■湯島サロン「無頭体と決定論」報告
北京一さん(ん倶楽部/日本構想学会会員)による「無頭体と決定論」サロン(2025年6月1日開催)は、冒頭、「いまの日本国の頭といえば、どなただと思いますか?」という北さんからの問いかけで始まりました。
「えっ!?」
「想定外」の問いかけでした。「組織論」だと思い込んでいたのですが、どうも対象は「社会」のようです。社会はそもそも「無頭」だと私は思いこんでいたのです。
しかし、北さんの問いかけに始まる話は、実に示唆に富むものであり、多くの人に聞いてもらい、共に考えたかった問題です。私の思い込みで、狭義の組織論を示唆する案内をしてしまったことを反省しています。またサロンでも話をうまく深められませんでした。なにしろ不意を襲われて気分だったのです。申し訳ありません。
組織には大きく2つあるという捉え方があります。
コミュニティ論の原点となる不朽の古典『コミュニティ』で、社会学者マッキーヴァーは、アソシエーションとコミュニティを対比させています。
アソシエーションとは「共通の目的を達成するために作られた組織」、コミュニティとは「場所や文化で人がつながって生まれてくる組織」です。前者は「機能組織」、後者は「共同組織」、あるいは「つくる組織」と「生まれる組織」と言ってもいいでしょう。「つくられたコミュニティ」はアソシエーションです。
ネットなどでは、国家は「コミュニティ」と書かれていることがありますが、マッキーヴァーは『コミュニティ』で、「国家はアソシエーションの特殊な種類」と書いています。私もそれを読んだときには違和感を持ったのですが、それは「国家」をどの視点からとらえるかで変わってきます。それに気づいてから、私は「国家」と「政府」とを峻別しています。だから軽々に「アメリカは…」とか「ロシアは…」とかいう発言には、いつもサロンでは異議を唱えさせてもらっています。
国家を政府視点でとらえればアソシエーション、でも住民視点でとらえればコミュニティ。同じく「国家」と訳されても、Stateとnationも大きく違います。
ちなみに国家と政府も混同されがちです。
国家は構造(行為主体が相互に織りなす複雑な社会関係から創発した実在)であり、行為主体は政府を代表とした公的機関やそれらに所属する職員たちです。
国家は対外的には主体的に言動し、対内的には国民を統治しますが、その行為主体は、実際には政府なのです。国家は行為主体には本来なりえません。もちろん、日本国憲法が国民主権を求めていたとしても、主権者たる国民も実際には行為主体者にはなれません。にもかかわらず、言葉のあいまいさから問題はすり替えられ、責任は問われずに終わることが少なくありません。言葉を正確に使わなければ、問題は設定できない。つまり解答は見つかりようがないのです。
というわけで、北さんの問い「いまの日本国の頭は誰だ?」は、「いまの日本という国家を動かしている行為主体は誰だ?」ということになります。
参加者の答えは3つになりました。
総理大臣、天皇、大企業(例えば今ならトヨタ、かつては財界天皇という言葉もありました)。
憲法で規定されている主権者たる国民は出てきませんでした。かわりにその総意を象徴する天皇が出てきたわけですが。
この問いが参加者にとって意外だったのはしかし、案内文に書かれている北さんの問題提起をきちんと読んでいなかったからです。案内文に添付されていた北さんの問題提起に、こう書かれていました。
長いですが、再掲させていただきます。
無頭とはいささかグロテスクな表現ですが、海鮮売り場で見かける海老のことではなく、人間がつくる組織のことだといえば、G.バタイユのことを想起される方もいるでしょう。彼の場合は、時代情況もあって端的にはファシズム独裁への対抗精神がそこにありました。
しかし本日、そのアセファル組織についてわたし北が、わざわざ話題にしたいのは、第一に、これがわが日本国に住む人たちの集合心性にとって実に相性よく、親しみ深くもある観念である可能性について考えてみたいためです。
第二には、その証左のひとつでもありますが、時あたかも関西万博開催の最中にその会場をすこし遠方から眺めている70年大阪万博・太陽の塔という実存性に照らして、これが半世紀を耐え立ち続けたゆえんを、そのアセファルのトーテム性に求め、われら太陽族霊の呪力が支える「自分の頭を無にして考えない」という民力総意について自覚するとともに、その主権者たちの決定論的将来の選択について、みなさんと考えてみたいためです。あらたな何かがみつかることを期待して。
これを読み直せば、今回の北さんの問いかけに始まる話は、しっかりと予告されていたのです。最近サロンが増えて、私がきちんと対応していなかっただけの話です。意外な問いだと思った参加者もまた、同じです。案内をきちんと読んでいない。書いた本人さえもが読んでいない。困ったものです。
北さんには申し訳ないことをしてしまいました。
参加者の回答を得たうえで、北さんは問題提起の話を始めました。
バタイユの無頭の共同体を意識した岡本太郎の1970年大阪万博「太陽の塔」の話は、新鮮で刺激的です。紹介は長くなるので止めますが、幸いに日本構想学会の機関誌「構想」の最新号に北さんが寄稿しているので、ぜひお読みください。
https://jssk.jp/pdf/k11-1.pdf
北さんは冒頭の問いを入り口に、日本国憲法を引き合いに出し解説。そこから日本は事実上の無頭状況、いや1億2000万余りの頭を持った超キングギドラ状況だと言います。日本国民の統合の象徴についても詳しく解説するとともに、現状の「天皇と総理大臣」、あるいは主権者と政府の関係をいろいろと解説してくれました。
三木清の「構想力の論理」などの話もあって(いま日本構想学会ではこの研究会を始めています)、とても示唆に富む内容なのですが、中途半端な紹介は誤解を生みそうなので止めますが、きっとまたいつか北さんの話を聞く機会はあるでしょう。
最後に北さんはもう一度参加者に問いかけます。
こうした状況の中で、「主権者」であるあなたはどういう行動原理をとりますか?
人は「みずから生きる」と「おのずから生きる」の2軸の間を生きている、と北さんはわかりやすく図解してくれ、主権者としてどう生きるかを問いかけたのです。
北さんは、行動原理を考えるうえでのマップを示してくれました。
みなさんも添付のマップを見て、自らの行動原理を考えてみてください。
そこで話し合いが始まりますが、北さんの問題提起文に、「自分の頭を無にして考えない」という民力総意について自覚せよとあるように、北さんはそもそも「無頭」なのは組織ではなく、私たちの生き方を指し、そういう「無頭」な生き方をやめようと呼びかけているのかもしれません。
サロンでの話の時には、そこまで考えが至りませんでした。
私もやはり「無頭」族の一人のようです。
反省しなければいけません。
せっかくの北さんの問題提起に的確に応えられませんでした。
社会や組織、あるいは「無頭の共同体」の共通理解が不十分だったような気もしますので、そうしたことをしっかりと確認したうえで改めて北さんの問いに答えていきたい気がします。
いずれにしろ、無頭の共同体を成立させる条件は、メンバーそれぞれがしっかりした頭を持つこと、つまりコンヴィヴィアル(自立共生)な関係が成立することだと思っています。「無頭」の意味も問い直す必要があるでしょう。
北さんと相談して、できればパート2を企画したいと思います。
なお、マッキーヴァーのアソシエーションとコミュニティに関しても、別の形で一度、サロンを企画しようと思います。そもそもアソシエーションとコミュニティを並置する発想がたぶん間違っているのです。そして社会や国家がそもそも組織なのかどうかも考えてみる必要があります。
いつも以上に長くなってしまいました。すみません。
報告が遅くなったことと併せてお詫びします。
| 固定リンク
「サロン報告」カテゴリの記事
- ■7月オープンサロン報告(2025.07.12)
- ■湯島サロン「さまざまな「呪縛」から自分を解放しましょう」報告(2025.07.10)
- ■第2回SUN10ROサロン報告(2025.07.02)
- ■第2回百姓一揆呼応サロン「川田龍平さんの農や食への取り組み」報告(2025.06.28)
- ■湯島サロン「ようこそ日本へ、ヤシュカさん」報告(2025.06.25)
コメント