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2025/06/17

■第7回中国現代文学サロン「劉慶邦『月は遥かに』」報告

第7回中国現代文学サロンは、前回に引き続き、劉慶邦さんの作品『月は遥かに』(原題は『八月十五月児圓』)をとりあげました。

いつものように、中国現代文学翻訳会の葉紅(ようこう)さんが、この作品を読むための背景情報やヒントを話してくれました。
翻訳に関する話がとても興味深かったので、まずはそこから報告します。

作品のタイトルですが、原題と日本語の表題とは、ある意味で真反対になっています。
原題の「八月十五月児圓」は、直訳すると「8月15日は月がまるい」という意味です。8月15日(旧暦)は中国では「中秋節」と言って、満月を愛でて月餅、梨などを食べ、家族円満の思いを込めて一家団欒する風習があるそうです。中秋節の月がまるい、まさにこの小説の主人公の願いが込められている題名です。
ところが、成就するはずの主人公の思いは、残念ながら裏切られてしまいます。そこに着目したのでしょうか、訳者(日本人)はこれを「月は遥かに」と変えました。この作品に出てくる家族は、円満になりそうで、円満を予想させない終わり方になっている。そこで主人公たちの「家族円満」の思い(立場によってその思いはかなり違います)は遥か遠くだなというような思いが、翻訳された題名には込められているようです。
しかし、月の丸さをイメージして読むか、遥かな月をイメージして読むかで、作品の読みようが全く違ってくるように思います。読みようによっては、家族円満の未来も考えられないわけではないようにも思います。
「翻訳」の仕方で、同じ作品の意味合いが真反対になることもあるのだということを気づかせてもらいました。

ちなみに、「八月十五月」とありますが、「八月十五 月児圓」と書いた方が私たちには正確に伝わります。中国では、八月の次に数字が来たら、それは日を指すに決まっているというように(私はそんなことはないと思いますが)、文脈から明らかにわかるような場合は「十五日」と書かずに単に「十五」と書くのだそうです。これはとても興味ある話です。

さらにちなみにですが、「月児圓」の「児」は、発音表記の接尾語で、前の音節重ねて発音され語尾が巻舌音化するのだそうです。これを「児化韻」、日本語では「アル化音」と言うそうです。これが付く場合と付かない場合を葉さんが発音してくれましたが、これが付くととてもきれいな発音に聞こえました。ただし私に発音できない音でしたが。

翻訳に関してもうひとつ面白かったのは「弟」の訳し方です。
母親が弟を呼ぶときに、原作では「弟弟」「小弟弟」「你弟弟」という3つの表現が使われています。
この姉弟は、実は母親が違うのですが、母親にとっては実子ではない子ども(夫が愛人に産ませた子ども)の呼び方が、状況や時間変化の中で変わっていくのです。
訳文では、「この子」と「弟」と2つの呼び方になっていますが、場合によっては「お坊っちゃん」と言うように訳してもおかしくないと葉さんは言います。
こうした文字の選び方で、お互いの心情や思いが表現されるのです。ここでも訳し方ひとつで文脈は変わってきます。
翻訳の面白さが少し伝わってきます。

ちなみに、「弟弟」という表現も気になりますが、パンダの名前で私たちにもなじみがあるように、同じ文字を重ねて使うのも、中国語の一つの表現形式です。これも興味ある話です。

ところで今回の作品です。えっ!! 今もこんなことがあるのというような内容です。
主人公の田桂花の夫、李春和は農村で石炭堀りをやって成功し、町に出ていき、さらに成功。仕送りはしてくるが4年も帰ってこなかったのですが、桂花の強い要請でようやく中秋節に帰ってきた、という、まさにその日の話です。
帰ってきたのはいいのですが、町での愛人に産ませた子供まで連れてきたのです。まるい月のはずが、はるか遠くになってしまったわけです。夫婦の話し合はかみ合いません。
夫は、町から「成功」して帰ってきた自分を妻がちやほやしてくれるはずだと思い込んでの帰宅でしたが、突如現れた愛人との子どもの出現に妻は戸惑、娘も戸惑ってしまう。家族4人のやりとりが、中国社会の現状を生々しく実感させてくれます。

町で女を囲い子供を産ませるのが当今の「流行現象」という夫に対して、妻は世間体も気にしながら戸惑います。
ちなみに、夫は村を捨ててしまったわけではなく、むしろ成功して故郷に帰ってきたという感覚のようです。夫は妻への悪気などなく、むしろ妻が時代に取り残されていると考えている風もあります。
農村と都会の生活ぶりは、いまの中国でも全く違うのでしょう。それがよくわかります。
こういう状況は、そう昔の話ではないようです。今も残っているようです。

中国では1949年以降、一夫一妻制と定められているそうです。それでも第三者、小三などの言い方が存在していることから、実際には今なお、愛人関係は実在し、1990年代以降、経済活動が盛んになり、都会に出稼ぎに行くケースが増えると、子供一人政策との関係もあって、今回の作品で描かれている状況が急増したとも言えるようです。

最近の日本の状況から考えると、いかにもひどい話のようにも感じますが、中国ではこういう状況が今も続いている。でも驚くことはない。日本でもそう昔の話ではないからです。いや、今なお続いているのかもしれません。
農村では「人のつながり」が基本にあるのに対して、都会ではお金が基本になっているという捉え方をすれば、日本でも今のこの風潮はむしろ進んでいる気さえします。

ところでこの作品は、妻が夫に別れ話を持ち出すところで終わります。
「後悔しないな」「後悔しないわ」
このやりとりで作品は終わっています。
訳者は解説で、主人公田桂花は毅然として輝いて見えるとあとがきで書いています。

葉さんは最後に参加者にこんな問いかけをしました。
この最後での夫婦2人のやりとりから何が読み取れますか?

作品を読んでいない人には全く伝わらない話ですが、私はむしろハッピーエンドを読み取りました。同時に、やはり女性が最後は男性を制するのだろうなと思いました。
まあこれは私の勝手な読み方です。

次回(10月12日)は、残雪(著者のお名前です)の作品「埋葬」(近藤直子訳)を読む予定です。作品は今回と同じ「中国現代文学」第7号に掲載されています。
「中国現代文学」第7号ご希望の方は今月中に私の連絡してもらえれば、葉さんに頼んでまとめて購入してもらいます(郵送料別で1000円)。

このサロンは中国現代小説を通して、中国人の理解を深めていこうというものです。
文学好きな方はもちろんですが、そうでない方もぜひ気楽に参加してください。

202506000

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