ちょっと読みたくなりませんか?

ちなみに、この本は、さっと読むのであれば、さほど難しい本ではありませんので、できれば読んで参加されるといいと思います。ただし、内容をしっかり消化しようと思うと難解です。あくまでも「虚構の問題」を考える示唆をもらうという感じでさっと読むことをお薦めします。

遠山サロン初参加の方も歓迎です。
テーマこそ難しいですが、サロンですので、気楽にどうぞ。

〇日時:2025年3月7日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「世界は「関係」でできている、のか?」
〇書籍紹介者:遠山哲也さん(哲学を生きる哲学者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2025/02/12

■節子への挽歌6261:前立腺がん治療後は問題なしです

節子
今日は我孫子東邦病院での前立腺がん診察日です。
3か月に1回の採血とホルモン注射なのですが、これが半日仕事なのです。
でもいろいろと作戦を練ると時間短縮ができます。それが魅力です。
さらにここは人間的要素が残っているのも救いです。
まあ好き嫌いはありますが、嫌いではない。

数日前に知人がこの病院に始めてきたのですが、8時半に受付を済ませたのに、受診は12時半だったそうです。
システム化され待ち時間が少なくなっている病院に慣れた人にはなれるまで大変でしょう。でも慣れればそれなりに面白い。

私の場合、毎回、受付時間を変えての挑戦です。
今日は2時間目標でしたが、結局、会計で時間が撮られ、2時間半でした。しかし、採血結果が出るのに1時間はかかるので、どんなに頑張っても2時間近くはかかるのです。
次回は再度、2時間目標で挑戦です。

まあそれはともかく、血液分析結果ですが、前立腺がんに関わるPSAマーカーは、0.009未満を維持、そのほかのデータもまあまあでした。
いまのところ経過は良好です。

 

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■節子への挽歌6260:愚痴の効用

節子
犬も食わないどころか、猫も食わない、バカバカしい論争の話の続きです。
でも今回はちょっといい話です。

Kさんからのメール攻撃はまだ続いています。
まあ口調は反転して、ともかくいろいろと私に聞いてほしいようで、相変わらず膨大なメールが届きます。
それはともかく、今朝のFBへの投稿の最後に、「何か楽しいメールは来ないものでしょうか」と書いたのですが、それへの反応が何人かから早速あったのです。
愚痴の効用が、早速現れたわけです。
うれしくなったので、少し表現を変えてここに書いてしまいます。
ちなみに、最初は実名や出会いの場など伏せて投稿しましたが、その投稿を読んで自ら実名でコメントしてくれましたので、実名で紹介させてもらいます。

ご投稿を拝見し、なにか楽しいメッセージになれば!と送らせていただいています♪
もう遡ること15年近く前、経営道フォーラムに、「小娘」として参加しておりました高野です。
(中略)
佐藤先生の投稿を長いこと、拝読しています。
今は、香港へと飛ぶ飛行機のなかです。
その後も時々、佐藤先生節を思い出し、楽しくやっているというご報告だけさせてください😄
言葉に追いやられ、言葉に励まされる日々を、私も、日々送っております。

こんなメールが、FBへの愚痴を投稿した後、すぐに届いたのです。
まさか高野さんが私の記事を読んでいるとは思ってもいませんでした。

経営道フォーラムは、25年ほど、私はアドバイザー役としてかかわらせてもらっていました。おそらく必ずしも現状肯定の収益拡大経営の「方法」をアドバイスしていたわけではなく、「経営の本質」をアドバイスしていたつもりですが、ほとんど手応えがない。時折あったとしても、結局は影響を与えたと思えるようなことはあまり起こらない。まあそんな生活を25年ほどしていたわけです。
でもそんなころの私の話を気にしていた人がいたのです。
元気が出ないわけがない。
「愚痴」は一転、「歓び」に代わりました。

そういえば、昨日のサロンにやはりしばらくぶりにやってきた人がいました。
10年以上前に私の話を聞いたのだそうです。
以来、特に交流はなかったのですが、フェイスブックを読んでいてくださっていたようです。
そして昨日は意外なことを教えてくれました。
その人と出会ったのは、あるビジネススクールの1コマでした。
主催者の好意で場違いの私が1コマもっていたのですが、私の講義はビジネススクールの一貫なのに、アンチビジネスとも受け取られる内容だったようです。私は、それこそが「ビジネス」と思って話していたのですが。
それはともかく、昨日、久しぶりに湯島に来たその人は、私の授業が怖かったというのです。私が教室内を動きながら、受講者にいろいろと問いかけをするスタイルでしたが、その問いがどうもビジネスの世界では出合わない問いだったので、怖かったというのです。
思ってもみなかった感想でした。

言葉にしないと伝わらないことは少なくありません。
コミュニケーションは難しくても、いろんなことに気づき合える。

やはり人と会うことは、自分を知るためにも大切なことだ、と改めて感じました。
めげてはいけませんね。

元気づけてくださった高野美穂さんに感謝します。

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■湯島サロン「頼れますか?その薬~医療のサプライチェーンは崩壊の危機~」のご案内

今回は大学生の伊佐龍馬さんのサロンのご案内です。
伊佐さんがていねいな案内文を書いてくださったので、それをそのまま送らせてもらいます。
ちなみに伊佐さんは今春大学を卒業して就職しますが、その前に一度、どんなテーマでもいいのでサロンをやってほしいとお願いして実現したサロンです。
若い知性と元気に触れるだけでも元気が出ます。

【伊佐さんからのメッセージ】
皆さんこんにちは。
ここ最近湯島へ顔を出している、大学生の伊佐(イサ)と申します。

今年も寒いですが、お身体の方はいかがでしょうか?
2024年から2025年にかけての年末年始の時期は「インフルエンザ」「新型コロナ感染症」が爆発的に同時流行いたしました。そして、10代から20代を中心に「マイコプラズマ肺炎」も多少流行したそうです。加えて、「ノロウイルス」の感染も1月はピークを迎えます。

多くの感染症が同時流行する中、ここ4年間医療現場では1つ“厄介ごと”が起きています。それは、深刻な「医薬品不足」です。
「医師から処方箋をもらったのに、薬局へ行ったら肝心の薬が無い」
「本当は疑問視しているけど、“ジェネリック医薬品”しか在庫が無い」
「いつもとは違う薬を処方されて副作用が怖い」
との声も聞こえてくる状況です。

ここ4年間にわたって一向に解消の兆しが見えない「医薬品不足」について、
・医薬品業界全体の産業構造
・“医療費適正化“政策の影響
・日本の医療に対するサプライチェーン
などに論点を置き、皆様と是非意見を交わしたいと考え、サロンを開催するに至りました。
また、時間が許すのであれば医薬品不足に限らず「製薬会社・医療機器メーカーの話」や「最近のバイオテクノロジー」についての話など、医療に関する皆様からのお悩みや疑問についても雑談形式でお話ししたいと考えています。

以上が伊佐さんからのメッセージです。
若い世代の勢いが伝わってきますよね。さてどんなサロンになるか。
お時間が許せばぜひご参加ください。

〇日時:2025年3月2日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「頼れますか?その薬~医療のサプライチェーンは崩壊の危機~」
〇話題提供者:伊佐龍馬さん(薬学を学ぶ大学生)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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■節子への挽歌6259:愚痴の吐き出し

節子
相変わらずメール攻勢が続いています。
あまり気にはしないものの、それでも何となく嫌な話です。
今朝も朝起きたら、ドサッと届いていました。

それで、今朝は「愚痴もたまには書きたいので」とついつい次の文章を投稿してしまいました。

今日は愚痴を吐き出して気分をすっきりしたいと思います。
まあ無理でしょうが。
言葉や文字を通した付き合いは実にめんどくさい。
そもそも言葉や文字で、自分の言いたいことが相手に伝わるはずがない、と若いころからずっと思っています。
だから私は、直接会うのが好きなのです。
会って話していると、言葉さえもがきちんと伝わる気がするからです。
文字にすると真反対な言葉が、直接会って話していると伝わってくることもある。
ところが昨今のようなネット時代には、文字でのメッセージが簡単に届きます。
なかには簡単な1行で、私が書いた文字文章の意味を訊いてくる人もいる。
自分の意見を付けて質問してくるならいいのですが、禅問答のような問いに答えるのは結構大変なのです。
昨日FBに「悪口が嫌い」と書いたら、それを読んだかどうかわかりませんが、湯島のサロンの「悪口」を長々と書いてきた人がいる。大体においてそういう人はあまりサロンには参加せずに、自分が参加した数少ないサロンの様子でサロン全体を評価するのです。
まあ無視もできないので、きちんと文字で返答しましたが、これが結構大変で、いやな気分を引きずってしまうこともある。
もちろんサロンなどで直接会って話していても、めんどくさいことは起こります。
でもその時に対処できるし、それで終わることもできます。
最近実は、私が疲れているのか、毎回サロンや体験会では感情的な発言をついついしてしまっています。発言した後、いやな気分になりますが、私はどうも感情を抑えられない時がある。
とりわけ権威を振りかざして他者を評価する発言には、私は切れがちなのです。昨日も少し切れてしまった、恥ずかしい限りです。
昨日はそれで落ち込んでいたら、今朝は今度はまためんどくさいメールが届いていた。
人と付き合うのは疲れます。
ソローのような生活を目指すべきなのかもしれません。
とまあ、こうした愚痴をはいても気分はやはりすっきりしないですね。
困ったものだ。
さて何か楽しいメールは来ないものでしょうか。

すぐに私を攻撃していきている人から、こんなメールが来ました。
この投稿を読んだのです。

大体、FBでの当て擦り
「誰か助けて〜 (皆さんが大事だと思っているハズの)僕ちゃん、傷ついちゃんの。。。。

もうみっともないったらないです
男らしくなさすぎ〜

この人が、私がフェミニストやジェンダー問題を理解していないと言って非難してきているのです。
なんだかやはりおかしい。
でも火に油を注ぐことはない。
こう返信しました。

そうですよね。実にみっともない。まさに男らしくない。
差別主義者の白人マインドですかね? 

すぐまた返信が来ました。

一体どうなってお見事!

座布団10枚!

Lineだと、色々と楽しいスタンプあるんですが、そういうの送れなくて実に残念。いるのでしょうか。

 

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■愚痴もたまには書きたいので

今日は愚痴を吐き出して気分をすっきりしたいと思います。
まあ無理でしょうが。

言葉や文字を通した付き合いは実にめんどくさい。
そもそも言葉や文字で、自分の言いたいことが相手に伝わるはずがない、と若いころからずっと思っています。

だから私は、直接会うのが好きなのです。
会って話していると、言葉さえもがきちんと伝わる気がするからです。
文字にすると真反対な言葉が、直接会って話していると伝わってくることもある。

ところが昨今のようなネット時代には、文字でのメッセージが簡単に届きます。
なかには簡単な1行で、私が書いた文字文章の意味を訊いてくる人もいる。
自分の意見を付けて質問してくるならいいのですが、禅問答のような問いに答えるのは結構大変なのです。

昨日FBに「悪口が嫌い」と書いたら、それを読んだかどうかわかりませんが、湯島のサロンの「悪口」を長々と書いてきた人がいる。大体においてそういう人はあまりサロンには参加せずに、自分が参加した数少ないサロンの様子でサロン全体を評価するのです。
まあ無視もできないので、きちんと文字で返答しましたが、これが結構大変で、いやな気分を引きずってしまうこともある。

もちろんサロンなどで直接会って話していても、めんどくさいことは起こります。
でもその時に対処できるし、それで終わることもできます。
最近実は、私が疲れているのか、毎回サロンや体験会では感情的な発言をついついしてしまっています。発言した後、いやな気分になりますが、私はどうも感情を抑えられない時がある。
とりわけ権威を振りかざして他者を評価する発言には、私は切れがちなのです。昨日も少し切れてしまった、恥ずかしい限りです。

昨日はそれで落ち込んでいたら、今朝は今度はまためんどくさいメールが届いていた。
人と付き合うのは疲れます。
ソローのような生活を目指すべきなのかもしれません。

とまあ、講師手口を履いても気分はやはりすっきりしないですね。
困ったものだ。
さて何か楽しいメールは来ないものでしょうか。

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■近藤サロン⑥「神との歴史:史上最大のリアリティドラマ」のご案内

近藤和央さんの「『利己的な遺伝子』論から眺める人間論」の6回目は、前回の報告でちょっと予告的に書きましたが、「神」をとりあげます。

ドーキンスは「無神論者」でした。
近藤さんも無神論者(正確には不可知論者)ですが、「神なき遺伝子進化」は、人間に至って、「虚構(として)の神とともに進化する」ダイナミズムとなって、(神概念を徹底的に拒否する)ドーキンスにとっては皮肉な振る舞いをするようになった、と考えています。そして、「正面からの神論議は難しいが、特大のスーパーメタファーとしての「神」概念の人間にとっての意味なら話し合えるかもしれない」というのです。

さらに近藤さんはこうも言います。
死を知らない多くの生き物たちは神や幻想世界(すなわち最近の湯島サロンでのタームでいう「虚構」)を必要とせず、素直に今を生きている。しかし、大脳の肥大化と機能変化で死を知った人間はそうはいかない。感情や情動や認知バイアスが織り成す意図や意識に翻弄されながら、喜び悲しむ。神概念は、それに主観的意味を感じさせる。
現代に疲弊した個人が「主体として生きる」ためのリトリート先として、神概念は大切、というよりも不可欠かもしれない。

もしそうなら神の存在を確信している私とも何とか話し合えそうです。
そこで、近藤さんに話したら、神的世界や意識レベルが下がったときの幻想的な夢見や、それらと地続きとも思える、心理療法でのアクティブイマジネーションや、分裂症や失調症の幻覚、ヒプノセラピーなど、マジカルなドリーミングの世界を扱った、「気流の鳴る音」(真木悠介)や「奇跡の脳」(J・B・テイラー)をリファレンス本にして、サロンをやろうということになりました。

そこでテーマを「神との歴史:サピエンスとともに生まれ今も人類と並走を続ける史上最大のリアリティドラマ」とすることになりました。
またまた壮大なテーマですが、近藤さんのサロンは、思索的なサロンですので、どういう方向に展開するかは当日の参加者次第で大きく変わっていきます。しかし、その基底には「進化論」と「生命論」が置かれていますので、自らの生き方につなげながら考えていくことのできるサロンです。

思考の遊びを楽しむつもりで、ぜひ気楽にご参加ください。
きっと世界が広がると思います。

〇日時:2025年3月14日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「神との歴史:史上最大のリアリティドラマ」
*参照テキスト
「気流の鳴る音」(真木悠介 ちくま学芸文庫)
「奇跡の脳」(J・B・テイラー 新潮文庫)
〇話題提供者:近藤和央さん(進化論ファンのneo studier)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

 

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2025/02/11

■第6回増田サロン「「はたらくこと」ということ 〜「イワンのばか」を題材に大地に根ざして生きるとは」報告

増田圭一郎さんと一緒に「地湧の思想」を考えていく連続サロンの第6回は、「はたらくこと」をテーマに取り上げました。参考テキストはトルストイの「イワンのばか」です。

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増田さんはまず、地湧の思想の提唱者である和田重正さんが、人生をひらく「3つの鍵」のひとつに“ケチな根性はいけない“というのをあげ、そのケチのなかで一番いけないのは力の出し惜しみだと言っていたという話からはじめました。
これはこれまでも何回か出てきた話ですが、何かのために身体を動かすことを、“損”と考える人が増えきて、「これやったらいくらもらえるの?」とすぐにお金に換算する最近の風潮をどう思うかと問いかけてきました。
私も地域の活動で、数日前にまさに同じようなことを言われたばかりですが、すべてが商品化される時代状況の中では、生きることそのものが「金銭を稼ぐこと」になってきているような寂しさを時々味わっています。

つづいて、「イワンのばか」につなげるような形で、増田さんは「働く」とはなにかに関していくつかの論点を話してくれました。

増田さんが一昨年手がけた『人は自然の一部である』(地湧の杜出版)で、著者の渋沢寿一さんが秋田の古老の言葉を紹介してくれています。
稼ぎは、森林組合で植林の手伝いで手当をもらい自分の家族を食わせること。
仕事は、森仕事など次世代につなぐための仕事。
ここでの「仕事」を「働く」に置き換えてもいいでしょう。
いずれにしろ、「稼ぎ」と「仕事」とは違うのです。
さらに古老は、「仕事のうち最も大事なことは「祭り」である」とも語っています。
「祭り」は「余暇」活動ではなく、大切な「仕事」、つまり「働くこと」なのです。
じっくりと噛み締めたい言葉です。

サロンでも話題になりましたが、「働く」は「傍楽(はたらく)」、つまり「傍(他者)を楽にする」とも言われますし、「稼ぐ」は禾偏(のぎへん:禾は米)に「家」と書きますから「自分の家のために糧を得る」という意味を示しています。
昨今の風潮では、糧を得るが金銭を得ることになり、さらに金銭を得ることが目的化してしまっている。「仕事」が生活を維持するためのものから、金銭を得るためのものに変質し、なかには生活さえもが犠牲にされている。しかもそれに気づいていない。
「祭り」もかつては大切な仕事でしたが、それもいまや「余暇産業」に取り込まれてしまい、本来の意味を失ってきている。
それでいいのか。増田さんは、そのことを問いかけているのです。

「イワンのばか」につなげて言えば、「働く」を目的とするか、(金銭獲得や権力保持のための)手段にするかで、仕事の意味や生き方は全く変わってきます。

増田さんは、つづけて、先日湯島で開催された、カードゲーム「from ME」で、個人の幸福(well-being)は社会と深くつながっていることを実感したと話してくれました。金銭だけで幸福(well-being)は実現するのか。社会あっての生活なのではないのか。

しかし現実の社会はどうか。
デイヴィッド・グレーバーが警告したように、『ブルシット・ジョブ』、つまり金銭獲得の手段ではあるが、社会の幸福につながらないような「無意味な仕事」が増えてきています。そうした仕事をしている人たち自身、「自分が幸せな仕事をしている」と思っていない。金銭収入は多いとしても、仕事の楽しさはない。それでいいのか。
前回、取り上げた、宮沢賢治の農民芸術概論「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」がいうように、私の幸せは、世界全体の幸せの上にある、だから世界を幸せにする働きが幸せになるための仕事だと思うが、残念ながら現実はそれに背を向けている。

増田さんは、こういう問題提起をいろいろとしたうえで、改めて「イワンのばか」の話に戻って、みんなで話し合いをしました。

いろいろな話が出ましたが、長くなるので2点だけ紹介します。
増田サロンに初めて参加してくださった人が、自分は会社時代から仕事が楽しかったし、いまも地域で楽しいボランティア仕事に取り組んでいる。しかし最近、企業で働いている人たちを見ると楽しそうではないし、地域でのボランティア活動にも参加する余裕がないほど忙しそうで疲れているような気がする。「仕事」って、本来、辛い面もあるが、楽しいことなのではないか、と問題提起してくれました。
イワンは、仕事ばかりの毎日でしたが、楽しかったのではないか、というわけです。
私も全く同じ感想を持ちました。はたらくことは楽しい、でも稼ぐことは楽しくない。
稼ぐとはたらくとは全く違うことであり、本来の仕事とははたらくことではないのか。それがいつの間にか、稼ぐことに価値が置かれ、稼ぐことが仕事になり、稼がないと一人前だと言われなくなった。そういう風潮を変えていかないといけない。
この意見には、しかし反論もありました。とはいえ、お金は必要なのではないのか、と。稼ぎがないと生きていけない。
でもそうした「常識」を問い直し、稼ぐことの呪縛から抜け出ないといけないのではないのか。それこそが、大地に根ざして生きるということではないのか。

もう一つは私の感想です。
私は、イワンの「ばか」をみんなはどう受け止めるのかが気になりました。
イワンの兄たちは、ビジネスで大儲けし、戦争で権力を得たかもしれない。でもそれがもし「利口」だというのであれば、私はイワンのように「ばか」でありたい。
実際にばかのイワンはいつも幸せで、利口な兄たちは結局イワンによって助けられるのですから、トルストイが、どちらの生き方を勧めているかは明らかです。としたら、「ばか」という言葉の意味を考え直すべきではないのか。
これもまた、時代の常識の呪縛から抜け出でようという話です。

増田さんは「イワンは、半無意識に幸せをわかっていて振る舞ったのではないか」と言います。そして、「働く」とは「幸せを得るためのこと」。問題は、その「幸せ」をどう捉えるか、だというのです。
「地湧の思想」は、そのことを問うているのです。
時代の常識に流されることなく、しっかりと大地に立って、生きる意味を考えよう。
稼ぐのではなく、働こう。仕組みを変えるのではなくて、私たちが変わるのだ。
そうすれば社会も変わっていく。
地湧の思想は、私たちにそう呼びかけているように受け止めました。

いうまでもありませんが、だからと言って、お金が不要とか稼ぐことに意味がないというわけではありません。そうではなくて、稼ぐための仕事はあくまでも手段であり、お金も生きるための手段だということです。
手段と目的を勘違いしてはいけないのです。
そして時代状況はさまざまな選択が可能な状況を創りだしています。
ちょっと価値観を変えただけで、違った生き方が見えてくるかもしれません。

地湧の思想は、そうした気付きを与えてくれるように思います。

 

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■節子への挽歌6258:佐藤さんは差別主義者の白人のマインドのままだ

節子
ひどい言いがかり(だと私は思いますが)をいまサロンに参加している人から言われてしまいました。
サロンでの私の発言が気に障ったようです。
膨大なメッセージや写真がメッセンジャーで届きだしたのです。

たとえば、こんな書き出しです。

佐藤さんは、差別主義者の白人のマインドのままだと認識しています。
そして、湯島サロンは、佐藤さんはそう言われると烈火の如く怒られると思いますが、主である佐藤さんにマウンティングされている人々の集まりです。そのつもりはない、そう仰る姿が目に浮かびます。佐藤さんが、「そのつもりはない」ように心がけて生きてこられたことは十分理解できます。
しかし、神ならぬ人間には、それは叶わぬことです。
実際、佐藤さんがFBで呟かれる、その太陽の周りを惑星が回っているだけですから。

なるほど、そう言われてみれば否定はできません。
というよりも、そういう見方もできるわけです。
しかし、サロンに参加している人たちには大変失礼な言い方です。
もちろんその人もサロンに参加しているのですから、自己反省という風にも捉えられますが、その後につづくのが私への非難です。
そして自らがいかに苦労して、男社会にいじめられてきたかを書いている。
もううんざりの話が写真付きで送られてくる。

まあ時にこうしたことがありますが、今回はいかにもしつこい。

そしてこう書いてきました。
もうサロンには参加しません。

湯島のサロンは、来る者は拒まず去る者は追わず、ですので、はい、わかりましたと返信しました。
でもまだ送られてきます。
なぜか彼女の職場の集合写真(ほとんどが男性です)まで数枚送られてきた。
誰かわかりませんが、「A君の話」なるものも送られてきた。
さてさてどうしたものでしょうか。

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■節子への挽歌6256:柳兼子の本を出版したい

節子
我孫子はかつて白樺派の文人たちが暮らしていましたが、そのきっかけをつくった一人の柳宗悦の伴侶である柳兼子に関してはあまり知られていません。
柳宗悦の民藝活動も、妻の兼子がいればこそのものだったという人もいます。
その一人が、我孫子に住んでいる海津にいなさんです。

海津さんは、我孫子の地域資源として、柳兼子のことをもっと知りたいと大学院に入学して研究をつづけ、それを博士論文にまとめています。
一度、湯島でも海津さんに兼子のサロンをやってもらったのですが、その時よりも論稿や調査は一段と進み、論文の仕上げのために昨年わざわざイタリアのダ・ヴィンチ村にまで調査に行ってきました。
なぜダ・ヴィンチ村かといえば、柳宗悦が『白樺』に寄稿した小論のなかに何回か、レオナルド・ダ・ヴィンチが言及されているのです。そこで海津さんは「柳宗悦に関しては、レオナルド・ダ・ヴィンチの『風景』と書斎から見る手賀沼の「風景」に、掃除店を見出すことがあった」のではないかというのです。
ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチ美関心を持っていたのは、柳宗悦のみならず、白樺派文人たちはいずれものようです。
海津さんは、今回、イタリアのダ・ヴィンチ村に言って納得したと言います。
そして博士論文は完成しました。

私も柳兼子には興味があります。
そこで海津さんの博士論文をもとに書籍にできないかと思いました。
別にダ・ヴィンチ村の話だけに興味を持ったわけではありません。
柳兼子の活動を基軸に白樺派の活動を見な外、ちょっと違ったS買いが見えてくるように思う間らです。
それに柳兼子は、すごい人だと感心もしているのです。
私は1冊の本を読んだだけですが。

それで余計なお世話ですが、地湧のしそうにとりくむ増田圭一郎さんに海津さんを引き合わせてもらいました。
幸いに益田さんも関心を持ってくれ、今度実際に手賀沼に来て、改めて海津さんと相談することになりました。
今度こそ動き出すとうれしいのですが。

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■学術会議問題に思うこと

今朝の朝日新聞に、「学術会議 これで決着?」というタイトルで、日本学術会議前会長の梶田隆章さんのインタビュー記事が出ています。

 菅首相(当時)による日本学術会議の会員6人の任命拒否事件は、私にはとんでもない犯罪行為だと思えるのですが、いまだなおきちんとした対応はされずに、むしろ菅さんの意図していた方向に動いているように思います。
この問題は、湯島でもサロンをやりたいのですが、なかなかきちんとした問題提起をしてくれる人が見つからずにまだ実現していません。

朝の梶田さんへのインタビュアは朝日新聞の編集委員の高橋純子さんです。
梶田さんも高橋さんも、その書いたものはいつも共感しています。
今回の記事も、とても共感できるものです。
でもやはり視野の狭さを感じます。

この問題が、アカデミアの問題ではなく、社会全体の先行きにどんな意味を持っているのか、なぜ事態の流れが反転しないのか、に関して真剣に捉えられていないような気がします。たぶんおふたりもある意味、あきらめているようにさえ感じられます。

この問題はアカデミアの問題ではない、だからその解決はむしろ学術とは無縁に生きている生活者の問題にしていく想像力が必要なのではないか。
高木仁三郎さんがいたらどう動くだろうか、とつい思ってしまいます。

どなたか湯島のサロンで問題提起し解説してくる人はいないでしょうか。
もし話してもいいという方がいたら私にご連絡ください。

 

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■相手が持っている「共感できる部分」と付き合うと生活が楽しくなる

私は人と付き合う時に、その人の持っている私と共感できる部分や私にはない学ぶべき部分に焦点を当てるようにしています。
ですから基本的には誰とも付き合うことができるのです。
もちろん例外はいますし、付き合いたくない人もいる。
でも「付き合いたくない人」も拒否はしません。
だから八方美人とも言われたことがある。

でも人はだれでもたくさんの「自分」を持っていることは、私自身を知れば知るほどわかってきます。私のなかにも、自分でさえ嫌になる部分もある。でもその自分とも付き合わないわけにはいかない。だから、どんな人にも、必ず私と付き合える部分があるはずです。
そしてそういう生き方に心がけていると、とても生きやすくなり楽しくなる。

しかしどうも多くの人は、私とは真逆の人との付き合い方をしているのではないかと、時々思います。「共感できる部分」ではなく、「否定したい部分」を見つけるのが好きなのです。そしてつい悪口を言ってしまう。
湯島のサロンでも、そう感ずることがある。

人の悪口を聞くほど、不愉快なことはない。私も時々、湯島のサロンで非難されますが、自分が「悪口」を言われるのは、「褒められた」と読み替えればさほど気にはなりませんが、そこにいない他者の悪口を言われると、たとえその人が私の好きな人ではないとしても、あまりいい気はしない。

たとえばトランプ大統領ですが、みんなの話を聞いていると、トランプは酷い人のように聞こえてくる。先日のサロンでは、あまりにみんながトランプ大統領の悪口を言うので、いささか切れてしまいました。そもそもトランプに会ったことがあるのか、と言いたくなった。
確かに私にもいやな部分がたくさん目立ちます。でも共感できる部分や敬愛すべき部分もある。やっていることも、支持したいこともある。
「いやな部分」に焦点を当ててしまうと、そうした「いい部分」が見えなくなってしまう。他者の悪口を言い出した途端に、その人のいいところは見えなくなってしまう。

トランプに限りません。私の大嫌いな立憲民主党の野田さんや自民党の菅さんにも、きっと私にも共感できる部分はあるはずです。幸いに私はおふたりとはお付き合いがないので、それを見つける必要がないだけなのです。

私が嫌いなのは、他人の悪口を言うことです。当人に向かって直接言う悪口は嫌いではないですが、他人の悪口だけは聞きたくない。
悪口ではなく、その人の言動に関する批判は大歓迎なのですが。

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2025/02/10

■湯島サロン「新著『シン・オーガニック』で伝えたかったこと 最新科学の知見と篤農家の叡智」のご案内

久しぶりに読み終えた後、しばらく興奮がおさまらないほどの共感を得た本に出合いました。世界がちょっと見えたような気がするほどの興奮でした。量子理論の意味がやっとわかった気さえしました。
その本は、吉田太郎さんの新著『シン・オーガニック』(農文協)です。

最初はただ面白いだけだったのですが、読んでいくうちに、次々出てくる「農」にこだわった人たちの実践知に圧倒されたのです。私に「土」の意味を教えてくれた人、故内水護さんにも久しぶりに活字の上で出合えました。当時、私は全く理解していなかったという事実にも。

吉田さんは、「アグロエコロジーに関する情報を発信する情報屋」を自称していますが、東大の鈴木宣弘特任教授によれば有機農業分野において「理論的にも実践的にも支柱たる存在」なのだそうです。
吉田さんは霜里農場の金子友子さんの紹介で昨年の4月28日(日)の「湯島サロン」で「アグロエコロジーから学ぶ農と食と社会のあり方」と題する話をしてもらい、今回2度目の登壇になります。
前回の湯島サロンでの吉田さんのお話は次の動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=3tGCFMK_BcY

今回も霜里農場の金子友子さんのおかげで、再び話してもらうことが実現しました。『シン・オーガニック』は前の勉強会の3か月後に出た本なので、また、新たな話が聴けると思っています。

本書の副題は「土壌・微生物・タネのつながりをとりもどす」とあります。土壌と微生物、そして動植物のつながりは世界的に再評価されつつありますが、金子美登さんをはじめ日本の農の先達はそれを実践していたことをこの本で知りました。本書には、そうした先達の実践知があふれています。そしてそれが今、最新科学の知見によって論証されだしているのです。

重要な役割を果たしているのは、微生物です。吉田さんは、「土壌はシステム全体として機能していて、土壌中に棲息するすべての生きものたちが支え合って協働している」と言います。「わかちあい」は、生きものの世界の基本原則なのです。
そして、こう言うのです。「生命は誕生したときから、乏しい資源世界の中で生き延びるために連帯しあってきた。新自由主義経済の矛盾が深まるなか、着目される社会的連帯経済は、生物学のルールからみても、地球のデフォルトの原則だった」。

こんな話もでてきます。日本有機農業研究会を立ち上げた一楽照雄さんは「農産物を商品にしてはならない」と言っていたそうです。そこに込められた意味に共感します。その難問に取り組んだのが霜里農場の金子美登さんです。
あらゆる植物が菌根菌によって地下で接続されている「菌根菌ネットワーク」も詳しく解説されています。おそらくそのつながりは植物に限らないのではないかと私は思っています。私たち人間も、決して孤立してはいないのです。
『シン・オーガニック』には、こうした示唆に富む話がたくさん出てきます。

サロンでは農のあり方にとどまらず、吉田さんに生命原則から見たいまの農政の矛盾や資本主義社会の行き詰まり、そして、舵取りを変えつつあるスイスや台湾や韓国、日本の地方農政の最先端の胎動を足で歩かれた中から語ってもらいたいと思っています。
すぐには答えは出ないとは思いますが、私たちの生き方に関してたくさんの示唆をもらえると思います。

なお、まだ本を読んでいない方で、ご購入を希望される方は、当日、吉田さんに何冊か持ってきてもらいますので、ご連絡ください。

〇日時:2025年3月9日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「新著『シン・オーガニック』で伝えたかったこと 最新科学の知見と篤農家の叡智」
〇問題提起者:吉田太郎さん(有機農業とキューバが大好きなフリージャーナリスト)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2025/02/09

■第38回万葉集サロン「〈わ〉の先にあるもの」のご案内

今回の万葉集サロンは、おそらくみなさんもご存じない歌が採り上げられます。
巻9-1804「哀弟死去作歌一首 并短歌」です。
作者は田邉福麻呂。私は名前さえ聞いたことのない人です。
でもこの題詞からどんな歌かはわかります。

升田さんは、古代の「た」「わ」「な」の緩やかな共生の有りようを万葉集によって文学的に見てきていますが、今回は「わ」に「おの」という言語の視点・解釈を入れて、緩やかな「意識」の古代を読んでみたいと思います、と言っています。

「おの」。
「わ」のなかにまたちょっと違った意識が生まれた。
升田さんは、古代の人たちの“緩やかな「意識」”の中にある「死生観」を通して、「わ」の「意識」の先を覗いてみたいと考えているようです。
「わ」の意識と「死」の意識は、深くつながっています。

升田さんは、こんなことも言っています。

母語を通して、母語によって「哲学する」こと、固有言語によってそれをなすこと(浅利誠)。特に日本語によるこの問題の難しさは、言語学・国語学・哲学などの専門家によりすでに広く述べられているところですが、だからこそ私たちは、万葉を読む面白さを逆説的に楽しむことができるように思います。

今回は、万葉集を通して、ちょっとした「哲学の旅」や「言語学の面白さ」も味わえそうです。升田万葉集サロンの世界はさらに広がり深まるようです。

と言っても、サロンですから、いつものように気楽な集まりです。
気楽に参加し、気楽に話し合いたいと思います。

最近、湯島の別のサロンでも、言語学や哲学が時々話題になっていますが、横から見ているといずれもそれぞれの「たこつぼ」のなかでの議論になりがちです。
ぜひ一度、万葉集サロンにも参加して、全く違った風に当たってみるのも面白いという気がします。
みなさんの参加をお待ちしています。

〇テーマ:「〈わ〉の先にあるもの」
〇日時:2025年2月23日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

 

 

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2025/02/08

■第2回ブックサロン「あなたは本とどう付き合ってますか」のご案内

2月のブックサロンは、「本との付き合い方」をテーマにします。
もちろん「本の読み方」も含みますが、読まないけれど本が大好きという人もいるでしょう。本をどう整理しているか、読みたい本をどうやって探すのか、など、いろんな話題があるような気がします。

先日の第1回ブックサロンに出た鴨下さんは、「本は、読書だけのためにあるわけではない」と言っていましたが、まあ本の使い方もいろいろあるでしょう。そういった鴨下さんに最初に話題提供的な話をしてもらい、それを踏まえて、いろんな意味での本の付き合い方を話し合うサロンです。

そんなことを話し合って何の意味があるのか? と言われそうな気もしますが、まあそういうテーマでサロンをやりたいという人がいるのですから、仕方がない。
鴨下さんは、「本と関わる人が少なくなる時代(他のメディアの方が、魅力的なんでしょうが)に、みなさんで、本とどんな形でかかわってきたかを披瀝し、新しい本の使い方に気が付けば良いのではないでしょうか」と言っています。
確かにそうです。それに「新しい本の使い方」ということには関心があります。

ちなみに、前回の報告で予告した「コモンズ・ライブラリー」はちょっと案内が遅れていますが、湯島オフィスには第1次選定の10冊がほぼ集まっていますので、近いうちに発表させてもらいます。

〇日時:2025年2月28日(金曜日)午後2時~4時
〇テーマ:「あなたは本とどう付き合ってますか」
〇話題提供者:鴨下カズアキさん(名刺を持たない人)
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

 

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2025/02/07

■湯島サロン「春の食養生と季節の変わり目の「土用」の食養生」報告

9日連続サロンの最終日は、東方健美研究所代表の新倉久美子さんによる「食養生サロン」。今回は「春の食養生と季節の変わり目の「土用」の食養生」がテーマでした。
「土用」とは、季節の変わり目の18日ほどを言うのだそうですが、この期間の食はいわば季節に合わせた食体質になっている身体をもう一度基本に戻すような意味があるのかもしれません。
その意味で、土用の食養もとても大切なのです。

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新倉さんのサロンに初めて参加された方もいるので、いつものように総論もひとわたり。
ここで毎回、新しい話がいろいろと出てきます。
総論でのポイントは、ひとつは「土地と食」という切り口から、地域食文化の継承と創造の意味や「身土不二」の大切さ、もう一つは「季節と食」という切り口から陰陽五行説を踏まえた「食養」の取り組み方。まとめて一言で言えば、「その土地でとれた食材を食べ、その季節にとれる旬のものを食べること」(「風土はフード」)こそ、健康につながる「食養生」だというお話です。

それに加えて、新倉さんがなぜ「ふるさと薬膳」に取り組みだしたかのお話も毎回、とても面白いのです。いつも新しい話が組み込まれています。
今回、私が一番面白かったのは、中国の人たちの食の基本に「薬食同源」という文化がしっかりとあるという話です。
新倉さんは、薬膳を学ぶために中国に留学しましたが、身心の具合に合わせて、料理の食材を決めるのが中国の人たちの食であることを体験したそうです。
身体のどこの調子が悪いとこんな食材がいいというような「薬食レシピ」が生活の中にしっかりと伝わっているそうです。
思い出せば、私が子どものころには日本でもまだそういう文化が残っていたように思います。しかし、いまは薬食同源というよりは、薬と食が切り離されてしまっています。少なくとも私自身、どんな食材がどんな薬効を持っているかの知識はほとんどゼロで、身心の体調が悪いと薬やサプリメントに依存しがちです。
カロリーや栄養素で食材を捉えてしまう発想に依存しすぎています。
さらに食への関心が低い私には、カロリーと栄養素の違いさえ理解できておらず、今回はまたまた大恥をかいてしまいました。こんなことでは健康が維持できるはずもない。

本題の春と土用の食養生に関しては、いつものように新倉版五行配当表(添付)に従って、詳しく説明してくれました。
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食物のもつ五味五性と人間の臓器との関係を中国の陰陽五行で関連づけて、バランスよく配合するのが、「薬膳」の基本です。
五味とは〈酸・苦・甘・辛・鹹(かん)〉の5種類の味であり、それぞれの味は人体の臓腑と深く関わっています。鹹(かん)は聞きなれない言葉ですが、「しおからい」という意味だそうです。
五性とは食物が身体にもたらす〈涼・寒・平・熱・温〉の作用を意味し、身体を冷やして鎮静・消炎作用のあるものを涼・寒。身体を温めて興奮作用のあるものを熱・温。いずれにも属さないものを平で表します。
五臓、五腑、五根、五主は、身体のいろんな場所を表しています。
五行配当表をじっくりと読んでいるといろんなことが見えてきます。
新倉さんは毎回、この表を使って季節季節の食養生に関して解説してくれるわけです。
この表から、季節ごとの飲み物のお薦めも出てくるのです。

今回は「春」と「土用」です。
春の食生活のポイントは、「春は肝臓、酸味」だそうです。
春は、暖かくなる気候により植物が芽吹き、樹木は枝葉を伸ばす柔軟でのびやかな季節です。この季節を健やかに過ごす、食のポイントを漢方では「蔭」を養い育てて、肝機能を補う食事を心がけようという意味から「養蔭補肝」という言葉で表すそうです。
具体的には、涼性、冷性の食材で肝機能を補う作用のある旬のもの、葉物野菜やサヤエンドウ、レタス、ノビルやカンゾウ、ハコベなどの山野草、鶏肉、レバー、白身の魚などに「酸味」を加えて、食べるとよい、と新倉さんは言います。
また、春は目が疲れる、目がかすむ、など目にトラブルが多い季節だそうですが、こうした目の症状は肝機能の低下によることが多いそうです。ですから、旬の食材を上手に組み合わせて調理し、酸味を多めに摂るように心がけるのがいい。

「土用」に関しては、五行配当表にあるように、「涼・寒」でもなく「熱・温」でもなく、あまり刺激的でない「甘味」を意識するのがいいそうです。具体的には大豆やその加工品(豆腐やアブラゲ)をあげてくれました。そして「胃」を意識しようということでした。

前回も書きましたが、新倉さんは現在、『週刊金曜日』に毎月1回、「季節の薬膳」をレシピと写真付きで連載しています。1月24日号には、鶏肉をしっかり煮込んだスープに野菜と豆腐、茸を入れた鍋物と鶏肉エキスをたっぷり含んだ麺にラー油を垂らした鶏麺(ちーめん)を組み合わせた「口福長寿」を紹介しています。料理名の「口福長寿」は新倉さんの命名ですが、この名前だけでなんだか温かな気分なってしまいます。
今回はこれに加えて、おまけで、春食養にぴったりの「浅春チラシ」のレシピも紹介してくれました。
料理好きな方にはこんな楽しみもあるサロンです。

というわけで、新倉さんの食養生サロンはこれからも継続してやってもらうことになりました。
季節ごとに一度くらい、食生活に関して話し合うことも大切だと思ったからです。それに参加者も毎回いつも新しい人が参加してくれます。少しずつでも、ふるさと薬膳と薬食同源の文化が広がるといいなと期待しています。
また少しずつ話題も広げ、時には食養生Q&Aがあってもいいでしょう。
そのうち新倉さんが新機軸を出してくれるかもしれません。

次回の「夏養生」サロンは、5月18日に開催しますので、関心のある人は予定に入れておいてください。

 

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2025/02/06

■嘘を「正々堂々」と語る政治に慣れてきてしまってるのが恐ろしい

森友学園に関する財務省の決裁文書の改ざんをめぐり、関連文書の不開示決定を取り消した大阪高等裁判所の判決に対し、政府は上告しない方針を決めました。
財務省は、この関連文書の存在を認めたわけです。

これはどういう意味を持っているのでしょうか。
要するに、政府は嘘をついていたということです。
嘘をつくことに関して、以前から何回か書いているように、政府の姿勢が変わったのは私の印象では小泉政権からです。
嘘が堂々と政治答弁として活用されるようになると当時のホームページにも書きましたが、日本は嘘を「正々堂々」と語る政治という点では、トランプ政権よりも早かったのです。いまさらトランプのフェイク政治に驚く人たちの気持ちがわからない。
日本には小泉さんという偉大な先人がいたのです。

それにしても、どうしてこうも嘘だとわかっていても嘘にみんな従ってしまうのか。
そういう風潮と、オレオレ詐欺や闇バイトがなくならないのとはつながっています。
20年前に危惧していた社会にどんどん近づいている気がします。
嘘をつく人がみんな好きなのでしょうね。
そうとしか思えない。

もちろん私は嫌いです。
嘘だけはつきたくないということを信条にしていますから。
でも、いまのような状況では意図しない嘘を私も気づかないままについているのでしょうね。
いやな時代です。

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■節子への挽歌6254:佐藤さんは差別主義者の白人のマインドのままだ

節子
ひどい言いがかり(だと私は思いますが)をいまサロンに参加している人から言われてしまいました。
サロンでの私の発言が気に障ったようです。
膨大なメッセージや写真がメッセンジャーで届きだしたのです。

たとえば、こんな書き出しです。

佐藤さんは、差別主義者の白人のマインドのままだと認識しています。
そして、湯島サロンは、佐藤さんはそう言われると烈火の如く怒られると思いますが、主である佐藤さんにマウンティングされている人々の集まりです。そのつもりはない、そう仰る姿が目に浮かびます。佐藤さんが、「そのつもりはない」ように心がけて生きてこられたことは十分理解できます。
しかし、神ならぬ人間には、それは叶わぬことです。
実際、佐藤さんがFBで呟かれる、その太陽の周りを惑星が回っているだけですから。

なるほど、そう言われてみれば否定はできません。
というよりも、そういう見方もできるわけです。
しかし、サロンに参加している人たちには大変失礼な言い方です。
もちろんその人もサロンに参加しているのですから、自己反省という風にも捉えられますが、その後につづくのが私への非難です。
そして自らがいかに苦労して、男社会にいじめられてきたかを書いている。
もううんざりの話が写真付きで送られてくる。

まあ時にこうしたことがありますが、今回はいかにもしつこい。

そしてこう書いてきました。
もうサロンには参加しません。

湯島のサロンは、来る者は拒まず去る者は追わずですので、はい、わかりましたと返信しました。
でもまだ送られてきます。
なぜか彼女の職場の集合写真(ほとんどが男性です)まで数枚送られてきた。
誰かわかりませんが、「A君の話」なるものも送られてきた。
さてさてどうしたものでしょうか。

 

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■湯島サロン「日本の捕鯨の現状」報告

湯島のサロンでは、農業に関しては毎年数回のサロンを開催していますが、水産業に関しては全くと言っていいほど、とりあげてきませんでした。
しかし、食生活を支えるという意味でも、あるいは国際政治を理解していくという意味でも、水産業は農業と同じように私たちの生活に深く関わっています。
そこで今年から、水産業に関してもしっかりと取り組んでいこうと思います。
幸いに昨年、「世界議会」のサロンをやってくれた原田雄一郎さんが、水産業界で活動してきた人なので、この企画への協力をお願いしました。

その原田さんの提案で、1回目は「クジラ」を取り上げ、日本捕鯨協会理事長でクジラ食文化を守る会の理事長でもある谷川尚哉さんに「日本の捕鯨の現状」についてお話ししてもらいました。
実に興味深い、そして示唆に富むサロンでした。内容が盛りだくさんで、すべての報告が難しく、ほんの一部しか報告できないのが残念です。
ちなみに私の知識不足で誤解しているかもしれませんし、解釈も主観的になっていますので、この報告の文責はすべて私にあります。

谷川さんは、そもそもの専門は「人文地理学」で大学で教鞭をとっていますが、昨年6月に日本捕鯨協会の理事長に就任しました。この人事にもとても興味を持ちます。そこに日本の捕鯨産業や鯨食文化の問題が象徴されているのかもしれません。ここだけでもじっくりとお話をお聞きしたかったのですが、今回はともかく「日本の捕鯨」の現況をしっかりと理解することを目指しました。

最初に、現在の捕鯨を支える「捕鯨4団体」(日本捕鯨協会・日本鯨類研究所・日本小型捕鯨協会・共同船舶)の話がありましたが、そこからも日本の捕鯨の歴史が凝縮して伝わってくるように思いました。
つづいて、「捕鯨の歴史」。縄文時代から日本列島に住む人たちがクジラを獲って、食べるだけではなく脂や骨も活用していたことは私も知っていましたが、改めてエネルギー面で「クジラ」が大きな意味を持っていたことに気づかされました。
特に興味を持ったのは、鯨油と産業革命がつながっているという話でした。私は食材としてのクジラばかりをイメージしていましたが、鯨食文化があまりないイギリスやヨーロッパ大陸諸国では主に鯨油のためにクジラが捕獲されていたのです。
石油が普及しだすにつれて、欧米の捕鯨は衰退に向かったようですが。
捕鯨をエネルギー産業につなげて考えていなかった私の視野の狭さを思い知らされました。欧米の人と私たち日本人とは、経済面でも捕鯨の位置づけが違っているのかもしれません。

ちなみに、昔から鯨肉が食料としていた民族は別にして、現在、鯨を食材にしている国は、ノルウェイとアイスランド、そして日本など多くはないそうです。

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つづいて、谷川さんは日本の捕鯨業の概要や最近の動きを話してくれました。2024年には73年ぶりに建造された捕鯨母船「関鯨丸」の話もありました。日本の捕鯨業の拠点や操業実績も紹介してくれました。

さて問題は、国際捕鯨委員会(IWC)との関係です。そこにさまざまな問題が含意されています。
国際的な反捕鯨運動の高まりのなかで、日本の捕鯨はNGOのグリーンピースやシーシェパードによって様々な妨害活動を受け、結局、日本は2019年に国際捕鯨委員会(IWC)を脱退することになり、沿岸200海里水域内で「商業捕鯨」を再開しました。
ここまでは多くの人が知っていることでしょう。
シーシェパードによる日本の捕鯨への妨害活動はテレビでもよく報道されていました。
シーシェパードは、海洋生物保護を掲げる海洋環境保護団体とされていますが、これをみて、生物保護や環境保護とは一体何なのか、さらには国際機関やNGOとは何なのかを考え直した人もいるでしょう。少なくとも私はその一人です。

国際捕鯨委員会(IWC)は、鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図ることを目的として1946年に設立され、日本も1951年に加盟しています。
ところが、1970年代になると反捕鯨運動が高まり、1972年にストックホルムで開催された国連人間環境会議(ストックホルム会議)において「商業捕鯨10年間モラトリアム勧告案」が採択されました。
このストックホルム会議は、市民活動組織も参加し、世界各国の環境問題へ取り組みの流れを変える大きな役割を果たしましたが、そこにはさまざまな政治的利害が絡んでいたのです。捕鯨問題はそのための材料にされたのかもしれません。
この辺りは深入りするといろんなことが見えてくるのですが、深入りはやめましょう。しかし谷川さんのお話は忘れかけていた当時のことをいろいろと思い出させてくれました。

IWCでは、当初、この勧告を科学的根拠がないとして却下していましたが、その後反捕鯨国によるIWCでの多数派工作により、結局、1982年にいわゆる「商業捕鯨10年間モラトリアム」を採択、商業捕鯨の一時停止が認められたのです。その「長い10年」はいまも続いています。
この時点で日本はIWCから脱会する選択もあったのですが、これまたいろいろな政治が絡んで、調査捕鯨へと移行したのです。しかし2019年、日本はIWCから脱退して200海里水域内での商業捕鯨を再開したのです。
この間のIWC加盟国の反捕鯨国と捕鯨容認国の駆け引きは、いささかうんざりするような話ですが、国際政治の本質を感じさせられるものがあります。
ちなみに、反捕鯨活動の中心は、当初の英米中心からオセアニアに、そして今はブエノスアイレスグループに移っているそうです。

日本における鯨肉供給量は、商業捕鯨モラトリアム導入後は、それまでに比べて激減し、最盛期の1~2%になってしまいました。この状況はIWCを脱会し商業捕鯨になった今もそう変わっていませんが、最近はノルウェイからのミンク鯨の輸入も始まっています。

クジラ料理などに関しても、いろいろと話してくれましたが、長くなるので報告は省略します。ただ、サロンで谷川さんが配布してくれた日本捕鯨協会の「捕鯨概況」にはとても興味深いことが載っていました。
たとえば、クジラを食べると海のSDGsに貢献できるというのです。クジラは1日に体重の4%の餌を食べており、日本鯨類研究所の試算では、地球上でクジラが1年間に食べる水産資源の量は人間の年間漁獲量の3~6倍だそうです。
また、牛、豚、鶏といった主要な食肉では1キロの肉を生産するためにその4倍から11倍の穀物が必要ですが、逆に、クジラは1頭捕獲すれば年間でその体重の約15倍の餌となる水産資源が人類のために利用可能となるというのです。
またクジラの肉には認知症予防効果があることもわかっているそうです。
問題は、鯨肉の味ですが、これも最近は私が子どもの時代とは全く違っているようです。
そうした鯨食文化も少し話してくれました。

原田さんは、日本の食文化の一旦を担ってきたクジラ食の行方を心配していますが、食生活を安定させていくためには、食材の多様化が大切です。食文化としてのクジラ食を維持、拡大するにはどうしたらいいのかは、もっと私たちも意識しなければいけない課題ではないかと思いました。

そういえば、参加されていた長崎出身の方が、いまでも長崎ではお正月のお節料理には鯨肉が使われるという話を紹介してくれました。
谷川さんによれば、いま日本で鯨肉の消費量が一番多いのは長崎だそうです。

長くなってしまいました。これでも谷川さんの話してくれたことの一部ですし、私が示唆されたことのほんの一部です。
いつかまたクジラをテーマにしたサロンをやりたいと思います。

水産業に関するサロンは、不定期ですが、これからも続けて開催していく予定です。

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2025/02/05

■節子への挽歌6253:「TRUE COLORS」

節子
同もまた最近すっきりしません。
なんとなく調子が悪く、今日もまただらだら過ごしてしまいました。
読書もする気にならず、散歩にも行く気にならず、自宅でだらだらと録画していたテレビドラマを観ていました。
どれもこれもあまり面白くない。
いま面白いのはNHKの「TRUE COLORS」だけです。
https://www.nhk.jp/p/ts/RK8N4QPPPW/
前にも面白かった「グレースの履歴」と同じ源孝志さんの作品です。
なんとなく涙が出そうになり、見終わった後、いつも余韻が残ります。
いいドラマは心が洗われる。

このドラマは家族がテーマでしょうか。
いや必ずしもそうとは言えません。
人はみんな気遣い合いながら支え合いながら生きている、ということでしょうか。
いや必ずしもそうとも言えない。
でもどこかで、「生きるとは何か」を問うてきているような気がします。
登場人物はみんないい人ばかりです。
でもどんないい人も、いまの時代の中で生きようとするとおかしくなる。
ああ貯めて本来の生き方を取り戻そう、そんなメッセ―ジでしょうか。
いやいやそれも違う。

キャスティングも音楽も、構成も実にいい。
源孝志さんの作品は、これからも見落とさないようにしたと思います。

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■湯島サロン「トランプは世界をどう変えるのか」報告

9日連続サロンの2日目に開催されたサロンの報告です。

いよいよトランプ大統領のアメリカが始まりました。
果たして世界はどう変わるのか。
トランプ出現後のアメリカ大統領選挙の動きを追いかけてきている北川泰三さんに、これまでの経緯を振り返ってもらいながら、これからの世界にどういう影響が出てくるかを話してもらいました。
陰謀論に関心のある人にとっては、「トランプによって陰謀論の真実が暴露されるか」という期待も大きいでしょう。実際にそうした動きは出始めています。

2016年の時と今回はいろんな意味で大違いです。
2016年はまさかのトランプ政権誕生でした。物議を醸す言動でそもそもトランプの人物像が見えてこない。しかもパリ協定もWHOも有無を言わせずに脱会。そのおかげでいろんなことも見えてきたと思いますが、ともかくあまりの型破りな言動にみんなついていけずに思うような成果が出ず、2020年の大統領選では意外な敗退。
しかし、そのトランプは再び帰ってきたのです。

トランプ政権の再びの誕生には、真反対の評価があります。
トランプ支持者たちは、民主党時代のアメリカは、民主主義ではなく、官僚主義が支配していた。これから陰謀論で語られていたことのなかに事実があったことが明らかになっていく。DS(ディープステート)官僚から国民が支配されていた状況は変わっていく。そして再び、アメリカの黄金時代がやってくる。そう言います。

北川さんは、必ずしもそうしたトランプ支持者の言い分をすべて受け入れているわけではないでしょうが、トランプ政権誕生を好意的に受け止めています。
実際に、そうした動きはすでに動き出しているからです。
たとえば、教育省の廃止。アメリカンアカデミー(無料のオンライン大学)を設立し私立大学の課税で運営。保健福祉政策の転換。そして肥大化した政府のスリム化。
そうしたトランプ政権のポイントを北川さんは3つの言葉で表現しました。
“MAGA”“MAHA”“DOGE”

“MAGA”は、トランプの有名なスローガン「Make America Great Again:アメリカを再び偉大にしよう」です。
“MAHA”は、トランプ政権の保健福祉長官に選ばれたロバート・ケネディ・ジュニアの「健康な国」を目指す「Make America Healthy Again」構想。
“DOGE”は、イーロン・マスクが新設した政府外助言機関「政府効率化省(DOGE)」。それこそ異次元の行政改革が具体的に発表されています。

つづいて、すでに発表されている政策を、北川さんは紹介してくれましたが、それに併せて、軍産複合体と医産複合体を通して国際金融資本が、マスメディアと法を駆使してアメリカ国民を収奪していたアメリカ政治の構造をわかりやすく図解してくれました。

すでに明らかにされている情報をていねいに集めていくといろんなことが見えてきます。たとえば北川さんはマイク・ジョンソン下院議長が、この4年間のバイデン政権下ではバイデン大統領は実権を握っておらず、自らが理解できない大統領令に署名していることを認めただけでなく、バイデンと会うにはCIA長官が同席する必要があったことを認め、彼は大統領ではなくCIAが我が国を運営していると認めた、と発言したそうです。こうした事実はなかなか日本のマスコミでは報道されません。
しかし、そうした情報をていねいに集めていくと、表には隠された構造が見えてくる。

いずれにしろ、トランプ政権が実現することになったことが、世界の動きを大きく変えていることは事実です。というか、世界の動きが大きく変わりつつあることが、トランプ政権を実現させたともいえるかもしれません。
北川さんは、単にトランプ政権だけではなく、それに絡み合うような形で、世界が揺れ出していることに目を向けないといけないと言います。
もちろん日本も、そうした動きに無関係ではない。

日本のテレビでも報道されていますが、トランプ大統領は就任直後、まるで倒産会社の立て直しのように矢継ぎ早の大統領令を出しています。
そのなかには、WHO(世界保健機関)からの離脱やパリ協定からの離脱に関するものもありますが、なかには「ダイエットコーラの専用注文ボタンを大統領執務室に設置」などといった大統領令まであるそうです。
これをどう受け止めるか。
移民政策やパリ協定離脱よりも、私には象徴的なものに感じます。
トランプ政権は、政治のパラダイムを変えようとしているのです。従来の発想で捉えてしまうと、間違ったメッセージを受け止めることになりかねません。

最後に北川さんはこうまとめました。
トランプ大統領は、よくもわるくも、アメリカ政府(国家)を経営し直そうとしている。まさにビジネス界で生きているトランプならではの発想です。
外交政策の基本が「ディール」なら、ディール主体としての政府もビジネス感覚で徹底的にマネジメントを強化、あるいは経営変革しようとしているのです。
ポリティカル・エコノミクスの時代からエコノミカル・ポリティクスの時代へと大きく転換しようとしている。私が最も危惧している時代の流れです。

北川さんはその動きを好意的に見ているようで、誰も改善しようとしない日本はどうするのか、日本も徹底的な改革が必要ではないのか、と言います。手取りを増やすレベルでは無理だとも。
そして、日本版MAGA、MAHA、DOGEを目指せ!という。日本のイーロン・マスクは誰だろうともいう。
この点に関しては、私は全く賛同できません。
むしろ恐ろしいのは、そういう株式会社アメリカ合州国の子会社として、親会社のために収奪されたり、汚れ役を担わせられたりする主体的経営権なき隷属子会社になることが恐ろしいのです。テレビの見過ぎのせいか、石破総理がフジテレビの辞任した前社長に見えてくる。トランプが誰に見えるかは言うまでもない。

ただ一筋の光はある。
トランプ政権が目指すのは、「低所得・中間層から搾取し、貧しい国の富裕層に金を与えていることを止める」ことだと北川さんは言いますが、もしそうなら希望はある。

いずれにしろ、すでにトランプ政権は動き出しました。
陰謀論で取りざたされてきていることがどんどん顕在化してきています。
日本のマスコミ政治報道は相変わらずですが、でも周辺から変わりだしました。
国際政治も、各国政治も、大きく揺れ動きだした。
日本もいい方向に動いてくれるといいのですが。
それに関しても北川さんは私見を少し話してくれましたが、それは省略します。

話し合いの内容も省略ですが、1点のみ。
陰謀論関係のサロンにはわざわざ新潟から参加する人がいます。
その人が「金が高騰しているのではない」と明言したのが印象的でした。
金価格の高騰を、金の視点で見るか国際通貨制度の視点で見るかで、世界や歴史の見え方が全く違ってきます。
これはまさに「陰謀論」との付き合い方の要を衝いているように思います。

9回連続サロンの報告の流れで、いつもよりも軽く書いてしましました。
北川さんに叱られそうです。

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2025/02/04

■節子への挽歌6252:異常な血圧値

節子
今日は節子の誕生日。
もし元気であれば、節子も80にあと一歩です。
80歳の節子に会いたい気もします。

今日はいしど歯医者さんに行きました。
奥歯に冠をかぶせたのですが、その高さ調整に小一時間かかってしまいました。
まあそのうち慣れるのではと何回か言ったのですが、私がかかっている歯医者の石戸さんはそんな妥協はしないのです。
ミクロンベースでの調整なのです。
この石戸歯科医にかかりだしてから、歯に関するトラブルは皆無です。歯のことはすべて石戸さんにお任せです。
「食」が「生命」にとっての基本なら、「歯」は「健康」にとっての基本ですね。
節子が、癌治療に入る前に、まずは歯をしっかり治しておくのだと言って、友人が紹介してくれた歯医者さんに通っていたのを思い出します。

ところでいしど歯科医では治療の前後に血圧を測ります。
手首で計る血圧計ですが、今回はうまく測れないのです。
血圧計を代えてやっと測定できましたが、なんと209/116です。
かなりの異常値です。
実は昨日、1日中、本を読んでいたら、頭が痛くなってきて、血圧の高さを感じていたのですが、これほどまでに高いとは思ってもいませんでした。
これまでの最高記録ですね、と言ったら、わざわざ調べてくれて、いや「216」がありましたよと言われました。つい「残念」と言ってしまいました。

しかしそれにしても209/116は高いです。
帰宅して自宅の血圧計で計ったら、163/86でした。
まあこれなら私にとってのいつもの値です。
でもなんとなく調子はよくない。
それで今日もまただらだら過ごすことにしたわけです。
だらだら過ごせばいいというわけでもないのですが、昨日はいささか背伸びして難しい本を読みすぎました。あんまり理解もできないのに。「背伸び」はよくありません。

血圧にも少し気を付けなくてはいけません。

 

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2025/02/03

■節子への挽歌6251:サロン葬はどうだろう?

節子
思いつきで始まった9日連続のサロンマラソンはおかげさまで無事終わりました。
いろんな人が、なぜか心配してくれたのですが、私には楽しい9日間でした。

会社を辞めた年(1989年)、活動拠点として今の湯島のオフィスを開きましたが、その時に1週間、ともかく在室するので遊びに来てください、と退社通知代わりに案内したところ、延べ100人を超える友人知人が来てくれました。
まだバブルの余韻のある時代でしたので、大きな観葉植物もたくさん届きました。
その楽しさが、私のサロン活動の始まりでした。

あれから35年。その時に参加してくれた人は、今回2人しかいなかったのですが、その2人の若いほうの人も、今年の3月で定年退職だそうです。
35年というのはそういうことなのだと実感しました。

今年はできればもう一度、サロンウィークというのをやってみたくなりました。
35年前の再現ですが、まあ私の生前葬の予行練習にしてもいいかなと思っています。
もちろんそういう意図は隠してのサロンウィークですが。

書いていてまた思いついてしまいました。
「サロン葬」っていいですね。
サロン前半は私が存在するサロン、後半は私のいないサロン。
中日にうまく死ねるとは限らないので、ひと工夫が必要ですが、魅力あるアイデアです。

さてどんなものでしょうか。
節子がいたら協力してもらえたので実現できたかもしれませんが、一人ではやはり無理でしょうかね。

 

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■9日連続サロンは無事終わりました

思いつきで始まった9日連続サロンはおかげさまで無事終わりました。
いろんな人が、なぜか心配してくれたのですが、私には楽しい9日間でした。
ありがとうございました。

 会社を辞めた年(1989年)、活動拠点として今の湯島のオフィスを開きましたが、その時に1週間、ともかく在室するので遊びに来てください、と退社通知代わりにみなさんにご案内したところ、延べ100人を超える友人知人が来てくれました。まだバブルの余韻のある時代でしたので、大きな観葉植物もたくさん届きました。

その楽しさが、私のサロン活動の始まりでした。

あれから35年。その時に参加してくれた人は、今回2人しかいなかったのですが、その1人も、今年の3月で定年退職だそうです。
35年というのはそういうことなのだと実感しました。

サロンの報告がまだ3つほどできていませんが、とりあえずの報告です。
今年はできればもう一度、サロンウィークというのをやってみたくなりました。
35年前の再現ですが、まあ私の生前葬の予行練習にしてもいいかなと思っています。
もちろんそういう意図は隠してのサロンウィークですが。

書いていてまた思いついてしまいました。
「サロン葬」っていいですね。
サロン前半は私が存在するサロン、後半は私のいないサロン。
中日にうまく死ねるとは限らないので、ひと工夫が必要ですが、魅力あるアイデアです。

 

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2025/02/02

■節子への挽歌6250:サロンマラソンが終わりました

節子
サロンマラソンの最終日は、新倉さんの「春の食養生と季節の変わり目の「土用」の食養生」でした。季節ごとにやってもらっていますが、節子がいたらもっと生活に活かせる話ですが、何しろ調理音痴の私ではなかなか教えてもらったことをうまく活かせないのが残念です。

サロンの前に、いつもなのですが、新倉さんは全国から届く食材を生かしたお弁当をつくってきてくれます。
今回は私の好きなお漬物を中心に、野菜の煮物など、まさに薬膳的なお弁当です。
食事を一緒にすると、いろんな話が出てきます。
みんなそれぞれ荷物を背負って生きている。
それがよくわかります。
そうした「荷物」をちょっと肩から降ろして休む場所。
湯島はそんな場所になればいいなと思っていますが、なかなか難しいです。
でもいろんな人がやってきてくれるということは少しずつそういう場所になってきているのかもしれません。

9日間のサロンマラソン。
疲れましたが、元気をもらったような気がします。
明日から少しゆっくり休む予定です。

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■闘論サロン①「安楽死をどう思いますか」のご案内

湯島サロンに「闘論サロン」を新たに組み込むことにしました。
いつも以上に異論反論をぶつけ合うサロンです。

その第1回のテーマに「安楽死をどう思いますか」をとりあげました。
以前、一度、このテーマでサロンをやったことがありますが、前回以上に激しい闘論ができればと思っています。

ちなみに私は「安楽死反対」です。
尊厳死は私自身望みますが、安楽死などという表現さえ生理的に受け入れられません。
安楽に死のうなどというのは、私には理解できないからです。それに自らの死に他者を巻き込むことには違和感があります。
しかし、最近、読んだ橘玲さんの「DD論」という本に、こんな章立ての一節があったのです。

「日本で安楽死が認められないのは、日本人が「愚か」だから」

そこに出てくる文章を、少し修正して引用させてもらいます。

日本では(安楽死に関する)議論すら許されない。その理由はきわめて明快で、「日本人の民度が低いから」です。そのときに使われる定番の理屈は、「欧米と比べて同調圧力の強い日本で安楽死を認めれば、社会や家族の都合で生死が決められるようになる」です。これは、「日本人は愚かだから欧米と同じことをするのは無理だ」というのと同じです。

これを読んだ時に、さすがに私はむっとしました。橘さんは欧米文化が日本よりも優れているとか日本のほうが同調圧力が強いとかお考えのようですが、私はそうは全く思っていないからです。そもそもそんな比較はしてほしくない。
ということで、これを闘論サロンの1回目にすることにしました。

安楽死賛成論者は多いと思いますので、ぜひ賛成者の方の参加をお待ちしています。
もちろん反対者の方も歓迎です。

なお2回目以降のテーマも募集しています。

〇日時:2025年2月22日(土曜日)午後2時~4時
〇テーマ:安楽死をどう思いますか
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2025/02/01

■湯島サロン「『社会心理学講義』を読み解く⑥:『ことばと文化』(岩波新書)を材料に「虚構」につて考える」報告

サロンマラソン7日目は、遠山哲也さんの「『社会心理学講義』を読み解く」サロンの6回目。半世紀前に話題になった鈴木孝夫さんの『ことばと文化』(岩波新書)をテキストにして、「文化の相対性」や「言葉の恣意性」から私たちの生活の周りに充満している「虚構」につて考えてみるサロンでした。

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このサロンの問題提起者は哲学者の遠山さんですが、遠山さんはもちろんですが、一家言ある参加者が多く、話し合いについていくのが大変です。ましてやその報告となると頭が痛くなる。しかし、今回は9回連続サロンの一環なので報告も気楽にさせてもらうことにします。というか、遠山さんの意図はあまり斟酌せずに挑発的に書こうと思います。

遠山さんはまずみんなに「虚構の対義語は何ですか」と問いかけました。
さて皆さんはどう答えるでしょうか。
事実? 現実? いや、真実?

ついついそう考えてしまいがちですが、遠山さんはそう考えてしまうことに問題があるというのです。そして、そもそも「問い」に「答え」があるという思い込みを捨てなければいけないという。問いかけておきながら、答えを考えてはいけないとは、実に性格が悪い。そもそもソクラテスもそうでしたが、哲学者は性格が悪い。

とは言いながら、性格が悪いとよく言われる私も、遠山さんには大賛成です。これまでの学問は答えのために問いをつくるのが基本だったような気がします。そうしないと採点ができないからです。しかも答えは一つでないといけない。そうした「学問」をベースにした「学びの場」がどういう社会を生み出したかは、いま明らかになってきているような気がします。「学び」というよりも「訓練」や「教育」でしかないとしたら、そこには「学びたい人」の居場所はない。それに気づかなければ、不登校とかいじめはなくならない。挑発しすぎですね。反省。

学問に関する議論はいろいろありましたが、遠山さんは分科された知の体系と学問とは別だと考えているようです。そして遠山さんは『ことばと文化』からも学問の原点は人間学で、学問の本領は抽象化だと読み解くのです。

ここまでは共感できますが、遠山さんはさらに、すぐに具体的事例を求めるのは「頭が弱い」からで、そこに安住することなく、弁証法で高い次元での合一を求めるのが学問だというのです。ここは全く納得できないので、遠山さんにはそういう言い方こそ「頭が弱い」証拠ではないかという趣旨の発言を返してしまいました。

これも実はそれぞれが、自分の価値世界を虚構しているわけです。
抽象化とは、実は恣意的に構築できることは遠山さんも認めています。

ところで、遠山さんの冒頭の問いは、すべての問いがそうであるように、2つの問いからなっています。「その問いが成り立つかどうかの問い」と「成り立つとしたらその答えは何か」の問いです。
遠山さんは、問いに対してはそこから考えないといけないというのです。「問い」にこだわる私としては、とても共感できます。

ちなみに、対義語事典などでは、「虚構」の対義語は一般に「事実」となっている。
虚構の対義語として事実があるという世界は存在します。しかし、虚構も事実も同じものという世界もある。なぜならすべては「ことば」で語られているからです。

もっと言えば、「ことば」ももう少し丁寧に定義しないと本当は語れないと私は思います。鈴木さんの『ことばと文化』の議論はわかりやすく書いたためか記述は極めて粗雑ですが、半世紀前には新鮮だったのでしょう。とりわけ言葉の世界で生きている学者には新鮮だった。でもたぶん毎日土と暮らしている農民たちにはたぶんみんな分かっていたことではないかと思います。言語化や抽象化はしていなかったとしても。
またまた挑発の行き過ぎですね。

でも「ことば」と言っても、話し言葉もあれば書き言葉もある。さらに書き言葉の文字は象形文字(表意文字)も記号文字(表音文字)もある。もう少し言語学的に整理しないとそうでなくても多義的な文化と組み合わされると訳が分からなくなりかねない。

しかし、言葉が生み出す世界が虚構の世界であることはほぼ合意されたような気もします。いろんな議論はありましたが。
空間的な「もの」の世界が「現実」で、時間が生まれた「生命」の世界が「虚構」というような議論や人にとって虚構が生まれるのは成長のどの時点かというような話し合いもありました。

そういえば、「1+1=2」は正しいかという問いかけもありました。数学における虚構主義としてよく問われる問いですが、遠山さんはととてもわかりやすい話につなげてくれました。これは10進法の話で、2進法ならば桁が上がって「1+1=10」になるというのです。これは明快です。
私も学生の頃、ブール代数とか非ユークリッド幾何学などの話を聞いて、数学でさえ狭い領域での仮説集合であることを知ったことを思い出しました。

いずれにしろ言語化された世界はすべて虚構であり、いかようにも組み換えられるのです。益田サロンで繰り返し議論されていた「生物と環境」の「環境」が虚構化するということにつながっています。

今回はちょっと書き散らした報告になってしまいました。
遠山さんの挑発に乗せられた気がしないでもありませんが、小坂井さんの『社会心理学講義』の読み解きがこんな形で展開していくとは思ってもいませんでした。

次回はベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』か、カルロ・ロヴェッリの『世界は「関係」でできている』を参考テキストにするそうです。
どちらになるかで全く違った話になりそうな気がしますが、哲学者の遠山さんのなかでは同じ話なのかもしれません。
日程は3月7日(金曜日)の午後2~4時の予定です。

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■節子への挽歌6249:クジラのサロンがやっと実現しました

節子
サロンマラソンも8日目になりました。
今日はこのサロンマラソンの中でも私が楽しみにしていたサロンです。
テーマは「クジラ」。
話題提供者は、日本捕鯨協会理事長で中央学院大学教授の谷川尚哉さん。谷川さんはクジラ食文化を守る会の理事長でもあります。
谷川さんを紹介してくださったのは、昨年、湯島で世界議会のサロンを開いてくれた原田さんです。

2020年の春に「くじらのことをもっと知ろう!」というサロンを企画していたのですが、コロナのために中止になってしまい、そのままになっていました。
それでずっと気になっていたのですが、やっと実現しました。

私の父親は新潟県柏崎市の鯨波というところの出身です。
鯨波は柏崎市の一部ですが、その近くには昔、良寛がいて、疎開で鯨波で暮らしていた時には、良寛の話を何回も聴いていました。
またすぐ近くには山崎弁栄上人が最後を過ごしたお寺もありました。

鯨波は日本海に面した小村ですが、昔は沖にクジラが見えたそうです。
だから鯨波なのだそうです。
そのためでもないのですが、クジラには昔から関心があります。

谷川さんのサロンの報告は別途時評編でしますが、とても共感できる内容でした。
特に最近の環境活動がむしろビジネス化していることなどが、産業の劣化を物語っていることを改めて確信できました。
次はマグロのサロンをやりたいと思っています。

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