■「共」を「公」から取り戻さないといけません
昨日、Hongo22515で少し話させてもらったことを書きます。
私は「公共」という言葉が大嫌いです。
「公」と「共」とは全く違った概念なのに、それをつなげてしまい、「公」が「共」を飲み込んでしまったところに、大げさに言えば、富国強兵から戦争への道が開かれたと思っているからです。
「公」は全体から発想するのに対し、「共」は個人から発想します。ベクトルが真逆なのです。「公」の関心は「全体秩序(統治)」であり、「共」は「自立共生(協治)」です。要するに、真逆な概念であるはずです。
この発想の違いは、AI時代をまったく別のものにしていくはずです。
私の見る限り、いまは残念ながら「公」の視点で進められています。
それが「シンギュラリティ」の世界です。それに対しオードリー・タンたちのビジョンは「プルラリティ」です。言い換えれば、「単一性」と「多様性」です。昨日は「モナーキー」「アナーキー」という言葉も出ました。
「共」の発想が近代国家を目指す明治政府によって、「お上」の「公」に絡めとられ、人が支え合う共同体社会は前近代的なものとしてつぶされてきました。
しかし、幸いに今なお、各地にはその文化が残っている。
それをベースに「ケア・コミュニティ」を回復したいというのが私のかつてのテーマの「コモンズの回復」でした。
その取り組みは思わぬことで20年前に頓挫してしまいました。
以来、私の小さな身の回りでの「コモンズの回復」にとどまっています。
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