今年の憲法サロンは、日本国憲法第1条天皇を話題に選びました。
かなり激しい議論になるかなと思っていましたが、例年とは全く違った参加メンバーで、天皇制への強い意見をお持ちの方はいませんでした。
最初にまず、天皇個人と象徴天皇制に対する好き嫌いを訊いてみました。
おひとりだけ、天皇制ではないのですが、国歌「君が代」に強い拒否感をお持ちの方がいたのと、人としての人格が認められていない天皇への強い同情感をお持ちの方が2人ほどいましたが、大方は天皇にも天皇制にも特別の強い思いを持っていないように感じました。
天皇制は、今やそういう存在になっているのでしょうか。つまり「脱政治化」されてしまったのでしょうか。
私自身は、そうは考えていないので、今年の憲法サロンで取り上げることにしたのです。
象徴天皇制度によって民主主義の復権ができるのではないかと思ったからです。
しかしどうやら、「国民の主権意識」は象徴天皇に吸い取られて一括葬り去られてしまったようです。反対の選択肢もあったと思うのですが、日本国憲法に込められた「権力者」の意図にからめとられたようです。
話し合いに入る前に、添付の資料に基づいて少しだけ話をさせてもらいました。
そこで農本主義思想家の権藤成郷が唱えていた日本型コミューン主義を紹介し、その実現のために天皇制度を基軸に考えられないかと問いを投げさせてもらいました。
権藤成郷を紹介している内田樹さんの『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』によれば、「幕末から近代に至るまで、日本におけるすべての革命的な思想は、中間的な権力構造の媒介物を経ずに、国民の意思と国家意思が直結する「一君万民」の政体を夢見てきた」と言います。
そして、「国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結する「一君万民」の政体」こそ、日本型コミューン主義だというのです。
言い換えれば、日本型コミューン主義、さらに言えば多数決原理を主軸にする民主制政治とは違った個人を尊重する民主主義政治(宮本常一が報告している対馬の寄り合いを思い出します)を可能にする要素を「天皇制」は持っているのです。
そうなっては困るので、憲法では第4条で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と定めたわけですが、「国事」とは何か「国政」とは何かの解釈次第で、いかようにも解釈は変えられます。
国家の臣民を自認している憲法学者にはできないことでしょうが、これを逆手にとって、日本型の民主主義政治を実現する道があると思います。
それはともかく、国家レベルではなく、もう少し小さい範囲では、こうしたコミューンは実現しています。というか、それが本来の人間社会の原型だったはずです。
たとえば明治初期には「隠岐コンミューン」というのが記録されています(資料参照)。
しかし、国家レベルとして実現するには、「主権者の国民」と「総意の象徴の天皇」の間に、「決して権力化することのない官」という行政機関をどうやってつくるか、が課題になります。これは難題ですが、しかし、そういう日本型コミューン主義政体を考えるのは無駄ではないと思います。
増田さんの7回目のサロンで、山本眞人さんが示してくれた「ネオ・リベラリズムと国家に抗う島々(コミュニティ)のネットワーク」が、近代国民国家に代わる可能性があるのです。
これは、日本構想学会の西さんがサロンで提唱していた「2国連邦国家」とは違って、国家のパラダイムを変化させると言ってもいいでしょう。
その実現のためには3つの要素が必要です。
制度的には、「主権者の総意を集約する仕組み」と「象徴がそれから逸脱しないかどうかを監視するしくみ」が必要ですが、それ以上に必要なのは、「主権者の意思の存在」です。
そうしたことを実現するものとして「憲法」は存在すると言ってもいいでしょう。
そして、主権者としての意識を持っている国民の思いをすべて包み込む存在としての象徴が天皇ということです。言い換えれば、天皇は主権者の総意を受けて言動するわけです。それが政治を動かしていく。
しかし、日本国憲法は、国民の主権の総意を天皇に集めたうえで、「国政」にかかわってはいけないとしたわけです。こうして国民の主権は無効化され、残るは権力の象徴たる総理大臣を決める国会議員を「多数決」で選ぶ権利がそれに代わってしまったわけです。
最後に「オメラスの話」をさせてもらいました。
象徴たる天皇は、中間の権力者によって幽閉される恐れがあります。いやすでに日本の天皇はそうなっているのかもしれません。天皇家族に関するマスコミの取り上げ方にそうした一面を感じます。私たちはみんな「オメラスの平和」のなかで、主権などという煩わしいことから自己を開放しているのかもしれません。
とまあこういう話を少しだけさせてもらったうえで、話し合いにはいりました。
もう少していねいに私の問題意識や実践戦略を話せばよかったのですが、やはりどうもうまく問題提起できなかったようで、後から参加者の一人から「退屈だった」と叱られました。
話し合いでも話題はいろいろと出ましたが、どうも「天皇制を核にして民主主義を実現しよう」という提案は賛同を得られなかったようです。
「天皇制是か非か」論議が展開されると思って、あらかじめ関連図書を読んで参加してくださった方もいるのですが、今回は「是か非か」論ではなく、「存在する制度の活かし方」論をしたかったので、申し訳ないことをしました。
参加していた北さんからはコミュニティに関連して、バタイユの「無頭の共同体」、アセファル組織の話が出ました。別に象徴などいらないのではないかというわけです。たしかに小さなコミューンでは状況主義的リーダー制でうまくいくでしょうが、それで果たして地球全体を包めるかどうか。
ちなみに、6月1日に湯島でアセファル組織のサロンを開催する予定です。
と同時に、北さんからは「象徴」は人間でなければいけないのかという問いかけもありました。もちろん人間でなくてもいいですが、でもそれがAIにはしたくない。神のようになってしまいかねないからです。
サンマリノ共和国のように、期限を持って抽選で決めるのも一案でしょうが、制度的には悪用防止の難しさがあります。小さなコミューンではいいでしょうが。
1400年続いている天皇家という特殊な存在は、やはり私には魅力的です。これまでは(いまもなお)「中間的な権力」に利用されてきてしまいましたが。
ほかにもいろんな方向に話題は展開しましたが、あまり異論のぶつかり合いにはなりませんでした。サロンの前に、新倉さんがみんなの心を穏やかにしようという思いからか、抹茶を点ててくれました。サロンが論争にならなかったのはそのせいかもしれませんね。
サロンで少し話題になった「オメラス」の話ですが、10年ほど前にブログに書いた小論「オメラスとヘイルシャムの話」があります。もしお時間が許せば、お読みください。
このテーマでのサロンもやったことがありますが、どなたかの賛成があれば、もう一度やりたいと思っています。
http://cws.c.ooco.jp/heilsham.htm
なお、参加者のおひとりが5月9日号の「週刊金曜日」を持ってきてくれました。「象徴天皇制を問う」が特集されていて、とても興味深いです。
湯島のCWSライブラリーにありますので、湯島に来た時にでもぜひお読みください。
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