カテゴリー「妻への挽歌2」の記事

2008/03/20

■節子への挽歌200:今年のお彼岸の中日は雨でした

節子
今日はお彼岸の中日です。
お彼岸に仏様の供養をすると極楽浄土へ行けるそうですので、
いつもは仏の供養ではなく、節子の供養なのですが、今日はきちんとお寺の本堂もお参りしてきました。
節子のお墓は、毎週、お参りしていますので、いつも花がきれいです。

午前中、さいたま市から節子の友人の伊東さんがお墓参りに来てくれました。
節子が伊東さんとどうして知りあったのか知らなかったのですが、吉祥寺時代に知り合ったのですね。
吉祥寺に私たちがいたのは4年ほどでしたが、私はかなり会社の仕事にのめっていた時代です。
ですからあまり記憶が残っていません。
伊東さんのお名前は何回も聞いていましたが、お会いしたのは節子がいなくなってしまってからです。
昨年も一度、献花に来てくださいましたが、
あの時は私自身にまだ余裕がなく、何を話したのかも覚えていません。
今回は少しゆっくりとお話させてもらいました。
お人柄がよくわかりました。
あなたは本当に友だちに愛されていたのですね。

午後は、茨城の谷和原から「城山を考える会」の横田さんと窪田さんが来てくれました。
横田さんは私の呼びかけを受けてくれて、「城山を考える会」を立ち上げてくださった方です。
最初に企画したイベントに、節子と一緒に出かけましたね
あなたは蕎麦がとても気にいって蕎麦粉までもらってきました。
しかし、蕎麦うちはそう簡単ではなく、見栄えも味も全く違うものになってしまったのを覚えています。
節子のことを知って、線香をあげに来てくれたのです。
久しぶりにゆっくりと話をさせてもらいました。
節子が元気だったらまたイベントに一緒に参加できたのに、とても残念です。

一昨日までと違い、今日は寒い雨の日でした。
お彼岸は晴天が多いと言われているのに、どうして今年は寒い上に雨なのでしょうか。
お客様があったにもかかわらず、なんだか寂しい1日でした。
彼岸は「日顔(ひがん)」からきているという説もあるそうです。
太陽信仰にもつながっています。
太陽にお目にかかれないお彼岸は、とても寂しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/19

■節子への挽歌199:カトマンズのチューリップ

節子
ネパールの田中雅子さんからうれしいメールが届きました。

Tulip1

昨年お宅にうかがった折にいただいた球根のチューリップが咲きました。
カトマンズも冬は結構冷え込むので、日本の球根でも大丈夫かなあと心配していましたが、2月末になって急に芽を出したと思ったら、まだ背丈が15センチほどなのに花が咲きました。
朝、慌ててとった写真なので、あとでよく見たら、花と葉っぱに砂がついていました。
水をやってから撮ればよかったのに、すみません。
ちょっとユーモラスなチューリップです。
そういえば、最初に出会った頃の節子は、このチューリップのように、まるまると太ったかわいい感じでしたね。
この微笑ましいチューリップを見て、思わず昔の節子を思い出しました。
節子の一部はチューリップの球根に乗って、ネパールにも届いているのでしょうか。
とてもうれしいです。

続けて田中さんはこう書いています。

カトマンズはこの時期、梅、ジャスミン、木蓮などが咲いています。
あと1ケ月もすると街路樹ジャガランタが薄紫の花をつけます。
ジャガランタという樹を知りませんでしたので、早速、ネットで調べてみました。
見事な樹花です。
節子は、このジャガランタの花が見られるかもしれませんね。

わが家のチューリップはまだ芽が出たところです。
寒いカトマンズのほうが早く開花したのが不思議です。

田中さんは、私のホームページに「カトマンズ便り」を定期的に掲載してくださっています。
とても興味深い記事が多いです。
お読みいただければうれしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/18

■節子への挽歌198:ミラボー橋

節子
本を整理していたら、アポリネール詩集が出てきました。
懐かしい本です。

シュールレアリスムという言葉(概念)の発案者、アポリネールは実にドラマティックな人生を送った詩人です。
モナリザ盗難事件の犯人に間違えられた事件が象徴しているように、彼のまわりにはきっと異常な空気が漂っていたのでしょう。
アポリネールの詩も、その生き方も、私にはなじみにくいものがあったのですが、それゆえにどこかで憧れを感じていました。

「ミラボー橋の下をセーヌは流れる」で始まるシャンソンの名曲「ミラボー橋」は彼の作品の一つです。
その一部を引用させてもらいます。

愛は流れ行く水のように去っていく
愛は人生は遅すぎるかのように
そして望みは無理であるかのように去っていく

夜が来て、鐘が鳴り
日々は去り、我は一人。

日々が去り、週が去って行くのに
時は去らず
愛は戻らない
ミラボー橋の下をセーヌは流れる

詩の全体は、たとえばここをクリックしてください。

この時、アポリネールは恋人だった画家のマリー・ローランサンと別れた直後でした。
別れた後も、アポリネールはローランサンを忘れることができず、終生、彼女を慕い続けたそうです。
スペイン風邪のために38歳の若さで死んだアポリネールの枕元には、ローランサンが描いた「アポリネールと友人達」が架けられていたといいます。

この数十年、思い出しもしませんでしたが、堀口大學の訳の詩集が出てきたので、何気なく目を通していたら、あとがきに堀口大學の追悼詩がありました。
その一部引用させてもらいます。

・・・・
それから1年たった
今日は1919年11月9日だ
そしてなおもなつかしく私はお前を思い出す
お前を思うことは有難い
お前は涸れることのない詩の泉だ

お前は芽を出す種子だ
お前が死んでから1年たった
今日は1日お前を思い
お前の詩集「カリグラム」を読んで暮らそう

節子がいなくなってからまだ1年はたっていませんが、
今日は1日節子を思い、無為に過ごそうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/17

■節子への挽歌197:高知の宅老所から文旦が届きました

節子
この頃、いろいろな人からまた手紙や電話が来ます。
その都度、節子に報告していますが、ちゃんと聞いてくれていますか。
聞き届けたら、何か確認の合図をしてもらえるとうれしいです。
一番簡単なのはろうそくの火を大きくゆらしてくれることです。
がんばって試みてください。

高知県の四万十市のNPO、高知介護の会の豊永美恵さんから文旦が届きました。
豊永さんとはコムケア活動で5年ほど前に知り合いました。
その地域に残っている幡多昔むかし祭りを復活させたいという思いを、ささやかに支援させてもらったのです。
お祭り当日、私も参加させてもらいました。
そこで宅老所「えびす」の高齢者の方々がつくった豆腐料理や伝統食のさわち料理をご馳走になりました。
まちづくりやコミュニティケアに対する考え方が大きく変わることになる体験をさせてもらったのです。

節子に話したら、手づくりケーキを贈ろうということになりました。
当時はまだ元気だった節子は張り切ってパウンドケーキなどを作り、送ったのです。
当時、その宅老所の事務局長だった豊永さんが、みんなとても喜んでくれたと電話をくれました。

幡多昔むかし祭りは今では地域行事として定着しました。
毎年、その季節になると豊永さんから、今年こそ奥さんと一緒に来てくださいと電話か手紙が届きました。
四国に行ったことがなかった節子は行きたいといっていましたが、私の時間が取れずにいつも実現しませんでした。
そしてそのうちに、節子が病気になってしまったのです。
後悔先に立たずです。

昨年、また豊永さんから手紙がきました。
節子のことを伝えました。
この数か月、こうした悲しい手紙を何通書いたでしょうか。
書くたびに、その手紙を受け取った人の困惑を考えて躊躇するのですが、結局はいつも送ってしまいます。
相手には迷惑だろうと思いながらも、節子のことを知ってほしいと思ってしまうわけです。
昨日もある人から、「その後、奥さんはいかがですか」とメールがきました。
まだまだ節子のことを知らない人が少なくないのです。
その人は、節子もよく知っていて、「明るいし、いつも気配りがある人ね」といっていた人です。
先週、北九州市から来てくださった山下さんもその一人です。
節子は本当にみんなの心の中に、少しでしょうが、思いを残しているようです。
伴侶の私としては、とてもうれしいです。

いつか元気が出てきたら、四万十市の宅老所「えびす」も訪ねたいと思う一方で、果たして一人で訪ねられるだろうかと不安です。
コムケア活動やまちづくり活動に取り組んできたおかげで、全国各地に友人知人がいますが、70歳になったら節子と2人で全国行脚をしたいと思っていました。
だからそれまではあまり行かないでいようと思っていたのです。
それが裏目になってしまいました。

節子
宅老所「えびす」の元気なおばあさんたちとそちらで会っているかもしれませんね。
コムケアの佐藤修の妻だといえば、喜んでくれる人もいるかもしれません。
目印は、ともかく元気で明るいおばあさんたちです。
いや、まだそちらには誰も行っていないかもしれませんね。
失言してしまいました。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/16

■節子への挽歌196:土いじりが大好きだった節子

節子が「開墾」した宅地農園の手入れがなかなか出来ずにいましたが、先週、むすめたちと耕し直し、畝をつくっておきました。
娘がジャガイモも植えました。
荒れ放題だった空地の畑もとてもきれいになりました。

昨年の今日は、節子と一緒にこの畑の手入れをしていたのですね。
私のホームページに記事が書かれています(2007年3月15日)。

午前中は、久しぶりに女房と近くの農園に行って、畑に石灰をまいたり、雑草を取ったりしてきました。
女房はあまり体調がよくないのですが、よくないからこそ散歩に行くことが大切です。
土が好きな女房は、畑に行くと元気をもらえるのです。
距離にして200メートルもないくらいのところなのですが、女房はゆっくり歩くので、それでも結構かかるのです。
その頃は、節子はすでに辛かったのでしょうね。
本当に辛そうでしたが、歩くことに愚痴はこぼしませんでした。
あなたとゆっくり歩いた身体の記憶はいまもはっきりと残っています。

家から少し離れた所にある電信柱の下の土の部分にまで、節子は花を植えて、いつも水をやりにいっていました。
今は娘が節子の代わりに水やりや花の手入れをしています。
私はそんなとこまでやらなくてもいいのにと思っていましたが、体調が悪くなっても節子は時々水やりに行っていました。
花が好きだったのですね。
元気だったら、我孫子のまちを花でいっぱいにしてくれたかもしれません。

土いじりが大好きだった節子は、この空地の畑も好きでした。
節子がやりたかったことの一つは、この畑でつくった野菜で、近所の人たちとカレーパーティをすることでした。
あなたはそういうことが大好きでした。
とても残念なのですが、そのパーティは実現しませんでした。
節子がいない今、私にはやる自信がありません。
近所の子供たちに畑のジャガイモ掘りを誘うことくらいはできそうですが、子供たちを楽しませる自信がありません。
節子は子供たちと付き合うのがうまかったですね。
けっこう厳しくもありましたが。

小さな畑でとれる野菜を近所に配る文化は、娘たちが引き継いでいます。
一昨日も畑に残っていた大根とみかんを交換してきました。
そのみかんをまた、ちょうど来客があったのでおすそ分けできました。
その文化のおかげで、わらしべ長者のように、わが家はいつも豊かです。
お金がなくても豊かになれる生き方は、節子と一緒に創りあげた生き方でした。
でも、節子がいなくなったいま、その豊かさもなぜか寂しいです。
お金がなくても豊かにはなれますが、節子がいなければ豊かにはなれません。
私の持っているすべてと引き換えに、節子を戻してもらえるのであれば、すべてを投げ出したいです。

畑の整備をしながら、なんで節子はここにいないのだろうと寂しくて仕方ありませんでした。
でも畑はだいぶきれいになりました。
節子には合格点をもらえると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/15

■195:戻ってこないのは節子だけ

節子
鶯(うぐいす)の鳴き声で、目が覚めました。

今年初めての鶯でした。
家の周りには幸いにまだ緑があるので、鳥のさえずりや鶯の鳴き声が心を和ませてくれます。
節子も鶯が好きでした。
今年は右の耳で聞いたとか左の耳で聴いたとか、いつも言っていました。
確か左耳だと幸せがくるのだそうですが、私はいつもどっちの耳で聴いたか識別できませんでした。
今年は残念ながら右でした。
でもまあ左耳でも聴きましたから、「よし」としましょう。

節子は、そういうことを大切にしていました。
その鶯が、今年も庭に戻ってきました。
戻ってこないのは、節子だけです。

庭の花もどんどん咲き出しました。
主を失って、少し元気をなくしていたような気がしていましたが、花は季節と共によみがえってくるのです。
よみがえってこないのは、節子だけです。

草木も元気に芽吹いてきました。
昨年枯れたパピルスも新しい芽を出しました。
花かご会のみなさんが植えてくださった、駅前花壇の「しらゆきひめ」も芽が出ていました。
季節がくれば、隠れていた草木のいのちは再び姿を現すのです。
姿を現さないのは、節子だけです。

どうして節子は戻ってこないのでしょうか。
不思議でなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/14

■節子への挽歌194:「思い立ったらすぐやるのがいい」

節子
北九州市の山下さんが来てくれました。
山下さんとの思い出はたくさんあります。
仕事でお付き合いが始まったのに、なぜか節子も一緒にお付き合いするようになりました。
2人で北九州市にうかがった時には、ご自身で市内をいろいろと案内してくれました。
北九州市の収入役になってからも、それまでと全く同じように、東京に来るといつもオフィスに寄ってくれました。
当時はオフィスに通っていた節子も何回かお会いしましたね。

山下さんは情熱的な行政マンでした。
私が一時期、各地の自治体の仕事をさせてもらっていたのは、そうした思いの強い人との出会いがいろいろとあったからです。
しかし、市町村合併の動きのように、地方分権の名目のなかで進む地方管理体制の強化によって、そうした思いのある人との出会いは少なくなってしまいました。

山下さんにお会いするのは久しぶりです。
山下さんご自身、体調を崩されてしまったとお聞きしていましたので、心配だったのですが、お元気そうで、相変わらず難題を背負って活躍されているようです。

伴侶を失った人と会って、話をするのはけっこう気の重いことなのでしょうね。
以前の私にはできなかったことかもしれません。
にもかかわらず、久しぶりの上京でご多用の中をわざわざ立ち寄ってくださったのです。

いつか山下夫妻を箱根に招待しようと話していたのに、それも実現できませんでした。
積み残した計画がたくさんありますね。
節子との共通の知人に会うと、積み残した計画のことを思い出すことが多いです。
思い立ったらすぐやるのがいい、と節子はいつも言っていましたが、全くその通りです。
いつできなくなるかわからないのですから。
やれなくなってから気づいても仕方がありません。
あなたにも謝らなければなりません。

4月に九州に行こうかなと考え出しました。
節子がいなくなってから、まだ一度も遠出していないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/13

■節子への挽歌193:笑いと涙の2時間半

節子
昨年の今日は、近くのホールにあなたと一緒にポニージャックスのコンサートを聴きに行きました。
私たち世代にあった楽しいコンサートで、会場と一緒に歌う「歌声喫茶」的なプログラムもあり、節子も私も一緒に歌いました。
節子は声はいいのですが、歌になるとある音域の声が出にくいため、声が時にかすれてしまうのですが、
その時はなぜかすべての声がきれいに出ていました。
節子も、最近、出にくかった音域がきれいに出るようになったと喜んでいましたね。

そのコンサートは、当時のホームページにも書いたように「笑いと涙の2時間半」でした。
私たちはとても楽しみました。
笑いは最高に免疫力と確信していた私たちは、できるだけ笑うことにつとめました。
あのコンサートが1年前だったことが信じられません。

あれから世界は激変し、全く違った世界になってしまったような気がします。
私たちにはまさにそうなのですが、しかし、私たち以外の人たちにとっては、ましてや自然界にとっては、世界はそれまでと全く同じように流れています。
そのことが、最初の頃、わたしにはとても理解できませんでした。
ですから周りの人たちにも、私たちと同じように世界の変化を感じてほしいとさえ期待してしまうという勘違いをしてしまいました。
何とまあ自己中心的な考え方でしょうか。
でもまあ、人間はそんな利己的な存在なのです。

節子
あの時は、あなたはとてもよく笑いました。
結婚前に京都で一緒に行ったコンサートにまけないくらい、楽しさを共有しました。
久しぶりに手をつなぎながらの2時間でした。
でもあの大笑いし、目を輝かしてくれる節子には会えないと思うとさびしいです。

節子とはいろいろなコンサートや演奏会に行きましたが、
1年前のこのコンサートのことが一番強く思い出されます。

節子
そちらでもコンサートはありますか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/12

■節子への挽歌192:ケアの本質は「共に生きる」こと

節子
コムケア活動をまた再開することにしました。
コムケア活動は、だれもが気持ちよく暮らせる社会に向けて活動している人たちを、ささやかに応援しながら、人のつながりを育てていこうという活動です。

コムケア活動は、私にとっての平和活動でもありました。
人のつながりが広がれば、争いなど起こるはずがないからです。
まあ、これは間違った認識かもしれないと最近思うことも増えていますが、でもきっとそうだと自分に言い聞かせています。

これまでも全くやめていたわけではありませんが、どうも気力がもう一つだったのです。
それにこの活動は、節子がいればこそ、あれほどのめりこめたのです。
4年目ころ、あまりにのめりこんでしまい、私自身、仕事が出来なくなり、時々、夜も眠れなくなった様子を見て、少し休んだらとも言ってくれましたが、私にはやめるにやめられなくなってしまっていました。
それを支えてくれたのが節子でした。
体調が悪いにも関わらず、コムケアのイベントには参加してくれました。
家族もみんなで手伝ってくれました。
それが私には大きな支えになっていました。
そんなわけで、あなたがいなくなった後、コムケアをどうしようか迷っていました。

そして再開することにしました。
メーリングリストにその旨、宣言したら、いろんな方からエールをもらいました。
エールだけではなく、各地でもコムケアフォーラムをやってくれるというのです。

コムケアはコミュニティケアの略ですが、私には深い意味があります。
重荷を背負いあう関係づくりという思いです。
他者と「共に生きる」生き方の回復です。
節子がいなくなって、「共に生きる」生き方の大切さを実感しています。
ケアの本質は、そこにあるように思います。
しかし、他者と「共に生きる」ことは難しいです。
節子と、それができたのは、とても特別のことのような気がしてきました。
あなたは、やはり私にとって特別の存在だったような気がします。

節子と40年、共に生きられたことを感謝しています。
ありがとう。
また来世でも、共に生きられることを願っています。

ところで、3月23日にコムケアフォーラム2008を東京で開催します。
誰でも歓迎です。
よかったらご参加ください。
案内は私のブログにあります。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/11

■節子への挽歌191:なぜ追悼文をかきたくなるのか

またOSさんの手紙の話です。

OSさんは「追悼文集」をつくったと書いていました。
私の知人たちの中に、同じように先立たれた妻の追悼文集を創った人は何人かいます。
私も文集ではないですが、こうやって毎日書き続けています。

なぜこうやって思い出を書き残したくなるのでしょうか。
自分がその立場になるまでは、私はそれが理解できませんでした。
しかし、自分がその立場になると、何らかのかたちで妻のことを書き残しておきたいという気持ちが自然と起こってきました。
告別式の日に、前日までみんなの前で挨拶などは絶対にするまいと思っていました。
節子とのことは誰かに話してもわかってもらえるはずがないし、話せばきれいごとになるか、あるいは事務的な紋切り型になるかしかないから、私の性には合わないと思っていたのです。
ところが告別式の前夜、節子の顔を見ているうちに、彼女がみんなにも話してほしいと言っているような気がしてきたのです。
そして、前にも書いたように、話し出したらつかえることもなく、言葉がすらすらと出てきたのです。書き残すことさえできたのです。
どう考えても、節子が私に語らせたとしか思えません。

追悼文もそうかもしれません。
この世との接点をなくした妻が、書かせているのかもしれません。
節子は日記が好きでしたので、自分が書けなくなったので、代わりに私に書かせているのかもしれません。
そしてたまたま私は書くことに全く抵抗のない人間だったのです。
これ
もそう仕向けられていたことなのかもしれません。

このブログもそうですが、追悼文は第三者にはほとんど無意味のものです。
例えばこのブログですが、毎日のように読んでくれている人が(きっと)いますが、その方は(きっと)節子か私の友人です。
しかし友人だからといって、読んで意味があるかは疑問です。
でももしかしたら、節子とちょっとだけ触れ合えるのかもしれません。
節子のことを知らない読者からもメールをもらいますが、もしかしたらその人たちはどこかで節子と接点がある人かもしれません。
どこか、と言う意味は、今生ではなく前世もしくは来世という意味です。
輪廻転生を信ずる者としては、これからもこのブログを書いていこうと思っています。
そしてお会いしたことのない読者がもしいたら、いつかお会いできるのを楽しみにしています。
お会いするのは来世かもしれませんが、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/10

■節子への挽歌190:「がん患者学」の柳原和子さんと会いましたか

節子
ちょっと残念なニュースです。
数日前にも時評のほうにも書いたのですが、「がん患者学」の著者の柳原和子さんが亡くなりました。

彼女からは、テレビを通してですが、たくさんの元気をもらいました。
節子が再発してからは、自分のことと重ねながら、その辛さをわかってやるように私にメールをくれましたが、そのなまなましさに、節子には伝えられませんでした。
著作での明晰な文章やテレビでの前向きな発言と、その弱々しい乱れた文章との格差におどろいたものですが、それは節子にも言えたのかもしれません。
あなたは決して弱音をはかなかった、そのすごさには本当に頭が下がります。
どこかで達観したのでしょうね。
そのことに気づいたのは、あなたを送った後でした。
毎日付き合っていたせいか、そうした変化に気づかなかった自分を恥ずかしく思います。

柳原さんからのメールを少しこのブログにも書いておこうかと思ったのですが、やめることにしました。
節子が読んだものは書く必要がありませんし、節子が読んでいないものは書き残すには辛すぎるからです。
読み直しだしたのですが、とても読み続けられなかったのが本当の理由なのですが。

訃報が届くたびに、あなたのことと重ねてしまいます。
節子との別れがあって以来、訃報の意味が一変しました。
その人の周りにあるさまざまな物語を、少しだけ思い巡らす気持ちが生まれました。
これまで私自身、多くの訃報を事実としてしか悲しんでいなかったような気がします。

彼岸で、節子が柳原さんに出会えているといいのですが。
私も此岸では柳原さんに会えませんでしたが、節子の方が先に彼女に会えそうですね。
もし会ったら、修は柳原さんとの約束を果たせないことを気にしていましたと伝えてください。
訃報を知ってからもう数日立ちますが、朝、あなたに祈るたびになぜか彼女の笑顔があなたと一緒に見えるのです。

ところで、此岸での訃報は彼岸のあなたにとっては朗報なのかもしれませんね。
そのあたりがややこしくて、最近少し混乱しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/09

■節子への挽歌189:「これからどう生きようか」と考え続ける生活

昨日の続きです。
一晩、間をおいたので今日は冷静に書けそうです。

OSさんは、「精一杯のことをしたようにも思いますが、それで償いができたとは思いません」と書いています。
私も全く同じ思いを持っています、
どんなにみんなによくやったねと言われようと、どこかに悔いと罪悪感が残る、それがおそらく愛する妻を見送った者の心境ではないかと思います。
ウツ状況になる人もいるようです。
私もその可能性はゼロではありませんでした。
娘たちが元気付けてくれたとはいうものの、
節子の友人たちや私の友人たちが心配してケアしてくれたにもかかわらず、
時に落ち込み、時に不安感にさいなまれ、時に「もうどうでもいいか」と思いたくなるのです。
人が嫌いになり、失望し、希望を失い、生きる意味を見失ってしまうのです。
いつもは「生きる意味」など考えたこともないのに、突然、生きる意味がない人生をどうやってこれから生き続けられるのだろうかなどと考えてしまうのです。
それを表現すれば、元気を出さないと奥さんが悲しむよなどといわれるので、ことさら元気を装ったりするわけです。
そして、そんな自分がまたいやになっていく。
そんな気持ちを一番理解してくれるはずの妻はいないのですから、解決しようのない問題なのです。
伴侶とは、理屈を超えて支え合っていた存在なのだと思い知らされる毎日です。

OSさんは10年たってもまだ、「これからどう生きようかと毎日考えています」といいます、
素直に心には入ってきます。
あるはずもない「これから」をどう生きようかと考えることの答はあるはずもない、と思いながら、私も毎日、そう考え続けています。

節子は発病以来。「いまをどう生きようか」と考える生活に変えました。
それから節子の考え方や言動が変わってきたように思います。
その生きる姿勢から、私はたくさんのことを教えてもらいました。
しかし、残念ながら、「これからどう生きるか」については、節子は教えてくれませんでした。
いろいろと示唆は与えてくれていましたが、2人とも別々に生きることなど想像もできなかったのです。

今、節子は彼岸でどんな生き方をしているのでしょうか。
どうしてもまだ、彼岸で「生きている」節子を思ってしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/08

■節子への挽歌188:残された者の償い

節子
私の大学時代の友人のOSさんから手紙をもらいました。
彼は私が信頼する数少ない弁護士の一人です。
考えはもちろん違うと思いますが、誠実さがにじみ出ている人です。
大学卒業以来、久しく会っていませんでしたが、4年ほど前に再会しました、

その時の印象が、実は何ともいえないものでした。
一言でいえば、明るさと誠実さの奥に孤独な陰を感じたのです。
それは私自身が持っている陰が、素直な彼の心に反射しているのかもしれないと、その時は思いました。

彼のことは節子に話したことがありませんでした。
大学時代、私も彼とはほとんど付きあいがありませんでした。
しかしはっきりとその存在が心に残っている人でした。
彼の純粋さや誠実さは、話をしなくてもきっとまわりにオーラを放っていたのでしょう。

後日、彼から1冊の本が送られてきました。
私に関心のあるテーマの本でした。
彼のすさまじいほどの仕事振りが伝わってきました。
敬意を感じました。

そのOSさんから手紙が来たのです。
最近、彼から依頼のあったハンセン病関係の署名活動にささやかに協力した礼状でした。
しかし、そこに書かれていた内容は思ってもいないことでした。
涙が止まりませんでした。

私は丁度10年前に妻をガンでなくしました。
闘病生活は4年近いもので、大変な試練でした。
私は貴兄と違って、よい夫ではありませんでした。
発病と知ったときから精一杯のことをしたようにも思いますが、それで償いができたとは思いませんでした。
罪ほろぼしのつもりで、追悼文集をつくり、親しい方々に送らせていただきました。
そのときから私の人生観はかなり変わったように思っています。
今は一人暮らしです。
これからどう生きようかと毎日考えています。
どうも自分のことを書いてしまってすみません。
あの時の陰はやはり彼からのメッセージだったのだと思いました。
そしてその闘病時代に彼は社会的な使命を果たすための激務を果たしていたことを知りました。
「大変な試練」「償いができたとは思いません」
その言葉の意味を痛いほど感じました。
涙が止まらない理由がわかってもらえるでしょうか。
また涙が出てきてしまいました。
すみません。
この続きは、明日書きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/07

■節子への挽歌187:「死は、人間にとって最高に善いものかもしれない」

節子
死の体験はどうでしたか。
自らの死は体験できな以上、存在しないという論理がありますが、
実際に体験した節子からぜひ話を聞きたいと思います。
でも、聞けるようになった時は私自身も体験しているわけですから、あまり意味がありませんね。

死とはなんなのでしょうか。
ソクラテスは毒を飲んで死ぬ前に、集まった仲間たちにこう言ったそうです。

「さあ、私たちが行く時が来た。私は死ぬために、君たちは生きるために。
しかし、どちらが幸せかは、私たちの誰にも隠されている。ただ神を除いて」
と。節子は、どちらが幸せかの答がわかっているのですね。
節子の方が幸せであることを祈りたいです。
それは私にとっても幸せを保証してくれるわけですから。

節子がいなくなってから、死の対する考え方がだいぶ変わりました。
というよりも、これまで死については全くと言っていいほど真剣に考えたことがないことに気づいたのです。
ほとんどの人がきっとそうでしょうね。

プラトンの「ソクラテスの弁明」には、こんなソクラテスの言葉もでてきます。 

「死を恐れるということは、智慧がないのにあると思っていることにほかなない。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからだ。死を知っている人はいない。ひょっとすると、死は、人間にとって、すべて善いもののうちの最大のものであるかもしれないのだが、彼らは、それを恐れている。それが最大の災禍であることをよく知っているかのように。しかし、これこそ、知らないのに知っていると思っている、無知というものにほかならないのではないだろうか」
「死は、人間にとって、すべて善いもののうちの最大のもの」
そうであれば、こんなに嬉しいことはありません。
すべての人にとって、それが保証されているのですから。

しかし、善いものであろうと、災禍であろうと、節子と一緒に体験できなかったことがとても悔しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/06

■節子への挽歌186:強い人同士の夫婦と弱い人同士の夫婦

昨日の記事の続きを書きます。
長くなったので、2回に分けることにしました。今日は後編です。

KYさんが、私たち夫婦と佐藤夫婦とはどこが違うのかしら、と言いました。
ご主人が、「おれにはあんな挨拶は出来ない」といったのだそうです。
私は即座に、「強い者たち同士の夫婦」と「弱い者たち同士の夫婦」の違いだと思います、と答えました。
そんな言葉が出てくるとは、私自身思ってもいませんでしたが、自分の思ってもみなかった言葉が口から出ることはよくあることです。
最近、気のせいかそういうことが増えています。
ですから、その言葉は、私に向けての言葉でもあったわけです。

このブログを読んでくださっている方はもう感じているでしょうが、私は「弱い人間」です。
一人では生きていけずに、誰かが寄り添ってくれていないと倒れてしまいそうなのです。そして、節子もまたそういう人だったことは、私が保証します。
本当に頼りない弱い人でした。私よりは強かったですが。
しかも、いずれも自立しようとか依存を止めようとか全く思わなかったのです。
夫婦間においては、自尊心や自立心が全くなかったのです。困ったものです。

しかし、弱い者同士が一つになるとなぜか強くなるのです。
弱さをさらけだすことで、強くなれるのです。
KYご夫妻は、それぞれがしっかりした活動に取り組み、社会的な存在感もあります。
それにそれぞれが自立し、自分の世界をお持ちです。
理想的な夫婦と言っていいでしょう。
わが家とはかなり違います。

詩(のような言動)は弱さから生まれます。
決して強さからは生まれません。
詩は強い人には戯言でしかありません。
もしそうでないとすれば、強い人の弱い面に訴求しているのです。
言い換えれば、その時がくれば、その人からも詩が生まれます。

弱いと強いとはコインの裏表です。
どちらが体験されるかは分かりませんが、KYさんご夫妻も、きっと私の立場になったら、詩のようだと思う人がでてくるような、作品を共創するはずです。
その時にきっと、私の今の心境と言動を理解してくれるでしょう。

人は、強さと弱さを持っています。
そのどちらの面を表面に出して生きているかどうかによって、生き方は変わってきます。
伴侶の死に直面してもなお、強い生き方が出来る人もいるでしょうか。
そんな人はいるはずもない、と今の私には思えてなりません。

お互いに弱さを見せることで夫婦の絆は強まるように思います。
だれにでもお勧めというわけではありませんが、弱さを共有してしまうとすごく快適になるような気がします。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/05

■節子への挽歌185:詩を聴いているようでした

節子
久しぶりにKYさんに会いました。

節子の葬儀の時にはご夫妻で来てくださいました。
あなたは気づいていましたか。
あの時はたくさんの人が来てくださったので、気がつかなかったかもしれませんね。

節子が再発する直前、KYさんのお宅にお邪魔して、ご主人が家庭菜園で収穫した新鮮で美味しい野菜をつかった料理をいただきました。
節子とご主人の話が野菜作り談義がとても盛り上がっていたのを思い出します。
農園も見せてもらい、お土産ももらってきました。
次はわが家でお返しをしたかったのに、実現できませんでした。

KYさんのご主人は、佐藤さんの(告別式の)挨拶は、まるで詩を聞いているようだった、と言っていたそうです。

「まるで詩を聞いているようだ」
実は、あの時、私もすごく不思議な気分だったのです。
話し出したら涙できっと話せなくなるから、挨拶は一言にしようと前日まで決めていました。
みんなもそれがいいと言っていました。
ところが、その日の朝、節子からきちんと話をしてね、といわれたような気がしたのです。
そして、献花台の話も思い付いたのです。
挨拶に立ち上がった時、こみ上げてくる思いで一瞬声が出なくなったのですが、その後、本当に不思議なのですが、流れるように口から言葉が出てきたのです。
そして予想以上に長く話してしまいました。
節子がそうさせてくれたとしか思えません。

もっと不思議なことがあります。
話したことを翌日、書きとめようと思いました。
そうしたら話したことがそのまま思い出せるのです。
そしてホームページにもほぼ再現できたと思っています。

私はこの種の挨拶がとても不得手な人間です。
それに世間的な付き合いの言葉をあまり知らないのです。
挨拶が必要な時には、いつも節子に相談していました。
節子はいつもひやひやしていたはずです。
終わると、いつも「よかったわよ」と言い、その後で必ず「でもあそこはこういうとよかった」と一言付け足すのです。

今回の挨拶はどうだったでしょうか。
節子の感想が聞けなかったのが、とても残念です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/04

■節子への挽歌184:長崎からの手紙

節子
長崎県のNMさんから手紙が来ました。
あなたと同じ病気で、それも若い時だったので、いろいろと大変だったでしょうが、それを乗り越えて活躍しています。
本当によかったです。
NMさんはもう退職され、いまは第二の人生をいろいろと考えているようです。
最近はなかなか会う機会もなくなっていましたが、節子と一緒に長崎に行った時に、仲間を集めてくれて、しっぽく料理をご馳走してくれました。
節子も私も、はじめてのしっぽく料理で、その作法をしりませんでしたが、とてもおいしくて、またそこから見下ろす夜景がとてもきれいで、節子は時々、その話をしていたのを思い出します。

その時はたしかハウステンボスに泊まりました。
そこではSHさんが案内してくれたような気がします。
SHさんの元気さと明るさは、節子の記憶にもずっとのこっていましたね。

私は過去のことはあまり覚えていられない人間なので、記憶が定かではないのですが、
いろいろな人にお世話になったような気がします。
私たちは本当にいい人に囲まれていましたね。
感謝しなければいけません。

NMさんはこのブログも、友人に頼んでプリントしてもらい読んでくれたそうです。
ブログもいまや180回を越えてしまったので、読むのも大変です。
それに私の文章は冗長ですから、申し訳ない気がします。
プリントしてくれたのはMSさんですが、MSさんからもメールをもらっています。
みんな節子のことを思い出してくれているのです。

NMさんはこう書いてきてくれました。

「こんなに強い絆、愛とはと思い、時間が普通の人に比べてもっとかかると思いました」
こうした言葉は他の人からももらったことがありますが、たぶんNMさんが私の立場になったら同じことになると思います。
みんなまだ伴侶との絆の意味が見えていないだけです。
もちろんすべての人がそうだとはいえませんが、「普通の人」であれば、そして「普通の夫婦」であれば、きっと私たちと同じです。
思いを私のようにだらだらとブログで書き続けるかどうかは全く別の話です。
そうではなくて、夫婦や家族の絆の話です。
それがあまりに当然すぎるために、なかなか見えてこないのかもしれません。
しかし、40年も一緒に共に生きてきた夫婦の絆はとても太く強いはずです。
NMさんも、手紙の中で、
「わが家の関係を再認識いたしました」と書いていますが、もし伴侶と共に生きている読者の方がいたら、ぜひ夫婦の絆を改めて意識してほしいと思います。
それに気づけば、きっと大きな力が沸いてくるはずです。
それが社会を変えていくと、私は信じています。

余計なことを書いてしまいました。
社会の基本は「絆」だと私は思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/03

■節子への挽歌183:喜びの中にある悲しみ、悲しみの中にある喜び

むすめたちが、玄関とリビングに小さな雛人形を飾ってくれています。
節子がいなくなっても、その時々の季節を象徴する飾り立てをする文化は継承されています。
オフィスだけはちょっとさぼっていますので、季節感覚がなくなっていますが。

節子が行ってしまってから、今日で半年です。
まだ半年と言うべきでしょうか。
これほどの長さが、まだどれほど続くのか。ちょっとゾッとします。

この半年、悲しみは癒えたかといえば、全く癒えることはありません。
深まったわけではありませんが、心身にしっかりと定着してしまった感じです。
その悲しみが、私の心身の一部になってしまっています。
そのせいか、喜びが感じられなくなってしまったような気がします。
これはちょっと寂しいことです。

今もなお、写真の節子が呼びかけてくれるのではないかと思うことがあります。
誰もいないはずの階下で音がしたり、玄関に近づく足音を聞いたりして、あなたの姿を探すこともあります。
いつもあなたはいません。

それにしても節子がいないだけで、どうしてこんなにも世界の風景は変わってしまうのでしょうか。
なぜだろう、とよく考えるのですが、わかりません。
それ以上に、なぜこんなにも時間がありあまっているのかと思うことが多くなりました。
最近は10時に就寝し、何となくぼんやりと過ごしていることが多いのです。
節子がいた時に、どうしてこういう時間がつくれなかったのでしょうか。
いつもお互いに何かやっていましたね。

いまもやらなければならないことは少なくありません。
仕事も始めましたので、実は時間は足りないほどなのです。
でもやる気が起きない。
時間が無いのに、時間が余っている、そんな毎日です。
不安だけが高まっています。
困ったものです。

半年が過ごせたのなら、1年も大丈夫でしょう。
1年大丈夫なら、10年は大丈夫でしょう。
人はそうやって悲しみと共生していくのでしょう。
そして、きっといつか、その悲しみの裏にある喜びに気づくのでしょう。

節子との生活では、喜びの中にある悲しみと付きあってきたような気がします。
しかし、これからはどうも悲しみの中にある喜びと付きあうようにしないといけません。
人生観を大きく変えないといけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/02

■節子への挽歌182:河津桜が咲き出しました

庭の桜が咲き出しました。
節子と一緒に河津に行った時に買ってきた桜です。
もう3年前になります。
あの時のあなたは、私よりも元気でした。
節子は治ると確信できていたころでした。
むしろ私を気遣ってくれていた節子のことを思うとまた心が痛みます。

今年は昨年よりも開花が半月ほど遅れました。
節子がいないせいでしょうか。
数日前から急にあたたかくなり、庭の花々も咲き出しました。
娘がとてもよく手入れをしてくれています。
庭で手入れをしている娘を見ると、その横に節子がいるような気がします。
あたたかな陽だまりのなかに、いつも節子がいましたから。

各地で桜が咲き出しますが、桜には節子の思い出が重なりすぎていますので、
今年は見に行けないかもしれません。
そんなことでどうするのか、といわれそうですが、
節子のいない春は、私には違う世界の春でしかありません。

今年の桜は、私にとっては、この河津桜1本になりそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/01

■節子への挽歌181:足がすくむ思い

前から約束していた、ある集まりに参加しました。
池袋とは知っていましたが、どこでやるのかあまりきちんと理解していませんでした。
これが私の生き方で、直前にならないと頭が動き出さないのです。
節子は、私のそうした生き方をいつも心配していました。
そして注意を促してくれる存在でした。
でも今は、そうした注意をしてくれる人はいません。
子供じゃあるまいし、それくらい自分で責任を持てと起こられそうですが、
そうした面では、私は思い切り節子に依存していたのです。
困ったものです。
自立できていなかったわけですが、それが私たちの生き方でもありました。

朝、会場の場所を確認しました。
池袋のメトロポリタンホテルでした。いやな気がしました。
池袋駅を降りた途端に足がすくみました。
このホテルの地下に、帯津良一さんのクリニックがあるのです。
そこに節子と一緒に通ったことを思い出しました。
その時、すでに節子は再発し、かなり病状は悪化していましたが、帯津さんに会って元気をもらいました。
それだけではありません。
池袋の思い出はそれだけではありません。
同じホテルで、官足法の岡山さんにお会いしたのです。
帯津さんも岡山さんも、節子にはとても良い出会いでした。
しかし、その時の節子の辛さと祈りを知っている私には、
足がすくむほどの、何ともいえない胸の不安感が襲ってくるのです。
こういう体験を何度したことでしょうか。
節子との深い思い出のあるところに近づくと、節子の思いがどっと出てきてしまうのです。

約束していた集まりでは、無事、役割を果たしましたが、辛い体験でした。
予め場所などをきちんと確認する生き方でなくてよかったです。
もし事前に知っていたら生けなかったかもしれませんから。

節子
辛い思い出がありすぎます。
そうしたことを、弱音もはかずに乗り越えていた節子のことを思い出すたびに、
あなたの見事さに気づかされます。
私にもできるでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/29

■節子への挽歌180:過去こそ永遠に生き続けるもの

先日、「ひとは過去についても祈ることがある」と書きました。
今朝、読み直してみて、私の気持ちがどうもうまく書けていないことに気づきました。
「過去から始まる物語は、過去において完結してしまっている」と言ってしまっては、クラインの壺のように、出口が見つからなくなります。
クラインの壺とは、内部と外部との境界のない空間です。
それはちょっと違うのです。
それで少し補足します。

大切なことは、「過去は過ぎ去ることがない」ということです。
とりわけ現在と断ち切られた過去は、変えようがありませんから、そのままの形で永遠に生き続けるのです。
時間が解決するというのは、多くの場合、問題解決のための方便でしかありません。
自分に関する過去の多くは、決して「風化」などしません。
みなさんもそういうことってありませんか。
過去において完結してしまっているにもかかわらず、むしろ心の中でどんどんと大きくなっていくのです。
そういう意味では、節子は私の中ではいまや「永遠のいのち」を得ています。
それこそ不死の命と言っていいでしょう。
失うことでこそ得られる命というものもあるのです。

私の心身のなかには、節子と一緒に創りだしてきた「過去」がたくさんあります。
ある言葉、ある体験、ある風景、そうしたちょっとした刺激が、そうした「過去」を生き生きと思い出させることがあります。
それは私と節子以外には、絶対にわかりませんし、起こりえない感覚です。
突然に幸せな気分になったり、突然に涙が出たりするわけです。

その感覚は、過去に引きこもると言うようなものではありません。
むしろ過去と言うよりも現在を創りだしてくれるのですから、生きているのです。
「私が過去に生きる」というのではなく、「私のなかで過去が生きている」とでも言っていいでしょう。
繰り返しますが、未来に向かって育っているという意味で「生きている」のです。
そのため、まるで2つの世界を生きているような感覚になることもあります。
みんなと合わせながら、自分にしか実感できない「もうひとつの世界」にいる自分に気づくのは、疲れます。

その「もう一つの世界」では、節子はまだ生きているわけです。
にもかかわらず、その節子に会えないという苛立ちを時々感ずるのです。
節子にはたぶん見えているのに、なぜ私からは見えないのか。
どう考えてもフェアではありません。不条理としかいえません。

またわけのわからないことを書いてしまいました。
でも私にはとても素直に実感できる感覚なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/28

■節子への挽歌179:チューリップが芽を出しはじめました

年末から2月まで、節子のまわりはたくさんのチューリップに囲まれていました。
今年は寒かったせいか、とても長く節子を飾っていてくれました。
節子が好きだった、近くのあけぼの公園もきっとチューリップが咲き出していることでしょう。
いつもなら節子と一緒に見に行くのですが、まだ行く気が出てきません。

昨年、節子のところに献花に来てくださった人たちに、
最初の頃、チューリップの球根をさしあげていたのです(差し上げるのを忘れた人もいます。すみません)。
その球根が芽を出し始めたようです。
何人かの人から、チューリップが芽を出したと言われています。
わが家の庭にも同じものを植えていたので見てみたら、芽がでていました。
節子はチューリップになって、いろいろな人のところに戻ってくるかもしれません。

そういえば、昨年、南房総で節子が買ってきた花々も咲き出しそうです。
河津の桜もつぼみが和らいでいます。

節子、忙しくなりそうですね。
いろんなところに顔を出さないと駄目ですね。
私の夢にも出てきてくださいよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/27

■節子への挽歌178:「ひとは過去についても祈ることがある」

祈りは未来に向かっての行為でしょうか。
毎朝、節子の位牌の前で祈りながら、過去に向かって祈っている自分に気づくことがあります。
いまの私にとっては、むしろ祈りは過去へのものになっています。

祈りですから、ある希望を込めているわけですので、変わることのない過去への祈りは成り立たないいかもしれません。
しかし、あの時の節子が喜んでいてくれますようにとか、あの時の私の対応をゆるしてくれますようにとか、ついつい祈ってしまうのです。
節子に関して言えば、過去も現在も未来も、私のなかでは同じものになってしまっているのかもしれません。
そんな思いを持っている時に、こんな文章に出会いました。

ひとは過去についても祈ることがある。他者の死こそが、取り戻しようもなく、抹消不能で、決して現在に回収されることのない、真の「外傷」となるからである。外傷の深さは測りがたく、疼きは癒し難い。祈りが切迫したものとなるのは、過去こそが過ぎ去らず、回復不能であること、過ぎ去ったものこそが打ち消し難いことを、ひとが思い知る時である。(「癒しの原理」石井誠士)
10年以上前に読んだ本ですが、先日、何となく書棚にあるのに気づき読み出しました。
この本を読んでいるうちに、実は精神的にかなり不安定になってしまいました。
あまりに自分の心情に重なってくるからです。
それに、やはりまだ「死」について書かれている本は読むのが辛いのです。
心のどこかに、節子の死を受け入れていない自分がいるのです。

過去こそが過ぎ去らず、回復不能であることという言葉は心を突きます。
過ぎ去る過去もあるでしょうが、伴侶の死、愛するものの死は決して過ぎ去ることはありません。
むしろその過去の事実が、心の中で育ちだすような気がします。
まさに「外傷の深さは測りがたく、疼きは癒し難い」のですが、それだけではなく、その疼きが育ちだしてしまうのです。
もちろん育つのは悲しみだけではなく、喜びもあります。
節子と一緒に過ごした日々の楽しさが甦ることもあるのですが、しかし無残なことに、その喜びもまた確実に死によって突然閉ざされます。
人は誰も、そしていつも、死に向かってはいるものの、おそらく普段はそんなことは「意識的」には意識しないでしょう。
しかし、過去から始まる物語は、過去において完結してしまっているのです。
それに対処するには、祈りしかありません。

「ひとは過去についても祈ることがある」。
最近は、祈るという行為は過去に向けられているのかもしれないと思うようになりました。
未来はすでに過去において決められているのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/26

■節子への挽歌177:黄色の花のエール

節子
近くのTさんの家の人が、庭になったみかんをたくさん持ってきてくれました。
例年であればジャムにして、Tさんにも差し上げるのですが、
節子がいない今年はジャム作りが出来ないかもしれません。
節子がせっかく育ててきた、近隣での物々交換の文化は引き継ぎたいと思うのですが、
「手づくり加工」のプロセスが入らないと単なる物々交換になってしまい、あんまり意味がありません。
娘たちが節子の文化を継承はしてくれるでしょうが、
節子がいないと、やはりいろいろな意味で残念なことが多いです。
あなたの見事さを改めて思い出しています。

ところで、みかんを持ってきてくれたのはOさんです。
Oさんからちょっとショッキングな話を聞きました。
嫁いで家を出ているTさんの娘さんの体調が、最近あまり良くないのだそうです。
あなたのお見舞いに来てくれたこともあるUさんです。
その話を聞いた娘たちが、花を贈って元気付けようと言い出しました。
何しろこのブログで「団子より花」と書いてしまった手前、私もやはりここは花を贈ろうと思ったわけです。
そこで一昨日、寒い強風の中を娘たちとちょっと遠くの岩田園まで花を買いに行きました。
あなたとよく出かけた花屋さんです。
節子が一緒でないのが嘘みたいな気がしました。

まだ季節的に早かったせいか、みんなの気にいる花がありませんでした。
そのためフラワーアレンジメントにしてもらうことにしました。
先日Oさんから教えてもらったように、元気を祈って、黄色を基調にしました。
娘たちが昨日、届けてくれました。

花を贈ろう、といって、寒い中を30分もかけて花を探してくれた娘たちがとても嬉しかったです。
節子にも花を買ってきました。
お墓にも献花台にも、写真の前にも花が満開です。
オンシジウムも良い香りを発しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/25

■節子への挽歌176:黄色い花はビタミン効果があります

節子
葬儀にも来てくれた若いOさんが、先週、湯島に花を持ってきてくれました。
黄色を基調としたかわいいフラワーアレンジメントです。
黄色はビタミン効果がありますから、節子さんに供えてくださいと言って、渡してくれました。
身体から自由になっても、やはりビタミンは必要なのでしょうか。

彼女はジュンと同い年です。
実家を遠く離れて、一人で仕事に取り組んでいます。
あなたがいなくなったとおろおろしている私とは大違いです。
節子がいなくなるまで気づかなかったのですが、
一人で生きている人たちのすごさに改めてこの頃、感心しています。

しかし、やはり一人だといろいろと心細いこともあるでしょう。
結婚すれば少なくとも一人ではなくなるのですが、それはそれでまた大変なのかもしれません。
気になるのは、最近の若い人たちが、私たちの娘たちもそうですが、結婚しようという意識を弱めていることです。
みんな強くなったのでしょうか。
きっと私たち世代の生き方が影響しているのでしょうね。
その意味では、私たち夫婦の生き方もあまり良くなかったのかもしれません。
なにしろ娘たちの結婚志向を育てられなかったわけですから。

結婚せずとも人生のパートナーを得ることは可能かもしれません。
しかし、節子を失って思うことは、やはり伴侶の存在の大きさです。
よく言われるように、「人」は2人で支えあって成り立ちます。
それが伴侶でなければいけないわけではないでしょうが、
私にはやはり伴侶とそれ以外のパートナーとは異質のように思います。
結婚している人たちが、その異質さに気づいているのかどうか疑問ですが。

ところで、どうやって娘たちに結婚願望を持たせたらいいのでしょうか。
あなたも気にしていたことですが、私にとっては最大の難問です。
節子がいないのでとても心細いです。
黄色い花から元気をもらわないといけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/24

■節子への挽歌175:久しぶりの危うい話

久しぶりの「危うい話」シリーズです。

節子がまだ元気だった頃の、私の体験です。
私がこの世からいなくなった後のこの世を2回ほど歩いた記憶があります。
もしかしたら、夢かもしれないので、書くことをためらっていましたが、記憶が消えないうちに書いておくことにしました。

もう5年ほど前になります。
1回目は東京の湯島。私のオフィス近くの急な階段の上です。
一人の媼(おうな)と2人の童が、道端で遊んでいる風景に出会いました。
その時、なぜか周辺から現実感がなくなり、絵の中の風景のように見えたのです。
その3人の服装は、どうみても私が子どもの頃の時代のものでした。
声は聞こえませんでしたが、童(そういう表現がぴったりでした)たちはしゃがんだお媼(そういう表現がぴったりでした)の周りを回っていたような気がします。
私はそのまま通り過ぎたのですが、なぜかその風景が心に強く残りました。
あまりに昔風でしたし、現実感がなかったからです。
こう書いてしまうと何と言うことはない話なのですが、その時の感覚はとても不思議なものでした。

それから数週間して、ますます記憶が危ういのですが、大阪で同じ3人に出会ったのです。全く同じ服装でした。
しかし、その時は何も気にせずに、そのまま通り過ぎました。
そして数日たってから、そのことが急に思い出されました。
しかし、具体的な場所が思い出せないのです。
新大阪駅の近くだったような気がしますが、確かではありません。

なぜその時におかしいと思わなかったのでしょうか。
同じ服装の3人組が2か所にいるはずがないと、なぜ思わなかったのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、突然、あれは私が死んだ後の風景だったという思いが浮かんだのです。
なぜそう思ったのかわかりませんが、そんな気がしたのです。
むしろ前世の風景と思うのが普通でしょうが、私にはなぜか来世で見える風景に思えたのです。
節子に、死んだ後の風景を見たよと話しましたが、またおかしな話をしているくらいにしか受け止めてもらえませんでした。
私自身も、夢だったかもしれないと思い出していましたので、あまり深くは話しませんでした。
考え出すと、さまざまな不安が私の心によぎってくるからです。

しかし、その啓示は、思ってもいなかった形で、私の身に起こってしまいました。
節子が旅立ってしまったのです。
呼ばれていたのは、私だったはずなのに。

またあの3人に会ったら、今度は声を掛けてみようと思っていますが、まだ会えずにいます。
会うべき人には必ず会うものだ、と私はずっと思って生きていますので、もし会うべき人たちであれば、きっといつか会えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/23

■節子への挽歌174:すきやきにとろろ昆布は合いません

節子
あなたもよく知っているリンカーンクラブの武田さんに会いました。
武田さんと私が論争になると、あなたはいつも武田さんの味方でした。
そのせいでもないでしょうが、あなたが旅立った朝、武田さんはわが家に駆けつけてくれたのです。
その後も、私のことをとても心配してくれてちょいちょい電話してくれています。

このブログも読んでくれているのです。
人の書いたものなど読まない武田さんにしてはめずらしいことです。
その感想を聞いたら節子は武田さんらしいねと言うでしょう。
「佐藤さんがこんなにも奥さんを愛していたとは思わなかった」。

先日、お寿司のことを書いたブログを読んで同情してくれたのか、お昼をご馳走してくれると言うのです。
ご馳走してくれたのはなんとすき焼き。
しかもうなぎも食べろと言うのです。
どうやら私に体力をつけさせようとしているのです。
わが家が貧乏なのを心配してくれたようですが、わが家は決して貧乏ではなく、たまたま今は現金がないだけなのです。
いやこれも誤解を呼びそうですね。
正確に言えば、私自身が「お金から自由な生き方」を目指しているだけの話なのです。
困ったものです。
うなぎは辞退しましたが、すき焼きのお肉は美味しかったです。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、武田さんは私に会うなり、「気が弱まってるね」というのです。
わかる人にはわかるようです。
しかし、これは肉やうなぎを食べていないからではなく、半身を削がれてしまっているためなのです。はい。

武田さんは、節子も知っているように、臨死体験やら死への直面やら実にドラマティックな体験をしています。
いまも亡くなった友人の気配を感ずることがあるのだそうです。
もしかしたら、私の未来も見えているのかもしれません。
だからこんなに心配してくれているのかもしれません。

武田さんは「とろろ昆布」を持参しました。
そして何とすき焼きにそれを入れたのです。
好きなのかと訊いたら好きでないというのです。
そして、「あなたはとろろ昆布さえあれば他のおかずはいらないと奥さんが言っていたよ」と言うのです。
節子、そんなことを言いましたか。
たしかに私はとろろ昆布が好きですが、どんなとろろ昆布でもいいわけではないのです。
困ったものです。
しかし、武田さんがそういうので、仕方なく私も食べてみました。
まあまあでしたが、きっと武田さんも私も二度とすき焼きにはとろろ昆布は入れないでしょう。

でも、節子の言葉をきちんと覚えていてくれて、わざわざ持ってきてくれるなどということは私にはとても出来ない話です。
武田さんのやさしさに感激しました。

人と悲しさを共有する仕方、ケアする仕方を気づかせてもらいました。
武田さんの会話力は問題がありますが、人間とは何かへの理解は深いです。まあ本人は気づいていないでしょうが。
美味しいすき焼きをご馳走になったために、今回の武田評はちょっと甘いですね。
人にご馳走になってはいけないことがよくわかります。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/22

■節子への挽歌173:やっと咲いたオンシジウム

オンシジウム。ラン科の花です。
娘がオンシジウムが好きで、いろんなオンシジウムを集めているそうです。
ちょっと珍しく、節子も好きだったオンシジウムのひとつが節子が旅立った直後につぼみを持ちました。
例年よりかなり早いので、娘が節子の位牌の前にその鉢を供えてくれました。
「お母さんの好きだったオンシジウムが、今年はこんなに早くつぼみを持ったよ」。

ところがいつになっても咲きません。
ずっとつぼみのままなのです。
別の鉢の違う種類のオンシジウムはその間に咲いて散ってしまいました。
そのつぼみは年を越しました。
あんなに早くつぼみをつけたのにどうしてなのでしょうか。
この話を先週、娘から聞きました。
私は、わが家にそんなにいろいろなオンシジウムがあるとは知りませんでした。

節子のおかげで、同じ名前の花でも、いろいろ種類があることを知りました。
知っている名前が多いほど、その世界は豊かになります。
言葉の多さと世界の豊かさはつながっているね、と節子が言っていたことを思い出します。
節子は、知らない言葉に出会うと手帳に書く癖がありました。
そのくせ覚えないのですが、節子の、その真摯な姿勢にはいつも感心していました。
私の大好きな節子の一面です。

そのオンシジウムがやっと咲きました。
つぼみができてから何と5か月。
もしかしたら節子が宿っていたのではないかと思ってしまいます。
節子は、花や鳥になってチョコチョコ戻ってくると言っていました。

そういえば、オンシジウムのつぼみが和らぎ出した頃、朝にシャッターを開けて、節子の位牌の前のロウソクに火を点けていたら、ドンという音がしました。
驚いて窓のほうを見たら、飛んできた小さな鳥がガラスにぶつかったのです。
幸いに鳥は元気に飛び去りました。

この2つのことは、たまたまの偶然かもしれません。
その日から、なぜか節子が夢に出てこなくなりました。
これもやはり偶然なのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/21

■節子への挽歌172:複雑な迷い

節子
さびしくしていませんか。
いつものように大きな声で笑っていますか。

毎朝、あなたの前で般若心経を唱えていますが、あなたもそちらで唱えていますか。

般若心経の後、あなたの友人や私の友人たちの祈りもしていますが、最近、ちょっと迷いがでてきています。
というのは、あなたはもしかしたら、早くみんなにも来てほしいと思っているかもしれないという思いが、私の意識の底にあるような気がしてきたからです。
ですから、節子に、みんなの幸せを一緒に祈ろうねと言いながらも、節子が早くこっちにこない、と呼んでいるかもしれないという気が時々するのです。
それに、みんなまだこっち側で幸せになろうね、と私が祈ることは、節子のほうにはいかないでという願いですから、節子への裏切りではないかという気もしてきたのです。

なんとまあ、おかしなことを考えていることかと笑われそうですが、毎朝の節子の前での祈りの時には、そんなことがとてもリアルに感じられるのです。
もっとおかしなことをいえば、写真の節子の顔も毎日、表情が違うような気さえするのです。
気のせいか、最近、節子のしわが増えてきました。
単に写真が古くなっただけかもしれませんが、そう思わないところが愛する人を失った人間の気持ちなのです。
まあ、「論理的」でないのです。
しかし、人の「いのち」が生まれたり、消えたりすることそのものが、そもそも「論理的」ではないのですから、そんな気持ちが起こっても当然でしょう。

そんな複雑な思いを持ちながら、毎日、いろいろな人の名前を思い出しながら、それぞれの平安を祈っています。
しかし、人の「平安」って何なのでしょうか。
きっとそれは大きな意味での自然のなかで、流れるように生きることなのでしょう。
振り返ってみると、私は素直に生きてきたつもりが、むしろ流れに棹差し、平安を破るような生き方だったかもしれません。
そのことは、このブログの時評編を読むと一目瞭然です。
節子のおかげで、人の平安とは何かに気づき出しましたが、ちょっと遅かったかもしれません。
その気づきを褒めてくれる節子がいないのが、とても寂しいです。
褒めてもらえないと考えはなかなか現実につながらないのです。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/20

■節子への挽歌171:腰が抜けるほど大笑いしていた節子

娘たちとテレビを見ていると、お母さんはこう言うだろうね、とか、お母さんに見せたいね、と誰ともなくいうことが少なくありません。
節子も私も、そうテレビは見なかったと思いますが、体調がすぐれなくなってからは節子はテレビを見る時間が増えました。
なんでこんな馬鹿げた番組が多いのだろうと怒りながらも、その馬鹿げた番組が気にいることもありました。
笑うことが免疫力を高めるというので、私たちは笑える番組をできるだけ見ていましたが、気持ち良く笑える番組は、残念ながら今のテレビでは少ないようです。

テレビではありませんが、夫婦の会話や家族の会話で節子は笑うことが多かったように思います。
それもまさに腰を抜かさんばかりに大笑いし、私に支えられて転倒を避けると言うような場面も少なくありませんでした。
節子はおかしい話を聞くと、本当に「腹をかかえて笑い」立っていられなくなるのです。
私は、そんな節子が大好きでした。
節子の笑いの素の多くは、家族の話でした。
我が家の家族は、みんなちょっと常識はずれのところがあって、笑いのつぼも変っているのかもしれません。
いや正確に言えば、私と節子だけが、変っていたのかもしれません。

節子がいなくなってから、わが家では節子のような「底抜けの笑い」はなくなってしまったような気がします。
少なくとも私は、底抜けには笑えなくなりました。
にもかかわらず、笑うことがあるといつもなぜか節子の笑い顔を思い出します。
節子の泣き顔も魅力的でしたが、節子の笑い顔は本当に私には魅力的でした。
その笑い顔、泣き顔にもう出会えないのがまだ信じられません。
またわが家に、節子がいたころの笑い声が戻ってくるのでしょうか。
戻ってきてほしいと思いますが、無理かもしれませんね。

みなさんも、思い切り笑える時に笑っておくのがいいです。
泣ける時にも、です。
一人になると、笑うのも泣くのも、底が抜けなくなりますから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/19

■節子への挽歌170:1年前は花畑に行きましたね

節子
寒い中にも春を感ずるようになってきました。

昨年の今日は、家族で南房総にドライブ旅行に出かけた日です。
節子の好きな花いっぱいの南房総でした。
節子は歩行も辛かったと思いますが、好きな花を買ったり、イルカのショーを見たり、家族によくつきあってくれました。
来年も来ようと思っていたのに、私にとっては予想外の展開でした。
まさかこんなに早くあなたがいなくなってしまうとは誰も思ってもいませんでした。
節子がいつも笑顔で私たちに接してくれていたので、節子の本当の辛さをわかっていなかったと反省をしています。
鴨川シーワールドでは、車椅子を借りようかといいながら、結局歩かせた記憶もあります。
私には車椅子の節子がどうしてもイメージできず、きっとあなたに無理をさせてしまったのでしょうね。
でも、ゆっくりとみんなで歩いたあの時のことは、いまでもしっかりと覚えています。

とても残念でしたが、あれが家族での最後の旅行になってしまいました。
あの時の節子のことを思うと胸がつまります。
あの旅行の写真は、その後、見る気がしません。

テレビで南房総の花畑が出ると、今でも私は思わず目をそらしてしまいます。
あまりに節子の思い出が強いからです。
節子と一緒には、もうあの花畑には行けないと思うと胸が痛みます。
だらしない話ですが、また涙が出てきてしまいました。
どうしてこうも毎日涙がでてくるのでしょうか。
あなたには本当にもう会えないのでしょうか。
会いたくて仕方がありません。

いつもはそれなりに平常心を維持できるようになったのですが、こうしてあなたの具体的な姿を思い出すと嗚咽したくなるほど気持ちが高ぶるのです。
あなたをどれほど愛していたか、いまさらながら思い知らされています。
なんでこんなに愛してしまったのでしょうか。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/18

■節子への挽歌169:生命を所有していた節子、身体を所有していた節子

熊野純彦さんの「レヴィナス入門」を読んでいたら、こんな文章に出会いました。
レヴィナスはナチス政権下に生きたユダヤ人です。偶然にも生き残ったのですが。

親しかっただれもかれもいなくなってしまってなお、世界はありうるのか。そうであるなら、世界の存在そのものが無意味ではないだろうか。(中略)
中心を喪失し、意味を剥落させた世界が、なおも存在する。存在し続けている。そのとき、たんに「ある」ことが、どこか底知れない恐怖となるのではないか。
難しい文章ですが、とても共感できます。
熊野さんの「差異と隔たり」(岩波書店)も並行して読んでいますが、奇妙に心惹かれるメッセージが多いのです。
節子との別れを体験する前であれば、熊野さんの本は単に理屈だけの本と受け止めたでしょうが、いまはとても素直に実感できます。

同じ本に、ヒトラードイツが滅んだ後の風景に関して、こんな記述があります。

物理的に破壊された世界、砲弾によって挟まれた街並みはやがて修復される。修復された街並みは無数の死を隠し、穿たれた不在を見えなくさせる。世界内では「あらゆる涙が乾いてゆく」。空恐ろしいのは、そのことである。
気持ちが痛いほど伝わってきます。
人の死とはいったい何なのか。
節子を看取って以来、ずっとそのことを考えていますが、何もわかりません。
そもそも「死」という概念がおかしいのではないかという気さえしだしています。

大きな全生命系にとって、個人の死は私の毛髪が1本ぱらっと抜け落ちるのとそうかわらないのかもしれません。
そう遠くない先に、私もまた同じように抜け落ちてしまうのに、どうしてこうも空恐ろしいのか、不思議です。
死に対する恐ろしさは全くないのですが、いまここに「あること」が恐ろしいのです。

「差異と隔たり」に、
私は私の生命を所有する、というよりも、むしろ生命こそが私を所有している。
というような記述が出てきます。
手塚治虫の「火の鳥」は、まさにこういう発想に貫かれているように思いますが、そう考えるととても納得できることが多いです。

私が愛しているのは、生命を所有していた節子なのか、身体を所有していた節子なのか、どちらなのでしょうか。
私は節子の生命も身体も、共に深く愛していたことは間違いなく、それは不二なものだと思いますが、もう少し考えたい問題です。
この問題を考えて行くと、なんだか節子に会えるような気がしてならないからです。

今日はちょっと心の深遠を書いてしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/17

■節子への挽歌168:「城山を考える会」の横田さん

節子
谷和原村の「城山を考える会」の横田さんを覚えていますか。

横田さんががんばって実現したイベントに、節子と一緒にでかけたのはもう2年以上前ですね。
大根やそば粉のお土産をもらってきました。
その横田さんから、最近の活動を記録したビデオテープが届きました。
そこに「奥さんの体調はどうですか」と書いてありました。
横田さんは、いつもイベントがあると、
また奥さんと一緒に出かけてきてくださいと、誘ってくれていましたが、
残念ながら最初のイベント以降、参加は実現できませんでした。
まだ横田さんには節子のことを伝えていなかったことに気づきました。

横田さんの活動は、私が理想とするまちづくり活動のひとつです。
一人からはじめて少しずつ広がっていく。
無理をせずに、楽しみながら、その過程を苦労しながら楽しんでいくスタイルです。
活動報告をきちんと続けてくれている横田さんの人柄が、きっと仲間を増やしているのでしょう。

節子が元気だったら、横田さんたちの活動に私たちもきっと入り込めたと思うのですが、
その結節点になったであろう節子がいなくなったのは、とても残念です。
青森の三沢市の花いっぱい活動もそうですが、
いつか節子と一緒に行こうと思っていたところがたくさんあるのに、実現できませんでした。
私が各地のまちづくり活動にささやかに関わってきた意味がなくなってしまったような気がしています。

横田さんが送ってくれたテープを2人で一緒に見られないのがとても辛いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/16

■節子への挽歌167:重荷を背負いあうのが夫婦

『ヒデとロザンナ』のロザンナさんの次男が大麻所持で逮捕されました。
その謝罪会見のテレビをたまたま見たのですが、次の言葉にひきつけられました。

私はヒデ(亡き夫です)にも怒りを感じています。
彼は今も私たちと一緒にいると思っていますが、なぜ彼は止めてくれなかったのか、私が来世で会った時に、問い正したいです。
とまあ、こういうような発言をされました。
ヒデとロザンナ夫妻の哀しさに心が痛みました。
しかし、その言葉に、2人はいまも「重荷を背負い合って生きている」ことを感じました。

私も、今も節子が私と共にあると思っています。
時に辛いことを節子に話しかけます。
いるんだったら反応してほしいと思いますが、節子は返事をしてくれません。
しかし、現世の重荷をもう節子からは解放してやりたいという思いもあります。
もし私に重荷があるとすれば(実際にあるのですが)、それは私一人で背負っていこうと思っていました。
その考えをやめようかと思いだしました。

人には、それぞれそれなりの重荷があります。
そのなかには、一人でしか背負えないと思えるものもあります。
夫婦はまさに、そうした一人でしか背負えない重荷をシェアできる、あるいは少なくとも理解できる存在なのではないかと思います。
重荷を背負いあってきたと確信しているロザンナさんの気持ちがよくわかります。
私たちも、それぞれの重荷を背負いあってきました。
結婚する前後に、お互いにほとんどすべてを相手に開放しました。
節子が一人だけで背負っていた重荷はなかったはずです。
私にもありませんでした。
それが私たちの最大の幸せだったのです。

足立区で起こった父親による家族死傷事件はあまりに痛ましく、今でもあまり理解できない事件ですが、父親が重荷を背負い過ぎたのかもしれません。
重荷を分かち合える人がいる人は幸せです。

生きることのこわさが、最近、やっとわかってきました。
誠実に生きなければいけないと、この歳になって、改めて感じます。
彼岸で節子に会った時に、私が自慢できることは、きっとそれくらいでしょうから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/15

■節子への挽歌166:使われることのなかったトレッキングシューズ

下駄箱の中に、まだ使ったことのないトレッキングシューズが2足あります。
節子のと私のです。
節子の手術後、元気になってきたので山歩きに挑戦しようということになり、まずはトレッキングシューズを買おうと私が言い出したのです。
節子は乗り気ではありませんでしたが、わざわざ車で靴の専門店に行って、2人で買ったのが、このシューズです。
千畳敷カールに行く時に、このシューズを履いていこうかといいましたが、ちょっと大げさではないかと言うことになり、いつものシューズで出かけました。
そんなわけで、結局、このシューズは一度も使われることがありませんでした。

節子は、あなたは使いもしない無駄な物を買うことが多いと、良く言っていました。
確かにその傾向はあったかもしれませんが、私にとってはいつも無駄な買い物ではありませんでした。
買った物が無駄になることはよくありましたが、買い物には必ず意味がありました。

特にこのトレッキングシューズはたとえ使われなかったとしても、無駄ではありませんでした。
十分に効用を発揮したと思っています。
私も節子も、それぞれに、元気になって山に行くんだという思いを相手に伝えることができたのです。
いつかこれを履いて山に行くという、私たちの思いの象徴でした。
ですから使われなかったとしても、全く無駄にはなりませんでした。
私たちを元気にさせてくれたのですから。

こうした物がいくつか残っています。
それらは、節子を元気づけ、私たちに希望を与えてくれました。
しかし、いまそれらが私に与えてくれるのは、元気ではなく、悲しさだけです。
でも処分する気にはなれません。使う気にもなれないのです。
節子が戻ってきて使うかもしれないなどという、不条理な思いさえ、時に持ってしまうのです。
未練がましい話なのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/14

■節子への挽歌165:貧相な生き方

私の友人知人には、節子の訃報を知らせませんでした。
受け取った人の気持ちを考えると悩ましい問題ですし、
かといって事務的に知らせるのは私の好むところではありません。
知らせないのであれば、それを貫くべきだったのですが、
受け取った年賀状を見ていたら、急にみんなに節子のことを知らせたくなってしまいました。
まだ節子のことを知らない人がこんなにもいるのか、と思ってしまったわけです。
身勝手なものです。
なかには節子を知っている人もいましたし、私の悲しみへの同情を引きたいという邪念もあったかもしれません。
いやな性格としか言いようがありませんが、できるだけ自分の気持ちに素直に生きることが、私のライフスタイルなのです。

ところが、その知らせを受けたNさんから、私の身勝手さを恥じることになるメールが来ました。

まったく承知していませんでした。
人様のことに少しでも関心があれば、時にはブログを開くという行為に及ぶのでしょうが、そんな心のゆとりを欠いた日々を送っているわたしが、とても小さく思えます。
タイトルは「貧相な生き方」でした。
Nさんはとても誠実な方なのを私はよく知っています。
私よりご年配ですが、大学を引かれた後、NPOで活動しながら、
後進のためにと積極的な著作活動にも取り組まれている方です。
「人様のことに少しでも関心」どころか、たくさんの関心を持って実践的に活動されている方です。
時間を惜しんで社会活動をされていますから、私のホームページを訪れる必要などあるはずもありません。
その人に、こんなことを書かせるとは言語道断です。
きっと私の手紙の文面に、ブログを読んでくださいという気持ちが現れていたのでしょう。
「貧相」だったのは、私のほうだったわけです。

このメールで、私が衝撃を受けたのは、自分の生き方がまさに、
「人様のことに少しでも関心があれば、時にはブログを開くという行為に及ぶのでしょうが、そんな心のゆとりを欠いた日々」であることに気づかされたからです。
私自身、ブログを書くことに毎日1時間近い時間をかけていますが、
友人知人のサイトを見る時間はさほどありません。
何と貧相なことでしょう。反省しました。
せめてブログを書く時間と同じくらいの時間は、友人知人のブログを読むことにしようと思いました。
それがブログを書くものの義務かも知れません。
貧相な生き方をしていたら、節子に顔向けができなくなります。
Nさんからのメールで数日、落ち込んでしまっていました。

しかし、それにしても、人のつながりの輪を少し広げすぎてしまいました。
友人がそんなに多いと、付き合いが粗雑になるんじゃないの、と昔、ある友人から言われたことがあります。
節子と違って、私は人との付き合いが粗雑だったかもしれません。
きっと「強欲」だったのですね。
節子は決して粗雑な付き合い方はしていなかったようですね。
改めて感心しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/13

■節子への挽歌164:小さくて不要になったものを送ってください

昨日、節子の遺品を話題にしましたが、こんなとてもお洒落な体験をしました。
私も見習いたいと思いました。
本人の了解は得ていませんが、私はとても感激したので紹介させてもらいます。

49日が終わってから、YTさんから節子に花を供えてほしいとお花料が届きました。
こんな手紙がついていました。

仰々しい物ではなく、わずかなお花を何度も供えていただければ嬉しいな。私流の我侭ですが、お返しはしないで下さい。頂いても嬉しくありません。いつもそのようにお願いしているのですが、「どうしても」という方には、ご本人が使っておられた、例えば鉛筆の使いさし、或いは栞、その他なんでもよいが小さくて不要になったもの一つ送って下さい。思い出として保管します、と言うことにしています。
この手紙を読んだ時に涙が止まりませんでした。
YTさんは30年以上、いやもっと長く会っていないかもしれません。
私が20代初めに出会った人ですが、まさにYTさんらしい話です。

節子の使っていたものから何を選ぶか。
選ぶのに2か月かかりました。
そしてYTさんにとっては全く役に立たないものを選びました。
その間、私は節子とYTさんのことを時々思い出すことができました。
とてもいい時間をもらったわけです。

そしてYTさんからの花基金が、今もなお節子を囲んでいます。
とても大事に使わせてもらっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/12

■節子への挽歌163:節子の遺品

節子
あなたが使っていた「老眼鏡」をいま私が使っています。
なかなか調子もいいです。

節子の日用品で、私が使えるものがないかなと思っていて、気がついたのが老眼鏡です。
節子は遠近両用のめがねを使っていましたが、私は遠近両用などという発想が潔くないので、好きではありませんでした。
でも、節子が残したもので、日常的に使えるのはこの眼鏡くらいなので、使わせてもらうようにしました。
自宅でしか使っていませんが、このブログの作成の時には、だいたい着用しています。今もそうです。
最初は少し違和感がありましたが、いまはとてもぴったりします。

眼鏡を通して、あなたが見ていた世界が見えてくるかもしれないなどと思ったりして、時々、かけたまま家の中を歩きます。

節子の遺品はどうしたらいいでしょうか。
昔は形見分けといった文化がありましたが、今の時代はそういう考えもけっこう難しいです。もらった人がどうして良いか迷うのではないかという気もするので、難しいものです。それにあなたの遺品は、私にとっては大きな価値がありますが、他の人にとってはどうということもないものばかりです。
ところがです。

北九州市のMMさんが、節子からもらったカップで、節子と毎朝、コーヒータイムを楽しんでいると手紙をくれました。
それにつづいて、滋賀のHKさんが、
「節ちゃんからもらったメガネケースはいつも一緒です」
とメールをくれました。
遺品とは違いますが、むしろこういう形で生前にいろんな人に何かをプレゼントしていくのがいいですね。
もし死後にも思い出してもらいたい人がいたら、その人が使ってくれるだろう物を元気なうちにプレゼントしておくのがいいなと気づきました。

節子
君からもらったものがなにかあるかなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/11

■節子への挽歌162:「そうかもう君はいないのか」は誰に話しているのでしょう

城山三郎さんの「そうかもう君はいないのか」が出版されましたが、私も今なお、同じような言葉を口に出すことが少なくありません。
でも城山三郎さんの本は購入する気になれずにいます。
昨年、新聞で記事を読んだ時には、雑誌に掲載されたというのですぐに書店に行きました。
その書店にはその雑誌はもうなくなっており、正直少しホッとしたことを覚えています。
読みたいようで、読みたくない、そんな気分でした。
いまはむしろ読む気力が萎えています。

本を読んでいないので、勝手な推測なのですが、城山さんはきっと亡き奥さんと毎日たくさん話をしていたのだと思います。
そして時折、返事が返ってこないのを訝しく思って、はっと気づくわけです。
「そうかもう君はいないのか」
私には実にリアルです。
その言葉もまた、亡き奥さんへの言葉なのです。

以下は城山さんの話ではなく、私の場合です。
私の場合は、「そうかもう節子はいないのか」と声に出した後で、むしろ節子への話をしだしてしまいます。
「そうかもう君はいないのか、でもちゃんと聴いていてくれるよね」という思いがあるからです。
つまり、「もう節子はいないのか」と言う言葉は、実は節子がいないことを信じていないことの自己確認の言葉なのです。
節子、君はいないけれど、今でも一緒だねということを声に出して確認することで、自分を鼓舞しているわけです。

私がいなくなった後、娘たちは「そうかお父さんはもういないのか」と口に出して言ってくれるでしょうか。
たぶん言ってはくれないでしょう。
それが親子と夫婦の違いではないかと私は思います。
愛情の多寡の問題ではなく、関係の違いです。

同居していない人にとっては、私と違う意味で、愛する人の死は実感できないものだと思います。
私も何人か経験があります。
今でも節子さんから電話がかかってくるような気がしてならない、と何人かの人から言われました。
HKさんは、携帯電話に電話してみようと思うのだが、もしかしたら「この電話は使われていません」と言われそうなのでやめているとメールしてきました。
「もしかしたら」ではなく、間違いなくそうなのですが、その気持ちがよくわかります。

私も含めて、たくさんの人の心の中に、まだ節子がいるのであれば、なくなったのは身体だけなのでしょうか。
とすれば、「そうかもう君はいないのか」という私の言葉に、「ここにいるのにまだ気づかないの」と節子は言っているかもしれませんね。

ところで、城山さんは奥さんに会えたでしょうか。
時々、そのことを考えてしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/10

■節子への挽歌161:「あんないい人生はなかった」と思えるか

コムケア活動を通して知り合った大阪のNさんが、もしよかったらと言って星野道夫さんの「旅する木」を薦めてくれました。
Nさんも、数年前に夫を見送っています。
いまは高齢社のためにとても誠実な活動をされています。

星野さんはアラスカを中心に活動していた写真家で、10年ほど前にクマに襲われて生命を落とした人です。
星野さんの友人の池澤夏樹さんが「解説」を書いています。
書かれた時期は、星野さんが亡くなってから3年目でした。

最近ぼくは星野の死を悼む気持ちがなくなった。彼がいてくれたらと思うことは少なくないが、しかしそれは生きているものの勝手な願いでしかない。本当は彼のために彼の死を悼む資格はぼくたちにはないのではないか。彼の死を、彼に成り代わって勝手に嘆いてはいけない。
(中略)
3年近くを振り返ってみて、あんないい人生はなかった、とぼくは思えるようになった。
節子のことを、「あんないい人生はなかった」と私が思える日がくるでしょうか。
そうあってほしいと心から思いますが、今はとてもそういう気分にはなれません。
「彼の死を、彼に成り代わって勝手に嘆いてはいけない」という言葉にも共感するのですが、節子に関しては、私にだけはその資格があると思いたいです。

この本はエッセイ集なのですが、そのひとつに「歳月」という文章があります。
繰り返し読みました。
そこに、星野さんの幼馴染の親友が谷川岳で遭難して亡くなった時の話が出てきます。
そこにこんな話が出てきます。

遭難現場でTの母親と会った。変わり果てたTを見つめ、涙さえ見せなかった。そればかりか、「あの子のぶんまで生きてほしい」と、優しき微笑みながら言った。

見事な母親です。私とは全く正反対のような気もしますが、もしかしたら私と同じかもしれないとも思いました。私も、もしかしたらそうしたかもしれないという気もするのです。事実、節子がいなくなってからの数日は、実感がでてこないために、私自身もちょっと冷めた言動をしてしまったこともあります。
そういう体験があればこそ、このシーンがとても心に突き刺さるのです。

親友の死、息子の死。
いずれも「愛する者」の死にまつわる話です。
しかし、どうも私にはいずれもピンときません。
やはり伴侶の死は、親友や親、さらには子どもとも異質な気がします。
でもいつか、節子は少し早く旅立ったけれど、「あんないい人生はなかった」と思える日が来てほしいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/09

■節子への挽歌160:結婚とは、愛する人を送るためのものかもしれません

節子
またNHK「ちりとてちん」の話です。

病床の師匠に、主人公が、大好きだった祖父を亡くした時のことを思い出して、もう二度とあんな思いをしたくない、大事な人が大好きな人が遠くへ行ってしまうのは嫌だと泣きながら話します。
師匠がいいます。
それがいやならお前が先に死ぬしかない、そうしたら俺が悲しい思いをすることになる、おれにそんな思いをさせたいのか。
表現はかなり違いますが、まあそういうことです。

節子を送った時、私も何回か師匠と同じことを考えました。
これほどの悲しさや辛さを節子に与えることがなくてよかったと思ったのです。
私がいなくなって、節子ひとりだったら、果たして耐えられたかどうか、私が節子に依存していたように、実は節子もまた私に依存していたからです。
節子はしっかりしている部分ととても頼りない部分がありました。
私たちは本当に似たもの夫婦だったのです。

しかし、ちりとてちんの場合と私たちの場合は、事情が全く違うのです。
師匠は死ぬのには順番があるといいますが、私たちはその順番が違っていたのです。
私は節子より4歳年上です。
私が先に逝くのが順番なのです。
その順番が守られなかったことが、ともかく悲しくて辛いのです。
ですから、もし私が先に逝っても、多分節子は私ほどの辛さは体験しなかったでしょう。
最近はそう考えるようになりました。
事実、節子は、私を見送れないことが一番の心残りだと話したこともあります。

ですから、ますます節子が不憫でなりません。
そして私自身もまた不憫でなりません。
別れを悲しんでくれる人がいないのですから。
娘は悲しんでくれるでしょうし、友人も悲しんでくれるでしょう。
しかし残念ながらそれは伴侶の悲しみとはたぶん全く違うでしょう。
私自身、同居していた両親を見送りましたが、悲しみの質が違うのです。
死を悼む気持ちは、それぞれ別々で、比較などすべきではないことはわかっていますが、伴侶の死は極めて異質なのです。
それも自分より若い伴侶の場合、恐ろしいほどに辛いものです。
まだ結婚されていない方は、ぜひとも年上の人と結婚することをお勧めします。
結婚とは、愛する人を送るためのものかもしれない、そんな気さえ、最近しています。

ドラマの中で、師匠は、「お前より先に俺が死ぬのが道理。消えていく命を愛おしむ気持ちが、だんだん今生きている自分の命を愛おしむ気持ちに変わっていく。そうしたら、今よりもっともっと一生懸命に生きられる。もっと笑って生きられる」と主人公に言います。
この言葉は、残念ながらいまの私には全く共感できずにいます。
しかし、自分以外の人たちの命を愛おしむ気持ちは強くなってきています。
私の命は、他者の命によって支えられていることを強く実感し出しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/08

■節子への挽歌159:「それらはすべて瑣末なことですよ」

節子
あなたも会ったことのあるYTさんも就職してもう2年がたちます。
最近連絡が無かったのですが、会いにきました。相談事があるというのです。
最近、元気がないようですね、とメールに書かれていました。
湯島で久しぶりに彼に会っていたら、突然の訪問客がありました。

ドアをあけるとこれまた久しぶりにTさんでした。
花を持ってきてくれたのです。
私もずっと気になっていたので話したかったのですが、YTさんの相談にのっていたため、花を受け取ることしかできませんでした。
しかし、その時のTさんの顔の表情が心に残りました。
帰宅すると、Tさんからメールが届いていました。
私信ですが、勝手に掲載させてもらいます。一部、変更していますが。

大変ご無沙汰いたしました。
今日は、近くにきたのでとりあえずお伺いしてみよう。
お留守なら明日でもとご連絡すればいいことだからと思い電話もかけず勝手にお伺いしてしまいました。

人生相談にのっていただいたのは、もう5、6年以上前のちょうど同じ頃だったなあと思い出しながら、久しぶりの湯島の急な坂を上がりました。
「それらはすべて瑣末なことですよ」というお言葉が今も強く印象に残っております。

数日前に偶然ホームページを見て、奥様の件を知りました。
佐藤さんの悲しみ、辛さ、空虚感と共に、変わることない奥様への強い想いや永遠に変わることのない愛情がひしひしと伝わって参りました。

かみさんにそのことを話しました。
共に若くないのでお互いに身体を大事にして、長生きをしよう・・・そんな話しになりました。
普段はケンカばかりしている仲の悪い?夫婦ですが、「おまえをもっと大事にしないといけないな・・・」などと普段は思っていても恥ずかしくて言いにくい言葉が何故か自然と出てまいりました。

一月の末に母の三回忌を終えて、父も母も仏壇の仲からいつも我々家族を見守ってくれている、素直にそういう気持ちに最近やっとなれたところです。
人の一生の儚さを母や父が教えてくれました。

佐藤さんに何かできることはないものかと考えましたが、ブログを読むほどに無力感におそわれました。

奥様が好きだったお花を持ってお伺いしよう、元気な姿を見せにいけば少しでも気分転換になってもらえるのではと。
そう勝手に思って本日は唐突にお伺いした次第です。
近くまでゆきましたら、またおじゃまさせていただきます。

何回も読みました。
Tさんは私を元気にしようとわざわざ来てくださったのです。
久しく会ってもいないのに、来てくださった思いがうれしくて、ついつい無断でブログにまで書いてしまいました。

出会いの場を創ってくれる節子に感謝しなければいけません。
ふと思い出したことがあります。
父の死の時、具体的には思い出せないのですが、人は死ぬことによって出会いの回復や新しい出会いを家族に残していくものだと感じたことがあります。
そのことを何かに書いた記憶があります。探してみようと言う気になりました。

ところで、Tさんのメールを見て、はっと気づきました。
もしかしたら、若いYTさんも私を元気付けに来たのでしょうか。

私は、新しい「結い」が社会に育つと良いなと思っています。
昨夜もそういう場づくりをしませんかという集まりをしてきたところです。
でも、そういう「結い」はもともと存在しているのです。
支えあっているのは自然界だけでもなく、人間界も同じなのだと、昨夜はすごく幸せな気持ちになれました。

Tさん
ありがとうございました。
私がいま思い煩っていることの多くは、「瑣末なこと」なのでしょうね。
忘れていた大事なことを思い出させてもらえたような気がします。
でももうしばらくは、その「瑣末なこと」から抜け出られそうもないのですが。
またゆっくりと遊びに来てください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/07

■節子への挽歌158:2つの元気さ

今日は2つの元気の話です。

先週、広島のOさんから電話があり、元気そうな声で安心したと言われました。
このブログを読んでくださっている方は、私が全く元気を失っているように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
元気がないのは事実ですが、元気なのも事実なのです。
私に会った人は、なんだブログに書いているのは創作か、と思うほどに元気に見えるかもしれません。
もちろん創作ではなく、むしろ現実よりも少しだけ明るく書いているつもりです。

しかし、誰かと会ったり、電話したりしている時には、以前の私とそう変わらない私になります。
表情や声ではなく、気分が、です。

人には「変わる自分」と「変わらない自分」があります。
節子との別れで、そのことを改めて実感しています。
時評のほうで一度書きましたが、それは「ゾーエ」と「ビオス」の2つの私がいるからです
ゾーエとは「個人としての生の自分」、ビオスは「社会の一員としての自分」と言ってもいいでしょう。
もちろんそれらはつながっていますが。

ここから話がややこしくなるのですが、私の場合は、ゾーエにおいては元気を失い、ビオスにおいては元気なのです。
平たく言えば、人との付き合いにおいては元気になれるのですが、その根源における意識においては、気を削がれているわけです。
にもかかわらず、実は変わったのはビオスとしての自分であり、変わらないのはゾーエとしての自分なのです。
もっとややこしく言えば、気が削がれてしまったゾーエとしての自分が、無意識の世界において、此岸を超えて、すべてにつながりだしたという意味で、新たなる気を得ているのに対して、社会との接点にいるビオスの私は社会とうまく同調できずに気が出てこない面もあるのです。
節子とのつながりが強いのは、いうまでもなくゾーエの世界だからです。

でも、それと元気とは少し違っています。
唯識論の世界の話になってしまいそうなのでやめますが、要するに、私は元気であって元気でないわけですが、いずれにおいても違う意味で実は元気なのです。
ますますややこしくなってしまったでしょうか。

人はみんな2つの「元気」を持っている、それに気づいたのは最近です。
私はこれまで、さまざまな人の「元気」と付き合ってきましたが、その後にあるもう一つの「元気」への気遣いが足りなかったかもしれません。

いなくなった節子は、まだまだいろいろなことを気づかせてくれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/06

■節子への挽歌157:節子、あなたに供えるのを忘れてしまったよ

これは昨日の「事件」です。

夢で久しぶりに節子とお寿司屋さんに入りました。
行ったことのないお店でしたが、節子が入ろうと言ったのです。
ところがお店に入ったら混んでいて、空席が無いのです。
というよりも、どの座席にも荷物が置いてあって、誰かが席をとっているのです。
それで座席を探しているうちに、目が覚めてしまいました。
おかげで、私たちはお寿司を食べられなかったわけです。

節子はお寿司が特に好きだったわけではありませんが、わが家ではそれぞれの誕生日はみんなで創りながら食べる手巻寿司パーティが定番でした。
だからお寿司にはそれなりの思い出があるのです。
もっとも節子は病気になってからは、あまり食べることができず、お店に行ってもせいぜい2~3巻が限度でした。
ですから、きっとまた食べたいと思っているという気がしました。
そこで昨日はお寿司にしようと娘たちに提案しました。

雪で日曜日にお墓に行けなかったので、お墓参りをし、その帰りにスーパーでお寿司パックを買ってきました。
最近ちょっと貧乏なので、出前を節約してしまったわけです。
そして、みんなでお寿司を食べました。
問題はそこからです。

食べ終わってから、気が付いたのです。
あれ、節子にお供えしなかったね。
私が言い出したことなのに、節子に供えることを完全に忘れてしまったのです。
いつもは必ず残るのですが、今回は少な目に買ってきたせいか、みんな食べきってしまいました。
それで節子はまたもや食べられない結果になってしまいました。
私は食べられましたが。

私たちが食べているところを、節子はきっと笑いながら見ていたでしょうね。
その節子の笑い顔が目に浮かびます。
まぁ、わが家ではこうした事件はよくあったことなのです。
いつも責任は私にありましたが。

代わりに供えるものもないので、私が節子に謝ることで許してもらうことになりました。
薄情な家族ですが、まあこういう家族を育てたのは節子なので、自業自得というべきでしょう。はい。

今度はどんな夢を見るか、いささか気になりましたが、幸いに昨夜は節子の夢を見ませんでした。
もしかしたら他の人とお寿司を食べに行っていたのかもしれません。
そうだとすると、ちょっと不安ではありますね。
だんだん節子に嫌われそうで心配です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/05

■節子への挽歌156:2つの世界に生きる2人の私がいます

節子がいなくなってから4か月もたったのに、まだ節子の不在が心身で理解できずにいます。頭では理解しているのですが。
この状況はなかなかわかってもらえないでしょう。
自分でも理解しがたいですから。

2つの世界に生きる私がいるのかもしれません。
節子のいない世界を生きる自分と節子がいる世界にとどまっている自分です。

後者の世界の私にとっては、時間が止まっています。
今も節子のベッドが置かれていた部屋でこれを書いていますが、顔をあげるとベッドの上で私に笑いかけている節子の笑顔が見えるのです。
もちろんベッドさえも今は無いのですが。
節子のいない世界には進みたくないという思いが、私をとどめているのでしょうか。

その一方で、時間は私の思いなどとは関係なく進んでいます。
笑われそうですが、節子がいないのにどうして世界はこれまでと同じように進んでいくのだろうかという馬鹿げた思いを持つことも少なくありません。
しかし、当然のことながら私の周りの世界の時間は今までと同じように進み、私の周りでもさまざまな事象が起こっています。
そうした節子がいない世界においても、実は私は節子の死をまだ受け入れられずにいるのです。
周囲の変化や時間の経過についていけずにいるわけです。
私の世界の中心だった節子がいない世界などあろうはずがないという気がどうしてもしてしまうのです。
身勝手なことで恥ずかしいですが。
しかし、そうした時間が動いている世界の中で生きていかないといけないという現実は否定できません。
その世界に完全に身を任せれば、楽な生き方ができるのかもしれません。
しかしそれは、節子への裏切りであるばかりでなく、節子の世界にとどまっている自分を抹殺することになります。
そんなことはできるはずがありません。

節子の世界に置いてきてしまった自分と新しい状況に付きあわなければいけない自分。
「時間が癒してくれる」どころか、実際には時間が2つの私を引き裂いてしまっているのです。
時間はどうして前にしか進まないのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/04

■節子への挽歌155:鬼は内、福も内

昨日は節分でした。
私にとって節分は2月4日と頭に刻みこまれています。
2月4日は節子の誕生日、そして節子は「節分」に生まれたので、節子と命名されたと思いこんでいるのです。

前に私たちの「結婚通知状」のことを少し書いたことがありますが、その結婚通知状に節分と節子の話を書いた記憶があります。
その通知状が見つからないのですが、たしか
結婚する節子は、節分の豆に追い出された鬼の涙のようにやさしい人です
というようなことを書いたような気がします。
これだけ読むと、何か節子が悲劇の人のようになりますが、
そうではなく、私の理想の女性像を無理やり重ねてしまったのです。

私は、鬼を追いやる風習に強い違和感がありました。
排除の発想が私には許せなかったのです。
鬼を追いやる側ではなく、追いやられる鬼の側になりたいと子供の頃からずっと思っていました。
そうした気持ちが、きっと「節分生まれの節子」に重なっていたのです。
節分に生まれたのであれば、やってきた「福」のほうだと考えるのが普通ですが、どうもその頃から私は斜に構える傾向があったようです。
どうも素直ではないですが、当時から私は自分の発想こそが本当の素直さだと確信していました。いまもそうですが。
困ったものです。

節子と結婚した時に、私が提案したことで採用されたことの一つが、節分には、
「鬼は内、福も内」
と言って豆を撒くことでした。
節子はしぶしぶ賛成してくれました。
もっとも節子は、たしか、
「福は内、鬼も内」
が良いと言ったような気がします。
節子はそれを新聞に投稿したことがあります。
節子は投稿が大好きで、いろんなところに投稿していました。
それは、朝日新聞の「ひととき」に掲載されました。
このブログを書くのに、その切抜きを探したのですが、やっと見つかりました。
Setubun

その記事を読んで、私自身の思い違いに気づかされました。
節子はどうも私の意見に賛成していたわけではないようです。
切抜きをお読みいただければわかると思います。
左の写真をクリックすると大きくなります。
もし読めなかったら、ここをクリックしてください。

私の独善的な押し付けが、他にもいろいろとあったかもしれません。
気づかなかったのは、私だけだったのでしょうか。
節子に謝らなければいけませんね。

節子は、呼びこんでしまった鬼たちに連れて行かれてしまったのでしょうか。
寒い夜に、せっかくあたたかい家を提供していたのに、もしそうならば哀しい話です。
今からでもいいので、返してほしいです。
私と引き換えでもいいですから。

昨日の豆まきの私の掛け声は、「節は内」でした。
しかし今朝も節子には会えませんでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/03

■節子への挽歌154:「誰かに褒められたいからがんばれる」

NHK朝のドラマの「ちりとてちん」は、節子と一緒に見たかったドラマです。
前に一度書きましたが、心に響くことが多いのです。

先週はちょっと悲しい展開でしたが、私の心に特に残ったのはこんな言葉です。
主人公が師事している落語の師匠が、がんばって伝統工芸師の資格を取った職人やがんばって落語を続けてきた弟子などについて、「愛する人に褒めてもらいたかったからがんばれたのだ」というようなことを話すのです。
実はそれはまたその落語家自身のことでもあるのですが。

「愛する人に褒めてもらいたかったからがんばれた」
私もそうでした。
こんなことをいうと笑われそうですが、私にとっては節子に評価されることが、すべての行動の原動力でした。
節子に自慢したいがために、いろいろなことをやりました。
全く評価されなかったこともありますが、それもまた私には「ひとつの評価」だったのです。
世界中の人からの評価(そんな経験は全くありませんが)よりも、私には節子ひとりからの評価が大切でした。

これは私だけのことではないように思います。
どんな価値のあることを達成しても、身近な誰かに評価されなければ、虚しいのではないか。
そんな気がします。
偉業を達成した人が、まずは親に報告したい、というように、愛する人から褒められたいというのは、誰にも共通した気持ちではないでしょうか。

自分の活動を評価してくれる「愛する人」がいるかどうか。
それによって、人の行動は変わります。
たとえば、ヒトラーにもしもっと早い時気に愛する人が現れていたら、歴史は変わっていたでしょう。

では、愛する人がいなくなったらどうなるのか。
「ちりとてちん」の落語の師匠は、ひぐらしの鳴き声が、「カナカナ」ではなく「コワイコワイ」と聞こえるというのです。
彼は数年前に愛する妻を亡くしています。
「コワイコワイ」、生きるのがこわい、ということです。
私もそうです。
生きることの辛さ、怖さ、それをいま感じています。

来週の「ちりとてちん」は、生きるのがこわい、という師匠の話から始まります。
ちょっと見るのが辛そうです。

今日は節子の4回目の月命日です。
昨夜からの雪が積もっています。
外は真っ白です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/02

■節子への挽歌153:生き急ぐ生き方への反省

節子
あなたのことを思い出すたびに、今も胸が痛みます。
愛する人に会えない心の痛みは消えることがありません。

今日は、節子が書いた「1日の旅 おもしろや 萩の原」の額をみながら、
コタツで越路吹雪と和田あき子を聞いていました。
今朝はとても早く目が覚めてしまったので、とても眠いのです。
越路吹雪のシャンソンの歌詞をこんなにゆっくり聴いたのは久しぶりです。
とても心に沁みてきます。

昨日、節子がいなくなってから変わったことを書きましたが、一番大きな変化に今気づきました。
眠気がとんで、目が覚めました。
変わったのは「生き方」です。
生き急ぐ生き方をやめたことです。
こんなにボーっとして自宅で越路吹雪を聴いたことが、この30年、あったでしょうか。
節子の体調が悪くなって、ベッドで横になっている時でさえ、お互いに何かしていたような気がします。
少なくとも、話をしていましたね。
話すことなど必要なく、ただ黙って2人一緒に越路吹雪を聴けばよかったのに、
昔の家族のビデオを見たり、節子の足を揉んだり、いつも何かをしていたような気がします。
大切なのは、何もせずに、ただ並んでいることだったのだ、といま気づきました。

何かをしないといけないという強迫観念が、私たちにはきっとあったのでしょうね。
何もしないことの大切さを、私は頭ではわかっていたし、そうしようと心がけてきたはずなのに、
一番大切な節子との最後の数か月、それを忘れてしまい、「治す」ことばかり考えていたような気がします。
それは私が一番避けたがっていた「明日のために生きる」生き方だったかもしれません。
節子は、明日よりも今日、と言っていました。
私もそれに賛成したはずなのに、実際には、今日よりも明日を考えていたのかもしれません。

その根底には、私の生き急いでいる生き方があったのでしょうね。
今やっとそれに気づきました。
最近、どうも身体が動かないのですが、
それは私の身体がそうした生き方から抜け出ようとしているからかもしれません。

明日のために生きるのではなく、今をしっかりと生きること。
節子がそのことを私に気づかせてくれたのでしょうか。

シュバイツァーは、産業社会の中で、人々は自由を失い「過剰努力」をしていると指摘したそうですが、
その意味が少しわかったような気がします。

節子、もう生き急ぐのはやめます。
ゆっくりと、あなたのように、毎日をしっかり生きるようにします。
ありがとう、節子。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/01

■節子への挽歌152:節子がいなくなってから変わったこと

節子
まだあなたがいなくなったことの意味を理解できないまま、おろおろしています。
宮沢賢治の「雨にもまけず」に、「おろおろ」という言葉が出てきますが、
その言葉が最近の私にはぴったりだなと思っています。
外からはまあそれなりにしっかりしてきたと見えるかもしれませんが、
心情的にはまだ「おろおろ」しつづけています。
多分、娘たちはそれに気付いています。彼らはだませません。

ところで、節子がいなくなってから私にはいくつかの変化がありました。
今日はそのいくつかを報告します。

まず変わったのは、本を読むようになりました。
それもこれまでのように粗雑な読み方ではなく、時にはノートをとるほどしっかりと読んでいます。
読む本は、最近ちょっと気にいっているネグりなどの新刊もありますが、昔読んだ本の再読が多いです。
フロムやイリイチ、あるいは倫理学や正義論、自由論などの本です。
昔、あなたに得意になって講義?したことを思い出します。
しかし、今度は前に読んだ時とは違い、実感的に読めるような気がしています。
いつも、節子のこととのつながりを念頭に読んでいます。

なぜ読書時間が増えたか、それは節子との会話時間がなくなったことを埋めるためです。
ですから昔と違って、自宅で読書をしています。
あなたの写真の前で、です。

夜の就寝時間が早まったのも変化の一つです。
10時にベッドに入り、報道ステーションを見ます。
それが終わってから1時間ほど読書をします。それが最近の基本です。
節子がいた頃は、いつも遅かったのに不思議です。
隣に節子がいないのに、なぜか早くベッドに入りたくなるのです。
そういえば、帰宅時間も早くなりました。
節子がいないのだから、早く帰っても仕方がないということにはならないのです。
反対なのです。
変な話ですが、今まで以上に、節子が待っているから早く帰ろうという気分になるのです。
自分でもなぜか分かりません。

パソコンに向かう時間は一時は減りましたが、また増えだしています。
ブログとホームページのために、1日、1時間近くは使っているかもしれません。
節子は私がパソコンに向かうのが好きではありませんでしたが、
挽歌を書いている時は節子と話しているようなものなので許してくれるでしょうね。

食事の好き嫌いは言わなくなってきています。
娘たちが誠意を持ってつくってくれるものを、感謝しながら毎日食べています。
あなたには思い切りわがままでした。ごめんなさい。

他にも変わったことはいくつかあります。
しかし、節子への愛は、今も全く変わっていません。
昔も今も、節子を愛しています。
あなたも変わっていないといいのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/31

■節子への挽歌151:新潟からチューリップが届きました

節子
寒さは続いていますが、今日はとてもよい天気です。
私も少しずつですが、活動を再開しだしました。

今朝、新潟のKAさんからチューリップが届きました。
年末に富山の人が持ってきてくれたチューリップがなくなっていたところなので、
節子のまわりがまた一段と華やかになりました。

Tulip2_2

昔は富山県が切花出荷量では日本1と聞いていましたが、
最近は新潟市が球根も切花も出荷量日本1なのだそうです。
我が家の庭のチューリップは、最近、モグラに食べられてしまい、激減していますが、
今年はチューリップの花に囲まれて、節子もきっとご機嫌でしょうね

チューリップの花言葉は「愛」だそうです。
色によって、その愛もいろいろあるそうです。
贈られてきたのは、白、黄、桃色の3色です。
白は、「失われた愛」を意味するそうです。
次に黄色は、「正直・実らない恋」だそうです。
そして桃色、「愛の芽生え・誠実な愛」です。
占いもそうですが、こうした言葉は、当事者は自分なりに解釈して納得するものですが、
私にもとても納得できるものでした。
「失われた、実らない」など否定的な言葉がありますが、それぞれに私なりの解釈ができるのです。
花言葉や占い言葉は、人を元気にするものですね。

そういえば、一昨日、花かご会の人が、
みんなで房総に花摘みに行ったお土産にストックを持ってきてくれました。
節子は本当に花に囲まれている人ですね。
どうしてこんなに花が絶えないのか、とても不思議な気がします。

でも正直にいえば、「花より団子」ではなく「花より節子」です。
だれか節子を贈ってきてくれないものでしょうか。
毎朝、神仏に祈っていますが、まだ聞き届けてもらえません。
節子の細胞の一部を保存しておいて、クローン人間の技術ができた時に再生してもらうことを考えていなかったのを悔やんでいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/30

■節子への挽歌150:「亡くなった奥さんは喜ばないと思いますよ」

私を元気づけるために、さまざまな言葉をかけてもらってきました。
感謝しなければいけません。
しかし、何回か書いたように、悲しさや寂しさに打ちひしがれて人にはどんな言葉も逆効果になりがちですし、もし打ちひしがれない場合にはどんな言葉も心をすり抜けていきがちです。

しかし、自然に出てきた言葉であれば、逆にどんな言葉でも当事者の心に入ります。
感受性を高めている弱い人は、幼い子どもたちがそうであるように、また社会的弱者といわれる人たちの多くがそうであるように、言葉は表現ではなく、その心に反応するのです。
不遜な言い方かもしれませんが、私は節子との別れを体験して、初めて子どもたちやハンディキャップを持つ人の感受性が少しわかったような気がしています。

私が気になった言葉の一つに、
「亡くなった奥さんは喜ばないと思いますよ」
という言葉があります。
節子の気持ちは、夫である私のほうがわかっているという自負があるからか、私にはとても違和感のある言葉です。

40年以上、生活を共にしてきた私たち夫婦の間に、他の人が入り込める余地は皆無だと私は思っています。
間違っているかもしれませんが、そう思っています。
娘たちは、幸いにそのことをしっかりと認識しているようで、とても彼女たちに感謝しています。
彼女たちの声は、女房の声に近いのです。
そして私は、その声に違和感をもったことは一度もありません。
生活を共にするということは、きっとそういうことなのだろうと思います。
生活を共にする覚悟がないのであれば、結婚はすべきではありません。
男女の関係は、何も結婚だけではありませんから。

不条理に伴侶と別れるという状況に置かれて、「言葉」の意味がよくわかりました。
言葉が伝えることは、言葉で語られる内容ではなく、その言葉から見えてくる話し手の心です。
しかし哀しいかな、私たちはどうしても「言葉」の内容で発語し、受容しがちです。
そして自らの主観的な基準で、相手の心を解読し、反応してしまいます。
だから、相手の気持ちを忖度できずに、不快感さえ時に持ってしまうのです。
そうした時の自己嫌悪感もまた、大きいのですが、自然に感ずるのですから仕方がありません。
困ったものです。

ちなみに、私の今のすべての言動は、私の中に生きている節子との共創の結果なのです。
節子は今なお、私の内部で生き続けているのです。
節子が悲しむとしたら、おそらく私もまた悲しんでいるのです。

もしかしたらまた余計なことを書いてしまったかもしれません。
もう佐藤さんには声をかけられないな、と思われてしまいそうですね。
すみません。
でも、声をかけてくださった方の思いは、しっかりと受けとめていますので、お許しください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/29

■節子への挽歌149:声に出すことの大切さ

時評のほうの記事に、何回か「言葉」の問題を書きました。
節子との別れ以来、言葉についていろいろと感ずることがありました。

節子がいなくなってからも、私はよく節子に話しかけています。
毎朝の祈り、寝るときの会話、真夜中の呼びかけ、1日に何度、あなたと話していることでしょうか。
節子、ちゃんと聴いていますか。
またか、と聞き流しているような気もしますが、まぁいいでしょう。

いずれも私は、声に出しています。
頭の中で話す内語と声に出す外語、さらには他の人に聴いてもらって反応してもらう会話、私はその3つは別のものだと思っています。
私は何かをやるときに、必ず声に出すことから始めます。
節子はそれをよく知ってくれていました。
節子がその言葉を聴いて反応してくれることで、私は行動へと向かえたことが少なくありません。
今は残念ながら反応はありませんが、声に出すことは続けています。

毎朝、般若心経をあげていますが、当然、声に出します。
私の母も、伴侶を亡くした後、毎日、般若心経をあげていました。
当時、私はあまり関心なく、一度も一緒にあげたことはありませんでしたが、節子をなくしてからやっと読経の意味が実感できました。
母への思いやりが足りなかったことを、今頃気づいているわけです。

声に出すこと、それだけでもとても精神が安定します。
独り言はかなり勇気が要りますが、読経は堂々とできますから、それだけで自らの心身を鎮める効果があります。
読経も供物も死者のためではなく、遺族のための仕組みかもしれません。
供養そのものが、そうかもしれません。
花より団子への私の考えは、間違っているかもしれません。
最近、そんな気もしてきました。

私の場合は、報告も節子の位牌や写真に向かって、声に出しています。
ですからわが家ではまだ、節子は実在しています。
節子の許可を得てから取り組むこともあります。
私にとっては、今もなお、節子が家族の大黒柱なのです。

声に出すことの意味はとても大きいです。
愛する人を亡くした人、別れてしまった人。
ぜひ声に出して話し合うことをお勧めします。
内語でではなく、外語で、つまり声に出して話すことで、意識はかなり変わります。

そうだよね、節子
もっとも家事に関しては、節子はいつもこう言っていました。
「あなたは口だけなのだから」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/28

■節子への挽歌148:「賢明な人は生について考え、死については考えない」

「賢明な人は生について考え、死については考えない」
スピノザの言葉だそうです。
私が「賢明な人」だったことが証明されました。
しかし、最近、「死」のことを少し考え出しましたので、その「賢明さ」も危ないものになってきました。

私にとっては、「生」と「死」は全く別のものです。
死者は死を体験できず、死者は生を体験できません。
武士道では、死を意識して生きることが目指されますが、私には理解しがたいことです。
節子ががんになった時に、知り合いの医師から、「死に方の問題です」とアドバイスされた時には言葉が出ませんでした。
しかも彼は、統合医療の分野で活躍されている医師でした。
それ以来、統合医療にも関心を失いました。
その人は、その後、メールで何かできることはないかと言ってきてくださいました。
それに応えて相談のメールを出しましたが、なぜか音沙汰ありませんでした。
やはり彼は「生」には関心がなかったのかもしれません。
所詮、彼にとっての統合医療は「死の医学」だったのかもしれません。

「正法眼蔵」の公案に、「たき木はいとなる さらにかえりてたき木となるべきにあらず」というのがあります。
木は燃えて灰になる、しかし灰はもはや木にならず、そこにはつながりはない。
木と灰のつながりについては「前後際断せり」と切り捨てています。

生死もそうです。生きるものはいつか死にますが、死者は生き返りません。
しかも身体と違って、生命はある時点から完全にこの世からは見えなくなります。
いや生きている時にも、見えていたわけではありませんので、何も変わっていないのかもしれませんが、身体には戻ってきません。
死と生は、まさに際断された別物だと思います。

死を意識して生きるとは、いつ死んでも悔いのないように、その時々の生をしっかりと生きることでしょう。
しかし、死を前提にしなければしっかりできないような生き方は私の性には合いません。
節子は、がん宣告を受けてからは、1日1日を充実させることに心がけました。
節子のおかげで、私も日々の生き方の大切さを教えられました。
しかし、節子は決して「死」を意識していたわけではありません。
ともかく「生」を輝かせたかったのです。
私が接する限り、節子は最後まで「生きる」ことを目指して、毎日を充実させていました。
凄絶な最後の1か月さえも、ひたすら生を目指しました。
その姿を私は忘れることはないでしょう。
見事でした。

その頃、ある事件がありました。
私の知人が生活苦に陥っていました。
まだ若いのですが、いろいろな不幸が重なったのです。
長らく会っていなかったのですが、何となく会わないと行けないような気がして会いに行きました。
話を聞いてとても複雑な気持ちになりました。
中途半端な応援は躊躇したのですが、帰宅して節子に話したら、なぜ何もしてやらなかったのかと言われました。
節子は彼には会ったことがないはずです。
節子の勧めもあって極めてささやかな応援をしてしまいました。
その数日後、メールが来ました。
そこに自殺がほのめかされていました。
実に生々しい内容のメールでした。

必死に生きようとしている節子と共にある私としては、言い知れぬ憤りを感じました。
生きようとする人の辛さを知っていたら、自殺することなど公言することはできないはずです。
彼もまた死にたくて死のうとしているわけではありませんが、軽々しく「死」を口に出してほしくないと思ったのです。
その時に思い出したのが、冒頭のスピノザの言葉です。
出典もわからず、不正確かもしれません。ネットで調べましたが見当たりません。

また長くなってしまいました。
そのわりにいつも書きたかったところまで辿りつきません。
困ったものです。

ところで問題の彼は、その後、再出発を決意し、
必ずいつか挨拶に来ると言ってくれています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/27

■節子への挽歌147:2人でハワイに行けた話

ちょっと重い話が続きましたので、少し軽い話を書きます。
節子と一緒に海外旅行に行ったのはハワイのキラウェア火山が最初でした。
と言っても、いわゆる観光旅行ではありません。
「サイエンス」と言う雑誌の懸賞論文に入選して招待されたのです。
その時の編集部の人から、節子へのお悔やみの手紙が来ました。
その人も、一緒にハワイに旅行したのです。

ハワイへの旅は私にとっても良い思い出になっています。
旅行への参加者を募集した際、名前を伏せて審査をしましたので、お2人に当選のお知らせをする時に、その住所を見て初めてお2人がご夫婦だったと知り驚いたのも懐かしい思い出です。
2人とも応募していたのですが、私は受賞の電話を会社で受けました。
まさか節子も入選するとは思ってもいませんでしたので、
自慢してやろうと帰宅したら、節子から先に言われてしまったことを思い出します。

その旅は、とても刺激的で、夜、ホテルで同行の火山の専門家による講義もありました。
みんなそれぞれの専門家で、専門性がないのは私たちだけでした。
その時ご一緒だった人たちとは、今も何人かお付き合いがあります。
一番若かったメンバーが、今売れっ子の茂木健一郎さんです。
節子はテレビで茂木さんを見る度に嬉しそうな顔をしていました。

節子が元気になったら、今度は家族でハワイにまた行こうと話していましたが、実現できませんでした。
「やれる時にやっておく」これは節子のモットーだったのですが、実現できなかったことがたくさんありすぎます。
みなさんも、もしやりたいことがあったら、早くやっておくことです。
「親孝行、したい時には親はない」というのは、伴侶にもまさにあてはまります。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/26

■節子への挽歌146:湯島からの夕陽がとてもきれいです

節子
久しぶりに湯島のオフィスで夕方、仕事をしています。
1年ぶりでしょうか。いや、4年ぶりかもしれません。
節子が病気になってから、湯島のオフィスで夕方まで一人で仕事をすることはほとんどなくなりましたから。

オフィスから夕焼けがきれいに見えます。
節子と何度、この夕陽を一緒に見たことでしょうか。
最近は高層ビルが増えたため、見えにくくはなっていますが、ビルの向こうの夕焼けは美しい。
その美しさは、節子がいた頃は何となく甘い感じのロマンを感じさせてくれましたが、いまは寂しさをつのらせます。
同じ風景が、見る人によって、その時々によって、大きく変わるものです。

節子との最後の遠出の旅になった東尋坊の夕陽、
そしてその時お会いした、茂さんと川越さんの優しい笑顔を思い出します。
節子、あの2人は今も自殺予防のために活躍していますよ。
あの時の夕陽もすばらしかった。節子はとても喜んでいました。
私が茂さんたちに会えるなどとはあまり信じていなかったのかもしれませんが、とても感動的な出会いでした。
それもこれも、節子の応援で、全国のNPOを支援するコムケア活動をやっていたおかげです。
今もその仲間に、私は支えられています。
それに関しては、また書きましょう。
今日は夕陽の話です。

今日はめずらしく湯島のオフィスで仕事をしていますが、
言い換えれば、あなたがいない湯島で、やっと一人で過ごせるようになったということです。
誰かが来ている時には何ともないのですが、一人になると無性に節子のことが思い出されるのです。
このオフィスは節子と一緒に19年近く活動してきた空間です。
私たちの思い出がぎっしりと詰まっています。

壁に掛かっているリトグラフの「萌える季節」は、あなたが見つけてきてくれました。
2人ともとても気に入っていました。
それを見る度に、あなたの笑顔がその後ろに見えます。
あなたと一緒にいろいろな美術展にも行きました。
私はもう多分、美術展にも行くことはないでしょう。
あなたが隣にいないのであれば、行く意味がありません。

あなたの最後の仕事は、この部屋の改装でした。
その途中で、節子はオフィスには来られなくなってしまいました。
だから改装途中なのですが、そのままにしています。
あなたが自分で塗装するといって用意したペンキもそのままです。
いつかまた節子がふいに戻ってきて、仕上げてくれるかもしれませんから。

夕陽が沈んでしまいました。
夜は今も怖いです。
年甲斐もなくと笑われそうですが、本当に怖いです。

仕事の途中だったのですが、あなたへの挽歌を書きたくなってしまいました。

*これは昨日の6時前に書きましたが、ブログへのアップは1日遅れてしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/25

■節子への挽歌145:節子は私の所有財産だったのか

昨日の話を続けます。
先日、エーリッヒ・フロムの「生きるということ」に言及しました。
言葉の確認のつもりで書棚から引っ張り出したのですが、
もう一度読み直したくり、読み出したらなにやら身につまされる話で、
気分がちょっと沈み出してしまいました。
昨日の記事もその延長なのですが、自分がひどく自分勝手なのではないかという気がしてきました。
なぜそう思い出したか、その一端を今日は書きます。

フロムは、人が生きていく上で2つの基本的なライフスタイルがあるといいます。
財産や社会的地位や権力の所有にこだわる「持つ存在様式」(The Having Mode)と、
自分の能力を能動的に発揮し、生きる喜びを大切にする「在る存在様式」(The Being Mode)です。
フロムが警告しているのは、産業社会では「持つこと」が重視される結果、
さまざまな問題が生じるばかりか、社会そのものが危機にさらされるということです。
私が以前読んだ時に受けたのはそのメッセージで、それに大きな影響を受けたのですが、
今回読み直してみて、次の文章が心にグサッと突き刺さってしまいました。

(「持つ存在様式」の人にとって)もし持っているものが失われるとしたら、その時の私は何者なのだろうか。
挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在以外の何者でもない。
「挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在」。
まさにいまの私ではないか。
もしかしたら、私は節子を「所有」していたのではないか、と気づいたのです。

今の私の空しさは、愛する人と話せない寂しさではなく、
大切な財産である妻を失った喪失感ではないのか。
私は妻や家族を、自分の所有財産と考えていることはなかったか。
フロムの問いかけに、残念ながら胸を張ってそんなことはないと言いきれません。
ですから、きっと一遍上人の「さすれば人と共に住するもひとりなり」という心境になれないのかもしれません。
本来無一物」などの心境は、まだまだずっと先にありそうです。

何を辛気臭いことを考えているの、だから体育会系でない人は駄目なのよ、と節子に笑われそうですが、
私にとっては、かなり大きな問題なのです。
困ったものです。

まだこの話は続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/24

■節子への挽歌144:人は「老い、病み、死ぬ」もの

節子
今日はちょっと重い話です。

熊野純彦さん(東大准教授)は、その著者の中でこういう主旨のことを書いています。

人間は、身体として生きているかぎり、さまざまな欠如をかかえている。
それなのに、なぜか、身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆくことを、
忘れはててしまっているように思われる。
この意味が最近よくわかってきました。
書き出すときりが無いのですが、もし私に才能があれば大論文が書けそうな気がしています。
私たちが生かされている深遠の意図が読み解けそうな気がしてきているのです。
もちろん読み解けるわけもなく、それは幻想でしかないのですが、
なにやらそうした生命や宇宙の神秘に近づけているような、奇妙な気がしています。
これも毎夜、節子と交信をしているおかげ、もしくは暗示かもしれません。

節子と異身同心で生きていた頃、私自身のいのちや思いの広がりは外に向かって開いていました。
節子の世界が、私の世界になった途端に、世界は無限に拡散し出します。
なぜなら節子は私との世界以外にもまた世界を持っており、私たちの世界の外延は無限に広がっていくからです。
ですから発想の方向はつねに発展だったのです。そこには無限ともいえる可能性、つまり希望がありました。
発達心理学の「人間は死ぬまで向上する」という言葉を、何の疑問もなく、言葉通りに信じていました。
歴史の進歩主義を否定しながら、個人においては生涯の進歩を信じていたわけです。
ですから私の生き方は、常に前にしか興味がなく、拡散的な楽天主義だったのです。

しかし、節子がいなくなって、私の半身が削がれてしまってからは、発想が反転してしまいました。
忘れていた「老い」や「身体の限界」、そしてもちろん自らの「死」になまなましく気づいてしまったのです。
私の拠り所だった、インドラの網から自分が突然放り出されたような気もします。
そして発想が、発展から収束へと反転してしまったのです。
さらに、節子を通して広がっていた世界の幕が閉ざされることで、
私自身の世界もまた縮小基調に向かうような意識が強まっています。
そうなると、「不安」が生まれます。

節子がいなくなって初めて、私は「不安」に出会いました。
そして、「老い」とは不安なのだと知りました。
いや、不安こそが「老い」なのかもしれません。

節子にとても悪かったと反省していることがあります。
「身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆく」という、当然のことさえも、
私には見えていなかったのではないかということです。
節子がそれを身体的に実感していたこと、そしてそれを私に伝えていたことも、
今にして思えば、思い当たります。
しかし、節子と私が離れ離れになることなど、あるはずがないという手前勝手な思いのもとに、
「絶対に治る」と確信し、私は「老い」も「不安」も見ないようにしていたのです。

しかし、人は「老い、病み、死ぬ」ものなのですね。
その現実は避けようもないのです。
「老い、病み、死ぬ」ことに、節子と一緒に立ち向かえないことが寂しいです。

続きはまた書きます。
この話はかなり長い話になりそうですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/23

■節子への挽歌143:また挽歌が届きました

節子
先日電話をくれたNKさんが挽歌を送ってきてくれました。
私が書けないでいるうちに、他の人がどんどん書いてくれますね。
プレッシャーですね。

Nさんは、「さとうせつこ」を頭にして、詠んでくれました
Photo_2
さ : さわやかな笑顔で、友を、もてなし
と : 東大寺から、ともに白髪が、生えるまで
う : 嬉しさや、悲しみを、乗り越えて
せ : 世界一の、伴侶として、母として、生き切った
つ : 連れ添いし、四十一年、追想に、耽れば
こ : 娘にも恵まれ、心豊かに、手賀沼に咲く、オンリーワンの、花となる「手賀沼に咲くオンリーワンの花」
花好きの節子には、これほどの賛辞はありませんね。
もし節子が元気だったら、どう受け止めるでしょうか。
恥ずかしいから載せないでと言うでしょうが、紹介してしまいました。

NKさんは、柳澤桂子さんのベストセラー「生きて死ぬ智慧」の一節を書いてきてくれました。
般若心経の解釈の一文です。

人間は粒子でできていて、宇宙の粒子と一続きになっている。
何の実体のない「空」になる智慧を身につければ、
永遠のいのちに目覚め、幸せに生きられる。
納得できますね。
問題は、私が幸せには今や興味を感じていないことです。
しかし、こうして友人たちが励ましてくれることこそ、幸せそのものなのでしょうね。
そういえば、TFさんも、佐藤さんは幸せなのをわかっていますか、
と手紙に書いてきましたが、よくわかっています。

みなさんに心から感謝しているのです。
もちろん節子にも、ですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/22

■節子への挽歌142:私の生き方を励ましてくれた人

久しく会っていないにもかかわらず、
そしてあまり交流がないにもかかわらず、
時間が止まったように、付き合っていた時の関係を保持し続けている人がいます。
高校時代のMYさんが、その一人です。

私は都立西高の出身です。
同窓生のメーリングリストや集まりがあり、かなり活発に行動していますが、
私自身はほとんど参加していません。
高校時代に限りませんが、過去への関心がほとんどないためです。
過去の自分、現在の自分と言ってもよいのですが、
自分をいつも変えていこうというのが、私の基本的な生き方でした。
最近は変える気力が弱まり、惰性で生きがちですが、
50代まではかなりドラスティックにその時々を捨ててきたつもりです。

それができたのは、節子という変わることのない拠り所があったからです。
変わることなく存在する確実なものがあれば、他のすべてがなくなっても怖くはありません。
節子がいればこそ、私には怖い物など一つもなかったのです。
会社を辞めたのも、価値観を変えたのも、節子がいればこそでした。
きっと大事なものも捨ててきてしまっているのでしょうが、
私には節子がいればそれで十分だったのです。

節子と結婚した時に、それまでの日記をすべて廃棄し、友人の住所録まで捨ててしまいました。
今から思えばばかげていますが、その時は新しい世界を創り出すのだという意気ごみがあったのです。
全く違った人生を送ってきた2人が、新たに新しい人生を創りだすためには、
できるだけ過去を軽くすることが大切だと考えていたわけです。
若い頃の私は、頭でしか考えない理想主義者だったのです。
今とは正反対です。まあ、今もその名残はあるでしょうが。

高校の友人で、節子が知っている人はおそらくいないでしょう。
つまり私たちにとっては、私の高校時代は存在しない時代なのです。
もっとも全くつながっていないわけではありません。
節子も名前だけは知っている人が3人いますが、その一人がMYさんです。

もらった年賀状への返信を読んでこう書いてきてくれました。

きっと君の話をよく聞いてくれて、君の生き方をはげましてくれる人だったのでしょう。
「生き方をはげましてくれる人」
そうか、節子は私の生き方をはげましてくれていたのだ。
とても納得できました。

この一言で、なぜか高校時代のことが突然思い起こされました。
MYさんとなぜこんなにも長く会うことがなかったのか。
急にたくさんの級友たちのことが思い出されました。
まるで、節子が級友たちを思い出させてくれたような気がします。
今年は少し、過去の世界にも出かけようかと思います。

節子の声は直接聞こえてきませんが、
こうやって今も節子は私を励ましてくれているのですね。
ありがとう。節子。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/21

■節子への挽歌141:「独り生まれて独り死す、生死の道こそかなしけれ」

伴侶との別れを体験した人は私だけではありません。
しかし、私のように、おろおろとしつづけ、めそめそと挽歌などを書き続けている人は多くはないようです。
みんな哀しさを乗り越えて、しゃんとしてやっているのです。
えっ、この人も、と知るたびに自分の駄目さ加減が恥ずかしくなります。

ある研究会でご一緒したMさんが手紙をくれました。

じつは、私もかつて妻をガンでなくしました。
周囲の人達は時間が薬だとか、肉体は無くなつても、霊魂は不滅だと聞かされました。
当時はそんな馬鹿なことがと申しておりました。
時間が経つにつれ皆さんのおっしゃるとおりに考え方が変わりました。
いまは、亡くなった妻と常に一緒です。
若い内から仏の道の学習も少々かじらせていただきました。

生ぜしもひとりなり、 死するも独りなり
さすれば人と共に住するもひとりなり
添い果つべき人なきゆえなり (一遍上人語録)
さぞお寂しくいらっしゃることと存じますが、
どうかご自愛のほどをひとえに祈りあげます。

Mさんにお会いした時から、どこかで気になる人だったのですが、
もしかしたら、どこかでつながっていたのかもしれないと思いました。

一遍上人は遊行僧ですが、私はまだこの気分にはなれません。
ですが、どんなに愛し合っていても、同時に死ぬことはできない。
人は、ひとりで生まれて、ひとりで死ぬ存在なのだというのは、真実です。
残念ながら、私には、その覚悟ができていなかったばかりでなく、
いまなおそれが受け入れられないのです。
この思想の根底には、「本来無一物」という考えがあるわけですが、
それを目指している私としては、Mさんがいうように、その道理を受け入れるべきなのでしょうね。

でも、もう少し時間がかかるかもしれません。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/20

■節子への挽歌140:どうして愛夫家という言葉はないのでしょうか

節子
威勢のいいべらんめえ調のNKさんを覚えていますか。
私の周りにいる人の中ではちょっと異色な人だったかもしれません。
そのNKさんも、公私共にいろいろドラマがありました。
年賀状をもらったので、節子のことを知らせました。
そうしたら1日かけて私のブログを読んでくれたようです。
佐藤さんのブログは一つずつが長いし、それに多すぎると言われてしまいました。
もちろんそれはいつものNKさんらしい言い方です。
本来的には、「こんなぐたぐたした文章など読んでられるか」というのがNKさんらしいのですが、
何時間もかけて読んでくれたのです。気が引けます。

NKさんの感想です。
佐藤さんがこんなに愛妻家とは思わなかった、人はこんなにも愛せるものなのだね、というのです。
同じ言葉は他の人からももらったことがありますが、
NKさんからのお褒めの言葉は格別に嬉しいものでした。
NKさんは決してお世辞は言わない人ですし、心の人なのです。
でも、なぜか「愛妻家」という言葉には違和感があるのです。

私は節子を愛していたのであって、妻を愛していたわけではありません。
たまたま妻が節子だったわけですが、妻としての節子ではなく、女性としての節子を愛していました。
ですから「愛妻家」と言われると、ちょっと違うような気がするのです。

なぜこんな理屈っぽいことをいうかというと、「愛妻家」という言葉はあるのに、
どうして「愛夫家」という言葉はないのかが、気になっているからです。
ちなみに、「愛犬家」という言葉はあります。
妻や犬は愛の対象になるが、夫は愛の対象にはならないのです。
不思議だと思いませんか。

そこで思い出したのが、昔、読んだエーリッヒ・フロムの「生きるということ」です。
うろ覚えだったのですが、思っていた通りの文章が見つかりました。

愛が持つ様式において経験される時、それは自分の<愛する>対象を拘束し、閉じ込め、あるいは支配することの意味を含む。
それは圧迫し、弱め、窒息させ、殺すことであって、生命を与えることではない。(72頁)
少しだけ補足すれば、フロムは、大切なのは「持つこと」ではなく「あること」だという主張の中で、こう書いています。
そして、彼は「持つこと」よりも「あること」が大切だといっているのです。
では、あることにおいて愛とは何なのか、
それに関してのフロムの主張は必ずしも明確ではありませんが、上記の反対を考えればいいでしょう。
対象を解放し、強め、生かすことです。
しかし、それもまた余計なお世話であり、私の趣味には合いません。

「愛する」という言葉そして行為は、極めて両義的で悩ましい問題なのです。
これについては、少しずつ書いていければと思っています。

節子にとって私は一体何だったのでしょうか。
愛の対象だったのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/19

■節子への挽歌139:竹内まりやの「人生の扉」

論争相手の武田さんが、気が向いたら聴いてよ、といってCDを送ってきてくれました。
武田さんとの論争のテーマはいつも民主主義でしたが、
それを知っている節子は、いつも同じようなことを話していてよく飽きないわね、と言っていました。
武田さんは、このブログを読んでいて、私を心配してくれて、時々電話をくれるのですが、
以前と同じように、いつもまた民主主義論争になってしまうのです。

CDは竹内まりやでした。
竹内まりやは、私も一時とても好きでよく聴いていました。
武田さんは、最近話題の「人生の扉」の最後のフレーズがとても好きなのだそうです。
ご存知の方も少なくないと思いますが、今ならYOU TUBE でも聴けます

TFさんが好きなフレーズは

長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ
です。
残念ながら、私には全くピンときません。
私の人生の先に輝く何かがあるとはとても思えないのです。
しかし、「果て」ではなく、「長い旅路のなか」であれば、よくわかります。
人生には必ず輝く何かがあるものだというのは、私の昔からの確信の一つでもあります。
私の場合、それは何だったのか、そして何時だったのか。
それは「節子と新しい人生を始めた頃の2年間」でした。
私は組織から自由になり、退職金で好き勝手なことをしていました。
節子は貯金がどんどん減って、ボーナスもなく、不安を感じながらも、
私と一緒に新しい世界を開くことにわくわくしていました。
それまで時々ずれることもあった、2人の人生観が重なったのです。
喜怒哀楽を共有する伴侶になれたのです。
この歌詞にある「輝く何か」とは違うものだと思いますが、私の人生の先が決まった2年間でした。
節子の人生も、そこで決まってしまっていたのかもしれません。

そして、その後、私たちの人生は信じられないほどの速さで過ぎました。
「人生の扉」にはこういうフレーズがあります。

信じられない 速さで 時は 過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな 小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ
私は、このフレーズが心に深く入りました。
こんなに早く節子との別れがくると知っていたら、私も、「どんな小さなことも覚えていたい」と思ったでしょう。
私自身、あまりに生き急いだ気がしてなりません。
病気になってからの節子は、その私の生き方にはきっと不満だったはずです。
「いそがしいのにごめんね」と節子はよく言いました。
そのたびに、「いそがしくなんかないよ」と言っていましたが、
節子には私の生き方は「忙しく」見えたのです。
いえ、実際に忙しかったのでしょう。心を失っていたのかもしれません。

武田さんの好きなフレーズに続いて、英文の歌詞があります。
その最後は

But I still believe it's worth living
です。
まだその気分にはなれません。
武田さんは、そういう私の気分を察してくれているのでしょう。

久しぶりに竹内まりやを繰り返し聴きました。
人生は本当に哀しいですね。
価値があると信じなければ生きていけない人生とは一体何なのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/18

■節子への挽歌138:愛する人ともう会えないなどとは思いたくないのです

辛い話が続くのですが、今日は阪神大震災の話です。
もう13年も前の話ですが、被災者の方たちの時間はまだきっととまっていることでしょう。
昨日のNHKのニュースウォッチ9で、崩壊をまぬがれた酒屋さんが、
被災者たちがお互いに元気づけあう場として酒場を開き、それが今も続いていると話を紹介していました。
そこに、自宅が崩壊し、隣室で寝ていた娘さんを亡くした田中武雄さんが出てきました。
そしてこう言ったのです。

家に電話して娘が迎えに来てくれたらうれしいよ。

この言葉って、本当に真実味があります。
もう13年もたっているのに、心底きっとそう思っているのです。
そしてそれが非合理だとかありえない話だとか、田中さんはきっと思っていないだろうなという気がしました。
その後、田中さんは「会いたいよ」と言って涙を拭きました。
田中さんの気持ちがものすごくよくわかります。
もしかしたら迎えに来てくれると本当に思ってしまうのですよね、田中さん。
そしてともかく会いたいのですよね。
もう会えないなどとは思いたくないのですよね。
田中さん、よくわかります。
そんな思いから早く抜け出ろよ、と言う人もいますが、
余計なお世話だと言いたいですよね。

田中さんはその酒場の常連です。
なぜ常連になったか。
そこで声をあげてみんなの前で泣いたのだそうです。
そして、そこにいた同世代の仲間が、ともかく抱きしめたのだそうです。
悲しみを分かち合えたのです。
そのことで、田中さんは立ち直れたのだと言います。
だれも元気を出せよなどとは言わなかったでしょう。
出るわけもないし、出す必要もないのです。
泣く時は泣けばいい、そんな簡単なことすらわからない人がなんと多いことか。
そのことにこそ傷つけられます。

人を慰められるなどと思ってはいけないなと改めて思いました。
それほど傲慢なことはないのです。
田中さんはとても良い仲間を持っているなと思いました。

ちなみに私も良い友人に恵まれています。
昨日もNさんが電話をくれました。
決して元気を出せよ、などとは言いませんでした。
電話で声を聞けてうれしかったといってくれました。
私もうれしかったです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/17

■節子への挽歌137:いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなる

節子 寒い日が続いています。
そちらには寒さ暑さはありますか。
それともそうしたことからは解放されているのですか。

昨日、電車の中で涙が出てしまいました。
「軍縮問題資料」という雑誌(節子も時々読んでいた雑誌です)の『ヒバクシャの「心の傷」は死ぬまで癒えない』という、被爆者の関千枝子さんの文章を読んだからです。
関さんは、あの日、病気で学校を休んだために生き残ったのですが、
ずっと「生き残りは何をなすべきか」を考えつづけてきたそうです。
そして、被爆40年目に、総ての級友の記録をまとめた『広島第二県女二年西組』を出版したのです。
もう20年以上前の話です。
その本のことを中心に「心の傷」の話を書いています。

節子にもぜひ読んでほしい小文ですが、私が涙が出てしまったのは、次の文章でした。

不思議なことに自分のした「いいこと」は忘れてしまうようである。
悔いはいつまでもまといつき、フラッシュバッグしてまた帰ってくる。
それに続けて、親友だった友人に対する悔いが語られていますが、それが極めて生々しく、今の私の心情に深く突き刺さるのです。
関さんはこう書いています。
当事者でない人には、なぜこんなことに私がこだわるのか、分からないかもしれない。しかし、あの無残なありさまで死んだ被爆者に、大事な友でありながら何一つ役に立つことができなかった自分。悔いは深い。そして、この悔いは、月日がたつほど深くなる。薄れることがない。
そこで不覚にも耐えられずに涙をこぼしてしまったのです。

被爆者の心の傷と私の心の傷を一緒にしてしまうのは間違いかもしれません。
しかし、この小論を読んでいて、何やら自分のことのような気がしてしまい、涙が出てしまったのです。
節子は決して無残なありさまで死んでいったわけではありません。
しかし、私には「無残さ」が残ってきています。
自分の家で、家族に看取られて幸せでしたねと言ってくださる人がいますが(昨日も献花に来てくださったTさんがそうお話しされました)、
日がたって私の脳裏で育っているのは、不条理な「無残さ」なのです。
そういってしまうと節子が浮かばれないような気がして、今も躊躇しながら書いているのですが、
関さんが書いているように、いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなるのです。
この辛さは、たぶん当事者でないと分からないでしょう。

私はこれまで、被爆者や薬害肝炎患者や拉致家族のみなさんの「心の傷」を、
全くといっていいほど理解できていなかったことに気づきました。

「心の傷」はやっかいなものです。
昨今の家族内の不幸な事件もまた、そうした心の傷とつながっているのかもしれません。
関さんの文章は涙だけではなく、私にたくさんの気づきも与えてくれました。
そうしたことを話し合えた節子がいないのが無性に寂しいです。
それで今日は、ブログに長々と書いてしまいました。
節子、話を聴いてくれてありがとう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/16

■節子への挽歌136:仕事を再開しようと思います

節子そちらでは「仕事」ってあるのですか。
あなたのことだから、何もしないでいることなどできないでしょうから、きっと何かをやっているのでしょうね。
昨日のつづきの「仕事」の話です。

「仕事」って何なのでしょうか。
これは若い頃からの私のテーマの一つでした。
仕事は本来、ワクワクするものであり、苦労し甲斐のあるものでなければいけないと思っていました。
最近ようやく私にもなじめる仕事観(ディーセントワーク論)がでてきましたが、
分業体制での作業は仕事とはいうべきではないというのが私の考えでした。
ですから、会社時代に仕事仲間に「やりたくない仕事ははっきり言ってほしい」と話していましたが、
会社を辞めてからその女性がやってきて、あの言葉は辛かったと告白してくれました。
私には思ってもいないことでしたが、そうやっていろいろな人に私は苦労をかけてきたのでしょうね。
その最大の被害者が節子、あなただったかもしれません。

昨日のNKさんは、連れ合いを亡くした後、仕事に生かされていると書いてきました。
確かに仕事に取り組んでいると寂しさや虚しさを忘れられます。
私も、いろいろな人たちから活動を始めるのがいいとアドバイスされています。
大学教授だったNMさんも、「佐藤さんにとって、今の仕事は志ですから」と仕事の再開を促してきました。
コムケア仲間のAさんは、みんな待ってますよ、と言ってきます。
「あなたはそういう言葉に弱いから」と、節子が笑いながらいっていたことが思い出されますが、「おだて」に乗るのは私の「長所」なのです。

そんなわけで、仕事を再開します。
応援してくださいね。今まで通り。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/15

■節子への挽歌135:やはり元気を与えてくれるには仕事なのでしょうか

節子
M市で市会議員をやっているNKさんからメールが来ました。
彼女も4年前に伴侶を見送りました。
彼女の活躍ぶりは私のところにもいろいろと伝わってくるほどです。
その彼女がこう書いてきました。

私的には、つまらない日々です。
大笑いすることがなくなり、楽屋落ちの冗談を交わす相手がいない空しさはやりようがありません。
そうなのです、日々がつまらなくなり、心から笑うことがなくなり、楽屋落ちの冗談が交わせないのです。
あまり気がついていなかったのですが、まさに私も同じ感じですね。
先日の言いようのない退屈さを思い出しました。
彼女は4年前に伴侶と別れていますから、私はまだまだその「つまらなさ」が高まっていくのでしょうか。
ちょっと気が重いですね。

彼女はこう続けています。

仕事に生かされているなとつくづく思います。
最近の彼女の潔い決断の背景には、「つまらなさ」からの脱出意識もあったのかもしれません。
たぶん本人は意識していないでしょうが。

仕事が彼女にパワーを与えている。
私もそうなっていくのでしょうか。
江藤さんのシナリオでなければ、そうなのでしょうね。

人にとって「仕事」とは何なのか。
こういう視点から考えてみると、仕事の本質が見えてくるような気がします。

節子
私も仕事を再開します。
これまでと同じように、支援してください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/14

■節子への挽歌134:節子 新テロ特措法が成立してしまいました

節子
今日は反省です。

テレビの報道特集番組で、新テロ特措法の話がよく取り上げられています。
腹立たしさを超えて、虚しさというか哀しさがこみ上げてきますが、昨夜ベッドに入ってから、7年前にテロ特措法反対のデモに節子と一緒に参加したのを思い出しました。
節子は初めてのデモでしたが、その後も、ピースウォークに一緒に参加しましたね。
節子は政治への関心は高かったですね。
私の影響だと思いますが、私よりも過激なところもありました。
きっと女性の勘なのでしょうね。

テロ特措法が成立したのは2001年でした。
私たちが参加したデモは市民団体主催でしたが、労働組合関係者が多くて、いささかうんざりしたのを覚えています。
その後、娘に誘われて2人で参加したピースウォークは明るくてホッとしました。
今でも我が家の玄関には、その時のバッジが置かれています。

ピースウォークで一緒に歩いた千葉大学の小林正弥さんは著書「非戦の哲学」で、「2001年のテロ特措法によって、日本政府はルビコンを渡り出した」と書いています。
全く同感です。
以来、小泉さんによって日本の国政は踏みにじられ、軍事国家への道を一直線です。
ささやかではありますが、そうした動きに抗議の声をあげたことは自己満足でしかないとしても心が少しやすまります。
あなたはどうだったでしょうか。

もしかしたら新テロ特措法は廃案になると期待していたのに、成立してしまいました。
節子はきっと怒っているでしょうね、
まあ、自民党も民主党も好戦的な人たちが多いですから、いずれにしろ9条憲法は危機にさらされ続けるでしょうが、ルビコンを渡った後の歴史を反転させることはできるのでしょうか。
小林さんたちは、がんばっています。
私はその活動から完全に脱落してしまいましたが、節子がいないいま、もうどうでもいいかという気になっていました。
正直に言えば、あなたがいなくなった直後、隕石が衝突して地球が破壊されてしまったらいいのにとさえ思ったことがあります。
それほど節子のいない世界は、私には哀しい世界で、いっそすべてなくなったら節子も浮かばれるだろうなと不条理でおぞましい考えさえ抱いたことがあります。
罪深い話です。

戦争に向けて日本はまた一歩進んでしまいましたが、諦めてはいけない。
諦めることは戦争に荷担することになるでしょう。
節子と一緒にデモに参加したことを思い出して、自分の退嬰的な考えを反省しました。
平和に向けてやれることはたくさんある
昔書いた私のホームページの記事を読み直しました。
節子のおかげで、また活動に取り組むことができそうです。
ありがとう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/13

■節子への挽歌133:なぜこんなに退屈なのでしょうか

節子 きれいな花を楽しんでいますか。

今日は愚痴をこぼします。
今日1日、全くやることがなくて、時間を持て余しました。
おそらくこれほどの退屈さは、生まれて初めてです。
節子がいる時には、何もやることがなくても、あなたの隣にいるだけで退屈はしませんでした。
いえ、あなたが傍にいなくても、空を見ているだけでも、蟻を見ているだけでも、池の水面を見ているだけでも、私は退屈などしない人間でした。

もっとも、これまではそんな時間などあるはずもなく、なぜかいろいろやることがありました。
若い頃から、いつも「やるべき課題」を紙にリストしていましたが、それが10以下になることはありませんでした。
そのなかには、ほとんど家事は入っていませんでしたし、ビジネスもあまり含まれていませんでした。
あなたは食事の時間も惜しむほどやることがあるのね、と節子がいつも皮肉っていたのを思い出します。
一体何をやっていたのでしょうか。
そして、節子がいなくなったら、そうしたものがなぜ無くなってしまったのでしょうか。
不思議です。全く理解できません。

それに、あなたがいなくなってから、何をやっても退屈なのです。
本を読んでも、テレビを観ても、音楽を聴いても、ともかく満たされないのです。
30分ほどはいいのですが、持続できないのです。
どうして節子は横にいないのだろうか、こんなことをしていて何の意味があるのだろうか、と思ってしまうわけです。

「節子との交流」が、私の生活の大きな部分だったのでしょうか。
たしかに、よく夫婦喧嘩もしましたし、政治や社会問題に関する論争もしました。
でもそれだってそんなに長い時間だったわけではありません。

私が退屈することなどあるはずがないと思っていました。
やりたいことは山ほどあるし、やらなければいけないことも山ほどある。
でも、いざやろうと思うと、途端にやる気が出ずに、先延ばしし、結局、やることがなくて、退屈になるのです。
今日は、退屈である事の辛さを生まれて初めて体験しました、
そんなわけで、1日、あなたの部屋のこたつでぼーっとしていました。
それに来客も一人もないのです。
寂しい1日でした。
節子がいかに私に幸せを与えてくれていたのか、よくわかります。

みなさん、伴侶はいるだけでいいのです。わがままを言ってはいけません。
喧嘩する相手がいなくなると、それはもう寂しいですよ。
娘と喧嘩しても、その寂しさは決して埋まりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/12

■節子への挽歌132:「納得できる花がやっと見つかりました」

節子 また花が届き出し、あなたを囲い出しました。
節子は本当に花が好きなのですね。

岡山の友澤さんからの花にはこんな手紙が添えられていました。

寂しさに 空を仰げば 白梅の かたきつぼみに 浮かぶ湯河原

晩秋にお訪ねしました折は 旅先のこととて思うような花を見つけられず、心に秘めし花にてお参りさせていただきました。
節子様との、「あっ」と旅先で声をあげて喜んだ花があるのですが、季節的になかったのかもと、以来、花屋の店先に立つたび探しますが、私のイメージを組み合わせ、やっとお花をお送りできます。
節子様が愛されたお庭の片隅に植えていただければ幸いです。

同室の湖畔の宿に声上げし 花のイメージ 結び参らす

思いのこもった花ですね。
とてもさわやかで清楚な花です。
大事にしないといけませんね。
電話は苦手なので、手紙を書きますが、あなたと違って、手書きが不得手なので、パソコンで書いてしまいました。あなたならば、パソコンじゃ、心が伝わらないでしょうというでしょうが、心を込めて書いたので許してください。

しかし、「納得できる花」を探し続けてくれた友澤さんの気持ちには感激しました。
見習わなければいけません。
節子との別れ以来、ほんとうにたくさんのことに気づかされています。
あなたの友人たちに感謝しています。
これまでの私の生き方では気づかなかったことがたくさんあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/11

■節子への挽歌131:幻の大寺 西大寺

節子 今日は佐保路の話です。
JR東海のテレビCMの「いまふたたびの奈良」で、「幻の大寺」西大寺が取り上げられています。
西大寺は、私たちにとっても「幻の寺」です。

私たちの愛は、東大寺から始まりましたが、西大寺には辿り着けませんでした。
節子がもう少し元気になったらゆっくり奈良を回ろうと話していましたが、実現できず、結局、西大寺は幻に終わったのです。

私たちは滋賀で結婚し、大津に1年半いました。
休日のたびに京都や奈良に行きました。
あなたは京都派、私は奈良派でしたが、どちらにもたくさんの思い出が詰まっています。
私たちだけに通じる言葉もいくつかあります。
たとえば、飛鳥大仏といえば、私たちにはすぐ伝わる思い出があります。
みんなには内緒ですが。

私は当時、佐保路が大好きでした。
法華寺の十一面観音にほれ込んでいたのです。
その観音が、節子を招き寄せたような気がしています。
小浜から奈良に通ずる「かんのん道」の、ど真ん中に位置する観音の里「高月町」で育った節子に出会えたのですから。
今は舗装され歩きやすくなっているでしょうが、当時の佐保路はまだぬかることもあり、雨の日は大変でした。
佐保路の先に西大寺がありました。
しかし、私たちは西大寺に辿り着いたことはありませんでした。
たしか一番歩いた時でも秋篠寺が最後だったような気がします。

東京に転居してから、京都や飛鳥には行きましたし、奈良にも行きましたが、佐保路を歩くことはありませんでした。
ですから私たちは西大寺にはついに辿り着かなかったわけです。
ですから、テレビの「幻の大寺」というナレーションが、心に突き刺さってくるのです。
私たちにとっても、幻の寺なのです。それも永遠に。

もう一度、2人で佐保路を歩きたかったです。
私一人では、もう歩くことはないでしょう。
法華寺の観音にももう会うことはないでしょう。
あまりに思い出がありすぎます。
思い出すだけでも辛くなります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/10

■節子への挽歌130:寝室があったかくて、明るいのは節子のせいですか

節子
相変わらず明け方に目が覚めてしまいます。
今までよりも就寝時間が早くなったからかもしれませんが、いつも5時頃から6時頃までは目が冴えてしまうのです。
そこで最近気づいたことがあります。

今年の冬は寒いのか暖かなのかわかりませんが、私の実感では寝室が例年よりあったかいのです。
節子がいなくなって、これまでよりは寒いはずなのですが、空気がとてもあたたかい気がします。
もしかしたら寝室に節子が充満しているのかもしれませんね。
節子、そうなのですか。
一人寝の寒さを感じないのです。とても不思議なのですが。

それに、昨夜気づいたのですが、日の出前なのに何となく部屋が明るい気がします。
いままでもそうだったのでしょうか。
LED発光の時計があるので、寝室はいつも真っ暗ではないのですが、今までもこんなに明るかったでしょうか。

枕もとに節子の写真がありますが、その暗闇の中で見ると美人に見えます。
あなたがちょうどいい明るさと空気のあたたかさをつくっているのかなと昨夜気がつきました。

節子がいなくなってからもう130日目なのですが(この挽歌のナンバーがその日数です)、まだあなたがいないことが実感できずにいます。
あなたはわが家のいたるところにまだいるような気がしてなりません。
未練がましいとか願望とかではなくて、そう実感するのです。

節子 ありがとう。
この冬は、風邪をひかずにすみそうです。
寒い冬になると思いこんでいましたが、決してそうはならないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/09

■節子への挽歌129:行動が節子に似てきました

節子
夫が彼岸で節子さんに会っているかもしれないと、あなたも知っているSSさんがメールで書いてきました。
あなたの同級生だったAさんのパートナーも少し前にそちらに逝ったそうです。
でも、あなたは面識がないから見分けられないかもしれませんね。
私が逝ったら、きちんと出迎えに来てくださいね。

ところで、最近、気がついたことがあります。
私の生活行動の一部が、節子にかなり似てきたのです。
あまり具体的に書くのは、あなたのプライバシーに関わるのでやめますが、
時々、あれ、これって節子がやっていたのと同じではないかと思うことがあるのです。

夫婦は似てくるといわれますが、似ないこともありますね。
朝、私は冷たい水で顔を洗いますが、あなたは温水でないとだめでした。
廊下やトイレの埃が嫌いでしたが、私は気になりませんでした。
飲み物は一気に飲めずに、少しずつ飲んでいました。私は一気飲みでした。
包装紙は無駄にせずに残していましたが、私はそもそも開ける段階で破っていました。
テレビを観ていても、何もしないともったいないと、いつも「ながら族」でした。
テレビよりもラジオが好きで、よく聴いていました。
騒がしいタレントや服を脱いだタレントが嫌いで、出てくると嫌がりました。
たとえばこんなことが私とあなたの違いでした。ほんの一部ですが。

ところが最近の私は、なぜかあなたと同じになっているのです。
まぁ、いずれもたいしたことではないのですが、最近の私はどうも節子に引っ張られている気がします。
私の中にいる節子が、そうしているのでしょうか。
そういえば、最近、物忘れも多くなったし、なんだか頭も悪くなったような気がします。
いやはや困ったものです。
性格が悪くなってきたのも、私の中に節子が入ってきたからかもしれませんね。
いや、良くなってきたのでしょうか。
明らかに少し変わってきたような気がします。

良いこともあります。
家事を少しするようになりました。
節子と同じように、うまく手を抜くことも含めてです。はい。
だんだん「節子化」しているのが心配です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/08

■節子への挽歌128:60代は別れの始まりの世代ね

夢に節子が出てきました。
はっきりと出てきたのは、初めてです。
笑顔で「60代は別れの始まりの世代ね」と言ったのです。
目が覚めても、なぜかその言葉がはっきりと残っています。節子の笑顔もです。
その言葉がいったい何を意味するのか、
考え出したら頭が冴えてきてしまい、ねむれなくなってしまいました。

私たちの別れは決して特殊ではないので、元気を出しなさいということでしょうか。
実はこの1週間、私たちの共通の知人も含めて、何人かの訃報が入ってきました。
そのためちょっと元気をなくしてしまっている私に対する激励の言葉なのでしょうか。

人生はどこかで死に向かい出す意識が出てきます。
友人が、残された時間を意識するようになったので生き方を見直したいと言ってきましたが、
その気持ちは良くわかります。
私が広がり基調の意識から収束意識に変わり出したのは60代を超えてからですが、
それでもいつまでも続く人生という発想がどこかにあって、
時間を効果的に使わなければなどと考えがちでした。
しかし、節子との別れは、見事に私の価値観を変えました。
残り時間の問題ではなく、方向性の問題だと気づかされました。

このブログを読んで、よくコメントを下さるNさんは、さまざまな活動をされていますが、こう書いています。

一つひとつ作り出すというよりは、
一つひとつ、終わらせていくという感じでしょうか。
Nさんの誠実で真摯な生き方が伝わってきます。
これは、私に欠けていることかもしれません。

これまでの暮らしを一つずつ終わらせていく生き方。
それは、これまでの自分との別れかもしれません。
「別れの始まり」とは、そういうことでしょうか。

父を送った時に、別れは出会いでもあるのだと思ったことがあります。
節子を送ってから、私の知らないたくさんの節子に出会いました。
節子とつながっている人たちとも出会いました。
「別れは出会い」。

60歳は還暦です。
暦が新しくなる、つまりは新しい人生の始まりです。
節子が健在であっても、私たちもまた古い私たちと別れて、新しい生き方に移ったでしょう。
「別れは始まり」なのかもしれません。
節子と一緒に、その新しい人生を生きたかったですが、
なぜか私たちは彼岸と此岸に分かれてしまいました。
それもまた、新しい出会いなのだと節子は言っているのでしょうか。
「別れの始まりが、ちょっと急激に起こっただけよ」と節子は言っているのかもしれません。
節子が言いそうなことです。

会えなくても、別れていても、私の心身には節子が充満しています。
その節子と一緒に創りだす、新しい私たちに出会えるのかもしれません。
この夢の続きを見たいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/07

■節子への挽歌127:花より団子の続き

「花より団子」に関して書いたところ、追記したように、私のことではないかと涙の電話がありました。
その記事を読んで、そんな風に受け止められていたのかと涙が出てきてしまったのだそうです。
反省しました。
私もこのブログで善意の人たちを傷つけていたわけです。
伴侶がなくなったので特別だと思っている自分がいることに気づきました。
そんな気は全く無く、むしろ「当事者」の気持ちの複雑さを伝えたかったのですが、
心当たりのある人は不快になるでしょうね。
心から反省しました。
申し訳ありません。

その電話の主は、私たちの古い友人のKさんなのですが、
彼女にとっては、実は「花より団子」は特別の意味を持っていた言葉だったのです。
節子と一緒に花を見に旅行した時に、どうも節子が言った言葉のようで、
そこにはいろいろな思い出が込められていたのです。
いろいろと話を聞かせてもらいました。
Kさんには悪いことをしましたが、私の忘れていた節子を思い出させてくれました。

ところで、そのついでに、Kさんは私に、
昔、修さんに言われた言葉をもう一つ思い出したと言うのです。
会社の運動会の競技で一生懸命に走ってきたKさんに、
何で笑いながら走っていたのと言ったのだそうです。
一生懸命にがんばっている顔を笑い顔と見間違えてしまったわけです。

私は不躾な発言をよくします。
思ったことを何も考えずに口にしてしまうのです。
悪気はありませんが、それこそが一番始末におえないのです。
節子はそれをいつも気にしていました。
あなたは、いつも軽い気持ちで発言して、みんなを傷つけている、もっと気をつけないとだめよと言うのです。
節子自身が、それに慣れるまでだいぶかかったのでしょう。
誰かと一緒に会った後、よく、節子に注意されたことをKさんからの電話で思い出しました。
気をつけなければいけません。
でも、そういうことをちゃんと言ってくれるのは伴侶しかいません。

ところで、「花より団子」ですが、当事者以外、つまり今回の場合は、
伴侶を失った私以外の人にとっては、死者も遺族も同じなのではないかと気づきました。
そして、そう思ってもらえることこそが、当事者にとっては一番うれしいことではないかとも気づきました。
Kさんからの電話で、いろいろと考えての結論です。
理屈っぽいと思わないでください。
それに、あの時書いたように、「花よりこころ」であれば、花と団子の違いなど、瑣末な話なのです。
身勝手な解釈を反省しました。
自分の小賢しさがいやになります。

不快にさせてしまった方に深くお詫びいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/06

■節子への挽歌126:自分流の生き方と常識にあった生き方

一昨日、オスカー・ピーターソンのことを書きましたが、
オスカー・ピーターソン絡みの話題はもう一つあるのです。

実は昨年の秋、節子のことを知った小学校の同窓生が、長い手紙をくれました。
そこに昔、私が送った結婚通知状の文章の断片が書かれていました。
私は過去のことにほとんど興味のない人間です。
節子も似たところがありました。
でも70歳を過ぎたら、縁側で2人で思い出話をしようという暗黙の了解がありました。
ですからそのための材料はお互いに意識的に残していました。
ですが、整理が悪いので、それらがどこにあるか分かりません。
以前書いた私の「詩集」もそうですが、私たちの「結婚通知状」もその一つです。
ちょっと探してみましたが、出てきませんでした。
それで、その時は書くのをやめていました。
そのうち出てくるだろうと思ったからです。

実は、その結婚通知にもオスカー・ピーターソンが出てくるのです。
どう書いたのか思い出せないのですが、書いたことは間違いありません。
でも、今日は、その手紙の内容のことではありません。
それはまた手紙が出てきたら書くことにします。
今日のメッセージは、結婚通知状も含めた、いろいろな通知文の話です。

私は、いつも「定型文」が苦手でした。
結婚通知も、思い切り、私のスタイルでした。
先日書いたように年賀欠礼も定型文ではありませんでしたし、私の退社報告も長々とわたくし的に書きました。
しかし、時には定型的なルールや常識に則ることが必要な時もあります。
実はそういう手紙は、節子の担当でした。
どうしても私が書かなければいけない時には、節子に聞きながら書いて添削してもらいました。
冠婚葬祭などに行く時の挨拶も、節子に教えてもらっていました。
私が我流に挨拶すると、時に危ういからです。

もっとも節子もさほど常識があったわけではありませんが、まぁ私よりは少しだけ上でした。
全くの定型文ではなく、ちょっと心を入れた普通の文章が節子は得意でした。
そうした分野では、節子は私にとっては、まさに先生でした。

私は、基本的なところで判断を間違うことが多く、常識も欠落しています。
一種の発達障害かもしれません。
単なる馬鹿なのかもしれません。
その私が何とかやってこられたのは、節子のおかげです。
その先生がもういないので、これから世間の付き合いができるかどうか、いささか心配です。
失礼なことが起こったら、どうかはっきりと言ってください。
節子がいないこれからは、すべての人が先生です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/05

■節子への挽歌125:小林教授夫妻が心配して会いに来てくれました

節子 昨日はオフィスに行きました。
このブログ(時評編)に4日の午後は湯島のオフィスにいますと書いたからです。
でもまあ、だれも来ないだろうと思っていたら、思いもかけない人が来ました。
あなたも知っている、そして「とても良いご夫婦ね」と言っていた、早大の小林教授ご夫妻です。
年末に私のホームページを読んで、あなたのことを知り、私のことが心配になったのだそうです。

小林さんの頭にまず浮かんだのが、江藤淳さんのこと。
江藤淳さんといえば、奥さんが亡くなった半年後に自らの生命を絶った方です。
テレビで、それを知った時には私も衝撃を受けました。
小林さんと江藤さんとは東工大時代の同僚だったのだそうです。

小林さんは、あなたも知っているように、数年前の大手術の後遺症で歩行もご不自由ですし、言語障害も残ってしまいました。
そのため、奥様がいつもご一緒で、一度、オープンサロンに来てくれた時のお2人のご様子は、実に心温まるものでした。
今回もあの時と全く同じでした。
話していて、何だか私の横に節子がいるような気が何回もしました。

しかも小林さんは昨年末から体調が悪かったのだそうですが、
今日はあたたかな好天だったので、奥様に頼んで一緒に来てくださったのです。
小林さんのお気持ちがとてもうれしくて、たくさんの元気をもらえました。

江藤さんのことは忘れていましたが、江藤さんの気持ちはよくわかります。
愛する伴侶がいない人生を続けていくためには、よほどの元気がなければいけません。
幸いに私はたくさんの人たちから元気をもらっていますので、
たぶん(としかいえませんが)もう少しは大丈夫でしょう。

そういえば、今日、近くの中村ご夫妻にもお会いしました。
いつでもお茶を飲みに来てくださいといわれました。
節子と一緒にお茶を飲みに行きたかったなと思いますが、みんな本当に元気づけてくれます。

人を元気にするのは、やはり人なのです。
人のつながりがどんなに大事なものか、改めて痛感しています。
忙しさのあまり、人のつながりが軽んじられがちなことが、
今の時代の元気を削いでいるのかもしれません。

小林さんや中村さんのような、仲の良いあたたかな夫婦と話していると、
節子も隣に一緒にいるような気がして元気がもらえます。
私たちも、みんなに負けずに仲がよかったものね。
早くまた一緒になりたいです。
でも小林さんを心配させてはいけないので、もうしばらくは現世で元気を続けます。
あなたもそちらで元気でいてください。
必ず会いに行きますから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/04

■節子への挽歌124:オスカー・ピーターソンと幸せの水準

1日に、40年前の話を書きましたが、その続きです。それぞれが実家に帰って両親を説得した時の話です。
実家に帰って両親を説得する材料として、私はプロポーズの言葉をテープに録音しました。
節子はそれを両親に聴かせたのですが、東京の者はおかしなことをすると、それはむしろ逆効果になってしまい、心配した節子の両親が私に会いに来ることになりました。
その話はまたいつか書きます。

そのテープにはバックミュージックを流しました。
曲はオスカー・ピーターソンのカナダ組曲。
オスカー・ピーターソンはカナダのジャズピアニストで、その代表作、カナダ組曲が、当時の私のお気に入りでした。

そのオスカー・ピーターソンも、昨年12月23日に亡くなりました。
彼の演奏は、聴く人を幸せにすると言われたものでした。
節子は、カナダに行きたいといつも言っていましたが、それはこの曲のサブリミナルな効果のせいだったかもしれません。
カナダ組曲はほんとうにカナダの幸せを感じさせてくれます。

久しぶりにカナダ組曲を聴きたくなりましたが、あいにく、手元にレコードがありません。
CDを入手することにしましたが、最近は貧乏なので近くの図書館から借りることにしました。
ところが貸出し中でした。
カナダ組曲ファンが我孫子にもいるのだと思ったら、幸せな気分になりました。

娘から聴いた話ですが、あるテレビタレントは幸せの水準が低く設定された育ちをしているので、何でも幸せに感じられるのだそうです。
最近の私もそうなりだしています。
価値観を変えると、人は本当に幸せになれますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/03

■節子への挽歌123:愛することと愛されること

節子
今日はジュネーブの矢野さんから手紙が来ました。
私のブログを読んで節子との別れを知ってくれたようです。
矢野さんには親父の葬儀の時にとてもお世話になりました。
覚えていますか。
私たちは、本当にいろいろな人たちにお世話になりながら、暮らしてきました。
そのお返しもきちんとしていかなければいけませんが、あなたがいなくなって、私ひとりでそれができるかどうかとても心配です。

矢野さんは、「こんなに愛されている奥様はお幸せだなと思いました」と書いてきてくれました。
そこで、メールでこう伝えました。
「こんなに愛する妻を持てたことが本当に幸せです」

愛されることと愛することとどちらが大切なのだろうか。
これは私の若い時の疑問の一つでした。
私の結論は、愛することにこそ意味がある、ということでした。
私は、学生の頃から、他動詞ではなく、自動詞が好きだったのです。

しかし、あなたに出会った時は、愛されることを求めていたかもしれません。
その少し前に私は見事に失恋していたからです。
失恋したのは私のせいです。
愛されることに意味を感じない人を愛し続けることは難しいことでしょうから。
その最初の恋人には、とても悪いことをしたと思っています。

あなたが最初から私を愛していたかどうかわかりませんが、交際を楽しんでいたことは間違いないでしょう。
公開しにくいものも含めて、スリルもドラマもありました。
毎回、ドキドキしたりワクワクしたりすることばかりでした。
なぜあれほど2人で会うことが楽しかったのでしょうか。
1人だとできないことが、2人だとなぜかお互いに補い合って、できてしまうのです。
不思議でした。
それで、もっとずっと一緒にいようと結婚でもしようかということになりました。
そしてきっと誰もまさかと思ううちに同棲してしまったのです。
あなたは、よくまあこんなに長く続いたねと時々言っていました。
あなたは長くは続かないと思っていたのでしょうか。

あなたと一緒になってから、愛されることと愛することは同じことだと気づきました。
いや、愛するということはすべてを許すことなのだと気づいたのです。
人の言動は常に多義的です。
相手を愛していれば、その人の言動はすべて「愛」の対象になるのです。
書き続けると、長くなりますので、今回はここでやめます。

私にとっての最愛の人は旅立ちましたが、いなくなったわけではありません。
節子は今なお、私の最愛の人であり、私のすべての「愛」の象徴です。
そしてたぶん、今なお、節子は私を愛してくれているでしょう。

矢野さんは、「お花の好きな奥様にアルプスのお花を見ていただけたら」と、アルプスの花のカレンダーを送ってきてくれました。

節子
あなたの周りの花の世界はまだまだ広がっていますよ。
あなたが花をとても愛していたからでしょう。
私もそれにお相伴させてもらっています。
ありがとう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/01/02

■節子への挽歌122:年末年始の彼岸旅行中なのかもしれません

昨夜はたくさんの夢を見ました。
なぜか昔の友人たちがたくさん出てきました。
節子は出てきませんでした。
せめて夢で会いたいと思い続けていますが、なかなか会えません。
9月以降、夢で、節子の顔を見た記憶が一度もありません。
しかし、実はいつも何となく節子の気配を感ずるのです。
私の顔に出会えないように、節子の顔に出会えないのは、ずっと一緒にいるからかもしれません。

しかし昨夜の夢は違いました。
節子との別れを昔の友人たちに伝えているのです。
夢を見た直後に目が覚めました。
複数の夢を見ていたのを思い出しながら、
その夢からの気づきを今日のブログに書こうと思っていました。
ところが、それからまた眠ってしまいました。
そして起きたら、書こうと思っていたことが思い出せないのです。
夢の後に目が覚めて、啓示を受けたこともまた夢だったのでしょうか。

夢はどこかで彼岸とつながっていると、私はずっと思っています。
夢の世界に入ってしまえれば、もしかしたら節子の世界に行けるかも知れません。
むかし読んだSFに、夢と現実が逆転してしまう小説がありました。
現実の世界から徐々に夢の世界へと意識や時間や生活が移行していくという話です。
人は多次元の複数の世界に住んでいる。
死は、その次元の軸足を移行するだけである。
もしそうであれば、節子は私より一足先に次元旅行を楽しんでいるだけなのかもしれません。

節子
もしかしたら、私の心身の半分は、昨年末からあなたのところにいってしまっているのかもしれないね。
そういえば、体も何となく軽いし、ふらふらするし、第一、気力が出てこない。
めまいもそのせいかもしれないね。
今年の年末年始は、私は彼岸旅行を楽しんでいるわけだ。
そう考えると奇妙に納得できますね。

そちらでの私は、節子と新年を楽しく迎えていますか。
3が日が過ぎたら、この世に送り返してくださいね。
それまでふらふらしています。
4日にはオフィスに行く予定なので、それまでには帰してください。

ちなみに、節子の旅立ちを知らない人たちから年賀状が届いたのが、昨夜の夢の原因だったのだろうと思います。
事実、夢で訃報を知らせたうちの2人は、昨日年賀状を受け取った古い友人でした。
しかし、そうした友人たちにあえて訃報を知らせる必要があるのかどうか。
節子のことを知っている人はともかく、それ以外の人には知らせる意味がないような気がしてきました。
年賀欠礼のお知らせは何のために行うのでしょうか。
せめて定型文での年賀欠礼の案内は考え直したほうがいいような気がします。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/01

■節子への挽歌121:節子のいないお正月

千葉はとても穏やかな年明けでした。
昨日からちょっと体調を壊したために、自宅で静かに過ごしています。
節子と一緒に暮らすようになってから2回目の、別れて過ごす正月です。

私たちは籍を入れる前に一緒に暮らし始めました。
12月に貸家をかりての「神田川的生活」を始めたのです。
そして正月は、それぞれの自宅に帰って、自分の親の許可をとってくることにしました。同棲を始めてから親に報告に行ったわけです。
節子は大反対でしたが、決めたら誰が何と言おうと決行するのが、当時の私の生き方でした。
きっと有無を言わさずに節子に押し付けたのでしょう。
当時、私は、思い切り自分流で生きていました。

結果は2人とも完全に失敗で、両方とも親の大反対を受けてしまいました。
反対されてもすでに既成事実(単に同棲だけでしたが)はできているので、イニシアティブは私たちにあります。
いつの時代も、行動が最高の計画です。
もし愛する人ができたら、考えることなく行動すべきです。
そして行動したら、最後まで責任を取るべきです。
それが「愛」だと、私は思っています。

で、少し時間はかかりましたが、両方とも私たちの結婚を認めることになったわけです。
そして結局、両方の両親とも、とても喜んでくれることになりました。
私たち夫婦にとっての最大の親孝行は、たぶんお互いに最高の伴侶を見つけたことだと思います。

親から反対されようと私たちはめげることなく、生き方は変えませんでした。
私はそれ以前からもそういう生き方でしたが、節子も意外とそうだったのです。
あまり表面には出しませんでしたが、強い自己主張のある女性でした。
まぁ頑固だったということなのですが。
しかし、親(親族みんな)の反対を押し切っての結婚だったので、節子はどんなことがあっても親元には愚痴をこぼすことはありませんでした。
節子は自分で決めたことは徹底して守るタイプでした。
その決意も完璧に行われましたので、私の欠点は節子の両親には全く伝わらずに封印されたわけです。
ですから私は理想の婿になれたのかもしれません。

私たちが、世間の常識の呪縛に縛られることなく、自分たちの夫婦スタイルを一緒に創りだす生き方になった原点が、この時にあります。
意気消沈して帰ってきた者「同士」が「同志」になったのです。
節子は泣きながら、結婚するが親不孝は絶対にしたくないといいました。
そうした節子を、私は絶対に守ろうと思いました。
そして神田川的生活が本当に始まったのです。

その時、私が持っていた貯金は8万円でした。
節子の貯金がそれより数倍多かったのは間違いありませんが、いくらだったか覚えていません。私のはあまりの少なさに記憶していますが。
そのため半年くらいは、まさに6畳一間に近い生活をしたわけです。
タンスもなく、ミカンの空き箱も利用しました。
その冬も寒かったです。
暖房器具もあまりなかったような気もします。
お互いに身体を暖めあうように一緒に寝ました。
しかし、いま思い出すと、その頃が一番楽しかったのかもしれません。

あれから40年以上がたちました。
当時に比べると夢のような大きな家とたくさんの家財に囲まれています。
しかし肝心の節子がいません。
人間にとって、何が一番大切か。
そのことを改めて思い知らされています。
家も家財も、節子がいなくなってしまった今は、私には無用の長物でしかありません。
そうしたものが多ければ多いほど悲しさはつのるのです。
そのことに、もっと早く気づくべきでした。

この40年はいったい何だったのか。
本当に夢幻のような気がします。
40回以上も新年を一緒に過ごしたことがどうも実感できません。
そして、なぜ今年は節子がいないのか。
別れていても、いつも一心同体なのだと思えるようになってきましたが、
それでも話し相手がいない元日はとてもさびしくて元気が出ません。

今年は元気なことから書き出そうと思っていましたが、体調不良のせいで結局また暗くなってしまいました。
娘がスターバックスの美味しい珈琲を買ってきてくれて、いれてくれました。
少し元気が出ましたが、節子がいないさびしさは埋まりようがありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/31

■節子への挽歌120:節子、とうとう今年は会えずじまいでしたね

節子
今年も終わりです。

今日は実は大変な1日でした。
節子が呼びに来たのかなと思ったほどです。
朝起きたら、めまいと吐き気で、動けなくなりました。
ホームページに書きますが、
何とか落ち着きました。
生まれて初めての体験でした。

もうじき除夜の鐘が鳴り出すでしょう。

今年は私たち夫婦にとっては忘れられない年になりました。
しばらくの別れを余儀なくされてしまった不条理さをまだ受け入れられずにいますが、
今もなお、節子と共に生きていることはかなり実感しだしています。
矛盾した言い方でしょうが、それが正直な気持ちなのです。

あなたと会えなくなってから、たくさんのことに気づきました。
毎晩、早朝に目が覚めます。
そして1時間くらい、あなたと静かに会話します。
時には自然に声が出ることもあります。
そこであなたからたくさんのことを学んでいます。
あなたが私に残してくれたことは、本当にたくさんあります。
ありがとう。感謝しています。

節子と結婚しなかったら、今の私とは全く違った私になっていたでしょう。
今の私は完全に節子によって育て上げられたといえるでしょう。
そしてその生活の基盤をつくったのもあなたです。
わが家の文化は、良いところも悪いところも、すべてが節子の作品です。
節子がいなくなって、あなたの存在の大きさを感じます。

節子がいなくなってから、私はずっとめそめそしています。
会う人たちは、予想に反して元気で明るいと安堵しますが、元気で明るく、めそめそしているわけです。
娘たちは2人とも私とは別のショックを受けていますが、若い分だけ対応も柔軟のようです。
心の底は私には見えませんが、彼らはとてもよくしてくれます。
これも間違いなく節子の文化のおかげです。
家庭の文化は、結局、女性が創るものだとつくづく思います。

この挽歌も120回になりました。
私にとっては、この挽歌を書くことが一つの支えでもあるのですが、
うれしいことに(そして少し気恥ずかしいことに)読みつづけてくれる人がいるのです。
あなたのことを知っている人も多いですが、私たちとは面識のない人まで読んでくれています。

4か月たつのに、今も節子の周りには花が絶えません。
一昨日、ジュンの知り合いが、わざわざ富山からきれいなチューリップをたくさん持ってきてくれました。
彼はあなたの花好きのことを知らないだろうに、どうして花を持ってきてくれたのか不思議です。

明日から新年。
朝はいつものように、一緒に初日の出を見たいと思います。

節子
本当にありがとう。

また会えるのを楽しみにしています。
本当は今すぐにでも会って抱きしめたいのですが。

除夜の鐘が鳴り出しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/30

■節子への挽歌119:写真の向こうの節子の息吹を感じられるような気がします

節子 今年ももうじき終わりです。
そちらにもカレンダーはあるのでしょうか。
時間はどう流れているのでしょうか。

この頃、あなたの写真を見るだけで涙が出てきます。
どうしたことなのでしょうか。
自分でもわからないのですが、節子の笑顔の写真にこの頃、表情や変化を感じるのです。
写真なのに、その先に生きている節子を感じるのです。

あの世の世界は、私が今生きている三次元の世界ではなく、もっと高次元の世界という話を読んだことがありますが、もしそうだとすれば、この写真の向こうにあなたが生きている世界があるのかもしれません。
それが感じられるようになったからでしょうか、ともかく写真をみると自然に涙がこぼれてきます。

もうまもなく今年も終わろうとしています。
節子がいなくなってから、私にとっての世界は一変しました。
そして、それまで何となく見えてきたことがしっかりと見えてきたように思います。
とても温かな世界も見えてきましたが、とても寂しい世界も見えてきました。
生きるということの、惨めさと悲しさを改めて考えさせられています。
ともすれば厭世的になりがちです。

しかし、それにしてもこれまでの私の生き方は、いかにも寂しく冷たくて、近代的だったかを思い知らされています。
わがままで一人よがりだった。
その生き方が、節子のおかげで、温かなものに見えていただけだったのかもしれません。

節子、あなたも私同様、わがままでしたが、でもとても温かなものを持っていました。
それを思い出しながら、来年はもう少し温かい生き方を私もしようと思っています。

あなたは本当に私にとっての最高の先生でした。
すぐに後追いできないのがとても悲しいです。
あなたが早く迎えに来てくれることを願っています。
早くまた節子に抱きしめられたいです。
そして、抱きしめたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/29

■節子への挽歌118:「やはり、生きるしかないのです」

節子
今日はちょっと辛い報告です。
辛い報告もたくさんあるのですが、しばらくはあなたには伝えないようにしようと思っていました。

あなたも知っているJ.M.Aさんからのメールです。
彼女も辛い病気と一緒に生きているようです。
しばらく連絡がなかったので、もう病気は回復したのかと思っていましたが、そうではなかったのです。

早くご返事を出したかったのですが、言葉が見つからず、書いては消し、書いては消し、やっと落ちつきメールを出すことが出来ました。
彼女の気持ちを思うと、今度は私も返事が書けなくなりそうです。
あなたの訃報を知らせるべきではなかったと反省しました。
こういう人が何人かいました。
私の友人にはまだあなたの訃報はあまり知らせず、
あなたのことを知っている人50人くらいにしか知らせていないのですが、
その返事の多くに悲しいニュースが書かれていました。
いままで私にはそうしたことが見えなかったのかもしれません。
どこの家庭にも、それぞれに悲しいことや辛いことがあるのだと改めて思い知らされました。
同時に、自分が少しでもその立場にならないと、そうしたことは見えてこないものなのだとも思いました。

Mさんはメールの冒頭にこう書いてきました。

やはり、生きるしかないのです。元気で生きてください。
メールの最後にこう書いてくれました。
奥様の分まで長生きして下さいとは言いません。
でも、元気でいて下さい。いつも、健康をお祈りいたします。
節子
あなたはもう痛みや苦しさから解放されていますか。
あなたの辛さをきちんと受け止めていなかったのではないかと悔やんでいます。
昨夜も4時に目が覚めて、そのことを思い出したら、もう眠れなくなりました。
声に出して謝りましたが、聞こえましたか。

Mさんも、痛みに耐えているようです。こう書いています。

今年のクリスマスは、神様に「痛みを少し取って下さい」とお願いしました。
節子、あなたもそちらでMさんのために祈ってくれますか。
Mさんだけではありません。
みんなの痛みや辛さが少しでも軽くなるように、一緒に祈りたいと思います。
私たちも、たくさんの人たちに祈ってもらいました。
私も、朝の般若心経の後、1分間の黙祷を始めたいと思います。

この世には、あまりにもたくさんの痛みや悲しみ、辛さや不安があります。
それがこの頃、見えすぎてきてしまい、生きることの辛さを感じています。
節子が元気だったころの脳天気な修は、少しだけかも知れませんが、卒業しました。

それなりにがんばっているので、安心してください。

*一昨日書いた「花より団子」がちょっと問題になっています。
 少し追記していますので、気になっている方はぜひ読んでください。
 勝手なことですみません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/28

■節子への挽歌117:2人で過ごす「無為」の時間

今年の年末は、何もやる気がなく、手持ち無沙汰です。
節子がいた時は、どうしてあんなに忙しかったのでしょうか。
自分の生き方を、今になって反省しています。
節子に指摘されていた意味が漸くわかってきました。

大切なことからではなく、どうでもいいことから始める、あなたの生き方を変えないとだめよ。
やることが山積みのときでも、私は気が向くままに、好きなことから取り組むのが常でした。
忙しい忙しいと言っているのに、実際にはどうでもいいようなことをやっていて、
寝る時間の直前になってからようやく明日までにやらなければいけないことに手をつけだすのが、私の習癖でした。
そのため、いつも節子は、やらなければいけない「大切なこと」からやらないとだめよ、と注意してくれていました。
私と節子とでは、「大切なこと」の意味が違っていたのです、
節子がいう「大切なこと」は、それをやらないと誰かに迷惑をかけることでした。
私にとっての「大切なこと」は、やっていて楽しいことでした。

ところが、節子がいなくなってから、やっていて楽しいことがなくなってしまったのです。
だから時間をもてあましているわけですが、しかし一方で、友人知人に頼まれていることはたくさんあるのです。
もちろん私が担当の家事もたくさんあります。
仕事も引き受けていますので、やらないと誰かに迷惑がかかることもあるでしょう。
しかし、楽しくないことには気が向きませんし、気が向かなければ仕事はできません。
勝手だといわれそうですが、私の仕事は「その気」にならないと成果をあげられないのです。
まぁ、節子に叱られた時にはいつもそういう「言い訳」をしていました。

不思議なのは、節子がいなくなった後、どんな仕事も楽しくなくなってしまったのです。
目的が見えなくなったからでしょうか。
節子がいようがいまいが、関係ないはずですが、ともかくやる意義が見出せないのです。

そんなわけで、節子が最後までいた和室で、節子の写真の前で無為に過ごしていることが少なくありません。
それが無駄なのか、意味のあることなのか、わかりませんが、少なくともその時間は、私たち夫婦の時間です。
そういう時間を持てることに感謝しています。
ただ、なぜ節子がいた時にもっとこういう時間を持たなかったのか、それが悔やまれてなりません。
空気と同じで、それがなくなって初めて大切さがわかることもるのです。
その時は、すでに遅いのですが。

「無為」の時間を過ごすこと。
宇宙の大きな流れからみれば、個人の一生はそれ自体「無為」といっていいでしょう。
いろいろとやっているようですが、結局は無為に等しいことでしかありません。
その無限の無為が重なって宇宙になっていくのでしょうが、
逆にそういう視点から考えれば、無為とがんばりとの違いもないのかもしれません。
まぁ、節子の写真の前で、そんなことを考えているわけです。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/27

■節子への挽歌116:「花より団子」「花よりこころ」

今日は、節子への内緒話です。
節子に聞かれるときっと掲載禁止になると思いますので。

節子の供養に来てくださる方のなかには、「花より団子」といいながら、花ではなく供物として果物を持ってきてくださる方もいました。
花はいろんな方からもらっていたので、花より団子はありがたいことでした。
しかし、「花」と「団子」とは、その意味合いが全く違います。
いつかそのことを書きたいと思っていましたが、注意しないとせっかくのお心遣いを否定することになりかねないので、書くのを躊躇していました。
でも、このブログでは当事者の思いをできるだけ知ってもらったほうがいいと思い、書くことにしました。
失礼な発言があったらお許しください。
それに、これは私だけの考えかもしれません。

花より団子、という言葉には比較が入っています。
そのために、当事者はいささかの感情を持ってしまいます。
花も団子も供養の手段ではあるのですが、当事者には微妙に違うのです。
「花」は主に死者に向けられていますが、「団子」は主に遺族に向けられています。
愛する人を亡くした当事者にとっては、その違いは大きいのです。
遺族よりも死者への供養をしてほしいと思ってしまうのです。
なにしろ頭の中には死者のことしかないのですから。
花が聖なるメッセージの象徴であるとすれば、団子は俗なメッセージの象徴なのです。

死者が生前、とても好んでいたものであれば、意味合いは違ってきます。
むしろその場合は、団子も「花」的な要素を持ってくるということです。
つまり、供物として団子が悪いということではないのです。
「花より団子」という言葉があまり適切ではないということです。
もっと端的に言えば、「比較」を内包する言葉は、弔いや供養の場面では使うべき言葉ではないように思います。
今にして思うと、実は私自身使ってしまっていたこともあるのですが、反省しています。

理屈っぽい話ですみません。
しかし、気分が落ち込んでいる当事者にとっては、そうした小さな言葉づかい一つひとつが心にグサッとくることもあるのです。
しかも、それは必ずしも明確に伝わるわけではありません。
いわゆるサブリミナルに印象を残すのです。
こうした「異常な感受性」におそわれて、私自身、ほかの遺族の人と接しられなくなってしまいました。
同時に、誰かに会うのも恐ろしかったのです。
過剰に「見えてしまう」気がするからです。
最近、やっと少しずつ落ち着き出しました。

せっかくなので、さらに余計な一言を付け加えます。
大切なのは、花でも団子でもなく、こころです。
「花よりこころ」、ではなく、「花にこころ」というべきでしょうが。
花や団子を使わなくても、こころは表現できることを改めていろいろと学びました。
私自身は、そうした生き方を心がけてきたつもりなのですが、なかなかできていないことにも気づかされました。

素直な思いをお伝えしたくて、勝手なことを書いてしまいました。
他意はありません。
団子を届けてくださった方、気を悪くしないでください。
私も同じようなことをこれまでやってきたのだろうと思います。
またぜひ団子も持ってきてください。はい。

追記(2007年12月28日)
このブログを読んだ人から、私のことね、という電話がありました。
その人が「花より団子」と言ったことは、実は記憶になかったのですが、
言われてみると確かにそんな話をしていたかもしれません。
その方は、ブログを読んで、とても気になり、真意を伝えたくて電話をしてくれました。
その話を娘にしたら、○○さんも「花より団子」と言ってたよと言うのです。
ところが、その記憶もないのです。
思っていた以上の方が、そういう言葉を話しているのかもしれません。
ですから、この記事を読んで、不快な思いをされた方が少なくないのかもしれません。
やはり載せなければ良かったですかね。
節子がいないとやはり問題を起こしがちです。困ったものです。

この記事に関する続編は改めて書きます。
どうぞ気を悪くされないで下さい。
当事者と周囲の人との意識の微妙なずれを書いておきたかっただけなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/26

■節子への挽歌115:言葉が見つかりません

節子 
先日、自宅建設の時にお世話になったKさんがカレンダーを持ってきてくれました。
節子のことを話しました。
沈黙があった後、何を話したらいいのかわかりません、と言いました。
Kさんらしい正直な反応です。
Kさんに限りませんが、手紙でもメールでも電話でも、節子のことを知っている人は一瞬たじろいでしまいます。
それがわかるので、私自身も話す時に「たじろぎ」ます。

節子も会ったことのある私の友人にも訃報のメールをしました。
あなたも知っているKさんからのメールはこうです。
社交ベタな小生に、
「お痩せになられましたね」と声を掛けてくれたことがあります。
にもかかわらず、私は無愛想に「そんなことも無いと思いますよ」と返答したように思います。
私の不器用さに手を差しのべてくれたに違いないのに、
と瞬時に気がつきながらもフォローの言葉も思い浮かばなかったあの時の自分を思い出しました。
彼岸の奥様に
「すんません。気持ちはあるんですが、無作法で。上手く社交が出来ないだけなんです。
実は、気持ちよく迎えて戴いたことが、とても嬉しいのですが、喜びの感情表現が何故か恥ずかしいのです」
と改めてお詫び申し上げます。
Kさんのことを節子といろいろと話したことを思い出します。
彼がこんなふうに考えていたとは思ってもいませんでしたね。

Mさんは覚えていますか。覚えていますよね。
Mさんからは、こんな褒め言葉です。
初対面の他人をもホッとさせる、何とも穏やかな雰囲気をお持ちの方でした。
爽やかな印象をお与えいただきましたことを、未だにはっきりと覚えています。

他にもいろんな人が温かな言葉を添えてきてくれています。
でもメールが届くのは、みんなしばらく時間がたってからです。
どう書いていいかわからないのですよ、きっと。

年が明けたら私の知人たちから年賀状がまた届くでしょう。
私がまだ知らせていない知人友人も少なくないからです。
その人たちにどう伝えたらよいか。
例年のような年始メールも出さないつもりです。
私のホームページには節子のことを書こうと思っていますが、どう書けばいいか、迷っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/25

■節子への挽歌114:「そうか、もう君はいないのか」

城山三郎さんが先に逝った奥さんのことを書いた遺稿が本になるそうです。
その紹介が先日、朝日新聞に出ていました。
城山さんの奥さんもがんで亡くなったそうです。
その紹介記事の中に、とても心に響く言葉が二つありました。

(母が亡くなってからの父は)「半身を削がれたまま生きていた」。
娘さんの言葉です。
「半身を削がれたまま」。
実によくわかります。
私もまさにそういう状況です。
実際には「半身」どころではなく、ほぼすべてが削がれたといったほうが実感にあいます。
これまで育ててきた世界が、あるいは育ってきた世界が無くなってしまったという気持ちなのです。
そうした喪失感は自分でもわからないほどに、大きく深いのです。
妻がいない世界を生きていることが信じられないといってもいいでしょう。
にもかかわらず、半身を削がれたまま生きていけるのは、削がれた半身の記憶があるからです。
そして、その記憶が、「生きる力」を与えてくれるのです。
奇妙に聞こえるでしょうが、削がれた半身に支えられて生きていると言ってもいいかもしれません。
この言葉に出会った時に、まさに自分自身の生き方を指摘されたような気がしました。

もう一つは、遺稿の本の書名になる城山さん自身の言葉です。
「そうか、もう君はいないのか」。
この言葉で、城山さんの思いがいたいほど伝わってきます。

城山さんは今年3月に亡くなりました。
いまはきっと2人でなかよくやっているでしょう。
節子はまだ1人です。
彼女は「そうか、まだ修はいないのか」と言っているかもしれません。
城山さんがちょっとうらやましいです。

半身が削がれているせいか、この冬の寒さはとてもこたえます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/12/24

■節子への挽歌113:今年のわが家の庭はちょっとさびしいです

クリスマスイブです。
例年ならば一番楽しむのは節子なのに、今年は主役がいないのでさびしいです。
節子、そっちでのクリスマスはどうですか。
こちらよりも派手でしょうか。

今年のわが家の庭にはイルミネーションはありません。
節子が大好きで、いろいろと飾っていましたが、今年は玄関にあるだけで庭には一つもないのです。
喪に服しているからではありません。
むしろ節子を偲んで飾ろうかと話していたのですが、
不思議なことに去年飾っていたイルミネーションが見事にみんな故障してしまい、うまく点灯しないのです。
直せば点いたのかもしれませんが、
きっと節子がやめろと言っているのだと早合点して、みんな捨ててしまいました。
その後、やはり点けようかということになり、買いに行きましたが、もう売り切れていました。
高いのは残っていたらしいですが、そんな高いものは買わないでいいよと節子が言うだろうと勝手に解釈して、買ってこなかったようです。
わが家の娘は2人とも節約家ですから。
子ども時代に小遣いが少なかったからかもしれません。
そんなわけで、今年のわが家の庭はさびしいのです。

今日は昼間、娘たちに頼んで私のオフィスの掃除に行きました。
帰ってきてから、娘が手づくりケーキを作ってくれましたが、
いつも中心にいた節子がいないので、だれもプレゼントをもらえず、あげる気にもなれません。
こんなにさびしいクリスマスイブは、わが家では初めてです。
そういえばクリスマスソングも、今年のわが家では一度も聴いていませんね。

こういう貧しい家庭にはきっとサンタさんがプレゼントを届けてくれるでしょう。
明日の朝、目が覚めたら、隣で節子が寝ているかもしれません。
節子をプレゼントをしてくれたら、
キリスト教に改宗してもいいと思っています。

サンタさん
聞いていますか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/23

■節子への挽歌112:一人でお風呂に入るのがとても辛いです

最近、入浴するのが嫌いになりました。
浴室に一人でいるのが昔から好きではないのですが、
節子がいなくなってから、さらに入浴時間はさびしさがつのる時間になってしまいました。

節子
私たちはいつもお風呂は一緒でしたね。
だから私も退屈しませんでした。
会社時代の仕事が忙しい時は、お風呂での会話が一番の会話でした。
私の帰りが遅くても、節子は待っていてくれて、
お風呂のなかで私の話をいろいろと聞いてくれたし、
自分の話をしてくれたのを今も思い出します。

思い出すと言えば、2人で最初に一緒にお風呂に入ったことも覚えています。
結婚前に私の両親に引き合わせるために東京に来る前日、京都の旅館で泊まった時でしたね。
ちょっとスリルのある旅でした。
部屋続きのお風呂があり、そこに一緒に入ったような気がします。
あれは夢だったのでしょうか。
節子に確かめたい気もしますが、今となっては確かめようもありません。
結婚前に何回か旅行に行きましたが、一緒に入浴したのはたぶんその時だけでした。
もっとも一緒に入浴したにもかかわらず、その後は何もなかったのも不思議な話ではあります。
せいぜいが手をつないで寝たくらいでした。
一緒にいるだけで充分に幸せでした。

病気になってからも、いつも手をつないで寝ていましたが、
今は手をつなぐこともかなわず、いつもさびしく寝ています。
お風呂も嫌いですが、寝るのも嫌いになりました。
さびしさを実感するからです。

お風呂とベッドでいつも思うのは、
まだしばらく私はそちらには行けなさそうなので、節子に戻ってきてほしいということです。
何とかその方策はみつからないものか、そんなことを真剣に考えています。
馬鹿げていると自分でも思うのですが。
伴侶がいなくなってしまった男性は、そんなものなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/22

■節子への挽歌111:私は「理想の男性」だったのですね

節子 あなたの笑顔が見られないのがとてもさびしいです。
そちらでも笑っていますか。
さびしくても悲しくても、笑わないとだめですよ。
私は、そうしています。一人でいる時にはちょっと涙が出てしまいますが。

今日は、節子にとって私が「理想の男性」だったという話です。
保谷でお近くだったNさんから手紙が来ました。
お互いに会おうといっていたのになかなか会えずに、節子も残念がっていたNさんです。
Nさんも無理をしてでも会えばよかったと悔やんでいました。
そのNさんの手紙にこんな文章がありました。

節子さんは素敵な笑顔で主人は理想の男性とよく言っていました。
なかなか言えることではないので、すばらしいご夫婦だなと思っておりました。

節子はいろいろな人に私のことや家族のことを話していたようですね。
私が会ったことのない人から、節子さんから話を聞いていましたという人が少なからずいるので驚きました。
それに節子は、多くの人に「家族にとても感謝している」と言っていたようですね。
だめな夫なのにほめてくれてうれしいです。
あなたはいつも私に、「あなたは家族のことをほめないわね」と注意していました。
私が家族にはとても厳しかったことが、あなたには少し不満だったのでしょうね。
でも私が本当に家族を愛していたのを一番知っていたのもあなたでした。
誰よりも、自分が愛されていることを知っていてくれました。

あなたにとって、実は私は「理想の男性」ではなかったことはよく知っています。
体育会系でもないし、あなたが好きなハンサムでもないし、自分勝手で時々「切れてしまう」こともあるし、第一、仕事ばかりしているのに収入はないし、頑固だし、その上、うっとうしいほどに自分(節子)を愛しているし、自動車の運転もしないし、まぁ書き出したらきりがないほど節子の嫌いなところがあったからね。
にもかかわらず、節子がNさんに私を「理想の男性」と言い切ってくれていたことを知ってうれしいです。
もっとも娘のジュンは、お母さんは見栄っ張りだったからそう言ってたんだよ、と言っています。
まあ、それが真実かもしれません。
しかし、「理想の男性」とも思っていたことも事実ですよね。
そう確信しています。

いうまでもないですが、節子は、私には正真正銘「理想の妻」でした。
まぁ、「理想」というのはちょっと視点を変えると「最悪」ともいえるのかもしれませんが。
ソクラテスの悪妻の話が有名ですが、「理想の妻」も「最悪の妻」も、同じことかもしれないとこの頃、ようやく気が付きましたが、でもまあ、私たちは「理想の夫婦」だったのかもしれません。
実はそう手紙で書いてきてくれた人が一人ならず何人かいるのです。
とてもとてもうれしいことです。

私の友人たちは、私のことをあんまりほめずに、大ばか者とか変わり者とかいう人が少なくないのですが、節子は友だちに恵まれていますね。
私はあんまり恵まれていないようです。
私の良さをわかってくれたのは節子だけかもしれません。
2人の娘も全くわかっていませんし。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/21

■節子への挽歌110:節子は電車の掃除の仕事までしました

節子 元気でしょうね。
昨日、油絵のことを書きながら思い出したことがあります。

あなたはアルバイトも時々やっていましたが、その一つに電車車両の掃除の仕事がありましたね。
先日、テレビを見ていたら、「電車の掃除をすることが夢」という子どもの夢を実現してやるという番組がありました。
お母さんが見ていたら喜ぶだろうなと娘たちが言いました。
本当に節子に見せたかったです。

節子にとっては、趣味も習い事もアルバイトも、きっとみんな同じだったのでしょうね。
友人に誘われるとだいたいやりだしましたね。長続きはしませんでしたが。
その仕事は、近くの電車車庫に行って、みんなで車内掃除をするという仕事だったと思います。
いつもその様子を楽しそうに話していたのを思い出します。
そこで出会った人から桃屋の佃煮をもらってきたことも、なぜかはっきり覚えています。
今から考えると、私の収入が少なかったので働いていたのかもしれませんが、私はそんなことは一切考えたこともありませんでした。
桃屋の佃煮が家計を助けていたのかもしれませんね。

でも、楽しいから働く、それが節子の生き方でした。
働くのも遊ぶのもあなたには同じだったのだと思います。
それが私たち夫婦の共通の生き方でしたから。
しかも、そういう場で、あなたは必ず友だちをつくってきました。
あなたの新聞への投稿記事を読んで10年ぶりくらいに電話をくれた人もいましたが、その人は英会話の教室で何回か会っただけだそうですね。
その人は、なぜかあなたのことを覚えていて、新聞を見て電話をかけてくれたのですね。
節子は本当に不思議な人でした。

そのくせ、私の友人たちが集まる場では、そうした不思議な面はあまり見せませんでしたから、私自身もその節子パワーに気づいていなかったのかもしれません。
あなたの「気」のすごさを知ったのは、節子が病気になってからです。
今にして思うと、私の元気の源は節子から送られてくる「気」だったのですね。
その「気」は、今も送ってくれているのでしょうね。
でなければ私がこんなに元気になれるはずはないよね。

そちらでもたくさんの友だちができましたか。
相変わらず長続きしない挑戦をしていますか。
今度会ったらどんな話が聞けるか楽しみにしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/20

■節子への挽歌109:節子の油絵はモナリザより価値があります

節子 
今年の冬は、あなたがいないのでとても寒いです。

昨日、玄関に飾っていた油絵を君が好きだったフィレンツェの絵に代えました。
私はピエロの絵が好きですが、ジュンがあまり好きではないからです。
和室もまた節子の書に代えました。

節子が油絵を習っていたのはどのくらいだったでしょうか。
しかしあなたは本当にいろいろなことに挑戦しましたね。
私と同じで、長続きはしなかったけれど、いろいろなことを我が家に持ち込んできてくれました。
趣味だけではなく、習い事もあったし、仕事もありましたね。
ともかく行動派でした。

節子の絵の先生が描いた絵や、節子が気に入って買ってきた絵もありますが、
そういう絵はわが家ではあまり飾られることはありません。
節子自身が結局は飽きてしまい、自分の絵に代えてしまうからです。
せっかく買った絵はどこかにしまわれてあまり日の目をみていません。
もったいない話です。

最後に節子が玄関に飾っていたのはコスモスの絵でした。
あまりうまいとはいえないのですが、飽きることはありません。
油絵を最近やりだした私の友人のAさんがそれを見て、なかなか良いよ、といってくれましたが、節子に聞かせたかったです。
そういえば、Aさんに残ったキャンパスをあげるようにいわれていましたね。
忘れてました。

家族の書いた絵は、飽きることがありません。
我が家にはいろいろなものが飾られていますが、いわゆる「お宝もの」は皆無です。
でもみんな、それぞれに誰かの思い出があるものばかりです。
家族がいればこその「たからもの」なのです。
節子と私がいなくなったら、娘たちにはほとんどが「がらくたもの」にしかならないでしょうね。
「物の価値」とはそういうものではないかと思っています。
ですから、私にはピカソやモネの絵の価値が全くわかりません。
困ったものです。
節子のピエロの絵とモナリザを交換してやるといっても、きっと断るでしょう。
但し、娘たちは喜んで交換するでしょうね。
これもまた困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/19

■節子への挽歌108:「自らを振り返りつつ、多くを学ばせて頂いております」

節子 風邪をひいていないでしょうね。
今日は私の友人のOさんからの手紙です。

このブログも、意外な方が読んでくれていることに時々驚かされますが、Oさんもその一人です。
手紙をもらうまでは、まさかブログを読んでいてくださるとは思ってもいませんでした。
仕事一図の誠実な方でしたが、定年後、奥さんと一緒に旅行するために、わざわざ自動車の運転免許を取ったという方です。
その一事を持ってしても、その人のお人柄がよくわかります。
そのOさんから「(ブログを)読んで胸が詰まり、気に掛けていながら、どうしてもこの一葉をしたためることが出来ずにいました」という手紙が来ました。
そして手紙の最後に、「私自身、自らを振り返りつつ、多くを学ばせて頂いております。ありがとうございます」と書いてありました。
私たちの生き方は、ちょっと変わっていて、結構ぶざまだったような気がしますが、それを書き残すことも、もしかしたら「ささやかな価値」があるのかもしれないと我田引水してしまいました。

感謝しなければいけないのは、わざわざこのブログを読んでくださる方がいるということです。
節子と私のことを思い出してくれる人がいる限り、私たち夫婦は生き続けていると言っていいでしょう。
節子と直接話せないのが残念だけれど、私たち夫婦の世界がまだまだ広がっているような気がして、とてもうれしいです。

それにしても、もっともっといろいろな人を、節子に会わせたかったです。
なんでこんなに早くあなたは旅立ってしまったのでしょうか。
とても無念です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/18

■節子への挽歌107;コーラスの仲間が献花に来てくれました

節子 こちらはますます寒くなりました。
そちらは暖かなのでしょうね。

昨日の報告です。
コーラス仲間のみなさんが献花に来てくれました。
節子が好きそうな寄せ植えをもってきてくれました。
天王台や青山台、久寺家など、いろんなところからのみなさんです。
昨日が最後の練習日だったのだそうです。
今年の11月のコンサートには私は行きませんでしたが、
もしかしたら節子は聴きに行っていたかもしれませんね。
なんだかそんな気もします。
今日は時間も遅かったので、おもてなしは出来ませんでしたが、また来てくれるそうです。

もう4か月目に入ったのに、本当に節子の周りには花が絶えません。
節子がみんなから愛されていたことがよくわかります。
節子を独占していたような気がしていましたが、
節子は私のものではなく、たくさんの人たちの大事な人だったのですね。

そういえば昨日、横浜のNさんからも手紙が来ました。
節子が好きだった梅干を今年も送ろうかどうか迷ったらしいのですが、結局、送ることにしたという手紙でした。
節子がいなくなっても変えられない気持ちがとてもうれしいです。
まあ、がんばって梅干を食べないといけませんが。

Nさんには、実は申し訳ないことをしてしまいました。
告別式の日に、Nさんが私に、
「節子さんがいなくなったので寂しくなりました」
と言ってくれたのですが、それを受けて、私が、
「Nさん、私はその10倍も100倍も寂しいんです」
と言ってしまったのです。
後から考えると、寂しさは比較できるものではないと反省しました。
しかし一度言葉にして出してしまうともう取り消せません。
一度、お詫びの手紙を書いたのですが、それもまた大仰だと思い、出すのを止めていましたが、
どこかで書いておきたいと思っていました。
ようやく書けました。

あなたの友人たちに失礼があってはいけないと思い、努力していますが、
どうも私はそうした配慮が苦手で、節子がいたら怒られるだろうなと思うことも少なくありません。
あなたがいないと本当に大変なのです。
自立できていなかった頼りない夫を置いていった節子の責任ですよ。
いまからでも遅くないので、いやあれは冗談だったと言って、戻ってきてくれませんか。
地獄の沙汰も金次第と言われますが、もしお金でどうにかなるのであれば、
新種の詐欺を考え出して調達するようにがんばります。
宝くじも買いましょう。
何とかして節子を復活させることはできないものでしょうか。
タイムマシンを持っている人がいたら貸してほしいです。

それはともかく、献花台をつくって良かったです。
いろんな人が来てくれるからです。
節子もきっと喜んでくれているでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/17

■節子への挽歌106:不思議な雨

節子、そちらにも冬はあるのですか。
こちらは寒くなりました。
寒い冬でも半そででがんばっている近くのKさんからジュンが聞いてきた話です。

節子が自宅から斎場へと向かった日のことです。

「急に雨が降ってきたので外に干していた洗濯物を取り入れようと急いで外に出たら、斎場に向かう車が見えて、それで初めてお母さんが亡くなったことを知ったのよ。ところが車が通り過ぎてしまったら、嘘のように雨がやんでしまった」
というのがKさんの話です。
それでKさんはお通夜に来てくださったのです。
「あの雨がお母さんのことを教えてくれた」とジュンに話してくれたそうです。
この雨のことは当日もいろんな人が話題にしました。
私にとっても本当に不思議な体験でした。

これに類した話はいくつかありますが、多くの人が共通して体験したという点では、この雨が一番です。
この雨は節子の涙だったのでしょうか。
もしそうであれば、滴(しずく)を残しておくべきでした。
とても残念です。

節子がいなくなってから、こうした不思議な現象はあまり起こりません。
いや考えようによっては、ないわけではありませんが、客観的に複数の人が共通体験した事象は起きていません。
当時はまだあなたは此岸にいたのに、今はもう彼岸に行ってしまったからでしょうか。
もう一度、あの雨を体験したいです。

節子、もう一度でいいから誰もが体験できることを起こしてくれませんか。
たとえば、明日の朝、起きたら、献花台の上に庭の黄色い木の実を置いておくのはどうでしょうか。
節子を感じられる証がほしくて仕方がありません。

とても会いたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/16

■節子への挽歌105:定年になってからではなくて、今から始めるのがいいです

節子 こちらは今日は晴れそうです。
そちらは晴れていますか。
いや、そちらにはそもそも晴とか雨とかあるのでしょうか。

1週間ほど前になりますが、あなたの友人のWさんから手紙が来ました。
その手紙を読んで涙がとまりませんでした。
仏前で読み上げようとしましたが、読めませんでした。
滋賀のAさんに訊いたら、Wさんは中学時代の同窓生だそうですね。
手紙を読んでいると、誠実な人柄が伝わってきます。

他にも、私は会ったことがない、あなたの友だちから手紙をもらっていますが、
いずれにもなかなか返事が書けずにいます。
節子ならきっとすぐにでも書くのでしょうが。

Wさんも、この3年、いろいろなことがあったようです。
私は知りませんでしたが、Wさんは看護職なのですね。
そのWさんのお義母さんが節子とほぼ同じ時間に旅立ったのだそうです。
Wさんはお仕事をされていて、3年前に定年になったそうです。
Wさんの手紙です。 

「器用に生きられない私は、ひとつのことにしか集中出来ず、定年までは仕事のみ。
その間を縫って、楽しみごとをする余裕を持ちませんでした。仕事が楽しみでさえありました。
節ちゃんとは、いつか、ゆっくり、語り合いたいと思っていました。
そのことは、私のこれからの人生の楽しみの大きなひとつでした。
(しかし)3年前、定年になるや否や、実家の母の看取り、
続いて、夫とその母の介護に明け暮れてきました」
この続きは生々しすぎて、とても書けませんが、考えてみると、私もきっとWさんと同じだったのかもしれませんね。
仕事が大好きでした。
その仕事に、あなたをつき合わせすぎてしまったかもしれません。
そんなこともあって、ちょっと一段落しようと2人で決めて、
10年以上続けてきたオープンサロンをやめました。
その時、石本さんから花束をもらった写真がホームページに載っていますね。
あの時は、節子はとても元気で輝いていました。

そして、節子とのゆっくりした時間を楽しもうと思っていた矢先の発病。
これからの生き方を一緒に考えようと思っていたのに、事態は思わぬ方向に動き出してしまったのです。
人生は、そううまく行くものではないとつくづく思いました。
それまでは私の人生は、まさに絵に書いたように自分の思う通りだったのですが、
それはすべて節子の支えがあればこそ、でした。

もし中高年の方がいたら、余計な一言を申し上げたいと思います。
伴侶と一緒にやりたいことがあれば、先に延ばさずに、いますぐとりかかるのがいいです。
節子、そうだよね。

Wさんは節子のことも書いてきています。 

「節ちゃんの生き生きした表情、クリクリっとした目、声、そして、前向きな生き方が伝わってくる話しぶり。節ちゃんにもう会えない!と思うと、本当にさびしいです」
私と出合った頃の節子も、本当に「クリクリっとした目」でした。
目が無いほどに細い私が、節子を好きになったのは、もしかしたらあの目のせいだったかもしれません。
輝くような目でした。
あの目に会えるのはいつでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/15

■節子への挽歌104:「闘病で学んだことを伝えたい」

節子 退屈にしていませんか。
あなたがいないと時間を持て余してしまいます。
やらなければいけないことは山ほどありますが、やりたいことがないのです。
やらなければいけないことでも、やりたくなければやらないのが、私の生き方でしたが、その傾向はますます強まっています。
節子がいない世界で、がんばる意味など何もないからです。
餓死しても節子のところに行けるのですから、今や何をしても私は幸せになれるわけです。

昨日、テレビで「スティーブ・マックィーンのすべて」というドキュメンタリーを観ました。
最初は、まさに若い頃を思い出して気楽に観ていたのですが、最後の10分くらいは、節子のことと重なってしまい、画面に引き込まれそうになりました。
マックィーンの言動が、節子の言動に重なってひびいてきたのです。
マックィーンは50歳で病死したのですが、最後は生きつづけようとがんばったようです。
「闘病で学んだことを伝えたい」とも思っていたといいます。
ほかにも思い当たることがいろいろとありましたが、ちょっと辛くて書く気がしません。
でもマックィーンと節子の共通点が見つかるとは思ってもいませんでした。

このドキュメンタリーを観る前に、Tさんから電話がありました。
Tさんはこのブログを読んでいてくれますが、本にしたらどうかと言ってきたのです。
このブログが本にならないことは書いている私が一番よく知っていますが、マックィーンの番組を見ていて、節子が生きている世界を創れるかもしれないと思いつきました。
その番組はすべてがマックィーンの家族や友人知人の発言で構成されています。
それ以外のナレーションは皆無です。
時にマックィーン自身の発言も出てきますが、いろいろな人の発言がひとつの人格を生み出しているのです。
おそらくそれは実在したマックィーンとは別の、もう一つのマックィーンの人格といっていいでしょう。
その人格はおそらく「不死」と考えていいでしょう。実体がないのですから。
彼は映画スターですから、映画の画面が挿入されており、映画の役柄での言動も、その人格づくりの大きな要素になっていますが、その点を除けば、誰にでもできることかもしれません。
そう考えていくと、このブログは、もしかしたら「佐藤節子の復活の場」にできるかもしれないと思いつきました。

またわけのわからないことを言い出した、と思われそうですね。
たしかに節子には時々わけのわからないことを言って苦労をかけてしまいました。
私はわけのわからないことがともかく好きなのです。
でも節子は、わけがわからなくても、結局は「やってみたら」と言ってくれました。
それが私の原動力になっていたのです。

私自身は「闘病で学んだこと」を節子に代わって書いていくことはできませんが、「節子と一緒に学んできたこと」を伝えることはできるかもしれません。
「いなくなった節子から学んだこと」も書いていけそうです。
また節子の友人知人からもらった手紙などに書かれている「思い出」をつないでいくこともできます。
そんなことを考えながら、このブログにも取り組もうかなと思いつきました。
このブログこそが、新しい私たちの生活の場になるわけです。

どうやればいいのか、またどうなるのか、まだ全くわかりませんが、節子もそちらからいろいろと情報を送り込んできてください。
これは私たち2人の世界を再構築していく壮大なプロジェクトになるかもしれません。
まあ、成功する確率は1000にひとつ、あるかないかですが。
失敗の確率が高いことほど、やりたがるのも私の性癖の一つですから。

でも何かわくわくしますね。
節子、わくわくしませんか。
久しぶりのコラボレーションです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/14

■節子への挽歌103:まさか節子が献花にきたのではないでしょうね

節子 
今日は晴れそうです。
久しぶりに手紙を書きだしたら、書きたいことが山のように出てきました。
でも今日はそういう話ではなく、昨日起こった、とても不思議な話を書きます。

昨日は私も娘も自宅にいました。
午前中は来客でしたが、昼食を終えていつものようにリビングでくつろいでいました。
そこからは庭の献花台がよく見えます。
何事もなく、各自、部屋に戻ったのですが、用事ですぐにリビングに降りていったジュンが、大きな声で、だれかが献花していってくれていると叫ぶのです。
あわてて降りていくと、とてもおしゃれな花束が献花台の近くに供えてありました。
気づいたジュンはすぐに外に出て誰かいないか探したそうですが、見える範囲には誰もいませんでした。
リビングに誰もいなくなったのはわずか5分程度です。
それまでジュンがそこにいたそうですが、誰かが庭に入ってきた気配はなかったそうです。
それに庭が見えるところに、ちび太がいます。
ちび太は誰かの気配を感ずるとうるさいほど鳴く犬ですが、彼も全く気づかずに鳴きもしませんでした。
わが家の庭は、昼間は誰でも入ってこられるように鍵はしていません。
ですからそっと入ってきて、献花していくことは可能ですが、番犬役のちび太くんや注意深いジュンに気づかれずに、献花していくことはとても難しいことです。
普通なら庭の扉が開く音でちび太が鳴くはずです。
節子、これはどういうことでしょうか。

実は、今日、掲載予定で書いたあなた宛の手紙に、一昨日、こう書いたのです。

節子、もう一度でいいから誰もが体験できることを起こしてくれませんか。
たとえば、明日の朝、起きたら、献花台の上に庭の黄色い木の実を置いておくのはどうでしょうか。
節子を感じられる証がほしくて仕方がありません。
まさかそれを知っての節子の悪戯ではないでしょうね。
そういえば、何だか彼岸でこしらえた花束のようにも見えます。

ともかく不思議な、そしてうれしい事件でした。
もしかしたら、このブログや私のホームページを読んで下さっている方の献花かもしれません。
それで、ブログとホームページに書くことにしました。
もし献花してくださった方が、この記事を読まれたらメールをくれませんか。
そうしないと、節子に確かめるために、私が彼岸に行きたくなりかねませんので。
お願いします。

追伸(2007年12月14日追記)
献花の主がわかりました。
娘の友人でした。
おさわがせしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/13

■節子への挽歌102:節子、お久しぶりです

節子、元気にしていますか。
こちらは寒い雨の朝です。

節子と会えなくなってから、もう3か月半もたちます。
こんなに長く会わなかったのは2回目ですね。
1回目は、生まれてから出会うまでの、私にとっては22年間。
しかし、現世で出会ってからは一番長くても3週間でした。
3か月もあなたに会わずにいられるなんて、とても不思議です。

私の今の生活は、毎朝、あなたに「おはよう」と声をかけることから始まります。
何しろ節子はいまやわが家には5人もいるので、大変です。
みんなに「おはよう」と声をかけ、最後に仏壇の節子に向かって般若心経を唱えています。
あなたはきちんと聴いていてくれるでしょうか。
返事がないので、いつも不満です。
挨拶されたら挨拶するものです。
それで、時々、不満をぶつけていますが、いくら不満をぶつけても、以前のように夫婦喧嘩にならないのも残念です。

自宅にいるときは、今まではほとんど入ったことのなかった和室にいます。
その部屋が、あなたが最後までいた部屋だからです。
その部屋にいると、なぜか心が落ち着きます。
とても不思議です。
その部屋のコタツに入っているとあなたに見られているような気がするのです。

おやすみの挨拶も5人の節子にしていますが、最後はベッドの横にいるあなたの写真をしばらく見て、節子のあたたかさを感じるようにしています。
時に涙が出ることもありますが、できるだけ笑顔を心がけています。
病気になってから、あなたが寝る前に自分の顔を鏡で見ては微笑んでいたことを思い出します。

本当にまた会えるのでしょうか。
時々不安になりますが、必ずまた会えると信じています。
今日は、節子への久しぶりの手紙を書いたような気がします。
そういえば、結婚前もこうやって手紙を書いていたことがあるね。
その時は、いつも返事が届いていたけれど、今度も返事はもらえるのでしょうか。
いつまでも待っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/12

■節子への挽歌101:挽歌が書けるまで続けます

「節子への挽歌」も、ついに100回になりました。
一体いつまで続けるのかと思われている方もいると思います。
実は「節子への挽歌」が書けるまで続けたいと思っています。
これまでも何回か、挽歌を書こうと試みたのですが、どうもうまく書けません。
挽歌というものの難しさを知りました。

このブログを「節子への挽歌」と呼んでいますが、挽歌などといえるような代物ではありません。あえて言えば「鎮魂歌」です。
こうした雑文を書いていると、心が鎮まることは間違いありません。
節子のための鎮魂ではなく、私自身のための鎮魂かもしれませんが、私たちは一体だと私は思っていますから、私には矛盾ではないのです。
このブログを書き続けてきたおかげで、私自身は毎日、節子との時間をかなり共有できています。
しかし、こんな文章を節子が喜んでいるかどうかはわかりませんし、娘たちも長すぎて読んでもくれません。
ましてや家族でもないみなさまにとっては、ほとんど興味のない話でしょう。

しかし、いつか私が納得できる「節子への挽歌」が書けるまで、あるいは「節子への挽歌」を書かなくても私が納得できるようになるまで、このブログは続けようと考えています。
別のブログに移行することも考えたのですが、ビオスとゾーエについて書いたように、むしろ混在させことに意味を感じ出しています。
それでこのスタイルをもう少し続けようと思っています。
それに私にとっては、時評も挽歌も実は同じなのです。
時評を書いている時も節子への語りかけとして書いていますし、挽歌を書いている時には時代の風景の中で節子と語り合っているのです。

妻を失った人間の言葉を聞いても退屈なだけでしょうが、社会的弱者の心情という点で言えば、少しだけ普遍性を持つのではないかと思います。
それで、私としては周辺の人にはかなり失礼なことまで含めて真情を吐露しているのです。
その意味では挽歌もまた時評の要素を十分に持っていると思っています。
もちろんそうでない単なる駄目男の愚痴や嘆きも少なくないのですが。

そんなわけで、挽歌はまだ続けます。
なにしろ40年、一緒に暮らしてきた同志ですから、材料はなくなりません。
それに私が心から愛した女性なのです。
材料がなくなる時は、きっと私の人生もまた消える時です。

ただ次回からは節子への語りのスタイルにしようと思います。
これまではそのスタイルがとれませんでした。
その理由もまたいつか書きますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)